2022年12月19日月曜日

カタリイナ永俊⑨

鹿児島キリシタン崩れ

 「かご嶋」「せんだい」二つの親組(おやくみ)からなる鹿児島のキリシタン組織は、少なくとも1632年(寛永9)夏まで機能した。それが、一連の崩壊事件を引き起こすきっかけとなったのは同年(1632)暮れ、「寛永9年極月7日」付けで江戸詰家老・伊勢貞昌から種子島左近太夫(忠清)宛てに発信された藩主・島津家久のカタリイナ永俊に対する遠島処分決定の通知であった(註1)

 処分は1年2ヶ月後の寛永11年(1634)2月に実施されたが、その間、鹿児島で「(きりしたん)宗門改(しゅうもんあらため)」があり、藩主の馬術指南・矢野主膳とその「内之者(家臣)」がキリシタンであることが発覚した(註2)。その宗門改め帳「日記」によると、主膳父子は「相はづれ」、「内之者(家臣)皆南蛮宗へ名を書き載せ」られていたため、伊勢貞昌が矢野に問うたところ、主膳は「先年長崎から帰参した時、彼の宗をころび申した」と言う。さらに問い詰めたところ、「鹿児島の町のしゆあん(上山)又左衛門尉」の所に「筆者仕り罷り居る小三郎と申す者」が「明石掃部の子」であること。上山「又左衛門も立野(カタリイナ永俊)の御内者」であることなどを「内意に」「いかにもおんみつ(隠密)に」告白した、というのだ(註3)

 これはキリシタン史で「訴人(そにん)」と呼ばれるもので、今様に言えば内部告発である。カタリイナの処分決定と、鹿児島での宗門改めで家臣のキリシタンであることが露見したことを受け、窮地に立たされた主膳の告発行為であったと思われる。当時、幕府はキリシタン摘発のため報償金をもって訴人を誘導していたので、主膳のそれも報償金目当てであったかもしれない(註4)

 これにより、江戸に上がっていた矢野も鹿児島に戻され、3年後、子息とともに処刑される。一方、明石掃部の子・小三郎は、幕府がかねてから捜索していたお尋ね者であり、捕らえられて京都所司代・板倉重宗に引き渡された。しゆあん(寿庵)上山又左衛門は入牢処分となったらしい(註5)。彼又左衛門は「かご嶋貴理志端衆中」の組親(くみおや)として、長年にわたり仲間の相互扶助や洗礼、諸集会、死者の葬礼など一切の世話をしてきた人物であり、そのような組頭を失うことが過酷な迫害下にあるキリシタンにとって致命的であるのは言うまでもないことである。

崩れ事件の背景

 鹿児島の崩れ事件が1632年(寛永9)に始まる(註6)その背景として考えられるのは、これらのキリシタン組織を支えていたイエズス会の日本に於ける布教活動が、1632年の時点で限界に達していたことが上げられるであろう。潜伏司祭(宣教師)がいなくなったか、もしくはその活動が停止状態に陥った、ということである(註7)

 鹿児島のキリシタン組織は、イエズス会の年度報告にあるように、高来(島原半島=旧有馬晴信の領内)から定期的に司祭またはその代理者が派遣され、司牧活動がおこなわれていた(註7)。高来に最後まで残った司祭はマテウス・デ・コウロス神父とジアコモ・アントニオ・ジアノネ神父であるが、高来の深江にいたコウロス師は1632年、高来の有家(ありえ)を経て天草に逃れ、さらに秘かに京都に辿り着いたが最期、伏見で亡くなった。一方のジアノネ神父は1633年、捕らえられて島原で処刑された(註8)。

 また、イエズス会が日本で布教活動を展開する上で、最も重要な役職にいたのがプロクラドールと呼ばれる会計係であった。その最後のプラクラドールはマノエル・ボルジェスであり、彼は九州で高来に次いで組織された他の一つのコングレガチオがある豊後国の南郡(なんぐん)に潜伏していたが、1633年、他の二人の修道士とともに捕縛され、長崎で殉教した(註9)。これらの神父と鹿児島・川内の上山又左衛門ら9人の組親たちは秘かに連絡を取り合っていたのであるが、なかでも1632年(寛永9)コウロス神父がいなくなったことは、組織崩壊・信仰崩壊の大きな要因となったに違いない。「1624年」(年報)の時点で島津氏役人の前で勇敢に信仰を告白したカタリイナ永俊が1632年(寛永9)、藩主から届けられた遠島処分をそのまま受け入れたのは、ある面、理解しがたいが、イエズス会の組織的潜伏活動が終焉を迎え、その後ろ盾を失ったとすれば、謎が解ける。

