2019年6月15日土曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族①

まえがき
 豊後国竹田の岡城主志賀親次は、1585年に洗礼を受け、「ドン・パウロ」の名を受けた。苦戦を強いられた島津との闘いで多くの武功を立てた一方、火のごとく燃えるキリシタン信仰を有し、「ゆくゆくは豊後のキリシタン宗団の偉大な支柱となるにちがいない」と密かに期待されていたものの、フランシスコ大友宗麟の死去(1587年)を機に崩壊の一途を辿った豊後国の命運と、その後のキリシタン宗に対する国家の締め付け・弾圧の中で、再起する機会もなく、消えて行った。宣教師たちの間でフランシスコ大友宗麟、ジュスト高山右近同様、著名なキリシタン武将として記憶された彼の名が、日本史から忘れ去られた所以である。
 ドン・パウロ志賀親次が生きた時代から400年余が経過した。日本のキリシタン史に世界遺産の光が再び当てられる時代が到来した今、彼の事蹟を宣教師文書に訪ね、再読することも意味あることと思い、ここに膨大な史料の中から彼に関する記事を抽出し、掲げることとした。
 史料は『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(同朋社)第Ⅲ期第5巻~7巻、第Ⅰ期第1巻~3巻を基本とし、他に、ルイス・フロイスが編集した『日本史』(松田毅一監訳・中央公論社)から、第一次史料(書簡・年報)に記されていない記事を補った。小見出し(朱色)は筆者による。 

編者解説①
 来日したイエズス会宣教師が豊後の志賀親次をはじめて捉えたのは1581年のことであった。少年でありながら、洗礼を志願する希望が叶えられない状況にあって小刀で自らの腕に十字を刻み、血を流した日本武士の志を表すしぐさが衝撃的であったようだ。
 志賀親次は当時16歳。キリスト教の感化を受けて、すでに3年ほどが経過していた。ルイス・フロイスは1584年1月2日付年報で、親次のそれまでの歩みを取材し、志賀家に追放され仕えていたイザベルという名の娘、そして親次の妻(田北鎮周の娘)のキリシタン乳母、とりわけ伯叔父・林ゴンサロ殿(志賀宗頓)が、親族ら周囲の反対の中で親次のキリスト教習得に力添えしたことなどを記している。

■1581年(天正9)
史料=【1581年10月8日付、府内発信、ロレンソ・メシア師がペロ・ダ・フォンセカ師に宛てた書簡
1581年、宣教師がはじめて志賀親次を目撃、記録する
(ヴァリニャーノ)巡察使は有馬でしたように、日本少年の神学校(セミナリオ)を当地に設立することはできなかったが、豊後の首都府内に学院(コレジオ)を、また府内から五里の所にある臼杵の市(まち)に修練院(ノビシャド)を設けた。
 …臼杵では、少し前から、大身である市の代官と、大いなる権威と深い思慮を備えた偉大な仏僧一人が洗礼を受けた。同仏僧は、豊後国全体の大司教に当たる人物である。豊後の国主の一子およびイザベルの一姉妹が洗礼を受けようとしている。我らの主が望み給えば、他の身分の高い人々も(キリシタンと)なるであろう。その内の一人は、キリシタンになることを妨げられた時、信仰を固く守る証として、剣をとって腕に大きな十字架を刻み、そこから多くの血を流した(註)私は巡察使とともに、シナおよび同所からゴアへ向かう旅に出ようとしている。尊師の祝福を請い、聖なる犠牲において私のために祈り給わんことを願う。(第Ⅲ期第五巻339340頁)

