2022年12月13日火曜日

カタリイナ永俊⑦

 ■薩摩国キリシタン信心会の「中心」として

 1624年(寛永1)、鹿児島を訪れたイエズス会の一神父は、カタリイナ永俊が「薩摩でキリシタンの中心になっていた」と報告している(「1624年度年報」)。それは、彼女が薩摩国におけるキリシタン信者の組織・コンフラリア(信心会)の中心者であった、ということであろう(註1)。

 1617年(元和3)の「コウロス徴収文書」によると、当時、薩摩国には二つのキリシタンの組(くみ)が存在していた。一つは「かご嶋貴理志端衆中」、他の一つは「せんたい貴理志端中」である。前者は「鹿児嶋、穎姪(えい)、河名部村」の三地域を包含し、鹿児島に「上山又左衛門、山岡喜兵衛、平九兵衛」、穎姪郡に「大迫久兵衛、宮崎茂左衛門」、河名部村に「是枝善兵衛」の各「組親」がいた。一方、後者の「せんたい(川内)キリシタン中」は「串木野、せんたい(川内)」地域にあり、串木野は「村田勝左衛門」、川内は「石屋五左衛門、結方徳右衛門」が「組親」として名を連ねている。

 日本語で「組(くみ)」または「中(なか)」と称されたキリシタンの信心会(コンフラリア)は、50人前後で構成される「小組」を最小単位として、それが幾つか集合して「大組」をつくり、さらに地域ごと大組がいくつか集まってその地域名を付す組(中)を形成した(註2)。薩摩国で言うと、1617年コウロス文書に出てくる「かご嶋貴理志端衆中」と「せんたい貴理志端中」がそれである。組親として合計9人が名前を連ねているが、その筆頭者である「かご嶋貴理志端衆中」の「(寿庵)上山又左衛門」は、薩摩国を代表する組親の中の組親であったと思われる。それより5年前の「1612年度年報」によると、彼は鹿児島の町に住んでいる「信仰心のあついキリシタン」として記録され、「日曜や聖人の祝日」には家の祭壇に「聖杯(カリス)の形の香炉や蝋燭を置いて」集会をもち、「神に祈りを捧げて」いた(註3)

 こうして組織され運営されていた薩摩国の二つの地域名をもつ信心会は、このあとカタリイナ永俊を「中心」とする組織へと移行し(註4)、最後は1632年(寛永9年)から始まる一連の薩摩キリシタン崩れ事件に至ることとなる。

カタリイナ永俊とマルタ妙身―その信仰的紐帯

 1609年12月、夫島津忠清とともに一女一男を伴い鹿児島に入ったカタリイナ永俊が、鹿児島キリシタン信心会を束ねる中心に就いたのは、1619-20年の頃であったと思われる。根拠は二つある。ひとつは夫島津忠清が1620年に亡くなり、カタリイナがこの時期、二の丸から冷水町の屋敷に移ったこと。もう一つは、娘マルタ妙身(小西行長の遺児)が1619年頃、喜入忠政と結ばれ鹿児島に来たことである(註5)。とくに、娘マルタ妙身が忠政に嫁いで来鹿したことは、母カタリイナのみならず、鹿児島のキリシタンたちにとって意味あるものであった(後述)。

 述べたようにマルタは1611年、前夫・有馬直純が家康に屈して国姫(家康の曾孫女)を新夫人としたため離縁を余儀なくされ、「有馬から遠い長崎近く(千々石)」の山中に追放された。その上、周りからしつこく再縁を迫られたが、彼女は「(そうして)デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意でいた。そして、栄えある死の準備をしていた」」ほどの、篤い信仰の持ち主であった。そのようなマルタ妙身が喜入忠政と結ばれたのは、他ならぬ母カタリイナ永俊の紹介と勧めがあったからにちがいない。つまりは、母カタリイナが娘マルタを鹿児島に呼び寄せたのである。重ねて言うが、彼女は〃小西行長の遺児〃であった。

 時に1620年、元和のキリシタン迫害が過酷を極めた時代であり、カタリイナ永俊が鹿児島キリシタン組織コンフラリアの中心(柱)に上げられ、彼らの「庇護者」としての使命を果たす為にも――ひとつには、夫島津忠清との間に生まれた娘(桂安)が国主・島津家久の後室となり、2代目藩主光久を生んだ事が伏線としてあった。それに加え――家老喜入忠政をキリシタンの理解者、陰の支援者として取り込む必要があったと考えられる。それはまた、日本布教で窮地に立たされたイエズス会としての生き残り策でもあっただろうし、そうした意図の下でのマルタ妙身と喜入忠政の結婚であった。

 あの困難な時代に多くのキリシタン浪人を抱え、半ば隠れ、半ば顕れるかたちで鹿児島のキリシタン地下組織を維持した背景として、小西・有馬両キリシタン大名にかかる母娘――カタリイナ永俊とマルタ妙身母娘の信仰的紐帯があったことを記しておきたい。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊(右)とマルタ妙身(左)の墓碑、種子島に母娘肩を並べて佇む

註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』で「Jap-Sin」版の1624年度年報を紹介し、カタリイナが「彼らの柱となり、庇護者となっていた」としている。

註2】…1617年ジェロニモ・ロドリゲスが創設した『御上天のさんたまりやの御組』の掟(おきて)にコンフラリアの組織が詳しく解説されている。キリシタン文化研究会編『キリシタン研究第二輯』(1944年発行)109~120頁。

註3】…「1613年1月12日付、長崎発信、ジョアン・ロドリーゲス・ジランのイエズス会総長宛、1612年度日本年報」(『16-7世紀イエズス会日本報告集ⅡーⅠ』287頁~88頁)。「マテウス・デ・コウロス、長崎1613年1月13日発信」Jap-Sin57,93v.

註4】…薩藩史料「旧記雑録」のうち「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に、「しゆあん(上山)又左衛門もたて野(永俊)の御内者にて候よし…」とある(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』1985鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。これによって、カタリイナ永俊がコンフラリア組織「薩摩キリシタン中」の中心者になっていたことが理解される。

註5】…喜入忠政の最初の夫人(伊集院抱節の娘)が1619年、忠政49歳の時に亡くなった。また、忠政とマルタ妙身との間の娘・御鶴(津留)が元和7年(1621)に生まれている。以上により、忠政とマルタ妙身の結婚は1619-20年頃と想定される。

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