2019年6月18日火曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族④

編者解説④
 1586年から87年、88年にかけて豊後国は大きな危機を迎える。島津軍の侵攻(豊薩合戦)、太閤秀吉軍の九州征伐に伴う仙石氏ら他国軍勢の進入、豊後国の支柱であったフランシスコ大友宗麟の死去である。嫡子義統(吉統)の家督により国のかたちは一応維持されたものの、キリシタン宗をめぐる内部分裂は秀吉のバテレン追放令が後押しとなってさらに激化の一途をたどり、次第に崩壊を余儀なくされていった。
 その中で、奮然として島津と戦い、戦後も弱体化していく主家・大友家を武士道精神で支えるなど、ひときわ光彩を放ったのがドン・パウロ志賀親次であった。キリシタンゆえに日本史では軽んじられ、忘れ去られた人物ではあるが、宗麟亡き後の豊後国を代表する武将であったことは、宣教師が書き残した多くの文書で確認することができる。「1589年10月7日付同年度年報」にある次の記録―大友義統(吉統)の嫡子義乗が都においてはじめて関白秀吉を訪問したとき、秀吉が大友家老中で最年長者でもあった田原親賢を差し置いてドン・パウロ親次を先に登殿させ、一同の面前で彼の武勲をたたえ、「(豊後国主の)嫡子に随伴してきた他の者たちには一瞥だにくれなかった」というのは、その証明であろう。
 戦いにおける勲功により秀吉は親次を賞讃したことではあったが、ことキリシタン宗となると話はちがう。ことあるごとにキリシタン武将らを退けた。また、秀吉の九州征討軍として九州に入ったキリシタン武将・黒田官兵衛の勧めもあって、大友義統、ドン・パウロの祖父・志賀道輝(親守)も一時的にはキリシタンとなったとされるが(「1588年2月20日付フロイス書簡・年報」)、それは形式的なもの。彼らはすぐにキリシタンを棄て、「神仏への誓約書(起請文)」を突きつけて棄教を迫るなど、キリシタンへの弾圧を繰り返した(「1589年2月24日付コエリユ師の年報」)。これに対してドン・パウロ親次は、秀吉にも、国主義統にも敢然と道理の正当性を訴え、ひるむところがなかった(「1589年10月7日付コエリユ師の年報」)。
 キリシタン信仰をあくまで貫いた―このような親次と、歩みを共にする人々は他にもいた。ガスパル・コエリユ師は「1589年2月12日付年報」で、「死んでもキリシタン信仰をとる」と主張する面々として、宗麟の長女ジュスタとその夫・清田鎮忠、ドン・パウロの伯叔父・林ゴンサロ殿(志賀宗頓)とその妻コインタ。宗麟の未亡人ジュリアとその家族、宗麟の娘レジイナ(のち伊東義賢に嫁ぐ)とその一族らを上げている。
 ドン・パウロ親次のキリシタン信仰に基づく武勲として、フロイスはまた「1588年2月20日付書簡・年報」で、島津戦における出来事を特記している。一万田城に籠城していた敵兵の中に天草のキリシタン領主ドン・ジョアン殿(天草久種)を認め、他の天草衆とともに助命したことである。それはキリストの言葉「汝の敵を愛せよ」による行為であったのか、互いに殺し合うことなく争いを終結させたのみならず、後日、天草衆の改宗にもつながったことであり、世界のキリスト教史にのこる逸話であったと思われる。

 島津軍の侵攻と秀吉のバテレン追放令発布に伴い、この時期、豊後の宣教施設はことごとく破壊され、司祭、修道士、神学生らのほとんどは山口を経て平戸、高来(たかき=島原半島)に避難した。それは、身の危険を冒してイエズス会の宣教活動を擁護した有馬城主ドン・ジョアン有馬晴信の武士道的キリシタン信仰に拠るものであったが、豊後国において同様の役割を果たしたのがドン・パウロ志賀親次であった。彼(親次)は、「大いに危険を招来するものだが、拙者はバテレン方をわが領内に匿う」と宣言し、その通りに実践した(「1589年2月24日付コエリユ師の年報」)。
 それゆえ、宣教師らはこぞって「確かにドン・パウロとその奥方(マグダレナ)のキリスト教的精神は大いに賞讃に値する」と言ったが、キリシタン侍(サムライ)としての彼の生き様は、しかし異邦人の国では歓迎されることはなかった。


