2019年6月20日木曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族⑤

編者解説⑤
 秀吉のキリシタン排斥政策が一時期、緩んだことがあった。ヴァリニャーノ巡察使がインド副王使節を兼ね、遣欧四少年らとともに再び来日したときである。一行は1590年7月21日、長崎港に上陸し、翌1591年3月、秀吉に謁見した。
 雪解けかとも思われたが、秀吉の脳裡には別の考えがあったようだ。一年後の1592年春、朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、西国九州の諸大名・武将らが動員された。ルイス・フロイスはこの戦役にかんする秀吉の意図を、次のように述べている。「もしシナ征服が首尾よく終わったら、予は国替えを実施し、キリシタン諸侯には朝鮮国とシナを与え、代わりに日本国においては、彼らの旧領を異教徒の諸侯に与える所存であった」(「1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度日本年報」)と―。
 これについては後日、ドミニコ修道会のコリャード師も同じく、「太閤様(秀吉)は、前述の諸大名が…イエズス会士を自領内に保護・隠匿したことを知り、それらの諸大名を日本の国外に追放する為、朝鮮の国と島嶼を征服することを名目とした。」と述べている(「托鉢修道会日本代表コリャード1631年報告書」)。キリシタン大名小西行長、有馬晴信が先遣隊として渡韓していることからしても確かなことであったようだ。
 しかし、その計画は頓挫し、秀吉も二度目の出兵の折り、死去した。
 キリシタン大名を国外追放する秀吉の計画は実現しなかったものの、豊後国にとっては1593年、文禄の役における戦線離脱の廉で大友義統が改易処分となったことは、同国崩壊を決定的なものとした。その惨状を、晩年のルイス・フロイスは涙をためて綴っている。
 ドン・パウロ志賀親次の身の上も然り。大名の地位を失い、そして「何らかの助けが得られないものかと都へ(老)関白に伺いを立てに行った」と、ルイス・フロイスは記している。…残念ながらこの後、フロイスはヴァリニャーノ師とともにマカオへ行くことになるので、その顛末を文書で確認することはできない。

 邦文史料―「文禄五年(1596)三月十一日」付「志賀小左衛門(親次)」宛「秀吉朱印状」には、「豊後以日田郡大井庄令千石扶助事、可全領知候也」とある。日田は毛利高政の領するところであった。
 宣教師文書は1596年、日田でドン・パウロが毛利高政と友誼を結んだこと。そして1600年、安芸の福島正則がドン・パウロを家臣に迎えたと記し、これを最後に志賀親次にかんする消息が途絶える。


■1590年(天正18)
史料=【1590年10月12日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1590年度日本年報
 ヴァリニャーノ巡察使一行が長崎に到着し、ドン・パウロ夫人が使者をして手紙を届ける
 …巡察使が長崎到着した翌日には、大村からドン・サンチョ(嘉前)が、兄弟、親戚、家人を率つれて彼らの到着を祝福した。やがて次の日ともなると、有馬の国主ドン・プロタジオ(有馬晴信)が何人かの親戚と多くの家人とともに同じ理由ではるばる十二レグアの海路をいとわずに来訪した。…訪れる人々はこの両侯に尽きたわけではなく、十五、二十、三十レグア離れたところからでも多くの人々が来て、到着したばかりの巡察使と公子たちに対する心からの情愛を充たそうとした。…またその驚きを倍加させるようなことがあった。おびただしい数の奥方や夫人たちが、キリシタン信仰の安泰を一目見たいという大きな願望に動かされて、同じ理由で彼らすべての人々に祝辞を述べるために来訪したからである。さまざまの不都合のために自ら赴くことができなかった者たちは、そのかわりに便りや祝辞を送って来た。たとえば、良人の留守番で筑後の領国を離れることができなかったドナ・マセンシア夫人は、三十レグアの距離をいとわず、男女の付添人をつけて、乳母のカタリナを送ってよこした。(豊後の前)国主フランシスコの妻ドナ・ジュリア夫人の場合も同じである。その息女とドン・パウロ志賀殿の妻はいろいろの不都合が生じて、直接に赴き巡察使に祝辞を述べたいという彼女らの願いを充たすことができなかったので、人を遣って、手紙を届けてもくれた(註)。(第Ⅰ期第一巻142143頁)

  ※…フロイスは『日本史』で、その他「また大勢の豊後のキリシタンが(巡察)師を(下にまで)訪れた」と記している。(同書豊後篇Ⅲ336頁)

