■最期の日「1638年4月11日」
キリスト教禁止令が敷かれた徳川幕府政権下で、「転び」から「立上り」、キリスト教徒に戻った天草四郎らキリシタンたちがそのまま生き続けることはできない。それゆえ、彼らがすべての償いの行為をキリシタン作法によって成し終えたその日―すなわち1638年4月11日(復活祭)は、同時にこの世との決別の日・死ぬ日でもあった。
司祭・四郎が「(和暦)2月朔日」付で通達した『四郎法度書』(と称される文書)の中で、「現世には一旦の事と申し候中に、此城内の人数(人々)は弥(いよいよ)みじかき様に存じ候…」と言ったのは、それから27日後に訪れる〃死の日〃を想定してのことであった。ーと言うより、「立上り」の行動をする当初から彼らは死を覚悟していた(註1)。
■攻撃ではなく防衛―「ふせぎ申したる分に候」
定められた「死の日=復活祭」以前の段階で、たとえば寛永14年12月10日、同12月20日、寛永15年1月1日に幕府軍から攻撃を仕掛けられたとき、彼らが激しく抵抗したのは何故か。それは、「立上り」のためのキリシタンの作法「ゆるしの秘蹟」を終えていなかったからに他ならない。その場合の抵抗は防衛であって攻撃ではない。矢文の言葉を借りて言えば、「島原天草両所の儀、(幕府軍が)御取懸り候に付、ふせぎ申したる分に候」、「一度として此方より仕掛け申したる儀、御座なく候。天草島原両所とも、御軍勢をもって御踏み殺し候の故、至極迷惑(し)防ぎ申したる分に候」であった。
加えて彼らは「此宗旨に敵をなす輩は、身命を捨てふせぎ候はで叶わず」(=神のみ旨に敵対し攻撃してくる者に対しては、命を捨てて防衛しなければならない)とも言っている(註2)。「ふせぐ」というのは「守る」という行為である。キリスト教徒はその行為に「身命を捨てる」、つまり「命をかけて守る」。これはキリスト・イエスが「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と説く隣人愛に依拠するものであった(註3)。四郎が償いの行為として「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち行)」に加え「敵をふせぐ手立」としての「武具の嗜(たしなみ)に念を入れること」を指示したのは、意外に思うかもしれないが、聖書の教えに基づくものであった。
この点に関して、中世カトリック神学が殉教(マルチル)の三要素の一つに無抵抗であることを挙げたのは、いかなる聖書的根拠に基づくものなのか、究明されなければならない(註4)。なぜなら、原城に集った3万7千余人がキリスト教の宗教的行為によって餓死または幕府軍によって殺された―殉教者であった―にもかかわらず、カトリックが定めるマルチルの定義から外れるとして、これを殉教者として認めなかった経緯があるからである。
■「こころよく」死すべし
実際、彼らは「立上り」のキリシタン作法を成し終えた後、「原城の門を開け」て幕府軍を入れ、死の旅路に就いた(註5)。弱者である老人や子供、そして友のため死力を尽くしたことであり、そうして「死ぬ」ことはみこころであった。敢えて言えば、立ち帰ったキリシタンとして如何にキリシタンらしく死ぬかが問われたのであり、この点に関して司祭・四郎は「快く(こころよく)勝負を決すべし」と言っている(註6)。「こころよく」とは、「いやな顔をしないで、うれしく、楽しく」という意味である。
信仰の程度は人により異なるので、このように〃喜んで〃死ぬことができたかどうか。幕府軍側の目撃者の一人・松平信綱が、「剰(あまつさ)へ童女に至るまで死を喜び斬罪を蒙る。是れ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門浸々たる所以(ゆえん)なり」と記録したのは事実である(註7)。他にも「こころよく」死んだ状況を思わせる記録がある。
・「丸裸になり、持ち道具を捨て〃首を切られ候へ〃と申し候」(『佐野弥七左衛門覚書』)/「敵(キリシタン)草臥、大方働く事なし」(『嶋原一揆松倉記』)/「皆やみやみとぞ討たれける。…或はむざんに討たれて死するもあり。」(『島原記』)。「やみやみ」とは「わけなく、むざむざ、みすみす」の意味。「むざん」とは「無慙」、「僧が罪を犯しながら恥じるところのないこと」を指す(古語辞典)。
もとより彼らは、償いの行(ぎょう)として断食をしていたし、最後には食糧も尽き、体力は限界状況に達していた。ほとんどが無抵抗のまま「やみやみと」「むざんに討たれ」殺されたのが事実であった。
■幕府の責任回避、および「味方討ち」隠蔽のための一揆説
それでは何故、徳川幕府はこれを一揆とし、幕府軍諸藩は戦いの構図でこれを記録したのだろうか。その答えは、そうしなければならない訳が幕府側にあったからである。理由は二つある。ひとつは、キリスト教禁止令を発布してキリスト教信教の自由を認めなかった幕府側のこの事件に対する責任を回避し、松倉氏に転嫁するためであった。すなわち、この事件が「転び」の「立上り(再改宗)」であるとするなら、根本の原因はキリシタンを強制改宗させて仏教徒にした幕府の禁教令にあったはずで、幕府はこの責任を負わなければならない立場にあった。そこで幕府がこれを回避・転嫁するため、事件直後に打ち出したのが松倉悪政による一揆説であった。それはまた、動員された諸藩側にとっても好都合であった。手柄功名の材料にすることができたからである。
他の一つの理由は、味方討ち(同士討ち)による不名誉な犠牲を隠蔽するためである。これは手柄功名にならないばかりか軍令違反の失態であり、侍として恥ずべきこと、不名誉なこと、さらには処分・改易の材料ともなるべきものであったため、邦文史料から意図的に外された状況がある。ただ、第三者的立場にあった平戸オランダ商館長クーケバッケルがその事実をありのまま記録しているので、ここに紹介する。