■1586年(天正14)
史料=【1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ(・ヴァリニャーノ)宛書簡
志賀殿(親次)はキリシタンになったもっとも大物の一人
 …このようにして徐々に当豊後の改宗が進み、昨(一五)八五年は一万二千名が改宗したと私は推定しており、今年八六年は三千(註・三万の誤記か)を超え、戦さが終われば六万以上又は七万人が改宗するのを妨げるものはない。というのは尊師御存知のとおり、志賀殿(親次)は国衆で豊後の大官の一人であり、キリシタンとなった者の中でもっとも大物のひとりで、名をドン・パウロと称し、その支配下に四万人以上の人がおり、この人々が皆キリシタンになろうとしているのは問題ない。…(第Ⅲ期第七巻153頁)

ドン・パウロの兄弟が清田鎮忠家の養子になる
 清田は、御寮人(宗麟の長女ジュスタ)とその夫清田殿(鎮忠)がキリシタンで、その領地をすべてキリシタンにしたので、今日全員がキリシタンである。彼らには(男)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。そこで我らはドン・パウロとドン・ペドロの二人の兄弟の豊後の国衆を持っている。…(第Ⅲ期第七巻155頁)


■1587~88年(天正15~16)
史料=〔1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛の書簡(1587年度日本年報)
島津軍が豊後国に侵攻・破壊、ドン・パウロ志賀が奮起活躍する
 敵(島津軍)は豊後に入った時、志賀ドン・パウロ殿〔同国の主要な国衆の一人〕以外に抵抗する者を見出せなかった。彼は二十二歳を少し超えた青年であり、三、四年前(※1585年)、我らの主のすばらしい呼びかけでこの地のキリシタンとなった。この殿はキリシタンとして強力に豊後側につき、その証拠を自ら示した。というのは、彼の父、および叔父は、近隣の殿たちといっしょに薩摩側についたので、彼も突然四方より囲まれ、その窮状を嫡子(大友義統)に知らせて助勢を求めたが、嫡子は助力できないと答えたので、全力をもって豊後の各地を支える決心をして多大の努力と思慮を示した。最初は巧みな言葉で敵を引き留め、あたかも彼らと協定して彼らの味方になるような振りをし、この間自分の兵と若干の食料を集め、好機が到来すると突然親類の近隣の殿を打って出〔この者は豊後に背いていた〕、彼の多量の食料を貯えた城を占拠した。そしてそれを自分の城に取り込んだので薩摩やその他の敵に対抗することが広く明らかになった。これが豊後のすべてが失われてしまった訳ではない大きく主要な部分である。というのは、薩摩の兵はすべての地方で前進が保証されている訳ではなくなり、自分たち自身背後をつかれないよう恐れるようになり、これが(島津)中務が兵を留め、豊後に叛いた幾人かの殿といっしょに、その兵力の一部だけを豊後の奥深く入った理由の一つである。これらの人々は陸路を進み、破壊や殺戮を行ない、多くの人を捕虜とした。そしてその地から臼杵に至るまではキリシタン宗団も数多く、幾つかの教会もあり、彼らが行なった破壊は涙なくして語れない。多くのキリシタン武士や貴人を殺しただけでなく、その妻子のかなりの部分を捕虜にし、その地方のすべてが、ひどく荒らされ破壊された。(第期第七巻170頁)
 …この間、薩摩の兵は、豊後の国の破壊を中断することなく、(島津)中務は進入して来た道の確保を終えた後、ドン・パウロを除いた南郡(なんぐん)のすべての殿を味方にして、嫡子(大友義統)と仙石のいた府内に向かって兵とともに進軍したが、そこの抵抗のための準備は不十分であった。…(第Ⅲ期第七巻175頁)

小寺(黒田)官兵衛が着陣し改宗に尽力、志賀道輝も受洗する
 豊後、および豊前でこのようなことが起きている間、関白殿(秀吉)が送った軍勢が到着し始めた。最初に関白殿の養女と結婚した三カ国の領主八郎殿(宇喜多秀家)が多数の兵をつれて到着し、少し遅れて関白殿の弟美濃殿(羽柴秀長)が大将として最大の軍勢を連れて来た。彼は豊後で生じたことを聴き、薩摩の兵を豊後から追い払うため、小寺官兵衛殿が先陣となることを決定した。〔豊後の嫡子(大友義統)は、この人といっしょに国に帰れることを大いに満足していた〕。小寺はこの良い機会を逃すまいと、嫡子にキリシタンになって自分自身と父である国主(大友宗麟)を満足させてはどうかと勧め始めた。両人(小寺と義統)が豊前に来て、嫡子(義統)は教理の説教を(ジョアン・デ・トルレス修道士から)もう一度すべて聴いたので小寺は大いに喜んだ。嫡子は、当時彼といっしょにいた多くの武士や殿たちと共に、ペロ・ゴーメス師から洗礼を受けた(洗礼名は義統がコンスタンチイノ、のちに受洗した夫人がジュスタ)。嫡子はキリシタンになって帰って来、官兵衛のような熱心な武将がついて来たので、短期間に豊後その他の老中、国衆、殿たちは皆キリシタンになった。ドン・パウロ(志賀親次)の祖父で国主の顧問であった老志賀(道輝)殿はもっとも激しい敵対者で、いつも我らに反対していたが、この人でさえそうであった(註)。(第期第七巻178179頁)

