2025年8月16日土曜日

島原の切子燈籠

 島原の精霊流し行事は 、知名度こそ長崎のそれに及ばないが、優美さにおいて、また幻想的風情において、これに如くものはない。切子燈籠(きりことうろう)という独特の容姿をもつ役者が、それを演じてくれるからである。

 正八面体の八つの角を切り取り、横から見ると菱形を四個連ねた格好の灯袋と、その下方に長く垂らした四枚の色和紙の短冊、十字形の長い持ち柄に特徴がある。大分県臼杵市や京都府にもあると聞くが、毎年8月15日の夜、有明海の波間に流される精霊舟の灯りとして、現役でその仕事を果たしているのは、ここ長崎県島原市でしか見られない。

 『長崎名勝図譜(巻五上)』に、向井去来(1651ー1704)の俳句「咲みだる山路のきくを燈籠や」とあわせ島原の切子燈籠が出ているので、そのルーツは四百年以前の南蛮交易時代に遡ると思われる。おそらく「ハタ」や「ビードロ」などとともにポルトガル船によってもたらされた南方ー東南アジア渡来の文物の一つであったにちがいない。似たようなものでタイ国の燈籠がある。

 切子燈籠の日本における分布が、島原半島を中心に大分県、京都など制限されて点在する事実は、蒲鉾型(半円筒形)伏碑のキリシタン墓碑の発生とその伝播(分布)と奇妙にも一致する。謎はキリシタン史とともに隠されている、と言っても過言ではないようだ。イエズス会の記録を見ていくと、「1611年度日本年報」にそれらしい雰囲気を臭わせる記述がある。 

 「…夜には、本会(イエズス会)のコレジヨの垣根の高い所によく見えるように沢山の明かりが灯された。…その明かりはいろいろの色と形の提灯(ちょうちん)であった。…すでに真夜中になっているのに、明かりがたくさん灯っているので、夜景は美しく楽しいものであった。(註1)

 当時、長崎地方には南蛮渡来のさまざまな色・形の提灯があり、それがキリシタンの諸祝祭を彩ったということだが、この記述はイエズス会の創始者イグナチオの列福を祝う、日本ではじめての催しであった。島原半島でも有馬の日野江城城下の大教会でイグナチオ列福記念のミサが執り行われた。しかし、領主ドン・ジョアン有馬晴信が上京して不在であったため、提灯行列は「領主が帰るまで延期された」。晴信は武士として、同じく騎士出身の「福者イグナチオ師への信仰がいとも深かった」ため、祝祭の「提灯祭り」を晴信不在のまま決行することを地元のキリシタン領民らが憚ったからである。ところが不幸にも有馬晴信は翌年(1612年)6月、岡本大八事件に連坐して甲斐国山中で殺され、帰らぬ人となった。以後、日本のキリシタン史は徳川幕府の禁教令施行によって「かくれ」の時代に移行した。

 日本の仏教行事としての盂蘭盆は、聖母マリアの被昇天の祝日と重なっている。毎年8月15日、島原の有馬地方では「延期されたイグナシオの祝祭」とあわせ、亡き主人・有馬晴信の霊を迎え、切子燈籠で飾った精霊舟を有明海に流して再びあの世に送る慰霊の行事が隠れの信者たちによって秘かに執り行われたであろう。加えて、「切子とうろう」に「切子と(キリシト)」の文字が隠されているということを彼らは気づいていたに違いない。こうしたキリシタン史に絡む複雑な歴史が、島原地方の盆行事に切子燈籠を多用する文化を育んだのではないだろうか。つまり、イグナチオ・ロヨラを軍神として信奉したキリシタン大名・有馬晴信の存在、遠国での処刑により延期されたイグナシオ祝祭、その無念さを偲ぶ地元キリシタン住民らの「かくれの信仰」等々が、この独特の提灯文化に秘められている、ということだ。

 墓地にたくさんの提灯が灯され、爆竹花火が舞い、切り子燈籠の優雅な精霊舟が繰り出されるこの伝統は、四百年を経た今もなお、島原半島の各地で継続されている。

【写真】島原生まれの画人・小林観爾(1892-1974)作「切子燈籠」


註1…純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所編『長崎のコレジオ』(1985年・聖母の騎士社)184頁、「1611年イエズス会年報」。


2025年6月5日木曜日

幕府軍の攻撃に武器を持って防戦した「島原の乱」キリシタン

 

■はじめに

 島原の乱事件(1638年)で幕府軍と交わした籠城キリシタンの矢文に、「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て防ぎ候はで叶わず」と記されたものがある。意味が取りにくいくだりである。同矢文は島原の乱を紹介する論文、読み物等で引用されることが多いが、この部分について解説したものは見当たらない。原文は熊本細川藩の記録『綿考輯録・巻四三』にも収録されているので、一般にはこれによって確認することができる。読み下しで紹介すると、次のようになる。

 

 【読み下し文】… 城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。誠にこの度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、ふせぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまい御座なく候へば、存分これなく候。籠城の儀も、しきりに御取り掛かり成られ候につき、此のごとく御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法に候。御不審に思し召さるべく候へども、此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず。あらたなる證拠、度々御座候につき、此のごとくに候。か様の人をぼんぷ(凡夫)として罷り成ることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御合点成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■毛利家文庫収録の矢文

 筆者は2010年頃、萩毛利藩の歴史資料『毛利家文庫』の中に島原の乱に関する複数の史料があることを突き止め、調査したことがある(註1。その中にも籠城キリシタンの矢文2通が収録されており、うち1通がそれであった(註2。毛利藩は「嶋原陣事件」の際、国司下総守が率いる鉄砲隊と、他に使者として乃美豊後守元宜、志道兵庫頭、原権左衛門尉元勝らを派遣した。原権左衛門元勝は現場で直接取材し収拾した史料をもとに、随時の出来事を記録した『嶋原陣日記』を遺している(註3。これは同事件を現地で記録した従軍日記とも言える一次史料で、きわめて重要な史料であるが、筆者はその紹介事例、引用事例を見たことがない。

 今回、毛利家文庫史料を取り上げるのは、冒頭に記したくだり「此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず」の意味を究明する上で、欠かせないものであったからである。すなわち一般に周知される矢文と、毛利家文庫のそれは同一史料でありながら、異なる箇所があるのだ。

 

 【細川藩史料】…「…右之仕合きりしたんのさほうニ候、御不審ニ可被思召候へ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命を捨ふせき候ハで不叶…

 【毛利家文庫史料】…「右之仕合きりしたん之作法には御不審ニ可被思召候ヘ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命をすてふせき候ハで不叶…

 

 両者の違いは、「候」とされる所が、毛利家文庫史料では「は」となっていることである。「候」の場合、ここで文章が切れるが、「は」とした場合、次の文節「御不審に思し召さるべく候へど」に繋がり、「不審」であることの主語が「きりしたんの作法」であることが分かる。必然、本稿の問題とする「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」に係るので、その意味が割り出されるであろう。

 以下に、毛利家文庫収録の矢文の読み下し全文と、筆者がこれを口語体で意訳したものを掲げる。

 

 【毛利家文庫所収矢文読み下し文】…城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。この度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまひ御座なく候へば、存分御座なく候。籠城の儀も、頻りに御取り掛かり成られ候につき、此のごとくに御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法には御不審に思し召さるべく候へども、宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず(ぬ)あらたなる證拠、度々御座候につき、此のごとくに候。かようの人をぼんぷ(凡夫)として罷りなることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■口語体意訳文

 幕府方の矢文に、城中のキリシタン側から要望等があれば聞き入れてくださるとありましたので、再度、矢文をもって申し上げさせていただきます。

 今回、島原と天草の両所において起こしました私たちの一連の行動は、役人兵士たちが私たちの信仰行為を妨害し、攻撃を仕掛けて来ましたので、防戦したまでのことでした。田畑や領地、国が欲しいなどと要求しているのではありません。ただ、私たちが信仰するキリシタン宗を禁止しないで、自由にさせていただきたい。これが私たちの唯一の望みであります。

 こうして37千人が信仰のために原城に集結したこと、―(それはキリスト教禁令が敷かれて25年、「転び」の罪を犯してこれ以上この世で生きることが出来なくなりましたので、最後に悔い改めの行をして、みんなで一緒に死のうと決意したからでありますが)―、ここにも幕府の兵士たちが押し寄せて、しきりに攻撃を仕掛けて来ましたので、鉄砲・弓矢をもって防戦した次第です。

 攻撃に対して防戦するというような、こうした行動はキリシタンがすることではないのではないか、と疑問に思われるかもしれません。しかし、「この宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」―、すなわち「キリスト教に敵対する者たちから攻撃を受けた場合、信徒たちは家族・仲間を守るために殉教覚悟で戦わなければならない」のです。これは私たちが新たに天から受けたお告げ(註4)ですが、一度ならず再三にわたって徴(しるし)が示されましたので、その指示に従って行動いたしました。

 このようにキリシタンとして信念を持って生きた私たちですが、世間は愚か者として葬り去ることでしょう。とにかく、私たち全員を踏み殺した後に、事の真実を分かっていただけるのではないかと思います。

 幕府軍御陣中へ         原城のキリシタンより。

 

■防衛はキリスト教の教えか?

 島原の乱事件がキリシタンの殉教として認められない最大の理由は、彼らが武器を持って応戦したことであった。これについて彼らは、「自分たちから攻撃したことは一度もない。幕府役人兵が自分たちの宗教行為を禁止し、攻撃してきたので、防戦したまでだ」と述べている。そして、「防戦すること」は従来のキリスト教の教理からすると理解に苦しむことだろうが、それは「神からのお告げ」であった、とも述べている。これはカトリック教理に係る事柄であり、キリスト教神学の問題である。17世紀初めの日本において、3万7千人の農民キリシタンたちが、「攻撃を受けた時、仲間を守るため命を捨てて戦わなければならない」との啓示を受け、そのように生き、全員が「踏み殺された」史実があったことを記しておきたい。  (2025年6月5日記)

【※写真=毛利家文庫所収の籠城キリシタン矢文】

【註1】…20092月から201111月にかけて計6回、山口県文書館を訪れ、閲覧および写真複写を実施した。

【註2】…毛利県文庫史料番号「16叢書-68、嶋原陣之時書状覚書等写」。

【註3】…毛利家文庫史料番号「15文武-38、旌旗考引書」―「原権左衛門元勝 嶋原陣日記」。

【註4】…矢文の中の「あらたなる證拠」の「證拠」は「あかし、しるし(徴)」の意。宗教用語としての「あかし=證」は「神に供物を上げて祈り、神意の徴験(ちょうこう=霊的啓示)を得る」意味がある。原城に籠城したキリシタンたちは、聖霊を受けて「(心が)燃え上がり」、今までなかったような「天からのあらたな啓示」、すなわち「この宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て防ぎ候はで叶わず」という、「お告げ」を受けたことを指す。


2024年7月7日日曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑④

 ■薬師堂と宗麟墓碑の配置

 臨済宗妙心寺派天徳寺(川野泰斉住職)には大友宗麟ゆかりの遺跡として宗麟墓碑と、もう一つ薬師堂がある。これについて増村氏は1954年(昭和29)、稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」で、次のように説明している。

 「宗麟の近侍山田某、小野某と寺社奉行役であった津崎某等7人の者は、相謀って宗麟の墓石と宗麟が生前愛蔵した仏像一体を潜かに暗夜に乗じて…持ち去った。彼ら7人が落ちて行った先は佐伯市長谷の現在の天徳寺のある台地だった。

 「宗麟の墓石を…持ち去った」については既に説明したように、宗麟の墓碑銘が刻まれていないのでそれと断言することはできない(ただし、破壊された津久見宗麟墓地の一部の墓石であったとは考えられる)。他のひとつ「宗麟が生前愛蔵した仏像」とは、こんにち同寺の薬師堂に祀られている「正親町天皇から拝受した(とされる)薬師如来像」である。

 薬師如来像を祀る薬師堂は、同寺の長い一直線の参道を登り、山門をくぐって右手に位置し、その裏側奥に大友宗麟の墓碑が佇んでいる。本堂と薬師堂、宗麟墓碑の位置関係を図示すると以下のようである。

天徳寺堂宇配置図(筆者取材帳スケッチ)

 同寺によると、年一回の例祭が1月8日にあり、檀信徒たちは本堂に入るより先に薬師堂に参拝し、供物を上げ、しかる後に左手庫裡の廊下を通って本堂に至るという。すなわち同寺では宗麟ゆかりの薬師仏が本堂の釈迦如来と同じく―もしくはそれ以上に―重要視されているのである。この参拝順路について川野住職は「昔からそうであった」と言われるが、その謎は、あるいは薬師堂に座してみると解るかもしれない。薬師仏を拝するその向こうに大友宗麟の墓碑が位置するのである(註1)。ここに至って、檀家の墓碑のほとんどが山麓南向きであるのに対し、宗麟墓碑のみが何故、薬師堂を向いて据えられているのか、納得したことであった。

写真】天徳寺境内―左手が本堂・庫裡、正面が薬師堂、その向こうに宗麟墓碑が位置する。


あとがき―キリシタン風土の中で

 その他、調査の過程で天徳寺の裏山に金比羅社が、その北麓の某寺院には準提観音が祀られていることも判明した。「金比羅さん(コンピラサン)」はかくれキリシタンたちの信仰所作「コンビサン」を、「準提」観音は信仰対象「提宇主(デイウス)」を隠す神仏とされるものである(註2)。筆者は禁教下の「かくれのかたち(形態)」の事例として調査を手掛けたことがあり、興味を持った。それらは周辺地域に分布する比較的小さな托鉢修道会系伏碑型キリシタン墓碑とともに、キリシタン寺・天徳寺と宗麟墓碑を取り巻くキリシタン的風土を形成するものである。

 増村氏が論考「大友宗麟の墳墓に関する研究」を1954年に発表されて今年(2024年)で70年になる。しかし、同寺の伝承・遺跡・遺物について同論考以上の調査は、これまでなされないままであった。本稿が再検証、再認識の契機になれば幸いである。(おわり) 

                           2024年水無月、72歳識す。

 

 註1…キリシタン大名を祀る仏堂の「かくれ」の工夫として、この種の配置は久留米城主であったシモン毛利秀包(1566-1601、夫人は大友宗麟の娘マセンシア)の位牌を祀る下関市滝部の玄済寺でも確認される。直線の長い参道の正面に本堂があって、その真後ろの裏山に秀包の墓碑がある。

