■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣
茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。
筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)。
「光久公御母堂桂安夫人ハ島津備前守忠清ノ女ニテ、其御母ハ肥後ノ士皆吉久右衛門續能ノ女ニテ法名永春(永俊)ト云。始ハ肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ノ室ニテ、女一人ヲ生ミ、行長滅ヒタル後、島津忠清ノ小西ニ御預ニテ居ラレシニ娶ラレ、桂安夫人ヲ生ミ、慶長十四年鹿府ニ来リ、忠清死後堅野ノ今郷田氏辺ニ居ラレ、堅野ノ御祖母様トモ、又ハ永俊尼トモ為申由也。行長ト生メル女子ハ喜入摂津守忠政ノ室トナレリ。」。
ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。
「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。」(註4)。
皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。
「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…」(註5)
龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)
【皆吉氏系図】 |
【註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。
【註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。
【註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。
【註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。
【註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。
0 件のコメント:
コメントを投稿