 ※…志賀道輝の受洗について、ルイス・フロイスは『日本史』で次のように述べている。「豊後国の為政である老中たちも皆受洗した。すなわち宗像殿がその長男と、本庄殿が長男の息子と、臼杵殿がその長男と、および(志賀)道輝とドウレキがそれぞれ長男とともに洗礼を受けた。」(『日本史』豊後篇Ⅲ234頁)。ただし、この後秀吉が伴天連追放令を出し、大友義統もキリシタン迫害に転じる。志賀道輝も翌1588年、大友義統のキリシタン弾圧政策に加担し、ドン・パウロ親次にふたたび棄教を迫っているので、ホンモノではなかった。

敵将ドン・ジョアン天草らを助命したドン・パウロ志賀親次の義挙
 ここではすべてが失われてしまったと思われたが、今は従来に亡いような収穫を収めている。すべての国衆、および王国の殿たちの間で、もっとも名誉を高めたのは志賀ドン・パウロ殿である。というのは、彼はすべての敵に対し、嫡子のためもっとも強力に戦い、嫡子を信頼し、その後、彼の周辺の反乱を起こした殿たちの多くの領地を征服して以前にも増して強力となり、嫡子の寵愛を得、この戦役で名をあげ名声を博したからである。この戦さの間、彼に生じた別のことの一つに、キリシタン宗団のために大きな収穫をあげたことがある。彼が、豊後に叛いた一人である一万田殿の城を包囲していた時、その城中の薩摩側に、当時は薩摩に従っていた天草の島々の五人の領主の殿が立て籠もっていた。この中に天草の領主ドン・ジョアン(天草久種)がいた〔最も主要で良きキリシタンであり、前の書簡で述べた通り、自分の身とその領地を危険に曝してまでこれを証明した〕。ドン・パウロ(志賀親次)は城を締め上げ、小寺はすでに豊後に入り、薩摩の兵には逃げられてしまい、包囲された側はどうしようもなかった。ドン・パウロは、城の中に天草のドン・ジョアンがいることを知って、部下の全員と共に安全に彼の所へ来るようにと伝言させた。というのはキリシタンなので助けてあげたい。そうすればその直後城に攻め入り、その他の城中のものを殺すことにすると。ドン・ジョアンは、これに対し感謝の言葉を伝えさせると共に、「そのような慈悲を示してくれるのであれば、彼の名誉を守ってほしい。同僚を置き去りにして、自分の生命だけ助けてもらい彼らが殺されるのを放って置くのであれば、彼にとって最大の不名誉となろう。慈悲をかけて下さるお気持ちがあらば全員の命を与えて頂きたい。そうすれば城を明け渡すであろう」と伝えて来た。ドン・パウロは、この願いを名誉ある良いものと認め、彼の願いをかなえてやり、ドン・ジョアンに対する愛から全員を許し招待して大いにもてなした。ジョアンと彼の兄弟のバルトロメウには様々な物を与え、肥後の安全な所まで連れて行ったが、これに対し他の殿たちもドン・ジョアン同様深く感謝し、後に彼らの中の一人大矢野(種基)殿は家臣と共にキリシタンになり、他の人々も改宗することが大いに期待できる。(第Ⅲ期第七巻180181頁)