 註2…文化年間、天草で発覚したかくれキリシタンたちも「準提観音」を所持していた(『天草吟味方控(解読本)』2001年・しまばら古文書を読む会発行、170頁)。キリシタンの神「デイウス(デウス)」は当時「提宇主」と表記された。準提観音の「準提」は正しくは「準」であるが、これを「準提」と表記することで「提宇主(デウス)に準じる」すなわち「神に従う」というかくれキリシタンの信心を仮託した。「金比羅さん―コンヒサン」については『ありあけの歴史と風土・第8号』(1992年・有明の歴史を語る会刊)掲載の拙稿「コンピサンとハライソと〈かくれのかたち〉」参照。


2024年7月4日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑③

 キリシタン寺・天徳寺のこと

 次にキリシタン寺・天徳寺について、その創立と破却、そして再建にいたる経緯を見ていきたい。

津久見天徳寺の建立

 大友宗麟が津久見を終の棲家と定め、仏教寺院を廃棄して(1582年)、礼拝堂を伴う私邸を建てたのは1583年(天正11)であった。イエズス会「1583年度年報」に、「…今、新たに立派な家数軒を建て、その邸内に美しい礼拝堂もしくは小聖堂を設けた」とある。そのころ、ジュリア夫人を伴い臼杵城から津久見の私邸に移り住んだ。

 その後、宗麟はキリスト教会の建設にも取りかかり、私邸からあまり遠くない場所に完成させた。その竣工の時期は1584年(天正12)暮れから翌1585年(天正13)はじめにかけてのことであったと思われる(註1)。「天徳寺」というのは、宗麟が津久見に立てたキリスト教会の名称である。イエズス会は日本布教に関して当初、日本文化順応方針を採用して宣教活動を展開した。そのため、キリスト教会も「寺」と呼ばれ、「吉利支寺」「南蛮寺」と総称された。津久見の天徳寺も同様であった。

天徳寺の破壊

 津久見のキリスト教会・天徳寺はその後、29年ほど同地に存在した。ところが徳川時代に入って1614年1月(慶長13年12月)、排吉利支丹文(キリスト教禁止令)が発布され、これにより長崎、京都をはじめ全国のキリスト教関連の施設および墓地が破壊された。津久見の天徳寺が宗麟邸の庭にあった墓碑(霊廟)とともに焼き討ちされたのもこの頃である。津久見の『解脱闇寺年代記』および『大友松野系図』に、「慶長19年(1614)2月2日」(西暦1614年3月12日)のこととして「宗麟の仏式墓は野火のために焼け、礎石を残すのみとなった」とあるのは、これを裏付けるものである(註2)

その後の天徳寺

 1614年(慶長19)以降、日本のキリシタン史は潜伏地下活動の時代に入る。豊後国内でなおも宣教師を匿い、地下宣教活動を組織的に展開したのは毛利高政領の佐伯地方と、中川氏が治める竹田地域の「なんぐん」と称された一帯であった。「日本の改宗においてデウス(神)に次いで最も有力な手立てであった」と宣教師が評した大友宗麟は、豊後国のキリシタンたちにとっては「慈父」であり「支柱」であった。その恩顧を忘れない同国キリシタン信者が1614年、宗麟の墓碑が破壊された時、遺骨を拾い「聖遺物」としなかっただろうか。そして、徳川幕府のキリシタン迫害が過酷を極めた元和時代を過ぎ、寛永年間に入った頃、宗麟の遺骨を隠し持った信者たちが「かくれのキリシタン大名」毛利高政の領内・佐伯堅田下城の金比羅山南麓に秘かに墓碑を造り、そこに遺骨を埋葬した。―これが今日、佐伯堅田に現存する臨済宗妙心寺派天徳寺のはじまりである。同寺の史料によると「1636年(寛永13)、第2世百界榮三禅師谷川臨川庵、3月開山」とあるので、同年、堅田に移転して堂宇を新たに整えたと思われる。表向き仏教寺院ではあるが、実は「かくれ信者」たちのキリシタン寺であった。

佐伯天徳寺史料を解読する

 筆者は今、天徳寺の歴史を某史料によって記している。それは2020年6月に同寺を訪れた際、頂戴したものである。これをもとに以下、同寺の創建、破壊、そして再建に至る経緯をもう少し詳しく辿ってみたい。


 《史料その1》…「天正13乙酉 當山創立/開山章菴和尚禅師、18年丑12月10日示寂」とある、年表史料の断簡である。「開山章菴和尚禅師」とは、増村氏が稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」(1954年『大分縣地方史・創刊号』掲載)で述べている通り、大友宗麟を指すものである。禁教時代の事ゆえ、キリシタン大名の名前を出すことができなかったため、便宜上そのように表記したのであった。「天正13乙酉、當山創立」というのは、先ほど触れたように津久見の天徳寺が「天正13年(1585)」に建立されたことを述べている。問題は下方に記された「12月10日示寂」である。これは一見すると、「開山章菴和尚禅師」すなわち大友宗麟が「天正13年(1585)」に「示寂(死去)」した期日のように見えるが、そうであれば「(天正15年)5月23日」でなければならない。これを解く鍵は、右肩に小さく添えられた「18年丑」にあるようだ。和暦で「天正13年乙酉」以後の「18年丑」を繰ると、「慶長18年癸丑」が該当する。つまりは「慶長18年(1613)12月10日、示寂」したと記されているのであった。

 この年月日は、徳川家康がキリスト教禁止令「排吉利支丹文」を全国に発令した時期と一致する。この日を期してキリシタンの教会・墓地の破壊が始まり、日本のキリシタン史が暗転した史実を重ねてみるとき、それは津久見のキリシタン寺・天徳寺が焼却破壊された史実を伝えるものであったことが分かる。つまりは「章菴和尚禅師」の「示寂」死去ではなく、「天徳寺」の「示寂」破壊を意味するものであった。実際に同天徳寺が焼き討ちされたのは「慶長19年(1614)2月2日」(『解脱闇寺年代記』)であるのに、それより1ヶ月前の幕府の禁教令発布日を「示寂」としているところに、キリシタンの心理が読み取れるであろう。彼らにとって禁教令発令はそれほどに痛く、重大な出来事であったのだ。

 なお、筆跡が異なる字で「住職8年在住」とあるのは、開山年「天正6年(1578)」(後述)から数えて示寂年を「天正13年(1585)」とした、読み間違いによる後世の書き込みである。


 《史料その2》…同寺から頂いたもう一つの史料に、活字で清書された年表(これは前掲史料を含む同一史料をもとに現住職が作成されたものと思われる)がある。その冒頭に「1578年(天正6)、天徳寺を開山、章菴文公大和尚」とあることにも触れなければならない。「開山」とは「寺院を創始すること」または「寺院の創始者」を言うので、この場合、「章菴文公和尚」大友宗麟が天徳寺を開いたことを指す。その「開山」の年号を「天正6年(1578)」としているのは、大友宗麟が洗礼を受けてキリシタン信者となった年号(宗麟の受洗日=西暦1578年8月28日)である。これによって「天徳寺」は、宗麟が津久見に立てたキリスト教会を指すと同時に、キリシタンとなった大友宗麟自身を表すものでもあったことが判明する(註3)

 ここまで津久見の天徳寺が辿った歴史を見てきたが、同史料にはその後、天徳寺が佐伯に再建されたことも記されている。「1636年(寛永13)第2世百界榮三禅師 谷川臨川菴 3月開山」である。再び「開山」とあるのは、津久見の天徳寺が破却されたのを受け、佐伯堅田下城に「再建」されたという意味である。時代は禁教令が敷かれた徳川政権下、かつてはキリシタン寺(キリスト教会)であった天徳寺は、ここから表向き臨済宗妙心寺派の仏教寺院としての歴史が綴られることになる。かくれのキリシタン寺である。その中で、「大友宗麟のお骨を津久見より移し、天徳寺に埋葬するとの伝」は、留意すべきことと思われる。それは、佐伯天徳寺が藩政時代を通じて大友宗麟の霊を祀る廟所として存在したことをある程度、裏付けてくれるものであるからだ。その「お骨」は、あの宗麟墓碑の地下に眠っているものと思われる。

天徳寺・大友宗麟墓碑の全景(2024年6月28日撮影)

 「天徳寺」とは述べたように本来、大友宗麟が津久見に建立したキリシタン寺の名称であった。佐伯の天徳寺は、以上検証してきた通り、津久見天徳寺の歴史を継承するものであり、それだからこそ境内に大友宗麟の墓碑が半ば隠された格好で祀られてきたのであった。天徳寺と大友宗麟墓碑―両者は切れない縁で結ばれている。そして、あの天正の時代から4世紀余りを過ぎた今日に至るまで、豊後国の一角に佇んでいる。(つづく)

天徳寺事歴と大友宗麟キリシタン史の対照表


【註1】…「1585年8月10日付、ルイス・フロイスの書簡」に、1584年12月、宣教師と二人のイルマンが津久見に出かけ、降誕祭を催したことが記されている。

【註2】渡辺澄夫著『キリシタン大名大友宗麟』(1978・大分合同新聞社発行)311頁

【註3】宗麟は晩年、「天徳寺左衛門入道」と名乗った。『大分県地方史第6号』(1996)増村隆也「大友宗麟の墳墓に関する研究―続報―」。


2024年6月22日土曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑②

 ■天徳寺・宗麟墓碑を解析する

 冒頭に掲げた天徳寺・宗麟墓碑の写真は2018年の暮れ、佐伯を訪問する前に友人が送ってくれたものである。写真で見るかぎり、中央の墓石は仏塔のようであり、キリシタン墓碑の様相がない。そこで、周囲を石組みして墓碑を載せている四角形そのものが「方形石組型キリシタン墓碑」(註1)ではないかと推定した。この形式の墓碑は、30㌢前後の石を長方形に敷き並べて造られるもので、大分県内では臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地(註2)に典型事例がある。その後現地を訪ね、直接確認したところ、一辺約120㌢(4尺)ほどの正方形であることが分かり、これは墓石を据えるための単なる台座であると判断した。

 問題はやはり中央に置かれた石塔らしきものにあるようだ。その解析にあたり、先に、上部に載せられた無縫塔について言うと、後方から見ると分かるが、倒れないように小石を挟んであり、不自然である。これは後世、仏塔に見せる必要から他の場所にあったものを載せたものであろう。下の墓石とは本来別物であった。

【後方から見た宗麟墓碑。墓石と上の無縫塔の間に数個の小石が挟まれている。】


 行き着くところ、中央に位置する立方体の形をした墓石にある。増村氏の報告書(1954年)によると、これには「アーク(大日如来)」、「キリーク(阿弥陀如来)」、「ウン(阿閦如来)」の梵字が三面に刻まれているとあるので、その観察と位置の確認からはじめ、上下の確認、そして墓石の3方向の寸法測定など実施した。すると、そこに仕組まれた暗号、情報が隠されていることが次第に分かってきた。

梵字を倒して造形している

 隠された情報は、大きくは二つある。一つは、仏像を意味する梵字が故意に倒されていること。他の一つは、縦・横・高さの寸法を微妙に変えて伏碑型墓碑にしていることである。

 先ず梵字から説明する。その前に、増村氏が調査した1954年当時と、筆者が確認した2018年現在では、上下の向きと方向が異なっていたので、それにも触れなければならない。図示すると、次のようである。



 増村氏は、梵字の上下の向きから判断して「墓石が右の方向に倒されている」と説明しているが、その際、底面を確認したところ、鑿の痕跡が残る荒削りの状態であったので、これは元から右倒しになるよう造られていた、と言っている。その底面は、向きが置き換えられた現在の墓石では後面になるので、後部に廻って観ると、やはり粗面であった。これは、増村氏の主張の通り、元から粗面を下にして梵字(仏像)が倒される格好で造形されたものであったと理解される。その意味するところは何か。もしこれを造った者が転びのかくれキリシタンであるとするなら、幕府の禁教令によって強制された「仏教檀徒」を再び「転ぶ」ということ、つまりはキリシタン信仰を保持している、ということであろう。

それは伏碑型キリシタン墓碑であった

 次に、もう一つの伏せられた情報―「かくれのキリシタン墓碑」であることを説明しよう。それは寸法の割り出しと比較によって明らかになる。同墓石の高さ・幅・長さ(奥行き)の測定値を順に並べると、36㌢(高さ)、39㌢(幅)、42㌢(長さ)となる。江戸時代の寸法(1寸=約3㌢)に換算すると、12寸、13寸、14寸となり、1寸ずつ長さを違えていることが分かる。これが意図的なものか、それとも偶然であるのか―、これを考察するに典型的なキリシタン墓碑を参考に比較してみたい。そして、高さ・幅・奥行きの3辺がこれと同じ位置になるように、宗麟墓碑の向きを変えて二つを並べてみると、下図のようになる。



 伏碑キリシタン墓碑の特徴は、最短辺を縦(高さ)にし、最長辺を奥行きにすることである。宗麟墓碑について見れば、36㌢の最短辺が縦、42㌢の最長辺が奥行きになり、さらに梵字の向きも、正面から見たとき正しく前後に向くことになる。これにより、天徳寺の宗麟墓碑は「伏碑」の原則を踏まえて制作された「キリシタン墓碑」であることが判明する。しかも、津久見の宗麟墓碑が破壊されたあと秘かに佐伯で造られたものであるから、明らかにそれと分かる伏碑にすることができない。その「かくれ」の工夫として、三辺の寸法を僅かに1寸(3㌢)ずつ故意に違え、拵えたのであった。
 この墓碑に隠された情報を以上、二点ほど指摘したが、他にもある。上面と左右の面に描かれた三種の梵字のうち、大日如来を意味する「アーク」が(天)上面に配置されていることである。キリシタンが信じる唯一神「ダイウス」を「大日」とした史実(註3)を重ねてみるとき、あるいは「天に在(おわ)しますデウスの神」を表現したかったのではないかと考えられる。これについては十分な根拠がないので、参考として上げておきたい。