 ※…名前は明記されていないが、この人物こそが志賀親次である。翌年(1582年)2月にガスパル・コエリユが記した1581年度年報で確認することができる。

史料=【1582年2月15日付・長崎発信、ガスパル・コエリユのイエズス会総長宛1581年度日本年報
志賀一族改宗の嚆矢は志賀宗頓(林ゴンサロ殿)
 …他にも重要な同年齢(十五、六歳)の少年(※志賀親次)が数日前より同一の(受洗の)希望を懐いている。彼は豊後全国でもっとも著名な大身の一人(※志賀親度)の嗣子である。この少年には祖父(※志賀親守・道輝)が一人あって、彼は筆頭の老中〔豊後の執政官であり国主の顧問をこのように言う〕である。この人は(これまで)常に当地方における最大の迫害者で(教)敵であったが、(今なお)そうであり、神仏を大いに信奉しているためイザベル(国主大友宗麟の前夫人)にも増して我らと敵対し、あらゆる手段をもって我らの聖なる教えを滅ぼさんと努めている。…彼(志賀親守)の二人の子息のうち一人(志賀宗頓=林ゴンサロ殿)は三年前(※1578年)に説教を聴き、デウスのことをよく悟ったので受洗してキリシタンとなったばかりでなく、豊後において(我らと)もっとも親しく且つ立派なキリシタンの一人となった。彼(志賀宗頓)は国主フランシスコ(大友宗麟)の義理の娘になる人、すなわち国主の奥方の女子(※ジュリア夫人の連れ子コインタ)と結婚しており、家人を皆改宗させることを望んでいたが、彼の父母は我らの教えに強く反対して、それがために彼と不仲なので、若木のようによりいっそう栽培に適した彼の兄弟(志賀親度)の嗣子である甥(親次)の心を動かそうと思った。(第Ⅲ期第六巻、2728頁)   
   
 親次は一般に親度(親孝)の子とされるが、「志賀家系図」(長崎歴史文化博物館所蔵)によると、親次は父・親守の子―長男・親度(親孝)、次男・浄閑、三男・宗頓の次に、その弟(四男)として、また他にひとり某(左門)が一番下の弟として記されている。

志賀親次、信仰を守る証として短刀で腕に十字架を刻む
この少年(志賀親次)はかくして心動かされ、聴聞をたいそう望んだが、彼の祖父(志賀親守)が我らのことに対して激しい憎悪を懐き、彼が聴聞する機会を与えなかったので、厚く信頼する家臣二名を府内に遣わした。これは彼らが説教をよく聴いてその聴いたところのすべてを忠実に彼(親次)に語らせるためであり、この方法で司祭たちの説くことが何であるかを知るためであった。彼らはそれを実行し、少年(親次)は彼らの語ることに耳を傾け、我らの主が彼の心を動かし給うたので、彼は我らの教えに惹かれ、すっかりキリシタンとなることを決意した。このことについて先述の家臣たちと相談したところ、彼らは(少年の)父と祖父がそのことでどれほど気分を害し、(その結果)危害と不快が生じるやも知れぬことを進言したが、彼(親次)は大いなる熱情に動かされて刀の鞘より小刀を抜き取ると腕の皮膚を軽く切って十字を刻み、「自らがキリシタンになることがいかに確信しうることであるかを彼らに示すため、この十字を腕に刻んだのであり、それはまた、この印が永く自分に残ってその身体から決して離れぬ(ようにする)ためでもある」と語った。これは確かに一少年にとってまことに勇気あることで、これにより日本人の精神がいかに純真かつ高潔であるか知ることができる(註)。(第Ⅲ期第六巻2728頁)

志賀宗頓(林ゴンサロ殿)・コインタ夫妻が家屋火災で見せた信仰
 …悪しきイザベルとその徒党の行いによって、日の出一時間前に国主フランシスコ(大友宗麟)の既述の同国主の義理の娘(※ジュリア夫人の連れ子)の夫(※志賀宗頓)の家から出火した。日本の家屋は木造のため、彼の家は非常に大きく立派であったが、短時間で燃え、屋内にあったものを一つも(持ち出すこと)なく家人はかろうじて逃れた。我ら一同は林ゴンサロ殿と称するその人(※志賀宗頓)の損失を遺憾としたが、彼は二十五歳くらいで、非常に身分が高い、まだ十五、六歳の女性(※大友宗麟夫人ジュリアの連れ子コインタ)を妻としている。両人ともに(イエズス)会を深く信じ、真に善良なキリシタンであるから、我らにとって大いなる心の慰めであった。…間もなく林殿自ら、何物もなかったかのような喜ばしい表情で司祭を訪れ、彼の夫人に代わって同じことを巡察使(ヴァリニャーノ)に伝えた。司祭がコンタツを与える意向を示したところ、彼はこれを夫人に伝えに行き、すぐさま(二人して)言葉ないほどに満悦して戻って来たが、彼らの家屋が火災に遭ったことは司祭の同情心を動かすためのデウスの恩恵であり、こうしてコンタツを得たことを承知しているから災禍を遺憾とする必要はない、と断言した。司祭たちでさえも悲しみを隠すことができなかったほどの事件であったにもかかわらず、彼らが深い信心と歓喜を示すのを目の当たりにしたので、この一件は巡察使、その他の司祭、修道士たちにも多大の驚嘆を呼び起こした。(第Ⅲ期第六巻、28頁)


