七年間待望しながら、周囲―とくに祖父・親守(道輝)と父・親度(親教)の反対のゆえに叶わなかった志賀親次の受洗の日が1585年、ついに訪れる。『日本史』の記者ルイス・フロイスはその次第を「1585年8月20日付書簡」で詳細に書き残している。場所は「府内の学院(コレジオ)」、ペロ・ゴーメス師から「ドン・パウロ」の名が授けられた。
祖父道輝(親守)はこれを知り、激怒するが、親次は勇敢に対峙する。すでに志賀家の家督をうけた立場であり、宇目(うめ)の砦で防衛の任に当たっていた祖父を呼びつけ、〃キリシタンになったことが気にくわないなら、家督を返上する〃と。また、宗麟の嫡子義統の棄教勧告に対しても、毅然としてこれを断った。「必要な場合には、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備が出来ている。…私が名を賜わった使徒サン・パウロは、その信仰告白のために殺されたが、私もそのために死にたい。」―これがドン・パウロ志賀親次のキリシタン信仰に基づく決意であった。
ジュスト高山右近が太閤秀吉から棄教を迫られたとき、「全世界に代えても、棄教して己が霊魂の救いを棄てる意志はない。それゆえ、年貢米六万俵におよぶ明石の領地と知行を即刻返上する」と答え、追放されたことは有名であるが、親次のそれは右近より二年前のこと。「西の右近」と称されるにしかるべき人物であった。
祖父・親守(道輝)は孫・親次の捨て身の訴えに、折れた。
ルイス・フロイスは他に、男児の死去に伴う親次・マダレイナ夫妻の態度、親族・臣下の受洗、仏教寺院の取り壊し、仏僧の追放など受洗を前後して起きた諸事を交え、ドン・パウロの火のごとく燃えるキリシタン信仰を描出している。
■1585年(天正13)1月~7月
史料=【1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡】
―記者フロイスが親次の受洗に至る七年を再度、振り返る―
…イザベルの孫で、豊後の国では三番目の人である高貴な若者(志賀親次)のことは、数年前すでに書き送っている。この人は十二、三歳であるが(※十二、三歳であった頃)、政庁から十一里離れた自領にいたため、イエズス会の司祭も修道士も、かつて見たことがなく、説教を聴いたこともなかった。国主フランシスコがキリシタンになったのを聞き、またその掟では、十字架を崇め、その十字架がどういう形をしているかを聞いた。というのは、彼は十字架を見たことがなかったためである。しかしその十字架の意味も知らなかった。彼はキリシタンになりたいと強い望みを持つようになり、いとも幼いのにその望みから小刀を取り、人から聞いた通りの十字架の形を腕に刻み、墨を塗った。その十字架は、非常にはっきり刻まれたので、今日でも残っている。その後或る司祭が、彼の十字架を見たが、執拗に頼んだところ、それを見せた。彼がキリシタンになりたいという望みを持ったまま七ヶ年が過ぎたが(註)、彼の両親が、未だ反対していた。特に祖父の志賀(道輝)殿は、豊後における我らの最大の敵であった。(第Ⅲ期第七巻22頁)
※註…志賀親次の年齢はこの年(1585年)、19~20歳であった。
―志賀親次、ペロ・ゴーメス師から受洗、ドン・パウロの名を受く―
或る機会があって、彼(志賀親次)は嫡子(大友義統)を訪ねて臼杵に来たが、そこにフランシスコ・カブラル師がいたので、夜中密かに修道院に来て、我らの聖教のことを聴きたがったので、一人の修道士が、夜中の八時から夜明けまで彼に説教をした。しかし、国主フランシスコ(宗麟)は、十分な理由があって、彼が改宗する時ではないと思っていた。というのは彼は長男で、その後(家を)継ぐことになるのだが、当時は未だ父親から家を継いでおらず、先に述べた通り、七年間も洗礼を受けたいという望みを持ったままでいたのである。この若者については、多くの励まされることがあり、主におかれてもお喜びのことであるが、このように幼少の時から変わらない心の強さを持っていることは、少なからず賛嘆すべきことである。国主フランシスコが述べたように、我らの主は彼を豊後におけるキリシタンの大きな支柱として、国主フランシスコの代わりとなるよう選ばれたように思われる。