アウグスチイノ会に関連する墓碑であった

 ところで、かつては九州6ヶ国を治めたあの大友宗麟の墓碑であると伝承しながら、小振りな造りであるのは何故であろうか。この点について考えられるのは、1602年から豊後国の臼杵をはじめ津久見、佐伯、および日向国の縣(あがた=延岡)地域一帯に布教したアウグスチイノ修道会との関連である(註4)。托鉢修道会の一派である彼らは、清貧を旨とする人々であり、墓碑の大小は問題としない。むしろ貧弱にも見えるこの小さな墓碑こそが彼らにとっては信仰の証しでもあったのだ(註5)。筆者はその後、現地の協力者の案内により、小さな伏碑型キリシタン墓碑が古市栗木(善教寺跡墓地)や旧弥生村提内、さらに番匠川上流の直川村など天徳寺周辺および山手地域一帯に数多く存在していた事実を知った(註6)。それら一連の小型で立方体状の形をしたかくれキリシタン墓碑は、天徳寺宗麟墓碑と趣きを同じくする印象があった。いずれもアウグスチイノ修道会に属する信者たちの遺物と考えられる。(つづく)


 註1…本ブログ「キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論」(2019年2月20日~3月1日)参照。「方形石組型キリシタン墓碑」の原型は、長崎県島原半島(旧有馬晴信領)を中心に慶長年間から大石を使って扁平もしくは半円筒形に造形されたキリシタン墓碑にある。禁教時代に入ってかくれ信者たちは小さな石を方形に敷き並べて伏碑型墓碑を造った。それが「方形石組み型キリシタン墓碑である。

 註2…2011年以降の発掘調査で長方形に石組みされたキリシタン墓碑が多数(66基ほど)発見された。2018年国指定史蹟になる。

 註3キリスト教の唯一絶対の創造神「Deus」(ラテン語、ポルトガル語)は、ザビエルが来日した時、同伴者ヤジロウの示唆により仏教語の「大日」(大日如来)を訳語に宛てた。しかし、原語と異なる意味に解釈されたため、すぐに原語主義が採用され「デウス」または「デイウス」と表記された。

 註4…レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1606年の項に、アウグスチイノ修道会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が5人の修道者を伴って佐伯に布教した記事がある。その時、エルナンド師は「城下にささやかな修道院を建てた」が、藩主毛利高政もこれを歓迎し、自ら「天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。」

 註5…立方体状の形を持つこれら小型のキリシタン墓碑は、臼杵でも多数確認され、「斗枡(トーマス)墓」と称されている。その分布はアウグスチイノ修道会の宣教地域と重なるので、同修道会信者に係わる遺物と思われる。

 註6…故・五十川千代見氏による佐伯地域かくれキリシタン墓碑の調査報告がある。『佐伯史談』14号、16号、17号掲載。

五十川氏の栗木善教寺跡墓地キリシタン墓碑のスケッチ(『佐伯史談14号』掲載)



2024年6月20日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑①

 ■はじめに―宗麟墓碑の変遷

 豊後国の国主・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の逝去とその葬儀、墓地等について、彼の聴罪司祭であったフランシスコ・ラグーナ師は詳しい報告書を書いた(註1)。それによると、彼の終焉の地は津久見。1587年6月28日(聖霊降誕後の第6主日)に昇天し(註2)、葬儀ミサが3日後の7月1日(水曜日)、宗麟邸近くの教会(=天徳寺)で営まれ、亡骸は邸宅の庭に拵えられた墓地に埋葬された。

 同墓碑は当初、キリスト教式のものであったが、同年7月24日、秀吉がバテレン追放令を公布したため、息子義統はこれを仏式に改めた。この仏式墓碑は約25年間、1613年まで存在した(註3)。そして1614年1月(慶長13年臘月)、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令により破壊された。津久見の『解脱闇寺年代記』に「慶長19年2月2日、宗麟の墓堂が焼失した」とあるのは、禁教令に伴う破却を裏付けるものである。

 その後約190年間、同地に宗麟墓碑はなかった。宗門改めと檀家制度により禁教弾圧政策が徹底されたことに加え、キリシタン本人とその類族については一定期間(5代)、厳しい監視下に置かれたためである。その縛りが解けた頃、すなわち寛政年間(1789-1801)に臼杵城豊なる宗麟家来の子孫が自費で墓碑を新調し、津久見の「天徳寺御林之内」に建立した(註4)。これが今日、津久見市大字津久見字ミウチに確認される再建された宗麟墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘―「(正面)瑞峰院殿前羽林次将/兼左金吾休菴宗麟大居士(右側)天正十五丁亥年五月廿三日/春秋五十有八歳(左側)九州二島幷伊豫管領/従四位下兼左近衛少将/大友左衛門督源義鎮」は、破壊される前のその写しと思われる。

もう一つの宗麟墓碑

 ところで津久見の宗麟邸故地から南に約15㌖ほど隔てた佐伯市堅田に天徳寺と称する臨済宗妙心寺派寺院があり、そこに大友宗麟の墓碑なるものが存在する(註5)。それはキリスト教が禁止された藩政時代を通して、明治以降も戦前まで隠されてきたもので、これを最初に紹介したのは津久見在住の増村隆也氏が1954年(昭和29)、大分県地方史研究会の機関誌『大分県地方史』(創刊号、1954年10月25日発行)に発表した稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」であったと思われる。

 筆者がこの稿に接したのは、佐伯市宇目にある「るいさ」銘キリシタン墓碑を調査した頃、2018年のことであった。イエズス会が幕府の禁教弾圧に対処するため、豊後国「なんぐん(南郡)」にコングレガチオ信心会を組織して宣教師を匿っていた事実。その女性指導者であった「るいさ」(殉教者加賀山隼人の妹=註6)と、宣教師たちに「イチノカミドノ」と呼ばれ信心会を保護していた佐伯城主・毛利高政とが緊密な関係にあったこと(註7)など、佐伯地方の特殊なキリシタン史を把握していた筆者にとって、高政の領地に禁教時代、大友宗麟の御霊が秘かに祭られていたという史実は、矛盾する話ではなかった。すなわち佐伯の「殿」毛利高政は当時、「かくれのキリシタン大名」とも言える存在であって、「豊後国なんぐん」に秘密の潜伏キリシタン信心会が組織された時、その「保護者」となったのであり(註8)、仮に宗麟のかくれ墓碑が豊後国内に存在するとすれば、彼の領内以外には有り得ないのである。
 増村氏は稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」および「大友宗麟と臼杵・津久見・佐伯」(『大分県地方史13-16号』1958年)で、天徳寺の伝・大友宗麟墓碑は津久見から信者が秘かに持ち込んだ宗麟の墓碑であった、と言っているが、その点は頷けない。何故なら、天徳寺の墓碑には寛政年間に再建された仏式墓碑にもあるような宗麟の墓碑銘が刻まれていないからである。大名の墓碑にしては造りが小さく、一見して、潜伏キリシタン墓碑の印象があった(詳細は後述する)。
 この謎を解明するため、筆者は以後数年にわたり佐伯に足を運び、併せて同地域に存在したかくれキリシタンたちの遺物を求め、訪ねた。案の定、この宗麟墓碑に似た小規模の伏せ碑型キリシタン墓碑が周辺に散在していることが判明した。今、一通りの見通しがついたので、その報告書を記してみたい。(つづく)

 註1…ラグーナ師の報告書の原文はローマ・イエズス会文書館に保存されていないが、ルイス・フロイスが『日本史』に転写している。フロイス『日本史』第27章(第二部95章)。

 註2…宗麟の死去日は大友家史料系図によると「天正15年5月23日」とある。西暦では1587年6月28日であり、一致する。

 註3…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1613年の項に、「彼ら(アウグスチイノ会)は切支丹の数が増加したため、豊後の大名ドン・フランシスコの墓の所在地であり、なかなかに繁華な津組(=津久見)の町に天主堂を建てることにした。」とある。アウグスチイノ修道会の宣教師は1613年時点で、津久見の大友宗麟墓碑を目撃していた。

 註4…文化3年(1806)津久見村組の「改明細帳」に「一、大友家之墓所壱ケ所、但天徳寺御林之内」とある。「天徳寺御林」は天徳寺所有の山林。

 註5…「天徳寺」は宗麟が晩年(1585年?)津久見邸の近くに建てたキリスト教会の名称であった。藩政時代を通じてキリスト教会の名称は「南蛮寺」「切支丹寺」などと呼ばれ、「寺」は「教会」を表す文字としても使用された。また、受洗してキリシタンとなった宗麟自身(の姓)を表すものでもあった。

 註6…本ブログ稿「キリシタン加賀山一族関系図」(2019年10月8日記)参照。イエズス会は「1615年度年報」で、豊後国(「なんぐん」)の「加賀山ディエゴ隼人の姉妹ルイザという名の身分の高い女性」の信心行動を、「コングレガチオ(信心の組)」の一事例として紹介している。

 註7…本ブログ稿「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ」(2018年6月5日~6月22日記)参照。

 註8…イエズス会が禁教時代に組織した信心会に関する指導書―パアデレ・ジェロニモ・ロドリゲスが作った掟「日本のきりしたんだあでに於ける我等が御上天のさんたまりやの御組」(1944年刊『キリシタン研究第二輯』所載)に、「此の組は…小組、大組および親組」から成り、小組の「親は力を協せて大組並びにその属する親組を導くものなり。然れど親は常に各々の親組が保護者、即ち殿、またはその権威および恩恵を以て此の聖き業を保護し奨励し得る高貴なる人を有するべく心がくべきなり。」とある。佐伯城主毛利高政は「親組」である豊後国「なんぐん」信心会の「保護者」として迎えられた「殿」であった。


2023年8月9日水曜日

薩摩に咲いた花十字―喜入氏家紋―

  九州の南端に位置する鹿児島県薩摩半島に「花十字」の家紋を有する墓地がある。鹿児島藩主島津氏の家紋「丸に十字」の四隅に花弁があしらわれたもので、それは島津家に絡み付いたキリシタン史を見るようで興味深い。場所は枕崎市桜山本町の旧長善寺跡の裏山にある喜入(きいれ)氏累代墓地。枕崎は藩政時代、「鹿籠(かご)」と称され、島津家につながる喜入氏の領地であった。

写真=左が古い時代(江戸初期)の花十字、右は近年のもの。いずれも喜入家墓地】

 ■喜入氏とキリシタン

 喜入氏がキリシタンと関係を持ったのは第7代忠政(1571-1645)の頃である。彼は幼少の頃、仏門に入り、のち還俗して武将となった経歴の持ち主で、文化人でもあった。藩主・島津義久、義弘、家久(忠恒)、光久の4代に仕え、家久の時代には家老職にあった。忠政の後妻となる妙身は「マルタ」の洗礼名を持つキリシタンであり、肥前国高来(たかき=島原半島)のキリシタン大名・有馬晴信の息・ミゲル直純と婚姻の秘蹟を受けたが、有馬家の政略的事情によって破棄され、長崎近辺に隠れ住んでいた。また、直純との間に生まれた幼子・於満津を連れていた。

 マルタ妙身の母・カタリイナ永俊は有馬家の家臣・皆吉家の出身で、有馬晴信の「養女」としてキリシタン大名・小西行長の側室となり、その後、薩州家島津氏一族の島津清忠に嫁した。マルタ妙身は小西行長との間に生まれた娘であった。肥後国にいた同夫妻が島津本家の要請で鹿児島に移ったのは慶長14年(1609)のことである。

 数年後、カタリイナ永俊は長崎に隠棲していた娘・妙身マルタを鹿児島に呼んだ。元和5年(1619)の頃、母カタリイナ永俊が娘・妙身マルタを喜入忠政に後妻として紹介し、二人は夫婦となった。

 一方、カタリイナ永俊と島津忠清との間に生まれた娘・桂安は、藩主島津家久の側室となり、鹿児島藩第2代藩主となる光久を生んだ。喜入忠政は、カタリイナ永俊を介して藩主家久と義兄弟の間柄となり、時に藩主の代理役を務めるなど活躍した。

 ■鹿児島城の花十字瓦とカタリイナ永俊

 カタリイナ永俊は夫忠清とともに、はじめ鶴丸(鹿児島)城に居住した。近年、鶴丸城跡から長崎の教会で使用されたものと同じ「花十字紋瓦」が出土して話題になったが、これはカタリイナ永俊が鹿児島鶴丸城に住んでいた時、長崎から取り寄せたものであった。長崎の教会に葺かれていた数種の花十字紋瓦(軒丸瓦)のうちの一つが、鹿児島城で出土したものと同一の鋳型で製造されたものであることから確認される。

写真=左が長崎のサント・ドミンゴ教会跡で出土した花十字紋瓦の一つ。右は鹿児島城跡出土のそれ。】

 カタリイナ永俊は夫忠清が亡くなった元和6年(1620)以降、「堅野(たての)の今郷田氏辺」に移り住み、鹿児島に潜入したキリシタン武将らを匿い、保護した。徳川幕府の禁教令施策が厳しくなる中、藩主・家久にとって彼女の存在は悩みの種であった。それでも、10年ほど忍耐したが、終に家久は寛永9年(1632)、カタリイナ永俊の種子島配流を決定した。追って、カタリイナの娘で喜入忠政の夫人となっていた妙身マルタ、および彼女の二人の娘(津留、於満津)も種子島に送られた。

 ■「かくれ」喜入忠政のこと

 ところで、藩主・家久の家老であった喜入忠政がマルタ妙身を後妻に迎えたのは、尋常なことではなかった。何故なら、彼女とその背景にあるキリシタン色があまりにも濃かったからである。彼女はアゴスチイノ小西行長の娘であって、そして、ジョアン有馬晴信の息子・直純ミゲルの元正妻であった。両者の結婚は述べたようにカタリイナ永俊から持ち出されたものであるが、彼女を受け入れたことは、喜入忠政が当時国禁とされたキリスト教を暗に是認したことを意味するものでもあった。彼は表向き、キリシタンではなかったとされる。しかしながら、キリシタン信者と多方面で深く係わっていた。カタリイナ永俊が種子島に配流されたその翌年(寛永12年)、幕府から「鹿籠家中のキリシタン20名を捕え、島送りにせよ」との厳命が薩摩藩に届いたことがあった(註1)。「鹿籠家中のキリシタン」とは、「喜入忠政の家臣」のことであるから、忠政は実際、キリシタンの家臣20余人を抱えていたのであった。

 死後、彼の墓は父・喜入季久の墓地からさらに奥まった場所に、あたかも隠されたように設置され、しかも土盛りしただけの円塚であった。これらのキリシタン的状況を歴史学として如何に説明するのか、ふさわしい言葉は見当たらないが、「かくれのキリシタン武将であった」という以外にないと思われる。ここに紹介する喜入氏墓地の花十字家紋も、それを裏付けるものである。