■1582年(天正10
史料=【1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1582年度日本年報
キリシタン宗を独学で確信した志賀親次、宗麟がコンタツを贈る
 …ここ豊後国に国衆の一人(※志賀親度)がおり、勢力と富においては同国中で第二位の人物であったが、異教徒でデウスのことに対してあまり好意を持っていなかった。彼には年の頃十七、八歳の太郎殿(※志賀親次)と称する一子があり、すでに家督をこの子に譲っていた。この少年はいかなる方法によってか、また何処においてかは知らないが、かつて二、三年前にデウスの教えを聴いてたいそう歓喜したので日本の宗旨と偶像崇拝を完全に棄てた。この少年は今は亡きガスパル・ヴィレラ師の時代の宗論が日本の文字で書かれている書物を持っていた。この書物ではこれら(日本)の諸宗派のもっとも肝要な点がひとつひとつ論駁されているが、彼の言によれば、この書を常に懐に携えており、誰かが彼の考えを改めようとしてデウスの教えについて何事かを言うと、ただちに彼はすべて暗記している書物の道理を述べるので、今日まで何人も彼のキリシタンになることへの望みを棄てさせることができなかったとのことである。彼の父はこのことに全く不満であったが、なす術もなく黙認している。
 国主フランシスコは数日前、彼の信仰が堅いことを知ったので臼杵から遠く離れた彼の居所にコンタツを送った。彼はこれを非常に喜んで受け取り、首に懸けて心中ではキリシタンであると言った。彼の父はこのことに反対し、少なくとも父の前では懸けず家にしまっておくように命じたが、彼はデウスの教えよりほかに救いの道はないことを悟ったので、決して膚身から離さぬと父に伝えさせた。…件の少年は今や豊後においてもっとも裕福かつ有力な人物であり、三千の戦士を擁しているので、我らは主(なるデウス)において彼がキリシタンとなるよう取り計らい給うことを期待している。(第Ⅲ期第六巻107108頁)

伯叔父・志賀宗頓(林ゴンサロ殿)が親次と密かに文通、支援する
 また、これに関して我らにいっそうの希望をもたらしているのは国主(大友宗麟)の婿で、豊後国中で最良のキリシタンの一人(※宗麟夫人ジュリアの連れ子コインタの夫・志賀宗頓=林ゴンサロ殿)である。少年(志賀親次)は彼の兄弟(志賀親度)の子、すなわち甥になるため、彼(志賀宗頓・林ゴンサロ殿)の勧めによって(キリシタンとなる)希望を堅持している。彼は秘かに少年と文通し、今のところは支障があるため洗礼を請わず、我らの主がそのための良い機会を与え給う時(まで)受洗の望みを保ち続けるよう説得している。(第Ⅲ期第六巻108頁)


■1583年(天正11
史料1584年1月2日付、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛1583年度日本年報
志賀親次、キリシタン少女と夫人の乳母から感化を受ける
 …豊後の国主(※大友義統)の娘に仕えていたイザベルという名の娘は彼女によって政庁からから遠く離れた身分の高い貴族(※志賀親度)の家に追放され、同所には一人のキリシタンもいなかったが、彼女は幼少の時洗礼を授けられたので、祈りを捧げることも、またキリシタンとしての他の務めをすることも止めなかった。右の大身は今や豊後全国で第二位の人物であり、その一子(志賀親次)は年の頃十二、三歳になるが(※十二、三歳の頃であったが)、彼女がたびたび跪き、十字を切って祈祷するのを見て驚嘆し、なぜそのようなことを絶えず行なうのか頻りに問うた。彼が執拗に懇願するので、デウスのことやキリストの教えについて幾らか語ったところ、彼はたちまち心を動かされ、深い熱情とともにキリシタンになることを望み、彼が自ら語るには、それ以後、父母に教わった偶像崇拝、その他これに係わる諸々の行ないをいっさい止めたとのことである。また右の願いがますます強くなったので、さっそく、かの娘から祈祷をすべて学び、これを暗記するために書き取り、秘かに我らの主なるキリストならびに聖母の像、祈祷用のコンタツおよび携帯用の祝別されたコンタツ、その他キリシタンたちが信仰のために所持する品々を集め、自室で絶えず祈りを捧げ、洗礼を授けるように我らの主が導き給わんことを請うた。
 この頃、父(志賀親度)は彼を国主の姪(※田北鎮周の娘)と結婚させたが、彼女もまた異教徒であり、キリシタンの女性を乳母としていた。この(乳母なる)婦人は彼の信心を知ったので、その善き望みを堅固にしようと、能うる限り努力し、彼と語り、デウスについて知る限りのことを教えた。これは彼の信心と決意をいっそう堅固なものとし、こうしてこの六年間、代わらぬ信心をいまだに堅持している。そして彼の父母や、とりわけ同国でもっとも邪悪な偶像崇拝者で国土の大半を治める祖父(※志賀道輝親守)〔豊後の世子は実父よりも彼をいっそう尊び、かつ服従している〕が日々、いかに彼(親次)を思い止まらせ、その志を棄てさせようと努めても(これを得ることは)できなかった。(第Ⅲ期第六巻190191頁)

