2019年6月17日月曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族③

編者解説③
 志賀親次の受洗とこれに係る諸事件は、長崎にいるルイス・フロイスのもとに豊後国の複数の司祭から届けられたようだ。同年「11月13日付」でフロイスが長崎から発信した報告には、親次の洗礼式を担当したペロ・ゴーメス師、臼杵修練院から志賀(竹田)に赴いて布教したペロ・ラモン師らの書簡が引用され、フロイス自身がその他の司祭から送られた書簡をもとに志賀領内での出来事を補足追記している。その中で、親次の祖父・道輝(志賀親守)にかんする記事は興味深い。
 彼(道輝)は「デウスの教えの大いなる敵であり、そのため国主フランシスコ(大友宗麟)に嫌われ、この国の岬(端)にある宇目の砦に追放され」ていた(「1585年8月20日付フロイス書簡」)。それは同時に、国境の「防衛として(宇目の)城に配置した」ことでもあった(「11月13日付フロイス書簡」)。ところが、「薩摩の国主の弟が大軍を率いて」来るとの報せに道輝は、「多大な恐怖にとりつかれ…、逃げ出し(た)」と言うのだ。
 このような祖父の武士にあるまじき「臆病」な行為とは裏腹に、ドン・パウロ親次は自ら三~四千の家臣団を集め、宇目の砦に布陣し、島津軍に立ち向かう。
 一方、父・親度(親教・道易)はこの時、どうしたのか。宣教師も把握していないが、ひと言「世捨て人のドン・パウロの父」と記している(「8月20日付フロイス書簡」)。彼(親度)は、日本史が伝えるところによると、二年後の1587年、「罪あって島津に味方し、(大友)義統によって殺害された」。志賀家の複雑な事情が浮かび上がってくる。

 ここで親次の年齢(生年)についてふれておきたい。
 ガスパル・コエリユが親次をはじめて取り上げた「1582年2月15日付書簡」では、親次の年齢は「十五、六歳」であった。フロイスは複数の書簡で、親次がキリスト教に関心を寄せたのはそれより数年前の「十二、三歳」の頃であり、受洗した1585年まで「七年間」が過ぎた、としている。一方、親次に洗礼を授けたペロ・ゴーメス師は「1585年」、親次は「十九歳」であったと明記している(同年11月8日付書簡)。また、追ってフロイスは「1588年2月20日付書簡」の記事で、「二十二歳を少し越えた青年」と記している。これら複数の史料を整理すると、親次の生年は1566年(の1月末~2月はじめ)となるであろう。


1585年(天正14)8月~11月
史料=【1585年11月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡
1585年8月8日付、府内学院発信、ペロ・ゴーメス師の書簡
大友義統がキリシタン改宗を妨害する
 …前に書簡では、順風に帆を受けて、ドン・パウロの地で改宗が進んだことを認めた三千人を下らない彼の家臣がすでに洗礼を受けたであろうと考える。風が変わって船首から吹き、音もなく改宗が止んだ。そして洗礼も鎮まった。というのは国主(フランシスコ大友宗麟)の嫡子(大友義統)が、その事業を無理矢理止めさせたので、この予の用心深い者は、彼らの言い方をすれば、ドン・パウロはキリシタンになったため家を失うであろうとのことである。
 しかし原因は嫡子の方が、そんなことはしないと約束したのを破ったことである。主よ、聖なる御業を下されんことを。嫡子と、豊後を上から下まで支配している武将立花(道雪)が、ドン・パウロを過酷に扱い(註)、彼の父も祖父も彼の味方をしない。これはすべてキリシタンになったためである。ドン・パウロが、真実次のように言ったとしても、主は嘉し給うであろう。「わが父も、わが母も我を捨て、神のみ我を受け容れ給えり」と。…国主フランシスコの権力は弱まり、ドン・パウロの軍勢は削がれた。そして、このように豊後の教会という小舟は、風や沈没させると思われるほどの波に打たれている。…(第Ⅲ期第七巻3839頁)