写真=7代目忠政以降の喜入氏累代墓地(枕崎市)】

註1…枕崎市教育委員会(元)文化課課長・末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

2023年4月6日木曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉―皆吉氏系図考㊦

島原の乱を前後して

  ところで1634年(寛永11)春、カタリイナ永俊が種子島に遠島処分となった後、娘のマルタ妙身と孫娘(満津と津留)も同じくキリシタン宗門の廉で配流が決定され、1年3ヶ月ほど喜入氏の領地である鹿籠(かご=現枕崎市)の田代家で待機した後、1636年(寛永13)、種子島に流された。

 その翌年(1637、寛永14)、高来(島原)と天草地方の転びキリシタン3万7千人が「もとの宗門に立ち帰る」島原の乱事件が起きた(註1)。その舞台となったのは、島原半島の南東部、有明海に突き出た小高い丘「原城」と称される所であったが、そこは、かつて皆吉氏が領有した「大江」の一部であった。

南有馬村大江名のうちにある原城(藩政時代初期絵図)

 日向国に転封した有馬直純と行動を共にしなかった有馬氏の家臣、および住民ら「転びキリシタン」の多くが「立上り」に参加した。皆吉氏も、直純に従臣した次男・大膳亮純政一統以外は地元に居残り、この事件に関与したと思われる。

永俊に仕えていた皆吉長右衛門家族 

 島原の乱が終結したのは1638年(寛永15)の春、陰暦の2月28日(西暦4月12日)である。その一ヶ月後、カタリイナ永俊らを預かっている種子島の領主・種子島左近大夫忠清の許に衝撃的な連絡が入った。島原の乱に「与(くみ)した」某の息子・皆吉長右衛門がカタリイナの身内の者として種子島にいるので、彼とその妻子5人を捕らえ、送り届けよ、との命令である。『種子島家譜(五)』は、寛永15年4月3日付けで次のように記している。

 「渋谷恕兵衛および足軽三人、鹿府より来たり。永俊内・皆吉長右衛門および妻子五人を捕え、帰る。…是、長右衛門の父、島原一揆に與(与=くみ)するを以て也。

 この史料は『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ4・種子島家譜』に掲載されているが、茂野幽考氏は著書『日南切支丹史』で、同じ内容ながら異なる文面の史料を上げている。

 「永俊内・皆吉長右衛門は天下の囚人と為る。是に依り、渋谷恕兵衛四月三日下島、足軽三人を従え来る。是、長右衛門・親が今度、島原籠城の処、虜と為り、白状して曰く、長右衛門永俊に仕ゆと。是に由り長右衛門妻子五人搦(から)め、鹿陽に帰る。此の時、山崎新右衛門・羽生伊左衛門、警固の為、之に従う。

 史料名が「種子島家正統系図」とあるので、「種子島家譜」とは別のものである。仮に前者を〔〕、後者を〔〕とする。
 〔〕の史料で皆吉長右衛門は「島原一揆に与(くみ)した」とあるので、筆者は当初、直接参加したのではなく、間接的に係わった、と解した。何故なら、直接籠城した人々は山田右衛門作以外、全員が殺されたからである。ところが〔〕の史料を見ると「島原籠城之処、虜(とりこ)となり、白状し…」とある。間接的な係わりではなく、直接籠城し、そして捕虜となった人物であった。はたして「息子・皆吉長右衛門が永俊に仕えている」と白状した「父親」とは誰であるのか。息子の名前からすると「皆吉」家の者と思われるが、どういう訳か二つの史料は「父」「親」と記すのみで、実名を挙げていない。この問題を解く前に、先にこれと関連する他の一つの史料――「長右衛門の弟」が薩摩藩に潜入していたことを示す史料を取り上げたい。

長右衛門の「弟」も薩摩藩に―
 日付けは「寛永15年卯月13日」とあるので、(皆吉)長右衛門発覚事件から10日後のことである。

 「一筆申し入れ候。然者、最前申し入れ候皆吉長右衛門弟芦塚権右衛門と申すもの、歳比廿四五に成り申すものゝよし、薩摩殿御舎弟北郷式部殿に居り申す由、嶋原より只今到来候。穿鑿(せんさく)致され、御とらへ、小倉迄御越し有るべく候。…
 寛永十五年卯月十三日、     戸田左門氏鉄/松平伊豆守信綱
 山田民部殿/北郷佐渡殿(註2) 

 差出人は島原の乱で幕府軍総大将を務めた松平伊豆守信綱である。「小倉迄御越し有るべく候」というのは、乱後の「(陰暦)4月4日」、小倉に幕府軍参加の各藩代表を集め、処罰の上意を伝える会議があったので、松平信綱はそこで待機していたのであった(註3)
 従来、この文書は五味克夫氏(鹿児島県史料編纂委員・鹿児島大学教授)の論考「矢野主膳と永俊尼」(『鹿大史学第17号』掲載)により紹介されていたが、筆者が『鹿児島県史料旧記雑録後編五』で確認したところ、五味氏は「弟」を「方」と読み替えていて、正確ではないと分かった。「皆吉長右衛門」と「芦塚権右衛門」が兄と「弟」であるというのは理解し難いが、史料の記述通り、事実であると見なければならない(註4)。つまりは、カタリイナに仕えていた皆吉長右衛門と、北郷式部のもとにいた芦塚権右衛門は実の兄弟であり、島津藩に潜んでいたのであった。
 
 ■長右衛門・権右衛門兄弟の「父」は山田右衛門作か
 先に述べたように、籠城して生き残り、幕府軍の捕虜となって島原の乱の詳細を白状した人物は、公式的には山田右衛門作のみである(註5)。そうであるのに、ここにもう一人、生き残りの捕虜が存在したかのごとく島津藩文書は証言している。しかも、その文書の発信者は、小倉に山田右衛門作とともにいる幕府軍総奉行・松平伊豆守信綱であるから、事実を誰よりも承知していたはずである。信綱の念頭にある「籠城者の捕虜で、白状した」人物は山田右衛門作以外にあり得ないのだ。矛盾するかに見えるこの事の真相を読み解くには、両者を同一人物としなければならないであろう。すなわち「皆吉長右衛門の父」とは山田右衛門作その人であったということである。この仮説のもとで検証してみると、不思議にもいくつかの点で合点されることがある。以下に述べる。

 ◇その①、名前の「右衛門」が共通する。…父は山田右衛門作(佐)、息子の兄は皆吉長右衛門、「弟」が芦塚権右衛門である。
 ◇その②、皆吉家と山田家とのつながりは、皆吉本家(大膳亮純政家系)に於いて存在した。…山田氏の有馬氏家臣としての出自は、有馬氏の分家になる古賀城主・山田氏である(註6)。この家系の直純時代の家臣は有馬長兵衛純親であるが、その息子・大膳純忠は皆吉本家を相続した大膳亮純政の家に養子となっている(本稿註1参照)。つまり皆吉氏と山田氏は一族的な関係にあったので、皆吉家の長男権左衛門の家系にも山田氏が係わっていたことは、あり得ることである。山田右衛門作は島原の乱当時、口之津村の庄屋であったとされるが、有馬氏の家臣であったのは間違いない。
 ◇その③、父の実名を伏せるに理由があった。…島原の乱にかんするすべての情報を受けていた幕府軍総奉行・松平信綱は、長右衛門・権左衛門兄弟の「父親」が誰であるか承知していたはずである。ところが、島津藩に宛てた文面で、それを敢えて伏せた様子が見られるのは、それなりの理由があったからではないか。山田右衛門作に対する幕府のその後の待遇は、「松平伊豆守に召され、江戸へ参り候」(註7)であった。幕府はこの人物が、その後の幕政上―とくにキリシタン政策上、必要であると見ていたのだ。しかし、ここで実名を明かしたなら、息子たちが処罰されたその父親を幕府が抱えることになるから、控えなければならい、―そのような配慮があって敢えて名を伏せた、と見ることができよう。

山田家から皆吉家、芦塚家に養子
 意外な展開となったが、皆吉氏の系譜を探る上では、新たな事実が確認されたことになる。カタリイナ永俊に仕えていた皆吉長右衛門は、皆吉家の人物ではなく、実は山田家からの養子であったということだ。藩主光久の舎弟北郷式部殿のところに潜入していた「弟・権右衛門」もまた、皆吉家出自ではなく、山田家から芦塚家に養子となり、「芦塚権右衛門」を称していたのであった。有馬晴信や小西行長のもと、かつてキリシタンの名族として活躍した皆吉氏、山田氏、芦塚氏などがこのように連携して、あの困難な弾圧時代を生き抜こうとした日本キリシタン史の、複雑な一端が窺える事例であろう。

 なお、皆吉長右衛門家族がカタリイナ永俊に仕えたのは、永俊の意向に依るものと思われる。その期間は、わずかに4年間ほどであった(註8)。1634年に種子島大長野に配流された永俊と、その2年後の1636年に配流された娘マルタ妙身および孫娘二人は、皆吉長右衛門家族逮捕事件から一年後の1639年(寛永16)6月、ともに赤尾木石之峯に拠り、その後「井ノ上」に移った。その際、処分された皆吉長右衛門家族に代わり、新たに「仕える人数」として「女七人、男三人、合わせて拾人を召し置かれた」という(註9)

 以上の考察のもと、皆吉氏の系図をまとめると、以下のようになる。(おわり)
皆吉氏系図(宮本作成)

註1…島原の乱は、従来の見解では農民一揆とされるが、本質は「転びキリシタンの立上り」事件である。薩摩藩のキリシタン事情に通じた家老・喜入忠政、島津弾正大弼久慶らは「今度、有馬へきりしたん宗誇(=起こり)候儀、…それより前ころびたる者共も皆々もとのやうに宗を直したる由に候」(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』692頁、№1115史料)と、ほぼ正確に事の真意を捉えている。

註2…『鹿児島県史料旧記雑録後編五』799頁、№1296史料。

註3…島原の乱後、寛永15年(1638)4月4日、幕府の特使・太田備中守が小倉に下り、乱に関与した各藩の代表らに対し同事件に関する処罰の上意が伝えられた。

註4…芦塚忠右衛門は元、小西行長の家臣で、その子(同じく忠右衛門)とともに1615年、大坂陣で真田信繁の隊に加わった。真田信繁はのち、薩摩に逃れ、「芦塚」姓を名乗った(伝説)。芦塚忠右衛門は1637年、島原の乱でキリシタン軍の天草四郎のもと、軍奉行(参謀)を務めたとされる。舎弟に忠大夫、嫡子に左内がいた。

註5…捕えられた山田右衛門作が島原の乱の経緯について詳細を述べた記録が「山田右衛門作口上書」として知られている。

註6…山田氏は有馬経純の末男・嶋原純尚越前守につながる家系である。山田主計頭(有馬貴純・純鑑時代の老職)―山田兵部少輔(有馬晴純時代の古賀城主)―…有馬長兵衛純親(直純時代の公族大夫)と続いた(『国乗遺聞巻三』)。

註7…『別当杢左衛門覚書』(『島原半島史・中巻』91頁)。

註8…江戸詰家老・伊勢兵部貞昌が在国家老に宛てた「寛永10年9月19日」付け書状に、「(北郷)式部殿御側に、わかき男罷居候て、御ぐしなと結申候、いつかたより参たる人にて候哉、たて野の御引付にて御座候…」とある。ここにある「わかき男」は、すなわち(皆吉)長右衛門の弟・(芦塚)権右衛門である。彼は「たて野(カタリイナ永俊)の御引き付け」により、北郷式部殿の御側に仕えていたのであった。なお、捕縛された長右衛門と権右衛門二人の処罰が如何に行われたかは不明である。このうち長右衛門について茂野幽考氏は著書『薩藩史料集成』で、「鹿児島から長崎に送られ、処刑された」(205頁)と記しているが、根拠が示されていない。

註9…『枕崎市史』掲載「喜入氏系図」中、忠政の女子・津留の項に「寛永13年丙子4月母及ビ姉(満津)ニ随ッテ種子島ニ放タレ6月26日石之峯ニ拠ル、後井ノ上ニ移ル」。『鹿児島県史料旧記雑録家わけ4・種子島家譜』84頁に、「寛永16年6月28日、喜入摂津守忠政室(永俊娘)及女子二人(姉は島津中務久茂室・忠政非実子、妹者忠政之実子也)坐永俊之事被放、中江主水入道護送来、皆與永俊共居(自大長野移居赤尾木石之峯時也)…」。同史料85頁掲載「寛永16年6月22日付川上久国外三名種子島左近大夫宛連署状」に、「一書申候、然者立野・摂州内儀・基太村越中守殿内儀・摂州息女四人、相中ニ可被召仕人数女七人男三人、合拾人被召置…」とある。


2023年4月1日土曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉ー皆吉氏系図考㊤

 カタリイナ永俊の出自である皆吉氏は小西行長の臣ではなく、有馬氏の家臣であった。筆者は稿「カタリイナ永俊」で史料『藤原有馬世譜』をもとにこれを明らかにし、概略の系図(下図)を紹介した。

 すなわち、皆吉氏の祖・又次郎重能は鎌倉時代、高来郡東郷御墓野村および佐賀郡西泉の地頭職にあり、「御墓野」姓を称していた。出羽守長能の頃、佐賀城城主となり、同地に進出した有馬氏第10代晴純に帰属した。その子・久右衛門續能(つぐよし)の時代、主君有馬氏から高来(たかき=島原半島)の内「大江」を宛行(あてが)われ、その頃、姓を「皆吉」に改めたらしい。同史料には、佐賀から大江に移った理由は記されていないが、台頭した龍造寺氏に城を「抜かれた」ためである(『国乗遺聞』後述)。續能の子が権左衛門、そしてカタリイナ永俊であった。権左衛門は、一時期「東」氏を称し、後「有馬」氏を賜ったという。

 ところで、キリシタンとして活躍した永俊が寛永11年(1634)、種子島に配流されたとき、「皆吉長右衛門」なる人物が家族とともにカタリイナに仕えた、という記録が島津藩の記録(後述)にある。それは、皆吉一族が依然としてキリシタン宗と係わりながら生き延びたことを証言するものであるが、上記皆吉氏系図上での「長右衛門」の位置は不明である。本稿では、散見される皆吉氏関連史料を拾い集め、皆吉氏系図――とくに、禁教令を前後してキリシタン宗と密に係わった同一族の系譜――の解明を試みたい。