親次、夜中に伯叔父・志賀宗頓のところに通い、聖人・殉教者について学ぶ
 彼(親次)には父の兄弟になる伯叔父(志賀宗頓=林ゴンサロ殿)が一人いて、豊後でもっとも善良なキリシタンの一人であったが、彼はこの人物にたびたび書状を認めた。これらの書状はデウスの教えをほとんど何も知らぬ異教徒のものとは思われず、修道者の書状のようなものであった。彼(親次)は豊後で第二の家を継ぐのであるから、比べるまでもなく右の伯叔父より身分が高かったにもかかわらず、書状の中で彼は伯叔父に対し、洗礼を受けてキリシタンとして自由に生きるため、彼を家臣としてその邸内に置くよう請い、もしこれを承諾するならば、即刻、己れの所領と家をすべて棄て彼の保護下に入るであろうと言ったが、伯叔父は司祭たちの助言によって、彼の望みは必ず達せられるであろうから、辛抱して我らの主が他の手段を定め給うまで待つようにと返事した。
 この伯叔父は或る時、兄弟(志賀親度)を訪問するため、その所領に赴いたが、彼(親次)の両親は(伯叔父が)キリシタンであるため彼(親次)に勧めて受洗の望みをいっそう固くすることを危ぶみ、(伯叔父が)彼と語ることを決して認めようとはしなかった。少年はその望みが強いだけに、デウスのことについて伯叔父と語る機会を逸することが我慢ならず、夜間に家中の者が寝入った後、彼と語るため出向いた。伯叔父はそこからほぼ一里の所に住んでおり、道中、はなはだ難儀な川を二つ越え、夜の残り(の時間)をデウスのこと、ならびに良心について語った。これに関して相当学んでいた伯叔父は彼を助けることを大いに望み、自ら進んで聖人や殉教者の生涯について多くの話を聞かせ、これによって彼(の心)を日に日に燃えたたせていた。夜の大半をこれに費やした後、明け方に(家の)人々が起き出す前に帰ったが、伯叔父が同所にいる間は始終これを続け、一夜として途切れることがなかった。(第Ⅲ期第六巻191頁)