巡察使来日により秀吉のキリシタン迫害政策が抑制され、ドン・パウロが仲介する…
 …国主(大友義統)は都に赴いて、このたびの巡察使の到着をもって関白殿(秀吉)は司祭たちを追放地から呼び戻すことになるであろうとの噂と風聞に(その政庁で)接した…そこですぐさま豊後に帰って(キリシタン)宗門にふりかかったことに対して償いをするために、とるべき方策について協議し始めた。…そして彼はそのためにとるべき手段について側近の幾人か―彼らがキリシタンであることは百も承知の上で―と相談したところ、彼らの説くところは、イエズス会員たちを彼の国に呼び戻させてみてはとのことで、もしドン・パウロ(志賀親次)を仲介者にすれば、このことは容易に成就されるであろう。彼はその点で望みうることを実現してくれるであろう(とも付言した)。国主はただちに、この用件についてドン・パウロと相談することを側近者の一人に命じた。結局ドン・パウロは事を(※既述の貴人およびイエズス会副管区長を介して)次のように運んだ…
 …先の巡察使が到着する前に、豊後の国主が板東との戦さ(小田原征伐)に関白殿に随行しなければならなかったので、巡察使宛てに一通の書状をのこしておいた。そして既述の貴人に、巡察使が到着したなら、自分の名代として、この書状を携えて速やかに彼を訪ねて行き、和解の印しとしてイエズス会員を幾人か豊後のために要請するよう命じた。また彼らを手厚くもてなすであろうこと、そして関白殿の心がおさまればきっと望みのままに他の司祭を派遣してもらえるようし、必ずや彼らを格別に取り計らい、速やかに領国が以前の状態に戻るようにする旨を伝えた。その貴人は国主から託された使命を折を見て果たし(た)…(第Ⅰ期第一巻181180頁)


■1591~92年(天正19~文禄1)
史料=【1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591,92年度日本年報
布教もドン・パウロの城下で公然と実施される
 (この二年間に行なわれた布教…第一回の布教は巡察使の命令によって山口キリシタンを訪れさせた一人の司祭と一人の修道士によって…)、第二回の布教は、同様の巡察使から豊後へ派遣された二人の司祭と二人の日本人修道士によって行なわれた。非常に多くの男女が告白のため、あるいは司祭たちを訪れて集まった。それゆえ司祭たちが当地に滞在した一ヶ年は不断の喜びであった。(第Ⅰ期第一巻304頁)

史料=【フロイス『日本史』第三部29章(松田・川崎監訳―西九州篇Ⅳ第101章)
 〈豊後の布教〉 第二回の布教は豊後に対して行なわれた。巡察使は室(むろ)における豊後の国王(大友義統)との約束に基づいて、また同国主があらためて豊後から、我らの同僚たちとまったく和解したから二人の司祭を寄こしてもらいたいと懇願して来たので、二人の司祭と二人の日本人修道士がかの地に派遣された。
 その司祭と修道士たちは、国衆であり、豊後の重立った殿であるドン・パウロ(志賀親次)に会いに行った。彼の改宗、およいその他のことについてはすでに述べた。殿は奥方のマグダレナ、およびその他のキリシタンたちとともに、司祭たちがふたたび豊後に帰って来たのを見てこの上もなく喜んだ。ドン・パウロは一行を城内の非常に立派な家に宿泊させ、その家を彼らの住居としてすべて明け渡し、そこにある一つの大広間を礼拝堂としてキリシタンたちの集会(場所)に当てた。
 伴天連たちが来ているとの噂が豊後のキリシタンたちの間に弘まると、各地から司祭たちを訪ね告白に来る男女の人出はおびただしく、(司祭たちが)一年間引き続き滞在した間には、まるで聖週間におけるような聴罪の仕事が展開された。そこでどんなに大きい聖かが挙げられたか、また(すでに)豊後(における)迫害によって信仰を教化されていたキリシタン全員がふたたびどんなに強く勇気づけられたかは言い表し得ないほどである。また(信仰に)弱かった者は立ち上がり、大勢の人々が新たに改宗した。司祭たちの見解によれば、この(豊後の)国は、関白が亡くなれば、国を挙げてことごとく短期間にキリシタンになることが間違いない(と思える)ほど準備されていた。しかるに関白が名護屋に来たし、また豊後の国主(大友義統)やドン・パウロ(志賀親次)およびその他のキリシタンの殿たちが朝鮮に行ったので、司祭たちはしばらくの間は、ふたたび長崎で潜伏せねばなるまいと思った。(フロイス『日本史』西九州編Ⅳ139141頁)