・【寛永14年12月20日、寛永15年1月1日の幕府軍攻撃のとき】…我等が船を出す迄に合戦二度ありつるが、味方の士討死の数5708人なり。味方の同士討にて死人疵人数多(あまた)あり(註8)。/【寛永15年2月27-28日総攻撃のとき】…前方の鍋島公と細川公の前後の争いあり。…依て大いに混雑して味方の人々同士討にて死す(註9)。
この事件に動員された諸藩の邦文史料の中にも、注意深く読んでいくと、かすかに同士討ち・仲間討ちの記事を見つけることが出来る。『水野家島原記』に「(正月朔日の城攻の時)諸勢塀下へかかり候時、後勢より鉄砲放ち候て、手負死人過半、味方討ちのよし」と。また、有馬藩の史書『國乗遺聞・巻之八』-「兵戦第十八」に、「(寛永15年2月27日惣乗のとき)彼の者(寺沢の使番)申しけるは…後口より鉄砲討かくべしと申さる」とあるが、これも希釈された表現の味方討ちの記録である。
■おわりに
繰り返すが最期の日、キリシタンたちのほとんどが戦いの道具を捨て、動くことなく「草臥」していた。中には焼け落ちた火の中に入り、死んでいく女たちもいた(註10)。彼らは「転び」の罪を悔い、神にわびて償いをなし、もとより「死」を覚悟して家を焼き、故郷を捨てて原城に出てきた人々であった。そこには女・老人・子供たちもいた。壮健なる侍たちが鉄砲で撃ち、刀で首を切り殺すような相手ではなかったのだ。戦いになる状況は何もなかった。あったのは幕府軍諸藩が武功を争う激戦だけであった。
島原の乱一揆説は、根本的に見直されなければならない。この事件は一揆などではない。転びキリシタンたちが再改宗して元のキリシタンに戻る、「きりしたんの作法」に基づく純粋な信仰行為であり、宗教行為であった。(おわり)
【写真】…有明海海上から見る原城風景(昭和初期) |
【註1】…永積洋子著『平戸オランダ商館の日記・第四輯』(1970・岩波書店)「1637年12月17日」付の項に、「有馬領の住人、或いは農民の大部分が…叛乱を起こし、…『大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう』と決議された。」とある(同書40頁)。
【註2】…「…右の仕合せ、きりしたんの作法に候。御不審可思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ、身命を捨ふせぎ候ハて不叶」(城中より御陣中への矢文)。古語「不叶(かなはず)」はこの場合、「~しなくてはならない」の意味である(古語辞典)。
【註3】…「Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.」 ST.JOHN15-13
【註4】…姉崎正治著『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925・同文社刊)掲載の『マルチリヨの心得』に、マルチル(殉教)の説明として、①死ぬこと、②成敗を辞退せず心能く(こころよく=快く)堪忍致して受くること、③死罪の題目がC(キリシタン)なりとて成敗されること、の三点を挙げている。
【註5】…「…叶はじとや思ひけん、門を開き…」(『吉利支丹物語』)、「四郎大夫…〃一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべし〃と申しける」(『寛永平塞録』)。
【註6】…細川藩記録『寛永平塞録』に、「四郎大夫…籠城百日に及び候はば、城内の糧乏しき事眼前にあり。一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべしと申しける。」とある。
【註7】…松平忠綱筆『嶋原天草日記』「…賊徒の将四郎一類、悉く刀殺せらる。その外、生捕斬罪せしむ。剰へ童女の輩に至り死を喜び斬罪を蒙る。是、平生人心の致す所に非ず。彼の宗門駸駸たる所以なり」(日屋根安定編著『吉利支丹文庫第三輯・嶋原天草日記、他四編』1926年刊、53頁)。1998年10月18日、原城のある南有馬町(現・南島原市)で開催されたシンポジウム『原城発掘』で結城了悟氏(元長崎26聖人記念館館長)が最初にこれを取り上げ発表した。
【註8】…これは、平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記から19世紀はじめ、オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフが島原の乱の関係記事を抽出編集して出島乙名・末次独笑(忠介)に与えた原文を、当時のオランダ通詞・吉雄如淵が翻訳した『天馬異聞』の記事である。この部分の原文は『平戸オランダ商館長日記』(東大史料編纂所・昭和52年)の〔1638年3月13日〕付記事にある。
【註9】…同じく『天馬異聞』に依る。原文は『平戸オランダ商館長日記』の〔1638年6月〕付、〔平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書翰〕(昭和41年吉川弘文館刊「長崎縣史史料編第三」の〔1638年11月19日付、平戸発バタビアのインド総督におくった手紙〕にある。
【註10】…細川家熊本藩史料ー本丸にて細川勢が目撃したキリシタンたちの自害について「小袖を手にかけ、焼けている燠(おき)を上へ押し上げ、その中に入って自害し、また、ある者は子供をその中に押し込み、自分は上へ上がって死ぬる者も大勢いた。忠利は〃中々奇特なる下々の死、言語を絶し候〃と、かれらの壮絶な死に様に賞賛の声を上げている(山本博文著『江戸城の宮廷政治』(1993・読売新聞社)257-258頁)。史料名「三月朔日忠利披露状」。鍋島家佐賀藩史料『元茂公御年譜七』にも「女・童部(わらべ)は手に手を取り組み、悉く猛火の中へ飛入々々焦れ死す。其臭気四方に薫じて人皆鼻を掩ふばかり也」とある。
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