大矢野殿も改宗に至る
 …既述の天草のドン・ジョアンの信仰のお陰で、志賀ドン・パウロ殿に生命と自由を与えられた五人の殿のうちの一人は、キリシタンの間の親愛と団結を見て満足して帰り、またドン・パウロがドン・ジョアン〔その戦させは敵であった〕を許したのみならず、その信仰により他の殿たちをも許したことを見て、キリシタンの掟に何があるのか知ろうと決心した。自国に帰り、関白殿の迫害を聞いたが、驚かなかっただけでなく、その嵐の最中に副管区長師に書状を認めて誰か説教師を送ってくれるよう頼んだ。説教師がその土地に行き、我らの聖教の教えを説教すると、大きな理解力を示し、キリシタンになる決心をして、このことを両親や家臣と話し、かれらをも動かして皆が同じようにキリシタンとなることになった。このようにして火が付き、家臣一同〔三千人を超える〕がキリシタンとなった。この殿は大矢野(種基)殿ジャコメといい、天草の領主ドン・ジョアンの従兄弟である。我らは他の三人の殿も、近いうちキリシタンになることを期待しているが、もしそうなれば、天草の島々のキリシタン宗団は極めて大きいものとなろう。司祭たちがその殿に、関白殿がこのように大きい迫害をキリシタンや司祭たちに対して起こしている時に家臣と共にキリシタンになってどうする気かと言ったところ、その殿はキリシタンの間の愛が彼の命を救った。もし日本の掟によれば、またもしドン・パウロが異教徒であったなら、彼らは全員殺されていたであろう。というのも、彼の手中にあったからである。彼がキリシタンだから、生命を与えられた。その生命を使う方法としては〔デウスとドン・パウロに感謝するため〕同じくキリシタンになるより良い方法があろうか。またすべての地方で盛んである時よりも、今の時〔キリシタンが盛んに迫害されている〕にキリシタンになる方が、他の目的ではなく霊魂の救済のために動かされていると理解してもらえるので喜ばしいと言った。その後、関白殿の命令に反し〔このように新しいキリシタンであるにもかかわらず〕幾人かの司祭がその土地に残るよう希望し、副管区長師がこれを承諾した。(第Ⅲ期第七巻233頁)

…戦場で敵将らの命を助けたドン・パウロ志賀親次のキリシタン信仰に基づく好意は、天草の改宗に大きな影響を及ぼした。解放された五人衆は自領に戻り、先ず大矢野種基が(上記のように)その年のうちに洗礼を受け、ドン・ジャコウベを名乗った。翌年に栖本鎮通・親高親子も領民とともに受洗し、鎮通はドン・バルトロメウ、息子親高はドン・ジョアンの洗礼名を授かった。

 6月28日(天正15523日)、豊後国主フランシスコ大友宗麟死去。
 7月24日(天正15619日)、関白殿(秀吉)がバテレン追放令を発布。

バテレン追放令後も、かまわず象牙の大きなコンタツを首に掛けて…
 豊後の国衆志賀ドン・パウロ殿は、常に迷いのないキリシタン宗団の保護者で…当時、豊後は戦さの最中で多くの苦労があったが、彼の領内では洗礼を受けた霊魂が八千以上、さらに三万が洗礼を受けようとしている。関白殿(秀吉)の兄弟で、全軍の司令官の美濃(秀長)殿が、関白殿と共に都に帰るため豊後を通過した時、関白殿がすでにキリシタン宗団に対し大きな迫害を発動師、キリシタンが十字架やコンタツを持ち歩くのを禁止していたが、ドン・パウロ殿は美濃殿を訪問する時、キリシタンと判るどのような印も持っていないと隠すこともできたが、そうすることは臆病であると考え、象牙の大きなコンタツを首に掛けて美濃殿の前に出る危険を冒したが、すべてはうまく行き、美濃殿は彼を丁重に好意を見せて迎え、戦さでの功績に謝辞を述べた。(第Ⅲ期第七巻222頁)


■1588年(天正16)
史料=【フロイス『日本史』第二部112章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第74章)
大友義統がドン・パウロの武勲への報酬として封禄を授けるも、のち半ばを没収する
 ドン・パウロは(去る)薩摩との戦において、豊後の誰にも優る勲功をもって嫡子(大友義統)に奉仕した。彼は大勢の部下を失い(ながらも)、(嫡子に対して)蜂起した殿たちから十二、三の城を奪取した。嫡子は常日頃、彼(※志賀親次)に対して嫉妬と悪意を抱いていたが、(自分が)キリシタンとなってからは、道理と真理の力に押され、ドン・パウロの武勲への報酬として彼に叛逆者たちの封禄と居城を授けた。ドン・パウロは嫡子(がいかなる人物であるか)を心得ており、その移り気を熟知していたので、(他日)嫡子が自分を非難するに至ることを案じて、「もし後になって没収されるようなら、今は王家いたさぬほうがよい」と言って(受領することを)断った。(これに対して)嫡子は、「他意なくゆえ、安堵して受領されよ」とふたたび命じた。
 嫡子は都に向かって出発するに際し…ドン・パウロに与えた新たな俸禄の半ばを没収するようにと(老中たちに)言い残した。(その処断に対して)ドン・パウロは、(封禄を加増されたのは)武勲が(殿によって)高く評価されたためであることを力説はしたものの、なんらこれについて助けてくれる(者は)なく、結局、その封禄の半ばを没収され巻き上げられてしまった。(前掲書281282頁)