 ・文禄1年(1592)、文禄の役(朝鮮征伐)に大友義統、志賀親次、佐伯惟定、吉弘統幸ら出陣。
 ・文禄2年(159351日、大友氏、戦線離脱の廉で領国豊後を改易される。


■1593年(文禄2)
史料=【フロイス『日本史』第三部39章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第80章)
大友氏改易に伴う豊後国の破壊、奥方ら毛利の領地に逃避する
 豊後の国に関しては、その惨憺たる貧困と破壊のほかに述べることとてなく、その惨状については、イエルザレムの破壊について歌ったエレミアの哀歌にならって一連の悲嘆を詠ずることができるであろう。…
 (領国没収という)この悲しく不運な報告が(豊後の)国にもたらされると、時を同じくして、(老)関白がこの不仕合わせな国を接収するために遣わした奉行や兵士たちがすでにその途上にあった。(この時に)豊後の国を掩った深い悲嘆、災難、惨憺たる光景は筆舌に絶するであろう。なぜならば、日本の習慣に従えば、このように君侯や領主がその所有地や領国から追われると、その領国のあらゆる名誉や高貴さを形成していた彼の一族郎党、(部下の)兵士の総員が(主君同様に)放逐されるからである。それのみか、(新たに)領土の引き渡しを受けに来る連中は、見つけ次第にことごとく己れの物として没収してしまう。それがために(ここ豊後の)人々の間で惹起された混乱と暴動は、地獄さながらの観を呈した。人々は(老)関白の命令を受けて国を接収に来た武将や兵士が、もうすでに我が家の戸口に現れているように思い、〔唖然自失したかのように泣いたりわめき声を発したり、とりわけ良家の出である婦人たちは涙に暮れて〕腋の下に運べるだけの物を素早く集め、生を享けた(母)国から逃げのびるべく我が家を出るのが精一杯であった。(それまで)大勢の者にかしずかれ、敬われていたそれら婦人たちは、今やいずこに行き、いずこに救いを求めてよいかも判らず、彼女たちには、自分たちは新たに豊後に入って来る連中にやがて殺されるか捕虜にされるように思われた。大小の街路でこれらの婦人たちが出会う時には、ただ涙だけが、その身の不運を示す言葉となって語るのであった。ある者は泣き叫ぶ幼児を抱いており、他の婦人たちは小さな子供にしがみつかれ、召使いが親戚の者たちといっしょに徒歩で逃げていた。とりわけこの光景を嘆かわしくかつ絶望的にしたのは、折から国中のあらゆる殿や重立った貴人が、その兵士の大部分を率いて朝鮮を征服すべく出陣していた時に起こった(という事情であった)。そうしたわけで、これら大多数の貴婦人たちは、それぞれ(の夫から)取り残されており、このような機会に、彼女らはその常として、一方では恐怖に襲われながら、他方では羞恥心と女性らしい貞淑さを失わず、(ここに、この時に豊後)国中に生じた彼女たちの苦難なり悲嘆を如実に描写することは、とうていできることではない。それは(前)国主の奥方、すなわち(今は亡き)善良な国主フランシスコの奥方であったジュリア、それに林殿の妻となっている(国主の)娘コインタ(まで)が、ごく少数の家来に伴われ、他のいかなる人間的な援助もなきままに、急遽この国を離れ、小舟に乗ってこの折でなければ敵(にちがいない)毛利の国へ旅立ったことを述べるだけで十分であろう。その他の婦人たちも、いずれも同じような道をたどって行った。彼女たちの中には志賀ドン・パウロ殿の夫人マグダレナもいた。彼女は持ち運ぶことができた荷物や、家にあった日用品すら携えることなく、(それまで)住んでいた城から出て行った。
 (そして)まもなく(老)関白の武将たちが多数の兵を率い、大いなる傲慢さと非道な仕打ちをもって、(豊後の)国と市と家々にある全財産を接収すべくやって来た。(老関白の)奉行たちは、その思いのままに土地を分配した。このようにして豊後のあらゆる殿たちは、貴人とか身分のある家臣とともに追放され、その領国と財産を失った(註)。彼らは日本の諸国へ、追放された者、迫害され(ても仕方のない)他所者として(新たな)運命を開拓すべく立ち去って行った。(かつては)富裕な領主であった者が、今は家来も持たず、伴侶もなく、乞食同然の旅を強いられた。彼らの苦悩は(人々に)深い同情の念を催させたが、豊後におけるもっとも主要な殿でありキリシタン武将の頭である志賀ドン・パウロ殿の身の上は、とりわけ深く悲しまずにはいられなかった。疑いもなく、そのことは日本キリシタン宗門が従来体験した最大の損失であった。…(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ339343頁)