  ※…立花道雪(戸次鑑連)の態度としてルイス・フロイスは別の書簡「1585年の追伸―豊後の戦さで生じた幾つかのことについて」で次のように述べ、(道雪は)キリシタン宗に敵対するのではない、と明言している。
 「豊後の敵が豊後に攻めて来た時、豊後の中でもっとも武勇があり、優秀な武将がいかに国を助けたかは、昨年の書簡に書かれている。その武将は、七十歳以上の老人(立花道雪、即ち戸次鑑連)で、国主(大友義統)が持っている城の中でもっとも重要な立花の城の領主兼指導者で、彼と宝満の城の武将(高橋紹運)が豊後を回復し、今国主の嫡子を指導している。たまたま、リイノ(柴田礼能)と呼ばれる豊後のヘラクレスのようなキリシタンの貴人が、嫡子の伝言を携え、そこへ行くことになった。彼が前記の両武将と話していた際、二人のうちの重立った方の立花殿が彼に言った。「私と宝満(高橋紹運)が、キリシタン宗門の掟を憎んでいると国主フランシスコ(宗麟)に述べた者がいるので、私は当惑している。これは噓で、私はキリシタン宗門について何も知らないので、何もしたこともなければ、これに敵対するようなことを言ったこともない。私は国主フランシスコに、国衆および老中として、また今はこの軍の総大将として一生仕えてきた。その国主がキリシタンであり、キリシタン宗門を崇拝しているからである。たとえ彼が意識もうろうとして、竿(カナ)を持って踊りながら街をねり歩いたとしても、私はそれを良しとし、私もついて行かねばならない。というのは、彼は私の国の国主で主君であり、彼に仕えるため私は私の城から、ここに来たのである。…国主と嫡子は、キリシタンの教えが弘まることについて、何か意見の相違があるということを知っているので、このことで二人を和解させるため、私が何か手を打たねばならない。そしてもし必要なら、この掟が弘まるよう私自身があらゆる助力をしよう」と。国主フランシスコは、この伝言をペロ・ゴーメス師にすぐ伝えてきた。その後、伝言を伝えた貴族自身が司祭に会って、詳細にこのことを語った。」

1585年8月18日付、豊後(臼杵)発信、ペロ・ラモン師の書簡
夫人マグダレイナの強い信仰
 志賀パウロ殿については、その将来は判らないが、現在は心にデウスを持っていると言える。というのは、彼の信仰の初期とそれを保持してきたことは、デウスのものであったし、現在の進歩もデウスのものだからである。さらにデウスは彼を助けるためマグダレイナという名の夫人を彼に与えられた。マグダレイナは彼と同程度というよりむしろデウスの教えについては彼をしのぐほどと言われており、そのため洗礼後わずかの月しか経たない間に、大きな二つの苦難に遭った。最初の苦難は非常に愛していた彼女の一人息子が死んだことであり、これに次ぐ第二の苦難は国主の嫡子がドン・パウロを家から締め出し、国外に追放しようとしたことである。彼女はこれらすべてを、あたかもデウスの御手からのものとして平静に熱意をもって受け入れたが、これはデウスの御加護と御恵みなしには為し得ないことと思われる。私は彼の家に数日滞在し、二人の日本人修道士と共に夜半までドン・パウロ、およびその夫人とデウスのことやその他の良き説話について何度も話し合った。マグダレイナが心を込めて聴いていたことから判断すれば、彼女がドン・パウロを超えているというのも私には誇張とは思われない。
この時、我らが洗礼を授けた者は二千人、その後さらに千人が洗礼を受けた。そこに今回の迫害が始まったが、ドン・パウロとその夫人は両名ともすべての点で堅固で、デウスの教えに背くよりは、家や生命を捨てる決心をしており、その旨両親に伝えている。/一五八五年八月十八日、臼杵より。(第Ⅲ期第七巻3940頁)