ドン・パウロが高来に赴き、コエリユ師らを訪問する
 嫡子(大友義統)が上洛中、豊後に留まっていたドン・パウロは、義務づけられていたこととて肥後にいる暴君(秀吉)の武将たちをその地に訪れた。彼は彼らと友人関係にあった(註)。(ドン・パウロは)同所から非常に大急ぎの旅をし、船足の速い船で、それまでまだ会ったことがなかった副管区長の(コエリユ)師、ならびにその他の司祭や修道士たちを高来(タカク=島原半島)に訪問した。(司祭たち)一同は彼に会って、この上もなく喜んだ。彼はその地には一昼夜しか滞在しなかった。彼が豊後に戻ったのと時を同じくして嫡子が都から帰って来た。(前掲書283284頁)

 ※…肥後においては天正15年(15879月から一揆が勃発し、秀吉は佐々成政を援けるために小早川秀包を将として、筑後や肥前の諸将を率いて肥後に入らしめた。この一揆は翌16年初めにはすでに鎮定されたが、大友義統が上洛していた頃、肥後国主佐々成政が尼崎に幽閉されていた。天正16年(1588)2月、秀吉から、この一揆の本末糺明のために蜂須賀家政、戸田勝隆、生駒香近江、福島正則、浅野長政、加藤清正、小西行長ら重臣が派遣された。このうち志賀親次と友人関係のあったのは福島正則と考えられる。本稿「1600年」の項を参照のこと。

志賀(竹田)の城に赴き、密かに司牧した宣教師たち
 豊後の国主が都に滞在していた間に、副管区長(コエリユ)師ならびに同司祭から諮問された(他の)司祭たちには、主(なるデウスの御名)において、さらに二名の司祭と一名の日本人修道士を豊後に派遣して、貧困(な状態)で取り残されているかの地のキリシタンたちの世話に当たらせ、彼らを援助することがデウスへの優れた奉仕となるように思われた。そこでフランシスコ・パシオ師、ゴンサーロ・レベロ師、およびロマンと称する日本人修道士がかの地に向かって出発し、ドン・パウロの城に赴いた。彼らは密かに各地のキリシタンを訪れて激励し秘蹟を授けた。(前掲書284285頁)