  ※…秀吉は、文禄2年閏913日、(1593115日)、豊後四十二万石を諸将に頒ち、大野郡五万三千二百石余を太田政之に、直入郡三万二千九百八拾石余を熊谷一直に、大分郡五万七千九百二十九石を早川長政に、海部郡四万四千八百石の内二万八千石を垣見直正に与え、その他は蔵入分として宮部継潤をして管理せしめた(「史料総覧」十三ノ三四頁)(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ345頁、註15

朝鮮役から帰還したドン・パウロ、妻を連れ戻し…
 志賀ドン・パウロ殿は(既述のような)報せに接すると、豊後の他の多くの貴人たちとともに妻子を連れ(戻し)に行こうとして朝鮮(の戦場)から帰って来た(註1)。そして(ドン・パウロは妻の)マグダレナを毛利の地から連れ戻した(註2)。その後彼は何らかの助けが得られないものかと、都へ(老)関白に伺いを立てに行った。(老)関白殿は(今や)豊後(の国を自ら)確保する考えであるから、(ドン・パウロが)元どおり領主に収まることは不可能と思われるものの、(かつて)(老)関白が下(しも=九州)に来た時に彼はつねに忠実に奉仕したし、薩摩(勢が豊後に進入した時には、彼ら)と善戦し、このたびの朝鮮における戦でも同じような(武勲を)立てたので、(我らは)彼が、他の地において(老関白から)封禄が与えられるのではないかと期待している。だが(なにぶんにも)彼が上洛してまだ間もないことだから、そこでどのようなことが起こったかを知り得ない(のが現状である)。(343344頁)

  ※註1…志賀親次が帰国したのは、大友氏の改易処分に伴うものであった。文禄の役はその後、内藤ジョアンが明国へ講和交渉に赴くことになって休戦状態となり、秀吉は1593915日(文禄2820日)、諸将の適宜帰国を言い渡した。
 ※註2…『グスマン・東方伝道史・下巻』(1945.養徳社刊)によると、「ドン・パウロはその妻子を山口国から連れ出し、ドン・アグスチン(小西行長)と朝鮮征伐に出陣する前の約束通りに、彼の封土なる肥後に移した。」(同著611頁)。

■1596年(慶長1)
史料=【1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度年報
 昨年司祭一名が修道士一名といっしょに豊後の国へ派遣された。…本年(一五)九六年には、司祭二名が同じく二名の修道士とともにその地へ派遣された。…