『国乗遺聞』が伝える皆吉氏

 皆吉氏または東氏についての記事は、有馬氏の他の一つの史書である『国乗遺聞』にもいくつか見られる。たとえば第10代有馬晴純公時代の「国老」の一人「佐賀城主御墓野出羽守長能」について、次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能。此の御代、初て(有馬晴純)麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ。…其の子・有馬大膳亮純政、士将に大夫を兼ね、子孫代々此の職を領す。」

 この中に、皆吉續能の子で「有馬大膳亮純政」とあるのは、『藤原有馬世譜』が「(續能の子)権左衛門」としているのと異なっている。これを解釈するに参考となるのが、次の記事である。

 「東左馬大夫・民部少輔。…実は皆吉久右衛門の二男。東家の養子となり、後、実家を相続して有馬大膳亮と称す。…

 これは、キリシタン大名として知られる有馬氏第13代晴信公時代の国老「東左馬大夫・民部少輔」についての記述であるが、この中に出てくる「有馬大膳亮」が前項に登場した皆吉續能子「有馬大膳亮純政」である。彼は「実は皆吉久右衛門の二男」であって、一旦「東家の養子」となったが、後(ある事情により)「実家」すなわち「皆吉」本家を相続した。その際、「有馬大膳亮と称した」というのである。

 これによって『藤原有馬世譜』にあった、續能の子「権左衛門」皆吉氏が「東姓を冒し、後、有馬姓を賜った」という記述の事情が判明するであろう。と同時に、「権左衛門」と「大膳亮純政」の二人が、いづれも皆吉久右衛門續能の息子であり、兄弟であったことも判明する。問題となるのは、皆吉本家を相続したはずの長男・権左衛門が有馬晴信時代に「二男・大膳亮純政」に取って代わられた家督相続の謎である。

 この謎は、キリシタン宗門を巡る徳川幕府と有馬氏との対立、そして、有馬氏が辿った幕府恭順の道、それを機として家臣団が二分した有馬家の事情を検証することで、解けてくるであろう。

 ■有馬藩のキリシタン事情ー奨励から禁圧へ

 有馬氏は、第13代晴信(1661―1612)が1580年(天正10)に受洗してキリシタンとなったあと、30年余りにわってイエズス会と連携し、領国の支配体制を確立した。その途次、新たに来日した托鉢修道会との確執をめぐるイエズス会の陰謀に巻き込まれ、有馬晴信は1612年5月、甲斐国で生涯を閉じた。危うく改易になるところ、晴信の嗣子直純が幕府に恭順することで領国は維持されたものの、それは同時にキリスト教を遺棄することであり、正妻のマルタ(妙身)を離縁し、代わりに家康の孫娘国姫を妻として迎え入れた。直純は幕府の意向であるキリスト教迫害に着手したが、徹底することができず、幕府に転封を願い出た。こうして有馬氏は1614年7月、日向国縣(あがた=現延岡市)に移った。

 この直純の幕府恭順を巡って、そのほとんどがキリシタンであった家臣団の選択は二分した。棄教して直純に従う者と、信仰を維持して地元に留まる者とにである。

 ■皆吉権左衛門、有馬氏を離れる

 有馬家の史書は後世、再編纂されたものであるから、家臣団はこの時点で直純に従った者を中心として記録され、キリシタンとして有馬家を離れた者は、徳川時代のキリシタン禁圧政策とも絡んで故意に隠され、もしくは切り捨てられた。―これが、皆吉家の長男・権左衛門の家系が姿を消し、次男の大膳亮純政が本家を継いで記録に遺された理由である。次男であるから当初、本家を出て「東」家に養子となったとあり、その「後、実家(皆吉家)相続して有馬大膳亮と称」した、というのは、長男・権左衛門が有馬氏の家臣「国老」の立場を離れたためであった。

 なお、有馬氏家臣としての皆吉家を相続した二男・大膳亮純政の系譜は、その後、大膳純景、そして大膳純忠(養子、実は古賀城主・山田兵部少輔の家系になる有馬長兵衛純親の息子)と続いた(註1)。(つづく)

皆吉氏系図(宮本作図)


 ※註1…『国乗遺聞』巻三の記載で、「直純公・六公子」の一人に「女子・与志子(母皆吉氏)」とあり、彼女は有馬氏の臣(山田家)有馬長兵衛純親に下嫁して、吉兵衛純右、大膳純忠(有馬/皆吉大膳純景養子)および三女子を生み、その一女子が「有馬大膳純景に嫁す」とある。ここに「大膳純忠」と「大膳純景」の二人が登場するが、両者の関係は「純景の養子」が「純忠」であるので、「純景―純忠(養子)」と並べることができる。同じ官途名「大膳」を冠していることから、皆吉家の本家を相続した次男「大膳亮純政」の家系につながるものと考えられる。また、これら三者が同じ「純」の共通字を持っているのは、主君・有馬直純に仕える家臣であり、その偏諱を受けたものであろう。

 養子・大膳純忠が古賀城主・山田氏の家系になる者であることは、彼の母が「与志子」であり、その夫が「有馬長兵衛生純親」であること。そして同じく『国乗遺聞・巻三』の記事に「有馬長兵衛純親」は「古賀城主・山田兵部少輔(の)…三代孫・有馬長兵衛純親」とある。つまり、(古賀城主)山田兵部少輔―…有馬長兵衛純親―大膳純忠、とつながる山田氏系譜の人物であった。なお、山田氏は有馬家から分家した有馬一族である。

2022年12月19日月曜日

カタリイナ永俊⑨

鹿児島キリシタン崩れ

 「かご嶋」「せんだい」二つの親組(おやくみ)からなる鹿児島のキリシタン組織は、少なくとも1632年(寛永9)夏まで機能した。それが、一連の崩壊事件を引き起こすきっかけとなったのは同年(1632)暮れ、「寛永9年極月7日」付けで江戸詰家老・伊勢貞昌から種子島左近太夫(忠清)宛てに発信された藩主・島津家久のカタリイナ永俊に対する遠島処分決定の通知であった(註1)

 処分は1年2ヶ月後の寛永11年(1634)2月に実施されたが、その間、鹿児島で「(きりしたん)宗門改(しゅうもんあらため)」があり、藩主の馬術指南・矢野主膳とその「内之者(家臣)」がキリシタンであることが発覚した(註2)。その宗門改め帳「日記」によると、主膳父子は「相はづれ」、「内之者(家臣)皆南蛮宗へ名を書き載せ」られていたため、伊勢貞昌が矢野に問うたところ、主膳は「先年長崎から帰参した時、彼の宗をころび申した」と言う。さらに問い詰めたところ、「鹿児島の町のしゆあん(上山)又左衛門尉」の所に「筆者仕り罷り居る小三郎と申す者」が「明石掃部の子」であること。上山「又左衛門も立野(カタリイナ永俊)の御内者」であることなどを「内意に」「いかにもおんみつ(隠密)に」告白した、というのだ(註3)

 これはキリシタン史で「訴人(そにん)」と呼ばれるもので、今様に言えば内部告発である。カタリイナの処分決定と、鹿児島での宗門改めで家臣のキリシタンであることが露見したことを受け、窮地に立たされた主膳の告発行為であったと思われる。当時、幕府はキリシタン摘発のため報償金をもって訴人を誘導していたので、主膳のそれも報償金目当てであったかもしれない(註4)

 これにより、江戸に上がっていた矢野も鹿児島に戻され、3年後、子息とともに処刑される。一方、明石掃部の子・小三郎は、幕府がかねてから捜索していたお尋ね者であり、捕らえられて京都所司代・板倉重宗に引き渡された。しゆあん(寿庵)上山又左衛門は入牢処分となったらしい(註5)。彼又左衛門は「かご嶋貴理志端衆中」の組親(くみおや)として、長年にわたり仲間の相互扶助や洗礼、諸集会、死者の葬礼など一切の世話をしてきた人物であり、そのような組頭を失うことが過酷な迫害下にあるキリシタンにとって致命的であるのは言うまでもないことである。

崩れ事件の背景

 鹿児島の崩れ事件が1632年(寛永9)に始まる(註6)その背景として考えられるのは、これらのキリシタン組織を支えていたイエズス会の日本に於ける布教活動が、1632年の時点で限界に達していたことが上げられるであろう。潜伏司祭(宣教師)がいなくなったか、もしくはその活動が停止状態に陥った、ということである(註7)

 鹿児島のキリシタン組織は、イエズス会の年度報告にあるように、高来(島原半島=旧有馬晴信の領内)から定期的に司祭またはその代理者が派遣され、司牧活動がおこなわれていた(註7)。高来に最後まで残った司祭はマテウス・デ・コウロス神父とジアコモ・アントニオ・ジアノネ神父であるが、高来の深江にいたコウロス師は1632年、高来の有家(ありえ)を経て天草に逃れ、さらに秘かに京都に辿り着いたが最期、伏見で亡くなった。一方のジアノネ神父は1633年、捕らえられて島原で処刑された(註8)。

 また、イエズス会が日本で布教活動を展開する上で、最も重要な役職にいたのがプロクラドールと呼ばれる会計係であった。その最後のプラクラドールはマノエル・ボルジェスであり、彼は九州で高来に次いで組織された他の一つのコングレガチオがある豊後国の南郡(なんぐん)に潜伏していたが、1633年、他の二人の修道士とともに捕縛され、長崎で殉教した(註9)。これらの神父と鹿児島・川内の上山又左衛門ら9人の組親たちは秘かに連絡を取り合っていたのであるが、なかでも1632年(寛永9)コウロス神父がいなくなったことは、組織崩壊・信仰崩壊の大きな要因となったに違いない。「1624年」(年報)の時点で島津氏役人の前で勇敢に信仰を告白したカタリイナ永俊が1632年(寛永9)、藩主から届けられた遠島処分をそのまま受け入れたのは、ある面、理解しがたいが、イエズス会の組織的潜伏活動が終焉を迎え、その後ろ盾を失ったとすれば、謎が解ける。

藩主家久もキリシタン事情を知っていた

 一方、藩主島津家久が「南蛮宗之御沙汰」として「立野の儀、種子島へ堪忍(かんにん)有るべく由、仰せられ(た)」のは、もちろんカタリイナの事情に通じていた娘マルタ妙身の夫――隠れキリシタンの家老職・喜入忠政と熟談の上でのことであった。それは、そこに至る何年も以前からの懸案事項であったし、いずれは処断しなければならない事案であった。他人からの告発や「訴人」があれば、一般のキリシタン同様、入獄・断罪となる問題であるのに、「薩州様(光久公)の御祖母様の儀に御座候間」、可能な限りの配慮をもって出されたのが「種子島へ堪忍」の処置であった。種子島へ護送される直前の「寛永11年(1634)2月11日」、伊勢貞昌ら4家老が連署して種子島左近大夫に宛てた書状には、「然れば其地に永春尼逼塞(ひっそく)なされ候」と表記されている。「逼塞」とは「①落ちぶれ、世間へ出られないこと。②江戸時代、武士や僧侶に科した刑の名。50日または30日間閉門して昼間の出入りを禁じたもの」(古語辞典)であり、また、弾圧に対処するため「潜伏」し「かくれ」たキリシタンたちが取った行為でもあった(註10。遠島・幽閉ではなく「堪忍・逼塞」という処断は、カタリナ永俊の信仰を配慮した藩主家久の最大の温情であり、宥恕(ゆうじょ)であった、とも言えるであろう。

 追って翌寛永12年(1633)2月、カタリイナの愛娘で喜入夫人となっていたマルタ妙身と、その娘・於満津(有馬直純の娘)、於津留も「宗門の事に坐し」、翌「寛永13年(1634)丙子4月、種子島に追放され」、「6月26日、石之峯に抵(いた)」り、後「井ノ上に移」された。慶安2年(1649)カタリイナ死去、75歳。万治3年(1660)マルタ妙身死去、67歳。元禄10年(1697)於津留死去、77歳。理由は分からないが「於満津は密かに連れ戻され、島津久茂の許に帰り、天寿を全うした」(註11)と言う。「喜入氏系図」は「於満津…宝永3丙戌3月7日没ス、年95、正建寺(鹿児島)に葬ル」と伝えている。 (おわり)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津諸氏関系図(宮本作成)

 

註1】…同書状について「島津家本旧記雑録後編八八」は、後年編者がカッコ付けで「寛永12年」としているが、これを直接受け取った種子島家の「種子島家譜」は「寛永9年極月7日、依南蛮宗之事伊勢貞昌之書翰記干左」と日付・説明書きを添えて記録している。茂野幽考著『薩摩切支丹史料集成』(1966年刊)189頁。

註2】…踏み絵による「宗門改め」は寛永6年から長崎で始まり、肥後・鹿児島・九州一円に及んだ(「唐通詞答書」)。寛永10年(1633)肥後天草高浜村に於ける記録(高浜村旧庄屋上田家文書「きりしたん転び申書物の事」)があり、この頃、鹿児島でも実施されたと考えられる。

註3】…この書状は「寛永10年9月19日」付けで江戸家老・伊勢貞昌が「(藩主)家久の命を奉じて窃かに国家老宛て書き贈った」ものであった(1985『鹿児島史料旧記雑録後編五』鹿児島県歴史資料センター黎明館、383~386頁)。

註4】…矢野主膳のキリシタン入信の説として、「宗門に成り候へば金子貰ひ候由に付、是非無く右宗門に成り候」というのがある(「薩藩叢書第三編・薩藩旧伝集『三暁庵主談話』)。

註5】…しゆあん上山又左衛門の最期は不明(史料筆者未見)である。

註6】…一般に、カタリイナ永俊の種子島遠島は寛永10年(1633)の矢野主膳の訴人を伝える江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状から説明されることが多いが、永俊の藩主家久による処分決定はそれ以前(寛永9年)のことである。【註1】参照。

註7】…たとえば、踏み絵を踏んで転んだキリシタンが立ち上がる再改宗のための「ゆるしの秘蹟」、信仰生命の維持に欠かせない「ご聖体の秘蹟」に与るには、司祭の介在が必要であった。

註8】…結城了悟「パードレ・ジアコモ・アントニオ・ジアノネS.J.」(1986『キリシタン研究第26輯』)。

註9】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・下』247~248頁の(註)「この神父は12年刊に立派な仕事を成し就げた。彼は(豊後の)山間で匿われていた他の神父たちの会計係であった。」(261頁)。