藩主家久もキリシタン事情を知っていた

 一方、藩主島津家久が「南蛮宗之御沙汰」として「立野の儀、種子島へ堪忍(かんにん)有るべく由、仰せられ(た)」のは、もちろんカタリイナの事情に通じていた娘マルタ妙身の夫――隠れキリシタンの家老職・喜入忠政と熟談の上でのことであった。それは、そこに至る何年も以前からの懸案事項であったし、いずれは処断しなければならない事案であった。他人からの告発や「訴人」があれば、一般のキリシタン同様、入獄・断罪となる問題であるのに、「薩州様(光久公)の御祖母様の儀に御座候間」、可能な限りの配慮をもって出されたのが「種子島へ堪忍」の処置であった。種子島へ護送される直前の「寛永11年(1634)2月11日」、伊勢貞昌ら4家老が連署して種子島左近大夫に宛てた書状には、「然れば其地に永春尼逼塞(ひっそく)なされ候」と表記されている。「逼塞」とは「①落ちぶれ、世間へ出られないこと。②江戸時代、武士や僧侶に科した刑の名。50日または30日間閉門して昼間の出入りを禁じたもの」(古語辞典)であり、また、弾圧に対処するため「潜伏」し「かくれ」たキリシタンたちが取った行為でもあった(註10。遠島・幽閉ではなく「堪忍・逼塞」という処断は、カタリナ永俊の信仰を配慮した藩主家久の最大の温情であり、宥恕(ゆうじょ)であった、とも言えるであろう。

 追って翌寛永12年(1633)2月、カタリイナの愛娘で喜入夫人となっていたマルタ妙身と、その娘・於満津(有馬直純の娘)、於津留も「宗門の事に坐し」、翌「寛永13年(1634)丙子4月、種子島に追放され」、「6月26日、石之峯に抵(いた)」り、後「井ノ上に移」された。慶安2年(1649)カタリイナ死去、75歳。万治3年(1660)マルタ妙身死去、67歳。元禄10年(1697)於津留死去、77歳。理由は分からないが「於満津は密かに連れ戻され、島津久茂の許に帰り、天寿を全うした」(註11)と言う。「喜入氏系図」は「於満津…宝永3丙戌3月7日没ス、年95、正建寺(鹿児島)に葬ル」と伝えている。 (おわり)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津諸氏関系図(宮本作成)

 

註1】…同書状について「島津家本旧記雑録後編八八」は、後年編者がカッコ付けで「寛永12年」としているが、これを直接受け取った種子島家の「種子島家譜」は「寛永9年極月7日、依南蛮宗之事伊勢貞昌之書翰記干左」と日付・説明書きを添えて記録している。茂野幽考著『薩摩切支丹史料集成』(1966年刊)189頁。

註2】…踏み絵による「宗門改め」は寛永6年から長崎で始まり、肥後・鹿児島・九州一円に及んだ(「唐通詞答書」)。寛永10年(1633)肥後天草高浜村に於ける記録(高浜村旧庄屋上田家文書「きりしたん転び申書物の事」)があり、この頃、鹿児島でも実施されたと考えられる。

註3】…この書状は「寛永10年9月19日」付けで江戸家老・伊勢貞昌が「(藩主)家久の命を奉じて窃かに国家老宛て書き贈った」ものであった(1985『鹿児島史料旧記雑録後編五』鹿児島県歴史資料センター黎明館、383~386頁)。

註4】…矢野主膳のキリシタン入信の説として、「宗門に成り候へば金子貰ひ候由に付、是非無く右宗門に成り候」というのがある(「薩藩叢書第三編・薩藩旧伝集『三暁庵主談話』)。

註5】…しゆあん上山又左衛門の最期は不明(史料筆者未見)である。

註6】…一般に、カタリイナ永俊の種子島遠島は寛永10年(1633)の矢野主膳の訴人を伝える江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状から説明されることが多いが、永俊の藩主家久による処分決定はそれ以前(寛永9年)のことである。【註1】参照。

註7】…たとえば、踏み絵を踏んで転んだキリシタンが立ち上がる再改宗のための「ゆるしの秘蹟」、信仰生命の維持に欠かせない「ご聖体の秘蹟」に与るには、司祭の介在が必要であった。

註8】…結城了悟「パードレ・ジアコモ・アントニオ・ジアノネS.J.」(1986『キリシタン研究第26輯』)。

註9】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・下』247~248頁の(註)「この神父は12年刊に立派な仕事を成し就げた。彼は(豊後の)山間で匿われていた他の神父たちの会計係であった。」(261頁)。

註10】…ジアノネ神父が1621年、高来の折木(おりき)で組織した信心会「さんたまりやの御組」の掟(おきて=規則)に、「その務めに付て、ひっそく肝要たるべし」とある。「逼塞(ひっそく)」とは「世間から姿を消す」「忍び隠れる」の意味である。幕府の禁教令に対するため、イエズス会は「ひっそく」の方針を打ち出した(「1615ー16年度年報」)。拙稿「嶋原キリシタン史発掘㊵」(島原新聞2010年6月19日付記事)参照。

註11】…末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

  

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