祖父・志賀道輝の孫・親次への迫害と、これに対する国主大友宗麟の諭し
 (ルイス・フロイス記:)これらの書状といっしょに着いた司祭からの書簡によれば、キリシタンの昔からの大の敵であるドン・パウロの祖父(志賀道輝親守)が、国主の嫡子に工作していたドン・パウロから家を取り上げそれを彼の弟に与えるか、またはすでに家を彼に譲っていたドン・パウロの父(親度)にふたたび家を継がせようとしていた。国主フランシスコは、敵があまりに多いのでドン・パウロが家から追われ、そうなれば豊後のキリシタン宗団、および志賀の新しいキリシタン宗団が大打撃を受けることになり、人力ではどうしようもなくなることを大いに心配した。ペロ・ラモン師は臼杵に帰ったが、イエズス会にずっと昔から入っている日本人修道士ジョアン・デ・トルレスを信仰の実践・教化のため、その地に残した。
 豊後の状況は以上のとおりで、キリシタンは励まされず悲しんでおり、他方異教徒や敵は喜び、悪魔は放たれている。ドン・パウロの勇気ある心は、このように強い嵐と戦っている。親族は彼がキリシタンになったことに憤っている。この際、司祭、修道士は謙虚に絶えず祈り、犠牲、断食、および鞭打ちをして、デウスが立ち上がり、その強い御手でこの荒波を止め、このような不安を鎮め給うようお願いする以外の方法はない。国主フランシスコは、我らの誰にも劣らぬほどこのことを悲しみ、彼特有の慎重さと注意深い配慮で、この不安を減らし、もとの平和と静穏さうぃ取り戻す方策を探していたが、道輝という名のドン・パウロの祖父がキリシタンの敵(であり)、悪魔の用いている主な道具であることが判り、そこにすぐ言って彼を正すことを決めた。そして彼に伝言を伝えさせたが、その文面は、我らに届いた豊後からの書簡によれば、次の通りである。
 「行って道輝に言え。数年前、嫡子(義統)が年寄一同の意見により貴殿を殺し、その家を断絶させようと決めた時、その意見に反対したのは予だけであったのを憶えているか。そしてそのため今日、貴殿と家族が生き永らえ、家が続いていることも、これは貴殿が忘れてさえなかったら、いかに大きい恩恵か、そして今このことを忘れているのは明らかで、その証拠に道輝、貴殿は孫のドン・パウロがキリシタンであるため、その家を取り上げようと工作してまわっている。予がキリシタンであることを考えただけでも、キリシタンのことを好意的に扱う十分な理由があろう」と。
 この伝言は、道輝が彼の息子、すなわちドン・パウロの父(親度)といっしょにいた時に届いたが、これに対して二人は次のように答えた。「行って国主に伝えよ。殿のおっしゃることは至極もっともである。しかし我らはドン・パウロから家を取り上げようとしたことはまったくなく、この件について我らがしたことは、国主の嫡子をなだめる以上のものではなかった。殿の伝言は我々にとって大変うれしく、二人ともこの件について何をなすべきか殿の忠告をお願いする」と。国主フランシスコは、この件については遅滞なく道輝に対し二人の男、すなわち一人は嫡子の書記で、もう一人は道輝が信頼する男を派遣し、これらの者を通じ嫡子に道輝自身が許しを請うようにと伝えさせた。
 そのため、それから数日してイザベルの異教徒の姉妹の一人が、ドン・パウロについてその婿のキリシタンに次のように言ったのである。嫡子は、ドン・パウロがキリシタンになることについてどのような不満も持っていないが、嫡子の許可を得ずにはキリシタンにならないという約束を守らなかったことには不満がある。しかし嫡子はすでに国内の他の大身たちと同様に彼を用いることを望んでいるので、結局その次の日には、彼に戦さに出発する準備をするよう伝言させた。こうして、我らの主デウスはこの問題をふたたびこのように解決され、これにより悪魔とその使いは打ち負かされ、我らがすべて望むように主の御業を前進させようとするデウスの御配慮に我らは希望を持つのである。…(第Ⅲ期第七巻4041頁)