註10】…ジアノネ神父が1621年、高来の折木(おりき)で組織した信心会「さんたまりやの御組」の掟(おきて=規則)に、「その務めに付て、ひっそく肝要たるべし」とある。「逼塞(ひっそく)」とは「世間から姿を消す」「忍び隠れる」の意味である。幕府の禁教令に対するため、イエズス会は「ひっそく」の方針を打ち出した(「1615ー16年度年報」)。拙稿「嶋原キリシタン史発掘㊵」(島原新聞2010年6月19日付記事)参照。

註11】…末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

  

2022年12月15日木曜日

カタリイナ永俊⑧

 ■薩摩とイエズス会

 さて、ここまで見てくると、1609年(慶長14)、ドミニコ修道会が薩摩から追放された直後、カタリイナ永俊・島津忠清夫妻を鹿児島に呼び寄せ、その10年後(1620年)、カタリイナが薩摩国の「かご嶋」「せんたい」二つのコンフラリア信心会の「中心」となって、半ば潜伏しながら禁教時代におけるキリスト教布教を展開したイエズス会の意図が、ある程度洞察されるであろう。1614年(慶長19)禁教令が敷かれ、弾圧と国外追放を余儀なくされながら、それでも秘密の地下活動をコングレガチオ・コンフラリア組織を中心として(註1)模索しなければならなかった彼らにとって、薩摩はマカオとの連絡を取る上で欠かすことのできない中継地であり、宣教師を安全に送り出し、あるいは迎えて保護し匿うためのキリシタン組織を形成しなければならない土地であった(註2)

 1614年11月、長崎から二隻の船でキリシタン・宣教師らが国外追放された直後、1615年(元和1)に薩摩藩は矢野主膳なる人物を「南蛮船対策」の目的で長崎に送ったことがあった(註3)。彼がそこで何をしたのか、半ば謎に包まれているが、結果的に彼はそこでキリシタンとなり、その後、1624年(寛永1)頃、江戸に上がっている。寛永10年(1633)の証言によると、彼はカタリイナや、彼女が匿っている明石掃部の子・小三郎のことを承知していたのであり、薩摩キリシタンの一類であった。また、明石掃部子小三郎が「有馬から来た」(註4)とも証言しているので、「南蛮船対策」――実はその受け入れ対策であった――のみならず、国内にいるキリシタン浪人たちが薩摩に侵入するための便宜を図っていたのは事実である。

 これと関連することであるが、2010年、鹿児島鶴丸城跡発掘出土遺物の中に長崎の教会で使用された「花十字紋瓦」と同じものが含まれていたことが確認され、話題になったことがある。その鋳型は長崎出土の数種の花十字紋瓦の中の一つと同型であることから、鹿児島のカタリイナ永俊の関係者が、長崎に派遣されていた矢野主膳らと連絡して、長崎の教会の取り壊しによって廃棄された同瓦を移入したものであるにちがいない(註5)

【写真】同鋳型の鹿児島鶴丸城跡出土「花十字紋瓦」(左)と長崎サント・ドミンゴ教会跡出土「花十字紋瓦」(右)。

 また、喜入忠政とマルタ妙身との結婚について、筆者は「イエズス会の生き残りのための意図があった」と述べたが、喜入忠政本人は島津家の家老として鹿児島城内の屋敷に住みながら、彼の領地であった「鹿籠(かご=現枕崎市)」の田代氏ら家臣らと連絡を取り合い、宣教師らの密入国を〃安全に〃取り締まる任務をこなす必要があった。それはまた、薩摩半島の穎姪(えい)、河名部(川辺)、串木野、川内にある二つのコンフラリア組織とも連携してなされたことであり、その海の玄関にあたる重要地の領主としての喜入忠政にマルタ妙身が嫁いだというのは、母カタリイナとともにイエズス会の意図があってのことであろう。そして、喜入氏のそのような任務が重要であればあるほど、母カタリイナはキリシタンとして最も信頼のある実の娘――小西行長の遺児でもあるマルタを抜擢し、喜入氏に嫁がせたのであり、この母と娘の信仰的紐帯のもと、カタリイナを中心とする鹿児島の信心会「貴理志端(キリシタン)中」が運営された、ということである。

 そうであれば、喜入忠政かくれキリシタン説は――これを証明するのは困難であろうが――現実味を帯びて浮かび上がってくる。(つづく)

【写真】キリシタン時代の九州地図(部分)、日本の最南端・薩摩国はマカオ、マニラと連絡する最短位置にあり、弾圧時代、宣教師密入国の基地的役割を果たした。

註1】…一般の信心会コンフラリアが現地教区に所属するのに対し、コングレガチオはローマ本部に直属する精鋭会員の信心会であった。日本では1603年、有馬のセミナリヨに創設され、その後、豊後の「なんぐん(南郡)」にも組織された。H.チースリク著『キリシタンの心』(聖母の騎士社1996)436-437頁。筆者の「花久留守―キリシタン史研究ブログ」2018年6月22日付「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ―付記②―」参照。

註2】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』「9港の冒険」で「1614年の追放後、…多数の宣教師が日本に戻ってくることができたが、…上陸しても日本にふみ留まっていた宣教師と連絡をとることは容易な業ではなかった。その為には生命を賭ける覚悟のある人々の協力が必要であった。…薩摩の諸港、ザビエルの経路という栄誉に輝くそれらの港においては、この英雄的な所業が再三にくり返された。」と述べている。

註3】…薩藩史料「元和6年閏12月29日付喜入忠政・伊勢貞昌連署状」に、「南蛮舟之儀ニ付北条土佐守殿・矢野主膳正殿長崎ヘ被相越…」とある。『鹿大史学12号』(1969)掲載「五味克夫・矢野主膳と永俊尼」。

註4】…「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に「然者主膳…内意ニ被申候…いかにもおんミつにて被申候、町ニ罷居候しゆあん又左衛門尉所へ筆者仕候而罷居候小三郎…あかし掃部子にて候よし…従大坂いつかたへ参、又御国へ参候様子共、此中御国へ罷居候つる儀細々御問付候て、早々此方へ可被成御申候、主膳被申候ハ、有馬より御国へハ参たる由…」とある(『鹿児島県資料旧記雑録後編・五』1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。

註5】…鹿児島城に、長崎教会原案(もしくは由来)の花十字紋瓦を使用した建築物が存在するのは、長崎および高来(島原)との交流網を有していたカタリイナ永俊との関係以外では考えられない。その時期は、カタリイナが鹿児島に入った1609年以降、彼女が鹿児島においてキリシタン宗団の「中心」になる禁教令(1604年)以後のことであるので、長崎で廃棄された「花十字紋瓦」を移入したものであろう。

2022年12月13日火曜日

カタリイナ永俊⑦

 ■薩摩国キリシタン信心会の「中心」として

 1624年(寛永1)、鹿児島を訪れたイエズス会の一神父は、カタリイナ永俊が「薩摩でキリシタンの中心になっていた」と報告している(「1624年度年報」)。それは、彼女が薩摩国におけるキリシタン信者の組織・コンフラリア(信心会)の中心者であった、ということであろう(註1)。

 1617年(元和3)の「コウロス徴収文書」によると、当時、薩摩国には二つのキリシタンの組(くみ)が存在していた。一つは「かご嶋貴理志端衆中」、他の一つは「せんたい貴理志端中」である。前者は「鹿児嶋、穎姪(えい)、河名部村」の三地域を包含し、鹿児島に「上山又左衛門、山岡喜兵衛、平九兵衛」、穎姪郡に「大迫久兵衛、宮崎茂左衛門」、河名部村に「是枝善兵衛」の各「組親」がいた。一方、後者の「せんたい(川内)キリシタン中」は「串木野、せんたい(川内)」地域にあり、串木野は「村田勝左衛門」、川内は「石屋五左衛門、結方徳右衛門」が「組親」として名を連ねている。

 日本語で「組(くみ)」または「中(なか)」と称されたキリシタンの信心会(コンフラリア)は、50人前後で構成される「小組」を最小単位として、それが幾つか集合して「大組」をつくり、さらに地域ごと大組がいくつか集まってその地域名を付す組(中)を形成した(註2)。薩摩国で言うと、1617年コウロス文書に出てくる「かご嶋貴理志端衆中」と「せんたい貴理志端中」がそれである。組親として合計9人が名前を連ねているが、その筆頭者である「かご嶋貴理志端衆中」の「(寿庵)上山又左衛門」は、薩摩国を代表する組親の中の組親であったと思われる。それより5年前の「1612年度年報」によると、彼は鹿児島の町に住んでいる「信仰心のあついキリシタン」として記録され、「日曜や聖人の祝日」には家の祭壇に「聖杯(カリス)の形の香炉や蝋燭を置いて」集会をもち、「神に祈りを捧げて」いた(註3)

 こうして組織され運営されていた薩摩国の二つの地域名をもつ信心会は、このあとカタリイナ永俊を「中心」とする組織へと移行し(註4)、最後は1632年(寛永9年)から始まる一連の薩摩キリシタン崩れ事件に至ることとなる。

カタリイナ永俊とマルタ妙身―その信仰的紐帯

 1609年12月、夫島津忠清とともに一女一男を伴い鹿児島に入ったカタリイナ永俊が、鹿児島キリシタン信心会を束ねる中心に就いたのは、1619-20年の頃であったと思われる。根拠は二つある。ひとつは夫島津忠清が1620年に亡くなり、カタリイナがこの時期、二の丸から冷水町の屋敷に移ったこと。もう一つは、娘マルタ妙身(小西行長の遺児)が1619年頃、喜入忠政と結ばれ鹿児島に来たことである(註5)。とくに、娘マルタ妙身が忠政に嫁いで来鹿したことは、母カタリイナのみならず、鹿児島のキリシタンたちにとって意味あるものであった(後述)。

 述べたようにマルタは1611年、前夫・有馬直純が家康に屈して国姫(家康の曾孫女)を新夫人としたため離縁を余儀なくされ、「有馬から遠い長崎近く(千々石)」の山中に追放された。その上、周りからしつこく再縁を迫られたが、彼女は「(そうして)デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意でいた。そして、栄えある死の準備をしていた」」ほどの、篤い信仰の持ち主であった。そのようなマルタ妙身が喜入忠政と結ばれたのは、他ならぬ母カタリイナ永俊の紹介と勧めがあったからにちがいない。つまりは、母カタリイナが娘マルタを鹿児島に呼び寄せたのである。重ねて言うが、彼女は〃小西行長の遺児〃であった。

 時に1620年、元和のキリシタン迫害が過酷を極めた時代であり、カタリイナ永俊が鹿児島キリシタン組織コンフラリアの中心(柱)に上げられ、彼らの「庇護者」としての使命を果たす為にも――ひとつには、夫島津忠清との間に生まれた娘(桂安)が国主・島津家久の後室となり、2代目藩主光久を生んだ事が伏線としてあった。それに加え――家老喜入忠政をキリシタンの理解者、陰の支援者として取り込む必要があったと考えられる。それはまた、日本布教で窮地に立たされたイエズス会としての生き残り策でもあっただろうし、そうした意図の下でのマルタ妙身と喜入忠政の結婚であった。

 あの困難な時代に多くのキリシタン浪人を抱え、半ば隠れ、半ば顕れるかたちで鹿児島のキリシタン地下組織を維持した背景として、小西・有馬両キリシタン大名にかかる母娘――カタリイナ永俊とマルタ妙身母娘の信仰的紐帯があったことを記しておきたい。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊(右)とマルタ妙身(左)の墓碑、種子島に母娘肩を並べて佇む

註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』で「Jap-Sin」版の1624年度年報を紹介し、カタリイナが「彼らの柱となり、庇護者となっていた」としている。

註2】…1617年ジェロニモ・ロドリゲスが創設した『御上天のさんたまりやの御組』の掟(おきて)にコンフラリアの組織が詳しく解説されている。キリシタン文化研究会編『キリシタン研究第二輯』(1944年発行)109~120頁。

註3】…「1613年1月12日付、長崎発信、ジョアン・ロドリーゲス・ジランのイエズス会総長宛、1612年度日本年報」(『16-7世紀イエズス会日本報告集ⅡーⅠ』287頁~88頁)。「マテウス・デ・コウロス、長崎1613年1月13日発信」Jap-Sin57,93v.

註4】…薩藩史料「旧記雑録」のうち「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に、「しゆあん(上山)又左衛門もたて野(永俊)の御内者にて候よし…」とある(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』1985鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。これによって、カタリイナ永俊がコンフラリア組織「薩摩キリシタン中」の中心者になっていたことが理解される。

註5】…喜入忠政の最初の夫人(伊集院抱節の娘)が1619年、忠政49歳の時に亡くなった。また、忠政とマルタ妙身との間の娘・御鶴(津留)が元和7年(1621)に生まれている。以上により、忠政とマルタ妙身の結婚は1619-20年頃と想定される。

2022年12月3日土曜日

カタリイナ永俊⑥

  ここから後編として、薩摩国鹿児島藩時代のカタリイナ永俊について述べたい。

喜入忠政のこと

 島津家本「旧記雑録後編六四」によると、カタリイナ永俊が夫島津忠清(1571-1645)とともに一女(11歳=桂安)一男(7歳)を伴い薩州鹿児府に赴いたのは「慶長14年(1609)12月3日」のことであった。その半年以前(1609年春)、薩摩国川内京泊を拠点に布教を展開していた托鉢修道会の一派・ドミニコ修道会が薩摩国から追放され、長崎に避難しているので、両者には何らかの因果関係があると思われる。島津忠清・カタリイナ夫妻が長崎を経由して鹿児島に戻った直後(註1)、有馬晴信は長崎港沖で黒船マドレ・デ・デッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号を撃沈した。それは晴信がイエズス会と謀り、鍋島領藤津郡―ドミニコ会が1606年、三つの教会を建て進出したところ―を奪回するための作戦でもあったが、このあと岡本大八への賄賂、さらには長崎奉行暗殺計画が暴露されるに至り、計画は挫折した。晴信は甲斐国初鹿野丸林で処刑され、その過程で息子・直純は正妻マルタ(妙身)と離縁し、家康から提示された孫娘・国姫と結婚した。述べたように、1612年度イエズス会日本年報はマルタ(妙身)が島原半島北西に位置する千々石(ちぢわ)の山中に追放され「藁小屋の中に置かれた」と伝えている。