日田の領主・毛利高政が宣教師を呼び、ドン・パウロと交流、改宗を図る
 太閤(秀吉)は豊後の国主(大友義統・吉統)を追放し、日本国の最果ての地へ遠ざけて、自らが領国を領有して、その領国の年間の禄を(織田)信長時代でのかつての仲間であった森勘八(毛利高政)という貴人に与えた。ところで豊後には二つの地があり、その一は日田と呼ばれ、そこにはその領国全体の中でもっとも勇敢な兵士たちが常に常住していた。もう一つは玖珠と言われた(地)である。彼は第一の地の絶対的な領主としており、自分の名でその地から収益を受け取った。(しかし)第二(の地=玖珠)では(単に)太閤の代理人であるに留まった。
 国主フランシスコ(大友宗麟)は日田の地へは、その生涯の全期間にわたってキリシタン宗門を導き容れることはできなかったので、その地全体の中にはキリシタンは一人もいなかった。…
 彼(毛利高政)はまだ若い時に大坂でキリシタンになってから、すでに十二年たっていた。彼は武士として出陣していたのでデウスの認識はほとんど留めていなかった。しかし彼は特別な理解力をもっていたので、以前に聞いた教理の講話を非常に心に留めており、それらをあたかも説教者の務めを果たしているかのように繰り返して言っていた。そして私は、十年前に下関で彼がその一部を大いなる権威と熱意をもって離しているのを聞いて非常に驚嘆したことがある。この男は性格が火のようであると思われる。なぜなら彼は一度知識を頭に入れると、それをすべて(そのまま)伝えるからである。彼は二名の司祭が豊後に滞在しているのを知ると、その中の一名を自分の所へ派遣してもらえばデウスのより大いなる光栄になるであろうと使者を遣わして頼んだ。彼は司祭が来ると非常に喜んで歓迎し、自らその栄誉ある小姓たちとともにミサを献げるための祭壇を作り、それからただちに司祭に米二十俵と、その他司祭館のために必要なものを送った。
 豊後の国王(大友義統)のかの不運の際の追放処分を受けたドン・パウロ(志賀親次)は、日田に近い地で二千俵の禄を受けていたが、先の高貴な殿(高政)の特別な友人であったので、六千歩隔たった所にいる彼を呼んで(イエズス)会の司祭が一人の修道士とともに訪れていることを知らせ、そして彼(志賀親次)はこう言った。自分は司祭に対して罪の告白をしたいと望んでおり、また己が家臣たちに対しては少しずつ福音の説教を聞いてキリシタンになるよう勧め、また教会を建てることをも考えていると。彼は仲間の数名の貴人たちといっしょに教理の説教を聞きはじめ、そして疑問の箇所を出して、それらの解答によって大いに満足した。彼は熱心な人であったので、修道士の説教に際しては援助の手を差しのべた。また彼は自分の家臣たちに対してこう言っていた。すべての神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることはなおさらできない、と。
 彼(志賀親次)は夕方には二、三十名の貴人たちと訪ねて来て、デウスの言葉を聞いて疑問をだすよう勧めたが、彼にとっては、このようなことができることより楽しいことは何もなかった。彼はその間は彼らのもとを去らず、彼らといっしょに夜半過ぎまで説教を聞き、若者たちに対してこう言った。「彼らの改宗によって自分もまた利益に与っている」と。そして彼は言った。「なぜなら私は、キリシタンの法が基づいている平易で明白な諸道理を理解しない人々があるとすれば、それ事態が狭量の精神と判断の人である徴しだからである」と。さらに彼はこう付言した。「福音の法が自分の気持ちに合ってもキリシタンにはならぬ人々は、自分の意見によると、その改宗を引き延ばしているのは、他の人々の禄をより勝手に掠めるためにほかならない」と。最後に彼は、己がすべての家臣たちに対してこう示した。「もし自分の禄によって生活を受けることを望む者は、以後は妻は一人にすることで満足すべきであり、この点では己が模範をまねるがよい」と。
 日田のこの司祭は次のように言った。自分はこの殿〔彼についてはすでに話した(すなわち毛利高政)〕ほど、大きな愛情と好意の徴しを司祭たちに対して示したキリシタンをこれまでには知らなかったし、また自分の地区のすべての人々をキリストの教会へ導こうと、これほど大きな熱望を抱いていた人を知らぬと。さらに彼については次のように言われている。彼は非常に乱暴であったので、一同は彼の並々ならぬ温和、親切、愛相よさに対して驚嘆している。それゆえ領民たちは絶えず彼から受ける利益のゆえに、殿としてではなく父親のように彼を慕っていると。彼はその熱心さによって、間もなく教会を建てようと望んだ。(第Ⅰ期第二巻139142頁)


■1600年(慶長10)
史料=【1601年2月25日付、長崎発信ヴァレンティン・カルヴァーリュのイエズス会総長宛、1600年度年報補遺
ドン・パウロ親次、福島殿の家臣となる
 内府様は(イエズス)会員とも、また他のキリシタンたちとも親しい福島正則に対して、毛利(輝元)殿の所領であった中から二カ国を与えた。…福島殿は内府様から己れに対して領国が与えられたことを知ると、すぐに豊後の古くからのキリシタンの貴人である入江左近とドン・パウロ(志賀親次)を己が家臣たちの数に入れることを望んだ。(第Ⅰ期第三巻338頁)

  ※『大友志賀之系図』は、志賀親次について、「文禄元年、太閤朝鮮征伐之砌、属干大友家而朝鮮渡海。大友家没落之節牢人。文禄之末奉仕太閤。豊後日田郡大井庄千国余領知。其後有故。奉仕福島左衛門大夫正則公。慶長六年。安芸・備後両国之内ニ而領知ヲ賜ル」とある。(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ346頁、註16


 これを最後にイエズス会のドン・パウロ志賀親次にかんする記録は途絶える。

 (おわり) 

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