史料=【1589224日付、日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報
義統がドン・パウロとゴンサロ夫妻に異教の神仏への誓約書で棄教を迫る
 …豊後の国に生じた大いなる破壊…我らが被ったもっとも大きな損失は我ら一同にとってもこの国にとっても模範的なキリシタンで聖なる老国主フランシスコ(大友宗麟)の逝去であった。…そこで副管区長師は、そこにいたクリストヴァン・モレイラ師に一人の修道士をつけて豊後に赴かせることを決断した。…こうして一人の司祭が一人の修道士とともに津久見に宿を得ることができた。ここは前国主のフランシスコが亡くなり、その妻ジュリアが家族とともに住んでいるところである。その他の二名はもう一人の修道士とともに豊後の重立った国衆であるドン・パウロ志賀殿の領地に避難した。彼のキリシタンとしての徳と勇気については過ぐる年報に詳述したとおりである。
 …関白殿(秀吉)は異教徒たちが慣習的に行なうような神々および諸仏への忠誠に関する誓約を豊後のすべての諸侯が立てるよう命じているのだという。…そこで国主(大友義統)はただちに次のような命令を出した。件の誓約を執り行ないたく、異教徒たちが慣習的に行なう荘厳な祝祭に豊後の貴顕諸侯はすべて府内の市に集合すべし、と。以上からただちに理解されるのだが、彼らはこのようなやり方でキリシタン宗団に対する迫害と破壊をもくろんだのである。また彼らはこの罠をとくにドン・パウロおよびその他の領主たちに対してしかけた。ドン・パウロにせよ、その他の領主たちにせよ、誓約になど決して応じないことを彼らは重々知っていた。案の定、彼らはたとえそのために死ななければならぬとしても、そのような誓約には決して応じぬことを明言した。これらの領主の大立て者はドン・パウロ殿(志賀親次)と彼の伯叔父にあたる林ゴンサロ殿(宗頓)であった。彼らに対して老中たちの悪意と嫌悪が一身にふりかかっていた。彼らは何といっても豊後のキリシタン宗団に欠くことのできない大切な二本柱であり、ドン・パウロは彼らすべてが有するよりもっと多くの知行を有するいとも偉大な領主であった。このたびの戦争で彼は大いなる名声をかち得、彼らはドン・パウロを圧倒し得なくなったものだから、さまざまな告げ口でもって国主がドン・パウロに不信感を抱くようしむけるという挙に出た。これが功を奏したか、件の誓約の折り、国主は老中たちとともにドン・パウロを殺戮するか、あるいは完全な失脚に追い込むかの決意を固めたという噂が広く行なわれた。…豊後のキリシタンたちの多くはそのような誓約に応ずるくらいならむしろ死んだ方が、さもなくば持てるもののいっさいを失った方がよいとの決意を固めていた。しかしながら、他の多くの連中はこれがために動揺し、どのキリシタンたちも一般的に大いなる苦悩を感じてやまなかった。ドン・パウロ殿は死の決意を固め、そのようなことをするくらいなら自らの知行を失った方がましであるとの覚悟を決めていた。それのみか彼の妻のマグダレナも大いなる勇気と節操をもって彼にそのようなことに応ぜぬよう説得してやまず、こう言うのだった。「御屋方様は御老中ともどもそなたを滅ぼし陥れる決意を固めておられます。たとえそなたがかような誓約をなされましても、それゆえそなたへの迫害をやめるようなことはなく、ただちにその他の口実を探すでありましょう。それゆえ、そなたにとってより良いことは、キリシタンの信仰を守るという大義名分のもと、生命もしくはお家を失うことでございます。このたび幸いにして無事でありましょうとも、他日別の機会に生命もしくはお家を失うだけのことでございます」と。
 林ゴンサロ殿もまた同じような決意を固めていた。彼の妻コインタはマグダレナに負けず節操の堅い助勢で、夫に、そのようなことに同意するくらいなら私たちはむしろ生命を棄てるべきである、と言った。親類衆や友人たちからのさまざまな説得には事欠かなかった。誓約するなど大したことではない。非常に危険にそなたたちの身を曝さぬためである。そのようなことでキリシタンをやめることにはなるまい。仮にそのような誓約によってキリシタンの法に対して何らかの過失なり罪なりを犯したとて、いとも軽微なことで、ただちに懺悔すれば済むではないかと、連中はコインタらに説得を繰り返すのであった。彼女からそれを話題にすることを許されていなかったこともあって、連中は彼女の夫たちとはしゃべり合いたくなかった。しかし連中は彼女らにさかんに議論をふきかけた。彼女らは巌のように堅固な信仰の持ち主であることを証明し、あくまでもこのような議論に抵抗した。連中は彼女らを説得できなかったばかりでなく、彼女らは自分たちの夫に勇気を与えることをやめなかった。もっとも夫たちにはそうしてもらう必要などなかったし、またさまざまなキリシタンたちが連中の言ったこととまた同じことを言っていたのである(註)。…(第Ⅰ期第一巻6165頁)
 
 …この神仏への誓約書について、イエズス会司祭らは「(同時に)公的拒絶証書を付して行なう」という折衷策を案出し、解決を図った(第Ⅰ期第一巻68頁)。

ドン・パウロ、それでも「宣教師を匿う」と宣言
 (他の一つの大きな苦難がふりかかった。―すなわち宣教師を匿っているという問題であり、それに対して国主大友義統が「決然と伴天連たちはすべて退出すべし」との命令を下した。)司祭たちは国主が申し越してきたいっさいについてドン・パウロと協議した。しかしドン・パウロはただちに申し出た。「事態はそのとおりだが、それでもよい。拙者は伴天連がたをわが領内に匿おうではないか。伴天連がたもご存知のとおり、御屋方様はすべての殿たちと同様、余に対して非常な悪意を抱いておられる。それゆえかような行為は大いなる危険を招来するものである。たとえそうであっても、拙者は伴天連がたをわが領内に匿いたい」と。(第Ⅰ期第一巻7071頁)