 晴信処刑事件のあと1614年1月(慶長18年12月)、幕府はキリスト教禁止令を発布し、同年11月、キリシタン・宣教師らを国外に追放した。有馬氏もまた同年7月、長年住み慣れた故郷高来(島原半島)から追放され、日向国縣(あがた)に移った。有馬氏の旧領高来は、晴信がイエズス会とともに30年余りかけてキリスト教教化政策を推進し、全住民がキリシタンとなっていた。幕府がこの地に遺されたキリシタンの一掃作戦に着手したのは、大追放事件直後の1614年11月下旬である。「(幕吏)山口勘兵衞直友は長崎奉行長谷川左兵衛と謀り、肥前・薩摩の兵一万を徴して有馬に赴いた」(註2)。この時、薩摩から派遣されたのが、のちにマルタ妙身を後妻に迎えることになる喜入忠政である。「忠政は家臣・田代内記清友、田代三右衛門清方、酒匂源兵衛、松元平兵衛らを率いて長崎に赴き、山口直友の下に属してその命を聞き軍功を立てた。」とされるが、その際、不思議な行動を取った。「薩摩兵は海岸に沿って東に向かい、三会・島原の村村へ行き、キリシタンたちにしばらく山に退くように指示し」、長谷川左兵衛・山口直友には「この地にはキリシタンは一人もいない」、と偽って報告をしたというのだ(註3)

 喜入忠政という島津氏家老は如何なる人物であったのか、この一件である程度推察できるであろう。彼は役人として政治的に動くことはあったとしても、中身は求道者であり、徳を備えた人であった。その後、カタリイナ永俊の仲介があったかもしれない、連れ子のあるマルタ(妙身)を後妻に迎え、藩主島津家久の家老として誠実に奔走することになるが、義母カタリイナ永俊と彼女の庇護を得て集まった明石掃部子・小三郎、小三郎を雇い入れていた町の商人・しゅあん上山又左衛門、旧豊臣氏のキリシタン遺臣らを別の側面から擁護する中心的存在、影の理解者であったと思われる。連れ子の於満津(有馬直純の娘、のちに基太村元茂に嫁ぐ)、忠政とマルタ妙身との間に生まれた娘・於鶴も最後、種子島に遠島幽閉され、カタリイナのもとに送られたのは、同じく「きりしたん宗門ゆえ」であった。背景にマルタ妙身の夫喜入忠政の理解と擁護があったことは間違いない。幕府のキリシタン禁圧政策が厳しくなる中で、最終的には恭順の態度を取らざるをえなかったが、その狭間で生きた喜入忠政、そして彼を支えた家臣田代一族らの苦悩の日々があった。これは、カタリイナ永俊のキリシタン史を語る一方で、記憶されなければならない歴史である。

 鹿児島県枕崎市桜山本町の長善寺裏山に、喜入家累代墓地がある。五代季久からのもので、6代、9代を除いて19代まで並んでいる。7代忠政(忠続)の墓は最初の5代季久の次に建立されたが、その位置は5代墓地からさらに山奥に入った隠されたような場所にあり、しかも家老格に不相応な円塚(まるづか=土饅頭型)である。「キリシタンゆえ」に幕府から処刑されたカタリイナ永俊の養父・ジョアン有馬晴信(1561-1612)の墓も、山梨県甲州市初鹿野の山中に佇んでいるが、同じく「円塚」である(註4)。喜入忠政は隠れのキリシタンであったか、もしくは妻マルタ(妙身)のゆえに「きりしたん類族」として正式の墓碑が建立できなかったものと考えられる(註5)。(つづく)

写真】(左)喜入忠政の墓(枕崎市長善寺墓地)、(右)ジョアン有馬晴信の墓(甲州市初鹿野)=1944年、中村星湖のスケッチ。
【写真】喜入家累代墓地の墓碑に刻まれた花十字家紋


註1】…「種子島家譜五」に「然者其地へ永春(永俊)逼塞にて候、如御存知之彼御方之儀きりしたん宗之由候而…最前従長崎被参候時持参之道具共御座候つるを以御検者被焼捨…」とある。

註2】…『枕崎市史』(1969年発行)261頁。ドミニコ会史料『ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年・聖ドミニコ修道会発行)は、「(1614年)諸教会を打ち壊し、また神父たちを追放したので、左兵衛はキリシタンたちを叩きのめすのは簡単なことのように思われた。そして、それを実現するために、主だった者たちと大村・平戸・肥前・筑後の諸藩から多数の兵士たちを集めました。彼はここに集合させ、また多数の刀、火縄銃、槍や弓を準備して有馬に出立し、有馬の古い名である高来(たかき)郡全域に布告を発して、全員が棄教するように命じた。」と記している(同書94頁)。

註3】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・上』362頁。『枕崎市史』(1969年発行)261~262頁。

註4】…カタリイナ永俊は有馬晴信の養女であった(「國乗遺聞」)。マルタ妙身は晴信の息・直純の元本妻であったので、晴信は義父にあたる。晴信の墓「有賀八幡」は1944年、晴信の謫居跡を現地調査した中村星湖らによって、初鹿野の山中に存在することが確認された。

註5】…喜入家8代忠高はカタリイナの種子島配流の翌年(寛永12年3月5日)29歳で自決し、その妻(島津久慶の妹)も一ヶ月後(寛永12年4月18日)自決した。妻の兄・島津久慶(日置島津家)は藩の家老であったが、死後、キリシタンであったとして死体を掘り上げて磔にされた(枕崎市観光協会ネット掲載「枕崎の殿様喜入氏を探る」)。また『枕崎市史』には「久慶は家久公の家老で、異国方・宗門方を仰せつかっていたが、法名・処安(ジョアン)忠省とあるように、切支丹信者であった。…あるいは忠高夫婦も切支丹として自決したかとの推察もありうる…」とある(同史277-278頁)。鹿籠長善寺・喜入氏累代墓地にある8代忠高の墓も、7代忠政と同じく「円塚」である。


2022年11月18日金曜日

カタリイナ永俊⑤

 ■小西行長・カタリイナ夫妻の娘・妙身「マルタ」

 カタリイナ永俊の基本史料とされる「薩藩旧記雑録後編」藩史局編者見解には、カタリイナの最初の夫が小西行長であり、娘(妙身)が一人いたこと。二番目の夫が島津忠清で、その娘・桂安が藩主島津家久の夫人であることが記されている。母カタリイナが生んだ娘二人―妙身と桂安は異父姉妹であった。このうち妹の桂安は鹿児島藩初代藩主島津家久に嫁ぎ、2代藩主となる光久を生んでその地位を確立したが、「異教徒であった」(註1)

 一方、姉の妙身は母カタリイナと同様、キリシタン信仰を貫き、苦難の道を辿った。二回結婚し、連れ子を伴った点でも似ている。母の連れ子は小西行長の娘、妙身の連れ子は有馬直純の娘であるから、ここにも有馬・小西両家の繋がりを見ることができる(註2)

 ところで、前掲史料にはカタリイナの娘・妙身の最初の夫が有馬直純であること、そして妙身の洗礼名が「マルタ」であることについては記していない。この事実は意外と周知されていないが、二つの史料によって割り出される。一つは薩藩史料のうちの喜入氏関係史料。他の一つはイエズス会史料である。「藤原姓島津氏族喜入氏系図」によると、喜入忠政に二人の「女子」があり、姉の「於満津」の「父は県(あがた)の士有馬式部大輔(直純)」とある(註3)。すなわち忠政の子ではなく夫人・妙身の連れ子であって、前夫有馬直純との間の子であった。これによって妙身の最初の夫が有馬直純であったことが分かる。

 他方、イエズス会史料は直純の結婚が三回あり、相手の洗礼名を記している。最初が1598年、行長の兄ベント如清の娘マルタであったが、これは婚約のみで実現しなかった。二回目が1604年、大村嘉前の娘メンシアと結ばれたものの、メンシアが一年も経たないうちに亡くなった。三番目が1607年頃、相手は「マルタ」であった。これについて結城了悟氏は史料をもとに調査し、著書『キリシタンになった大名』に詳しく述べている。ただし、氏は執筆当時、邦文史料の確認が十分ではなかったと思われる。次のような曖昧な表現をしている。

 「(直純の)三番目の奥方は家来の皆吉久兵衛絡純の娘で、マルタと呼ばれていた。その結婚によって一人の娘が生まれた。(註4)

 「皆吉久兵衛絡純」という人物を結城氏が如何なる史料によって上げたのか、出典を記していないので不明だが、有馬氏の史書『國乗遺聞・巻之二』には「皆吉久右衛門續能」を「皆吉久兵衛續能」とする表記がある。両者は同一人物であった。そうすると直純の三番目の奥方は、正しくは「皆吉久右衛門續能の娘(=カタリイナ)の娘」であり、彼女はイエズス会の史料によって「マルタ」の洗礼名をもつ女性であったことが判明する。

 直純とマルタ「妙身」は、有馬の日野江城もしくは有馬にあった教会で「婚礼の秘蹟」によって結ばれた。その頃、父・晴信はイエズス会とともに「祖先の領有した大部分(藤津郡=ドミニコ会が進出した地域)を手に入れようと」画策していた。それは徳川幕府との駆け引きでもあり、途次、家康が提示した「曾孫女(国姫)」を息子・直純の新しい夫人として受け入れざるをえなかった。1611年(慶長16)のことである。ここから有馬氏の転落とマルタおよびすべてのキリシタンたちの苦難が始まることになる。マルタは有馬家を追放され、「長崎近く(千々石)の或る山中に置かれた」(註5)

カタリイナ永俊の二度目の結婚と行長遺児・マルタ(妙身)

 マルタ(妙身)の母カタリイナ永俊はそれ以前、文禄の役失態の廉で小西行長領宇土に預けられていた薩州家島津清忠と1597-8年頃結婚し、関ヶ原戦(1600年)後は熊本藩加藤清正のもとにあった。1609年12月、島津氏関係者(義久、常久)の尽力で鹿児島に帰還することになるが、その間、カタリイナは忠清との間に一女(1599年生)一男(1602年生)を設けている。妙身マルタは父行長亡き後、あるいは皆吉家に戻っていたかもしれない註6)。父母から離れ、そして結婚した夫直純からも離縁させられた妙身マルタは、孤独な境涯に立たされたであろう。「まだ20歳で、いとも上品に育てられていたにもかかわらず、デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意をしていた」、と「1612年度年報」は伝えている(註5)

 このあと、いかなる機縁で喜入忠政と結ばれるのか、詳細は不明だが、『枕崎市史』はその出会いが1614年秋のことであったと述べている(註7)。(つづく)

【写真】有馬・宇土・鹿児島が近距離で描かれているキリシタン時代の西九州地図

註1】…1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡「長崎、1617年2月22日発信、Jap.Sin.58, 437-38.」。

註2】…行長と晴信のキリシタン信仰に基づく友情の機縁は1587年、秀吉の九州征討後、危うく自領を失いかけた晴信に対し、行長が温情の言葉をかけた出来事にあったようだ。「1588年度年報」で宣教師が記録している。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』32-38頁参照。

註3】…『枕崎市史』(1969年刊)264頁。

註4】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(2020年聖母の騎士社刊)70-71頁。最初の婚約者と三番目に結婚した人が同じキリシタン名「マルタ」であるため、「しばしば歴史家が混乱している」(結城氏)。

註5】…「1613年1月12日付、1612年度日本年報」。『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅱ期第1巻』(1990年同朋舎出版)340頁。

註6】…薩藩史料「旧記雑録後編」藩史局見解によると、カタリイナ永俊が島津忠清と結ばれたのは「行長滅ヒタル後」すなわち関ヶ原戦後のことである。ところが、永俊・忠清夫妻が鹿児島に帰還した1609年12月、「一男(7才)と一女(11才)を連れていた」という(『出水郷土史』250頁)。その「一女」がのちの家久夫人・桂安である。父忠清と母カタリイナのもとで生まれた桂安が1609年当時11歳であるから、両親の結婚は1597-8年頃、もしくはそれ以前となる。最初の夫小西行長が存命中のことであり、あるいは、行長の対島津政策の一環であったと思われる。

註7】…『枕崎市史』261頁~「喜入忠政の長崎出征」。



2022年11月14日月曜日

カタリイナ永俊④

 ■有馬家の娘カタリイナとしてー

 欧文史料に詳しいキリシタン史研究家・結城了悟氏(カトリック司祭)は、宣教師がカタリイナ永俊を記録した文書は二つしかないと著書『鹿児島のキリシタン』に書いている。筆者はその一つを『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅱ期第3巻』(1997年同朋舎出版)から引用して冒頭に紹介したが、結城氏はこれとは異なる文面の同年報を取り上げている。「Jap.Sin.文書」版のそれである(註1)

 「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘蹟を授け、これほど盲目的で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母たちも信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという彼女の女婿の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました。

 この中で宣教師は、カタリイナ永俊を「彼ら(薩摩国キリシタン)の柱」であり「庇護者となっていた」と、立場と役割を端的に表現し、その上で「きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです」と、系譜的な説明を加えている。見てきたように、カタリイナの出自は皆吉氏であり、肥前国高来の日野江城主・有馬氏に仕える「最高位の代官」の家柄であった。皆吉権左衛門は姓を「東」に替え、「東殿」の名前で呼ばれていた。ルイス・フロイスは著書『日本史』で「東殿」に言及し、「彼は仏僧たちと深い姻戚関係にあり…いく分、人並み外れた貪欲に支配されていた」と記している(註2)。カタリイナ永俊の兄弟権左衛門は役人的気質の持ち主であり、キリシタンではなかったようだ。それで「カタリイナの両親や祖父母も(キリシタン)信徒であったから、(カタリイナも)熱心なキリシタンである」と言うのは矛盾がある。もしかしたら、Jap.Sin.版年報が言うカタリイナの「両親・祖父母」は皆吉氏ではない、カタリイナの「養父母・養祖父母」―つまり有馬氏の「晴信・ジュスタ夫妻」とその親「義貞・マリイナ夫妻」を指しているのではないだろうか。〈養父〉晴信はその生涯をイエズス会に捧げたキリシタン大名であったし、また〈養祖父〉義貞は文人肌の誠実な武将として有馬家ではじめて受洗した人物であった(註3)。その情報を周知していたイエズス会宣教師たちは、カタリイナについても「有馬(晴信)家の娘」として認識していたのであろう。「きわめて高貴」との言葉が、それを裏付けている。

