その一つに、「転び」の罪を精算する「ゆるしの秘蹟」がある。これは、「洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪人を神と教会に和解させる秘蹟」(カトリック要理)であり、司祭の介在を必要とするものである。
転び伴天連クリストヴァン・フェレイラ(日本名・澤野忠庵)が長崎の西勝寺に遺した「きりしたんころび書物之事」に、「真の立上(たちあげ)と申事、伴天連に逢不申(あいもうさず)候ては、不罷(まかりならず)候、ひそかに我と立上候事、生得(しょうとく)なき事にて候」――ほんとうの立上りというのは、司祭に会って犯した罪を告白しなければならないことである。秘かに自分一人で立上ることなど、元来あり得ないことである――と述べているのは、そのことを指している。
このような立上り作法の原則からすると、島原の乱事件の「転びキリシタン」3万7千人の「立上げ」に対して、司祭の役割を果たす人物がいなければならないが、その人こそ天草四郎であったと考えられる。
そのように推論し、これを裏付ける史料を久しく探してきた筆者は、あるとき、『山田右衛門作口上書』の中にそれを発見した。「宗門の司(つかさ)」がそれである(註)。キリシタン時代、「司祭」という言葉がなかったので、「司(つかさ)」と称していたのであった。
追って筆者は、ドミニコ会修道士ディエゴ・コリャードが嶋原・三會(みえ)地方の信者たちの証言を徴収した文書の一つ「元和6年閏12月3日付、ひせんて平左衛門尉証言」に、「こんはんや(=イエズス会)の司」とあるのを見つけ、確信した。
いずれもキリシタン本人の証言に登場する言葉である。「宗門の司」とは、キリシタンたちが当時、「司祭」―もしくは、それ以上の存在―を表すことばとして用いたものであるに相違ない。
加えて、熊本藩細川家史料『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』は、「(四郎は)人間にては無之(これなく)候と申候」、「四郎をば事外(ことのほか)敬(うやまい)候」と、「生捕之者」(生きて捕えられたキリシタン)の証言を記録している。普通の人間ではない、キリシタンたちから特別に敬われる存在であった、というのは、天草四郎=司祭説を補強するものである。
『加津佐村寿庵の廻文』にある「天人」も、同様の意味をなすものと考えられる。
―天草四郎は、キリストの役事・ゆるしの秘蹟を行使する「司祭」の役割を果たした人物であった。ここにおいて「転びキリシタン」3万7千人の「真の立上げ」が可能となる。
【註】…「其後、吉利支丹トモ打寄談合仕候ハ、兎角大矢野四郎ヲ引立、此宗門ノ司ト可仕由評議相極…」
天草四郎肖像画(旧島原芝田美術館所蔵・1991年普賢岳噴火災害で被災焼失) |
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