宇目の砦を逃げ出した志賀道輝の失態、および志賀親次の活躍
 …二ヶ月くらい前に豊後で生じた或る出来事は、それに次いで起こった(皆が)賛嘆するすばらしい出来事に比べれば、異教徒にとっては恥辱であり、キリシタンにとっては馬鹿げたことであった。国主の嫡子(大友義統)はドン・パウロ(親次)の祖父(志賀道輝親守)を豊後と日向の国境にある宇目と呼ばれる国境の城に配置したが、この者は既述の通り豊後における我らの最大の敵の一人である。この老人(志賀道輝)は頑健であったが、実際難攻不落の所にある城の位置も信頼できず、山の峰を通る狭い路を数カ所、人力で切り崩させた。これで敵が攻めて来た場合、長くとどまって修理しなくては、いかなる場合でも通れなくした。某日、老人(志賀道輝)は用心していなかった時に、薩摩の国主の弟が大軍を率いて豊後に入るとすぐその城を責めに来るとの報せ〔これは故意にそう見せかけたものと思われる〕を受けた。その報せが入ると彼は多大の恐怖にとりつかれ、部下と協議もせずに突然逃げ出し、婦女子が後に続いた。彼に伴う部下がいないのを振り返って見もせずに、五里は止まることもなかったが、そこに至ってもまだ安全とは考えなかった。そしてあまりに急いだので、先の所に沢山持っていた身のまわりの品を風呂敷に包む暇もなかった。これはそこに住んでいた貧しい異教徒たちが、残された品々で彼らの必要性を満たそうとしたのを、デウスが嘉し給うたように思われる。
 このことが豊後に伝わって、不信感が加わり、嫡子が国の入口の防壁として城に配置した老人(志賀道輝)の臆病さが知れわたったが、これはすぐ彼の孫のドン・パウロの耳に達した。ドン・パウロには、数日前嫡子が彼に対して行なった理不尽と不正を憤る理由があったが、それ以上にデウスに仕え、キリシタン宗団に良かれと願う気持ちが強いのと、彼の血の高貴さにより、全精力を傾注して、またたく間に家臣三千から四千名を集め、彼の祖父が捨てた城に立てこもりに行った。そこに着くと、老人(志賀道輝)が切り崩させた道に小石を埋めて修復させ、薩摩の者共に、彼を自由に攻め昇れる橋と本格的な道を作ってやりたかっただけだと言った。そしてその城に家臣と共に今日まで留まっているが、これが彼の名声をさらに高め、嫡子も彼をそのことで称賛こそしないが、ドン・パウロが特にまだ若輩であることから、火急の場合にそのような思慮を示すとは期待していなかったものである。我ら司祭や修道士たちが、たびたびそこを訪れているが、これは彼がこれらの人々との話し合いによって大いに励まされるためである。そして薩摩の兵は、この一件を知ったが、知らぬ振りをし、たとえそこを通って攻め入ることを決めていたとしても、そのような素振りも見せず、まだそうすることを決めていない振りをしている。…/一五八五年十一月十三日、/主における尊師の息子、ルイス・フロイス(第Ⅲ期第七巻5152頁)

1585年11月8日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのエーヴォラの大司教ドン・テオトニオ・デ・ブラガンサ宛書簡
ドン・パウロ志賀親次・マダレイナ夫妻の強い信仰
 …当地の人々は…この私が住む豊後の国だけでも、当(一五)八五年には、約一万二千人がキリシタンになった。その中には国主の姉妹の一人、ドン・パウロと呼ばれる国主(大友宗麟)の甥(註)がおり、この人はもっとも深刻な試練を経験したが、その中でも極めて強い信仰を示し、信仰を捨てるより、その身分を棄て首にロザリオをかけ、杖を引いてキリシタンとして満ち足りて諸国を遍歴するであろうと口外した十九歳の若者である。そしてその妻のマダレイナは、同じ歳であるが、信仰において同様に堅固で、たとえドン・パウロが信仰を棄てるようなことがあっても、彼女は棄てないと言った。…(第Ⅲ期第七巻105頁)
  ※…ドン・パウロ志賀親次の母親(志賀親度夫人)―「彼女はイザベルとその前に夫との間にできた子供であった。」(フロイス『日本史』・豊後篇Ⅲ268頁)

(つづく) 
 

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