薩摩藩文書から有馬氏の事蹟が消された謎

 冒頭、筆者はカタリイナ永俊の出自・皆吉氏を「小西の士」であるとする薩藩文書の間違いを取り上げ、実は「有馬氏の家臣」であると証拠史料を上げて説明してきた。これと関連するもので、カタリイナの娘・妙身の前夫・有馬直純(晴信の息子・有馬家第14代)を「県(あがた=延岡)の士・有馬式部大輔(直純)」とする文書がある(註4)。これも誤りである。有馬直純と妙身の結婚は、日向国縣(あがた)に転封する以前の1610年(慶長15)以前、有馬に於いて執り行われ、娘・於満津も1612年、肥前国の千々石または長崎で生まれている。ゆえに妙身の前夫直純を説明する場合、正しくは「有馬の士」としなければならない。また、直純の官位も「左衛門佐」であるのに「式部大輔」と誤っている。喜入氏の文書(系図)が後世になって記述されたため、錯誤があると言えばそれまでだが、行長については「肥後国宇都の城主小西摂津守行長」と正しく表記されているので、有馬氏の事蹟が故意に歪められている、との感を否めない。

 同じキリシタン大名でありながら、有馬晴信との関係は忌避され、小西行長とのそれは採られた―その理由は何か。答えは、当時の封建社会的価値観に依拠するものであった、と言えよう。すなわち有馬晴信は賄賂と長崎奉行暗殺の陰謀が暴かれ、幕府によって処断された国家的罪人であったのに対し、小西行長は関ヶ原戦で敵将として死んだ侍(サムライ)であった。侍社会の論理が働いていたのだ。有馬氏と密な関係にあったカタリイナ永俊が、なかば謎に包まれてしまったのも頷けるであろう。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津氏の関系図(宮本作図)

註1】…正式名称は「日本・シナ部Japonica-Sinica」。日本では上智大学キリシタン文庫にその大半が写真版本として保存されている。

註2】…松田毅一・川崎桃太編『フロイス日本史10・西九州篇Ⅱ』(1979・中央公論社発行)35頁。

註3】…フロイスは『日本史』で、有馬義貞について以下のように描写している。「彼は、日本の貴人たちのもとでは珍しく、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間ではきわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。」(前掲『フロイス日本史』32頁。義貞の生涯については、福田八郎著『信仰の耕作地・有馬キリシタン王国記』(2020年聖母の騎士社発行)が詳しい。同書100~109頁。

註4】…喜入氏関連の文書『喜入氏系図』―喜入忠政の「女子・御婦理又ハ於満津」(実は母妙身の連れ子、前夫有馬直純との間の娘)の項目に「父ハ県ノ士有馬式部大輔、母ハ肥後宇都ノ城主小西摂津守行長の娘ナリ」とある(『枕崎市史』(1969年刊)264頁)。


2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


2022年11月9日水曜日

カタリイナ永俊②

 ■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣

 茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。

 筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)

 「光久公御母堂桂安夫人島津備前守忠清ニテ、其御母肥後士皆吉久右衛門續能ニテ法名永春(永俊)ト云。始肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ニテ、女一人、行長滅ヒタル後、島津忠清小西御預ニテラレシニラレ、桂安夫人、慶長十四年鹿府、忠清死後堅野今郷田氏辺ラレ、堅野御祖母様トモ、又永俊尼トモ為申由也。行長メル女子喜入摂津守忠政トナレリ」。

 ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。

 「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。(註4)

 皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…(註5)

 龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)

【皆吉氏系図】


註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。

註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。

註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。

註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。

註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。

2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。


2022年6月5日日曜日

きりしたん作法で解く島原の乱⑤

 ■最期の日「1638年4月11日」

 キリスト教禁止令が敷かれた徳川幕府政権下で、「転び」から「立上り」、キリスト教徒に戻った天草四郎らキリシタンたちがそのまま生き続けることはできない。それゆえ、彼らがすべての償いの行為をキリシタン作法によって成し終えたその日―すなわち1638年4月11日(復活祭)は、同時にこの世との決別の日・死ぬ日でもあった。

 司祭・四郎が「(和暦)2月朔日」付で通達した『四郎法度書』(と称される文書)の中で、「現世には一旦の事と申し候中に、此城内の人数(人々)は弥(いよいよ)みじかき様に存じ候…」と言ったのは、それから27日後に訪れる〃死の日〃を想定してのことであった。ーと言うより、「立上り」の行動をする当初から彼らは死を覚悟していた(註1)。

攻撃ではなく防衛―「ふせぎ申したる分に候」

 定められた「死の日=復活祭」以前の段階で、たとえば寛永14年12月10日、同12月20日、寛永15年1月1日に幕府軍から攻撃を仕掛けられたとき、彼らが激しく抵抗したのは何故か。それは、「立上り」のためのキリシタンの作法「ゆるしの秘蹟」を終えていなかったからに他ならない。その場合の抵抗は防衛であって攻撃ではない。矢文の言葉を借りて言えば、「島原天草両所の儀、(幕府軍が)御取懸り候に付、ふせぎ申したる分に候」、「一度として此方より仕掛け申したる儀、御座なく候。天草島原両所とも、御軍勢をもって御踏み殺し候の故、至極迷惑(し)防ぎ申したる分に候」であった。

 加えて彼らは「此宗旨に敵をなす輩は、身命を捨てふせぎ候はで叶わず」(=神のみ旨に敵対し攻撃してくる者に対しては、命を捨てて防衛しなければならない)とも言っている(註2)。「ふせぐ」というのは「守る」という行為である。キリスト教徒はその行為に「身命を捨てる」、つまり「命をかけて守る」。これはキリスト・イエスが「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と説く隣人愛に依拠するものであった(註3)。四郎が償いの行為として「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち行)」に加え「敵をふせぐ手立」としての「武具の嗜(たしなみ)に念を入れること」を指示したのは、意外に思うかもしれないが、聖書の教えに基づくものであった。

 この点に関して、中世カトリック神学が殉教(マルチル)の三要素の一つに無抵抗であることを挙げたのは、いかなる聖書的根拠に基づくものなのか、究明されなければならない(註4)。なぜなら、原城に集った3万7千余人がキリスト教の宗教的行為によって餓死または幕府軍によって殺された―殉教者であった―にもかかわらず、カトリックが定めるマルチルの定義から外れるとして、これを殉教者として認めなかった経緯があるからである。

「こころよく」死すべし

 実際、彼らは「立上り」のキリシタン作法を成し終えた後、「原城の門を開け」て幕府軍を入れ、死の旅路に就いた(註5)。弱者である老人や子供、そして友のため死力を尽くしたことであり、そうして「死ぬ」ことはみこころであった。敢えて言えば、立ち帰ったキリシタンとして如何にキリシタンらしく死ぬかが問われたのであり、この点に関して司祭・四郎は「快く(こころよく)勝負を決すべし」と言っている(註6)。「こころよく」とは、「いやな顔をしないで、うれしく、楽しく」という意味である。

 信仰の程度は人により異なるので、このように〃喜んで〃死ぬことができたかどうか。幕府軍側の目撃者の一人・松平信綱が、「剰(あまつさ)へ童女に至るまで死を喜び斬罪を蒙る。是れ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門浸々たる所以(ゆえん)なり」と記録したのは事実である(註7)。他にも「こころよく」死んだ状況を思わせる記録がある。

 ・「丸裸になり、持ち道具を捨て〃首を切られ候へ〃と申し候」(『佐野弥七左衛門覚書』)/「敵(キリシタン)草臥、大方働く事なし」(『嶋原一揆松倉記』)/「皆やみやみとぞ討たれける。…或はむざんに討たれて死するもあり。」(『島原記』)。「やみやみ」とは「わけなく、むざむざ、みすみす」の意味。「むざん」とは「無慙」、「僧が罪を犯しながら恥じるところのないこと」を指す(古語辞典)。

 もとより彼らは、償いの行(ぎょう)として断食をしていたし、最後には食糧も尽き、体力は限界状況に達していた。ほとんどが無抵抗のまま「やみやみと」「むざんに討たれ」殺されたのが事実であった。

幕府の責任回避、および「味方討ち」隠蔽のための一揆説

 それでは何故、徳川幕府はこれを一揆とし、幕府軍諸藩は戦いの構図でこれを記録したのだろうか。その答えは、そうしなければならない訳が幕府側にあったからである。理由は二つある。ひとつは、キリスト教禁止令を発布してキリスト教信教の自由を認めなかった幕府側のこの事件に対する責任を回避し、松倉氏に転嫁するためであった。すなわち、この事件が「転び」の「立上り(再改宗)」であるとするなら、根本の原因はキリシタンを強制改宗させて仏教徒にした幕府の禁教令にあったはずで、幕府はこの責任を負わなければならない立場にあった。そこで幕府がこれを回避・転嫁するため、事件直後に打ち出したのが松倉悪政による一揆説であった。それはまた、動員された諸藩側にとっても好都合であった。手柄功名の材料にすることができたからである。

 他の一つの理由は、味方討ち(同士討ち)による不名誉な犠牲を隠蔽するためである。これは手柄功名にならないばかりか軍令違反の失態であり、侍として恥ずべきこと、不名誉なこと、さらには処分・改易の材料ともなるべきものであったため、邦文史料から意図的に外された状況がある。ただ、第三者的立場にあった平戸オランダ商館長クーケバッケルがその事実をありのまま記録しているので、ここに紹介する。

 ・【寛永14年12月20日、寛永15年1月1日の幕府軍攻撃のとき】…我等が船を出す迄に合戦二度ありつるが、味方の士討死の数5708人なり。味方の同士討にて死人疵人数多(あまた)あり(註8)。/【寛永15年2月27-28日総攻撃のとき】…前方の鍋島公と細川公の前後の争いあり。…依て大いに混雑して味方の人々同士討にて死す(註9)。

 この事件に動員された諸藩の邦文史料の中にも、注意深く読んでいくと、かすかに同士討ち・仲間討ちの記事を見つけることが出来る。『水野家島原記』に「(正月朔日の城攻の時)諸勢塀下へかかり候時、後勢より鉄砲放ち候て、手負死人過半、味方討ちのよし」と。また、有馬藩の史書『國乗遺聞・巻之八』-「兵戦第十八」に、「(寛永15年2月27日惣乗のとき)彼の者(寺沢の使番)申しけるは…後口より鉄砲討かくべしと申さる」とあるが、これも希釈された表現の味方討ちの記録である。

おわりに

 繰り返すが最期の日、キリシタンたちのほとんどが戦いの道具を捨て、動くことなく「草臥」していた。中には焼け落ちた火の中に入り、死んでいく女たちもいた(註10)。彼らは「転び」の罪を悔い、神にわびて償いをなし、もとより「死」を覚悟して家を焼き、故郷を捨てて原城に出てきた人々であった。そこには女・老人・子供たちもいた。壮健なる侍たちが鉄砲で撃ち、刀で首を切り殺すような相手ではなかったのだ。戦いになる状況は何もなかった。あったのは幕府軍諸藩が武功を争う激戦だけであった。

 島原の乱一揆説は、根本的に見直されなければならない。この事件は一揆などではない。転びキリシタンたちが再改宗して元のキリシタンに戻る、「きりしたんの作法」に基づく純粋な信仰行為であり、宗教行為であった。(おわり)

【写真】…有明海海上から見る原城風景(昭和初期)

註1】…永積洋子著『平戸オランダ商館の日記・第四輯』(1970・岩波書店)「1637年12月17日」付の項に、「有馬領の住人、或いは農民の大部分が…叛乱を起こし、…『大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう』と決議された。」とある(同書40頁)。

註2】…「…右の仕合せ、きりしたんの作法に候。御不審可思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ、身命を捨ふせぎ候ハて不叶」(城中より御陣中への矢文)。古語「不叶(かなはず)」はこの場合、「~しなくてはならない」の意味である(古語辞典)。

註3】…「Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.」 ST.JOHN15-13 

註4】…姉崎正治著『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925・同文社刊)掲載の『マルチリヨの心得』に、マルチル(殉教)の説明として、①死ぬこと、②成敗を辞退せず心能く(こころよく=快く)堪忍致して受くること、③死罪の題目がC(キリシタン)なりとて成敗されること、の三点を挙げている。

註5】…「…叶はじとや思ひけん、門を開き…」(『吉利支丹物語』)、「四郎大夫…〃一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべし〃と申しける」(『寛永平塞録』)。

註6】…細川藩記録『寛永平塞録』に、「四郎大夫…籠城百日に及び候はば、城内の糧乏しき事眼前にあり。一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべしと申しける。」とある。

註7】…松平忠綱筆『嶋原天草日記』「…賊徒の将四郎一類、悉く刀殺せらる。その外、生捕斬罪せしむ。剰へ童女の輩に至り死を喜び斬罪を蒙る。是、平生人心の致す所に非ず。彼の宗門駸駸たる所以なり」(日屋根安定編著『吉利支丹文庫第三輯・嶋原天草日記、他四編』1926年刊、53頁)。1998年10月18日、原城のある南有馬町(現・南島原市)で開催されたシンポジウム『原城発掘』で結城了悟氏(元長崎26聖人記念館館長)が最初にこれを取り上げ発表した。

註8】…これは、平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記から19世紀はじめ、オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフが島原の乱の関係記事を抽出編集して出島乙名・末次独笑(忠介)に与えた原文を、当時のオランダ通詞・吉雄如淵が翻訳した『天馬異聞』の記事である。この部分の原文は『平戸オランダ商館長日記』(東大史料編纂所・昭和52年)の〔1638年3月13日〕付記事にある。

註9】…同じく『天馬異聞』に依る。原文は『平戸オランダ商館長日記』の〔1638年6月〕付、〔平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書翰〕(昭和41年吉川弘文館刊「長崎縣史史料編第三」の〔1638年11月19日付、平戸発バタビアのインド総督におくった手紙〕にある。

註10】…細川家熊本藩史料ー本丸にて細川勢が目撃したキリシタンたちの自害について「小袖を手にかけ、焼けている燠(おき)を上へ押し上げ、その中に入って自害し、また、ある者は子供をその中に押し込み、自分は上へ上がって死ぬる者も大勢いた。忠利は〃中々奇特なる下々の死、言語を絶し候〃と、かれらの壮絶な死に様に賞賛の声を上げている(山本博文著『江戸城の宮廷政治』(1993・読売新聞社)257-258頁)。史料名「三月朔日忠利披露状」。鍋島家佐賀藩史料『元茂公御年譜七』にも「女・童部(わらべ)は手に手を取り組み、悉く猛火の中へ飛入々々焦れ死す。其臭気四方に薫じて人皆鼻を掩ふばかり也」とある。