―「死んでも信仰をとる」と主張する豊後国の固い信仰の面々
 …豊後のキリシタン宗団は全面的にたいへんな苦悩と動揺に包まれた。弱き者、また信仰に入って間もない者として既述の(キリシタンを棄てたことの)証文の作成に応じてしまう連中は少なからずいた。そして彼らは外面的には信仰を後退させつつあるような態度を示していた。…しかしこれとは別にもっと勇気ある者、雄々しい者にも不足はなかった。このようなことをするくらいならむしろ死ぬ決意をかためている人々である。彼らはいとも自由な精神をもってこう言った。「たとえ国主が我らの処刑や追放を命じてもそのようなことは決してすまい。彼らは司祭たちに次のように書きしたためた。どうか安心して下さいますように。我らにはキリシタンの信仰に反することは絶対にせぬという堅い決意のほかなにものもございませぬ」と。彼らの中の主要人物は次の顔ぶれであった。(前)国主フランシスコの妻のジュリアとその家族、レジイナとその一族。レジイナは結婚を控えた若い身であったが、ただならぬ勇気を示した(註)。…同じように自由の精神をもって抵抗を試みたのは、ドン・パウロの伯叔父・林ゴンサロ殿と、ジュリアの娘でその妻であるコインタ、および志賀ドン・パウロ殿とその妻マグダレナ、さらにはキリシタンである彼らの家来たちである。彼らの数はすでにしたためたように八千人を超えた。同じように既述の不当な命令を承諾することを望まなかったのは、同じ国主(義統)のもう一人の姉妹である御寮人(※ジュスタ)とその夫ドン・清田殿(鎮忠)であった。今、この両人は既述の御寮人に属するある場所で貧窮に暮らしている。清田殿がかつて有していた諸領をほかならぬ国主(義統)に召し上げられたためである。(第Ⅰ期第一巻7273頁)

…レジイナについて同年報は続いて次のように述べている。「国主フランシスコの娘であるレジイナは日向の国でドン・バルトロメウ・レクロン(伊東義賢)殿と結婚している。この人物は日向の出身であり、あちら(ヨーロッパ)に行っている伊東ドン・マンショ殿の兄弟とは従兄弟の間柄であった。彼は自らの伯叔父(伊東祐兵)の養子となった。(第Ⅰ期第一巻76頁)

確かにドン・パウロ夫妻のキリスト教的精神は賞讃に値する
 今、国主(義統)は関白殿からの指令を受けているので自らの息子(大友義乗)を関白殿のもとに遣わす準備を進めている。ドン・パウロ(志賀親次)と林ゴンサロ殿(宗頓)、それに供の人々多数が彼につきそって関白殿のもとへまかり出る予定である。
今、そこにいるフランシスコ・パシオ師から受け取った一五八九年二月の一通の書簡には、いろいろなことがしたためてあるが、その中に次のような一節が見える。「毎金曜日、モレイラ師は熱情のこもった説教を行ない、これらのキリシタンたちに大いなる慰めを与えている。最初に来たのはドン・パウロ(志賀親次)であった。彼は鞭打ちの苦行を行ない、総告白を試み、都へ行く準備のために聖体を拝領した。彼の妻であるマダレイナは元気であり、カルナル(肉食を許された期間)の終わりに司祭は彼女の告白を聞きに行った。毎金曜日、司祭は一つの部屋に多くの夫人たちを集め、そこにしつらえ、一同、そこで鞭打ちの苦行を行なう。この四旬節においては彼女たちの中にきわだった熱意と犠牲の精神がみられることを我らは知っている。確かにドン・パウロとその奥方のキリスト教的精神は大いに賞讃に値する。(第期第一巻7778頁)

史料=【フロイス『日本史』第二部121章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第75章)
ドン・パウロの女児、死亡する
 ドン・パウロは臼杵の館に六日間だけ滞在した。彼が自邸に戻ると、時を同じくして妻のマグダレナが女児を分娩した。それは彼にとって初めての子供(註)であったから、少なからず喜んだが、既述のようにその子供は洗礼を受けて幾日も経ずに死亡した。298299頁)

 ※…ドン・パウロには1585年(天正13)に生まれ病死した男児がいるので、この女児は初めての子供ではない。

ドン・パウロ、司祭を匿い、密かに訪う
 (豊後に留まっていた)司祭たちについて(言うと)、(ドン・パウロと)彼らが話し合った結果、同所にいた司祭は三名とも、屋形(義統)と折り合うために司祭と修道士全員が(豊後の国を)退出するように見せかける必要があるように思った。そこで彼らはキリシタンたちに別れを告げ、一名の司祭だけは同宿や使用人とともに巧みに(城)外に出、残りの二名の司祭と一名の修道士は、城外にあるドン・パウロの家臣の家に隠れることになった。そこはドン・パウロが用意させた(場所であった)(註)。…
 ドン・パウロと(妻の)マグダレナは司祭たちに対して、彼らが(先に)城内にいた時に倍する愛情を示し、かつ優遇し、部下の者には、自分が伴天連方を匿っていることを決して口外してはならぬ、これに反する者は死罪に処すると言い渡した。ドン・パウロは、一と月の間に自ら三度、司祭たちを訪ねて行った。そうした時には彼は、日の出よりずっと早く、鉄砲を携え、河(原)へ鳥を撃ちに行くようにして出かけ、その際、司祭たちがいる家の主人である自分の家臣の従僕を一、二名だけ連れて行った。これらの従僕は、(ドン・パウロが)外出する時には城の麓で出迎えた。(ドン・パウロが)帰城するにあたっては、どこから来たか悟られないようにするために、城の近くまで人通りのない道を選んだ。ある日曜日など、遠くから目撃した者が彼(の正体)に気付かぬようにと、彼は公道に出るまでは一人の背が高く頑丈な家臣に前方を歩かせ、自らはその後方で、その下僕を装って銃砲を担いで歩んで行った。300301頁)

