2022年11月14日月曜日

カタリイナ永俊④

 ■有馬家の娘カタリイナとしてー

 欧文史料に詳しいキリシタン史研究家・結城了悟氏(カトリック司祭)は、宣教師がカタリイナ永俊を記録した文書は二つしかないと著書『鹿児島のキリシタン』に書いている。筆者はその一つを『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅱ期第3巻』(1997年同朋舎出版)から引用して冒頭に紹介したが、結城氏はこれとは異なる文面の同年報を取り上げている。「Jap.Sin.文書」版のそれである(註1)

 「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘蹟を授け、これほど盲目的で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母たちも信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという彼女の女婿の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました。

 この中で宣教師は、カタリイナ永俊を「彼ら(薩摩国キリシタン)の柱」であり「庇護者となっていた」と、立場と役割を端的に表現し、その上で「きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです」と、系譜的な説明を加えている。見てきたように、カタリイナの出自は皆吉氏であり、肥前国高来の日野江城主・有馬氏に仕える「最高位の代官」の家柄であった。皆吉権左衛門は姓を「東」に替え、「東殿」の名前で呼ばれていた。ルイス・フロイスは著書『日本史』で「東殿」に言及し、「彼は仏僧たちと深い姻戚関係にあり…いく分、人並み外れた貪欲に支配されていた」と記している(註2)。カタリイナ永俊の兄弟権左衛門は役人的気質の持ち主であり、キリシタンではなかったようだ。それで「カタリイナの両親や祖父母も(キリシタン)信徒であったから、(カタリイナも)熱心なキリシタンである」と言うのは矛盾がある。もしかしたら、Jap.Sin.版年報が言うカタリイナの「両親・祖父母」は皆吉氏ではない、カタリイナの「養父母・養祖父母」―つまり有馬氏の「晴信・ジュスタ夫妻」とその親「義貞・マリイナ夫妻」を指しているのではないだろうか。〈養父〉晴信はその生涯をイエズス会に捧げたキリシタン大名であったし、また〈養祖父〉義貞は文人肌の誠実な武将として有馬家ではじめて受洗した人物であった(註3)。その情報を周知していたイエズス会宣教師たちは、カタリイナについても「有馬(晴信)家の娘」として認識していたのであろう。「きわめて高貴」との言葉が、それを裏付けている。

薩摩藩文書から有馬氏の事蹟が消された謎

 冒頭、筆者はカタリイナ永俊の出自・皆吉氏を「小西の士」であるとする薩藩文書の間違いを取り上げ、実は「有馬氏の家臣」であると証拠史料を上げて説明してきた。これと関連するもので、カタリイナの娘・妙身の前夫・有馬直純(晴信の息子・有馬家第14代)を「県(あがた=延岡)の士・有馬式部大輔(直純)」とする文書がある(註4)。これも誤りである。有馬直純と妙身の結婚は、日向国縣(あがた)に転封する以前の1610年(慶長15)以前、有馬に於いて執り行われ、娘・於満津も1612年、肥前国の千々石または長崎で生まれている。ゆえに妙身の前夫直純を説明する場合、正しくは「有馬の士」としなければならない。また、直純の官位も「左衛門佐」であるのに「式部大輔」と誤っている。喜入氏の文書(系図)が後世になって記述されたため、錯誤があると言えばそれまでだが、行長については「肥後国宇都の城主小西摂津守行長」と正しく表記されているので、有馬氏の事蹟が故意に歪められている、との感を否めない。

 同じキリシタン大名でありながら、有馬晴信との関係は忌避され、小西行長とのそれは採られた―その理由は何か。答えは、当時の封建社会的価値観に依拠するものであった、と言えよう。すなわち有馬晴信は賄賂と長崎奉行暗殺の陰謀が暴かれ、幕府によって処断された国家的罪人であったのに対し、小西行長は関ヶ原戦で敵将として死んだ侍(サムライ)であった。侍社会の論理が働いていたのだ。有馬氏と密な関係にあったカタリイナ永俊が、なかば謎に包まれてしまったのも頷けるであろう。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津氏の関系図(宮本作図)

註1】…正式名称は「日本・シナ部Japonica-Sinica」。日本では上智大学キリシタン文庫にその大半が写真版本として保存されている。

註2】…松田毅一・川崎桃太編『フロイス日本史10・西九州篇Ⅱ』(1979・中央公論社発行)35頁。

註3】…フロイスは『日本史』で、有馬義貞について以下のように描写している。「彼は、日本の貴人たちのもとでは珍しく、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間ではきわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。」(前掲『フロイス日本史』32頁。義貞の生涯については、福田八郎著『信仰の耕作地・有馬キリシタン王国記』(2020年聖母の騎士社発行)が詳しい。同書100~109頁。

註4】…喜入氏関連の文書『喜入氏系図』―喜入忠政の「女子・御婦理又ハ於満津」(実は母妙身の連れ子、前夫有馬直純との間の娘)の項目に「父ハ県ノ士有馬式部大輔、母ハ肥後宇都ノ城主小西摂津守行長の娘ナリ」とある(『枕崎市史』(1969年刊)264頁)。


0 件のコメント:

コメントを投稿