■小西行長・カタリイナ夫妻の娘・妙身「マルタ」
カタリイナ永俊の基本史料とされる「薩藩旧記雑録後編」藩史局編者見解には、カタリイナの最初の夫が小西行長であり、娘(妙身)が一人いたこと。二番目の夫が島津忠清で、その娘・桂安が藩主島津家久の夫人であることが記されている。母カタリイナが生んだ娘二人―妙身と桂安は異父姉妹であった。このうち妹の桂安は鹿児島藩初代藩主島津家久に嫁ぎ、2代藩主となる光久を生んでその地位を確立したが、「異教徒であった」(註1)。
一方、姉の妙身は母カタリイナと同様、キリシタン信仰を貫き、苦難の道を辿った。二回結婚し、連れ子を伴った点でも似ている。母の連れ子は小西行長の娘、妙身の連れ子は有馬直純の娘であるから、ここにも有馬・小西両家の繋がりを見ることができる(註2)。
ところで、前掲史料にはカタリイナの娘・妙身の最初の夫が有馬直純であること、そして妙身の洗礼名が「マルタ」であることについては記していない。この事実は意外と周知されていないが、二つの史料によって割り出される。一つは薩藩史料のうちの喜入氏関係史料。他の一つはイエズス会史料である。「藤原姓島津氏族喜入氏系図」によると、喜入忠政に二人の「女子」があり、姉の「於満津」の「父は県(あがた)の士有馬式部大輔(直純)」とある(註3)。すなわち忠政の子ではなく夫人・妙身の連れ子であって、前夫有馬直純との間の子であった。これによって妙身の最初の夫が有馬直純であったことが分かる。
他方、イエズス会史料は直純の結婚が三回あり、相手の洗礼名を記している。最初が1598年、行長の兄ベント如清の娘マルタであったが、これは婚約のみで実現しなかった。二回目が1604年、大村嘉前の娘メンシアと結ばれたものの、メンシアが一年も経たないうちに亡くなった。三番目が1607年頃、相手は「マルタ」であった。これについて結城了悟氏は史料をもとに調査し、著書『キリシタンになった大名』に詳しく述べている。ただし、氏は執筆当時、邦文史料の確認が十分ではなかったと思われる。次のような曖昧な表現をしている。
「(直純の)三番目の奥方は家来の皆吉久兵衛絡純の娘で、マルタと呼ばれていた。その結婚によって一人の娘が生まれた。」(註4)
「皆吉久兵衛絡純」という人物を結城氏が如何なる史料によって上げたのか、出典を記していないので不明だが、有馬氏の史書『國乗遺聞・巻之二』には「皆吉久右衛門續能」を「皆吉久兵衛續能」とする表記がある。両者は同一人物であった。そうすると直純の三番目の奥方は、正しくは「皆吉久右衛門續能の娘(=カタリイナ)の娘」であり、彼女はイエズス会の史料によって「マルタ」の洗礼名をもつ女性であったことが判明する。
直純とマルタ「妙身」は、有馬の日野江城もしくは有馬にあった教会で「婚礼の秘蹟」によって結ばれた。その頃、父・晴信はイエズス会とともに「祖先の領有した大部分(藤津郡=ドミニコ会が進出した地域)を手に入れようと」画策していた。それは徳川幕府との駆け引きでもあり、途次、家康が提示した「曾孫女(国姫)」を息子・直純の新しい夫人として受け入れざるをえなかった。1611年(慶長16)のことである。ここから有馬氏の転落とマルタおよびすべてのキリシタンたちの苦難が始まることになる。マルタは有馬家を追放され、「長崎近く(千々石)の或る山中に置かれた」(註5)。
■カタリイナ永俊の二度目の結婚と行長遺児・マルタ(妙身)
マルタ(妙身)の母カタリイナ永俊はそれ以前、文禄の役失態の廉で小西行長領宇土に預けられていた薩州家島津清忠と1597-8年頃結婚し、関ヶ原戦(1600年)後は熊本藩加藤清正のもとにあった。1609年12月、島津氏関係者(義久、常久)の尽力で鹿児島に帰還することになるが、その間、カタリイナは忠清との間に一女(1599年生)一男(1602年生)を設けている。妙身マルタは父行長亡き後、あるいは皆吉家に戻っていたかもしれない(註6)。父母から離れ、そして結婚した夫直純からも離縁させられた妙身マルタは、孤独な境涯に立たされたであろう。「まだ20歳で、いとも上品に育てられていたにもかかわらず、デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意をしていた」、と「1612年度年報」は伝えている(註5)。
このあと、いかなる機縁で喜入忠政と結ばれるのか、詳細は不明だが、『枕崎市史』はその出会いが1614年秋のことであったと述べている(註7)。(つづく)
【写真】有馬・宇土・鹿児島が近距離で描かれているキリシタン時代の西九州地図 |
【註1】…1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡「長崎、1617年2月22日発信、Jap.Sin.58, 437-38.」。
【註2】…行長と晴信のキリシタン信仰に基づく友情の機縁は1587年、秀吉の九州征討後、危うく自領を失いかけた晴信に対し、行長が温情の言葉をかけた出来事にあったようだ。「1588年度年報」で宣教師が記録している。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』32-38頁参照。
【註3】…『枕崎市史』(1969年刊)264頁。
【註4】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(2020年聖母の騎士社刊)70-71頁。最初の婚約者と三番目に結婚した人が同じキリシタン名「マルタ」であるため、「しばしば歴史家が混乱している」(結城氏)。
【註5】…「1613年1月12日付、1612年度日本年報」。『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅱ期第1巻』(1990年同朋舎出版)340頁。
【註6】…薩藩史料「旧記雑録後編」藩史局見解によると、カタリイナ永俊が島津忠清と結ばれたのは「行長滅ヒタル後」すなわち関ヶ原戦後のことである。ところが、永俊・忠清夫妻が鹿児島に帰還した1609年12月、「一男(7才)と一女(11才)を連れていた」という(『出水郷土史』250頁)。その「一女」がのちの家久夫人・桂安である。父忠清と母カタリイナのもとで生まれた桂安が1609年当時11歳であるから、両親の結婚は1597-8年頃、もしくはそれ以前となる。最初の夫小西行長が存命中のことであり、あるいは、行長の対島津政策の一環であったと思われる。
【註7】…『枕崎市史』261頁~「喜入忠政の長崎出征」。
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