  ※…フロイスは同書で続いて次のように述べている。「国主(義統)が暴君関白に対する恐怖を理由として(豊後にいた)三名の司祭全員に退去を厳命した後、司祭たちは、国内が動揺しキリシタンへの迫害がひどくなって行く間に、自分たちがいた(岡)城の主君であるドン・パウロにこの件について相談した。その結果、(司祭たち)一同には、ドン・パウロの家臣中のもっとも優れたキリシタンであり、かつもっとも信頼の置けるバレンチイノの親戚に当たるあるキリシタンの家に隠れるのがよいと思われ、前年からそこに潜伏していた。」(313頁)


■1589年(天正17)
史料=【1589年10月7日付、加津佐発信、日本副管区長のアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛、1589年度日本年報
関白殿(秀吉)に厚遇されたドン・パウロ、キリシタン信仰は譲らず
 …志賀ドン・パウロは豊後の国主とともに都にのぼり(註)、関白殿を訪ねる必要が生じた。彼は慎重な性格で、容易におこりうる事態を心配して、旅に出る前に告白をし聖体を拝領するとともに、武装し、身にふりかかる出来事に備えることにした。しかし要請を受け、必要とあれば、一度として信者たるを見棄て給うことのない我らが主は、宿敵に対してすらむしろ慈悲を見出すように仕向けられ、万事が幸いとなって成就するようにとりなされたのである。関白殿が彼に示した思いやりと彼への好意はかくも大きなものであったので、そのことに異を唱えようと敢えてする敵は一人もいなかった。むしろ彼の最大の宿敵(※田原親賢)は、関白殿の面前で大いに屈辱を受け、傷心の呈であった。それゆえその国主が関白殿に敬意を表するために登殿の際、ドン・パウロの敵対者には、老中〔と言われる高位〕としてドン・パウロは自分たちよりもっと後で登殿すべきであると思われた。しかし関白殿はドン・パウロの登殿をとりなし、さらに豊後の役でたてた武勲を讃えて、彼に讃詞と格別の好意を呈したのである(註)。
関白殿はその国主とともにドン・パウロが豊後に帰還してからも〔彼が逗留している間、都で言わなかったことだが〕こうしたすべての好意を示して、人を遣わし、「当面のところ、司祭は活動を停止し、またキリシタンであることをやめるように」と申しつけた。ドン・パウロは彼に答えて、「殿下は(人々は)外面的には命令に背くようなことはしていないことを十分承知のはずであり、また内心では、キリシタンであることについても殿下に対していかなる謀叛をたくらむようなことはなく、かえってそれが各自に最適と思われる救いの道と方途とに誰しも終着するという道理にも非常にかなっていることも承知されているはずであると申し述べた。したがって、この用事のために使者などを派遣されないように留意していただきたい」、と言った。彼は自らをキリシタンたらしめている多くの理由ゆえに、福音は棄てまいと固く決意していたからである。(第Ⅰ期第一巻131132頁)

…ルイス・フロイスは『日本史』で次のように記している。「豊後国主(義統)の嫡子(義乗)は暴君(秀吉)を訪問のために都に向かって旅立った。」(フロイス『日本史』松田・川崎訳8-316頁)。 「嫡子(義乗)が都においてはじめて関白(秀吉)を訪問した時に、ドン・パウロ(志賀親次)と、キリシタンの大敵である(田原)親賢は豊後国主(義統)の伯叔父であり(随員のうち)最年長者でもあったので、嫡子のすぐ後に続いて入室しようとしたところ、関白は、豊後の偉大な城将・志賀殿〔ドン・パウロのこと〕を先に入らせて親賢をその後方に廻らせた。関白は一同の面前において豊後の防衛戦におけるドン・パウロの精励と労苦を賞讃し、(豊後国主の)嫡子に随伴して来た他の者たちには一瞥だにくれなかった。暴君(関白秀吉)は、かの若者(嫡子義乗)を淀城に招待した時に、ドン・パウロだけに彼らとともに食事することを許し、その間、他の人々は関白の家臣に混じって外に留め置かれた。」(前掲書326頁)。

(つづく)

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