親次、臼杵の教会に赴き受洗を懇願するも、延期される
 伯叔父が帰ってから数日後、彼の父は他の重立った大身たちと共に或る重要な問題を世子(大友義統)と協議するため政庁に赴かねばならなくなり、(この際)子を伴って祖母である老国主の奥方(註)を訪ねることとなった。この好機は彼にとっていとも喜ぶべきことであり、他の武士たちと共に約二百名の家臣を率いて臼杵の教会に赴いた。彼は教会を見物に来たかのように、上辺はきわめて冷静ながら、胸中は(希望に)燃えていた。司祭と修道士たちは彼の身分に応じたもてなしをしたが彼は家臣の前ではあまり謝意を表さず、帰宅すると一通の書状を伯叔父に送り、彼がぜひとも洗礼を希望していること、ならびに、それがため彼の身に生じるいかなる艱難にも耐える覚悟であることを教会に行って伝えるよう請い、また、司祭たちの慈愛を知って感激するあまり、教会を出て家に着くまでの間、溢れる涙を抑えることができなかったので受洗を求めるのであり、父から妨害されぬため何時でも密かに伯叔父の許を訪れるであろうし、洗礼を受けた後はこれがため生命を棄てる覚悟であるから親戚一同の怒りを少しも意に介さぬことをしかとご承知おき願いたいと述べた。これに対し教会は、まず順を追ってデウスのことを聴聞することに可能な限り努めよ、これらを学んだ後でなければ何びとにも洗礼を授けないしきたりであると返答した。
 同夜はたいそう雪が降ったが、彼は諸人が就寝した後、己れの決心を告げた唯一人の家臣を供として暗がりを教会へと出向いた。我が臼杵の教会には夜の十時に到着し、夜半後の四時までデウスのことを聴き、少しも眠らずこれについて語った。一修道士がデウスについて語ったことを(聴いて)ただ歓喜したというだけで、彼がかくも機敏に終夜(聴聞を)続けるのを見て司祭や修道士たちは驚いた。また、司祭らがいっそう驚いたことは、彼を歓迎するため同所に日本人が非常に喜ぶ絵画や織物を多数準備し、時折、クラボを弾いて厳しい寒さを凌がせようとしたが、彼は一度たりとも絵画を見るために向き直ることも、また顔を動かしてクラボに耳を傾けることもせず、むしろデウスのことや霊魂の本質、数多の栄光なることを聴き、質問することに夢中で、デウスが御恵みを垂れて彼をかかる熱情のうちに燃え立たせ給うていることが認められた。四時になって彼に勧めて帰宅させることは難しく、司祭たちが再三、説得して帰らせなかったならば、夜が明けるまで留まっていたであろう。彼はふたたび来訪して残りの話を聞き、あわせて洗礼を受ける決心をして去って行った。日中は彼の小姓たちが厳重に監視しているので、公然と(教会に)来ることができず、可能な時になるだけ書状を教会に書き届けることで自らを慰めていた。
 翌日の夜、ついに彼は我らの修道院を訪れて、久しく延期されていた己れの望みを成就しようと期していたところ、いかなる方法によってか知らぬが、老国主の(元の)奥方がこれを覚り、急遽、彼の父(志賀親度)に宛てて書状を認め、子息が夜、密かに教会へ行き、洗礼を受けようとしていたことを伝え、彼を破滅させたくなければ十分に見張るように勧めた。さっそく、彼に多数の監視人が付けられたので、同夜は(教会に)来ることができなかった。司祭たちはすぐにも彼に洗礼を授けるのが良いか、或いはそれ相当の理由があるから、洗礼を延期するか、問題を協議した。国主フランシスコ(大友宗麟)は騒ぎが生じても知慮をもってことごとく鎮める人物なので、この(件)を知らせたところ、老(国主)は「右の青年が受洗することを大いに望むが、今のところはさほど急を要することはないので、しばらくの間、延期するのが良いと思われる。なぜなら国は今、戦時下にあって乱れており、彼の父は非常に有力な大身であるから、洗礼を授ければたちまちデウスの教えに反対する父母や老国主の奥方、親戚たちの側から青年に対して数多の反動が生ずるやも知れず、また、近々父より受け継ぐことを期している身分と非常に大きな家の財産を奪われる危険があるためで、今しばらく(洗礼を)延期すれば、彼は家中において徐々に権力を得、やがて望み通りに多数の家臣の主人となれば、何びとにも妨げられず容易にキリシタンとなり、二万余の人々をお自由にキリシタンにすることができるであろう」と答えた。この国主の意見によって司祭たちはしばらく延期するのがよいと考えた。
 彼がかの城下に滞在した間、彼に対する警戒がはなはだしく絶えず番人らに囲まれていたので、昼夜ともに家から外出することができなかったばかりか、たちまち帰国を強いられた。洗礼が叶わなかったので司祭たちは祈りを捧げるための聖母の像を一つ彼に与えたが、彼はこれを大いに喜んで身に携え、自領から(我らに)たびたび書状を送って止まず、これを支えとして信心をますます深めていった。人の言によれば、当(一五)八四年内に彼の父は家督と所領の統治を彼に譲る決心をしているとのことであり、もしそのようになれば、豊後国にとっては我らの主なるデウスが大なる改宗と既存のキリシタン宗団の保護のために新たに開き給うた重要なる門戸の一つとなることは疑いない。(第Ⅲ期第六巻191193頁)

 ※「(親次の)祖母である老国主の奥方」とは、大友宗麟の前夫人イザベルのことであるが、志賀親次の母はイザベルと前の夫との間に生まれた娘であった。

 (つづく) 

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