今回、国主(宗麟)と嫡子(義統)が府内にあり、そこに老中および国衆、すなわち国中の主だった人々が集まり、また家の名により志賀殿と呼ばれるその若者もそこに来たが、彼はその位階、家柄、領地において全員の中で二番目か三番目の人である。府内に着くとすぐ、彼が信頼している家臣の一人だけを仲介にして、極秘裡に、ペロ・ゴーメス師と、昔から長い間引き延ばされた望みをはたす方法について相談し始めた。司祭は、何回か我らの日本人修道士を通じて彼に書状を出しており、彼の方も極秘に返事をしていた。というのは、嫡子が意図的かつ効果的に彼に警告を与え、さらにいかなる場合でもキリシタンにならないという誓いを、彼の抗議にもかかわらずさせていたからである。しかし彼にもっとも苦痛を与えていたのは、人に知られずに家を出ることはできなかったし、昼間は無理だとペロ・ゴーメス師が言ってきたからである。何故なら、数年前に臼杵で彼は終夜教理を聴いたが、再度聴くことが必要と思われたし、また彼に重要なことを伝えたいが、昼間は無理で、しかるべき時間が必要と言ってきた。昼間は、彼一人で家臣を伴わないで長時間司祭や修道士といることはできなかった。というのは、皆の話題となるだろうから、結局彼は見つかれば嫡子(義統)の不興をかう危険をおかして、夜来る決心をした。学院の道側の扉を彼のために開けておき、そこに彼は夜やって来た。ペロ・ゴーメス師は、修道士たちに部屋に引きさがるように命じ、志賀殿を特に彼にためにきれいに飾った部屋に導き入れた。日本の慣例の鄭重な挨拶をした後、少し話しを始めたが、ペロ・ゴーメス師は彼の判断力と慎重さを讃嘆し、満足した。ジョアン・デ・トルレス修道士が、彼と彼が同じ目的のために連れて来た二人の家臣に、もっとも必要で不可欠のことについて細かに説教した。教理と、彼にもっとも必要な注意が終わって、ペロ・ゴーメス師が彼と彼が連れて来た二人の若い武士に洗礼を授けた。彼には、ドン・パウロという名を付けたが、すでに十二時を過ぎ、そこに列席していたのはペロ・ゴーメス師と学院の副院長、および二人の修道士だけであった。彼は大いに励まされ、それは我らの励みでもあったが、立ち去るに際し次のように述べた。数日前彼の初めての子供が誕生したが、子供が生まれた時よりもその夜はさらに素晴らしい歓喜と満足を見つけた、と。
豊後でこのように高貴で、温和で、抑制された性格の若者をキリシタンに成し給うた我らの主デウスの栄光をたたえる司祭には、こと欠かなかった。この改宗から、この国における大いなる収穫が期待される。次の日、ドン・パウロは贈物の食物を持った者を公然とペロ・ゴーメス師の所に遣ったが、彼の側も、こちら側も洗礼のことについては判らないように、というより知らぬ振りをしていた。その後彼は教会と学院を見るために来た人の風を装って、家臣を連れて公然と来訪したが、彼と共に来た家臣を考慮して、我らは知らぬ振りをしていたところ、彼は帰った後、教会側も知っての通り、最近キリシタンになった人たちと彼は違い、七年間洗礼志願者だったので、何か特別の扱いに価するのではないかと司祭に伝言し来、国主フランシスコが、キリシタンになった時のロザリオを彼に秘密に送って来たのを司祭に見せるよう命じた。司祭は手元にそれ以上の品がなかったので、ゴアから来た銅に金メッキした聖遺物匣を送ったが、それを受け取ると彼は喜びを隠しきれなかった。修道院長の司祭も彼に縁飾りが付いた紙製の記録帳を一冊送った。
ペロ・ゴーメス師は、以上の出来事を嫡子に知らせた方が良いのではないかと国主フランシスコに相談した。というのは、皆がドン・パウロはキリシタンだとすでに言っており、彼の父もそのことにすでに同意しているので、嫡子がこれを知った時、異常な言動をとらないためである。ドン・パウロは、国主の勧めで、彼がキリシタンになる許可をくれるよう、嫡子に使いを出すことを決心した。彼は長年の間キリシタンになることを望んでいたからである。しかしこの伝言をあえて嫡子に伝えに行く者がいなかった。このことが市に伝わり始めたため、彼の家臣が教理を聴きに教会に来て少しずつ洗礼を受け、祈祷文を書いて持ち帰った。国主は知らぬ振りをしてドン・パウロにその家臣をキリシタンにするよう伝言を送った。というのは彼の祖父(志賀道輝親守)はデウスの教えの大いなる敵であり、そのため国主フランシスコに嫌われ、この国の岬にある宇目(F.Vme)の砦に追放されたままであるが、国主がわざとこういう伝言をすれば、孫が祖父の意向を聞くだろうからであるが、はたしてその通りになり、そして祖父は、憎悪を感じながら、汝は国主の命令通りにせざるを得ないだろう、と答えた。
ドン・パウロは、府内から彼の領地に帰ることにし、白昼、公然とペロ・ゴーメス師に別れの挨拶に来た。司祭は彼の切なる願いにより、彼にボヘミア・ガラスの玉(コンタ)を、また、彼の妻にはロザリオを与えたが、彼は近いうち、妻をキリシタンにするため教育をすると言った。また多くの聖女の名前を書き付けたものを持ち帰ったが、これは家の者たちに、その名をつけるためであった。次の日、司祭に別の伝言を送り、その出発の様子を知らせ、また国の者たちをキリシタンにするようにと国主に強く勧められて帰る旨、さらに修道士たちの時間がある時に、彼らを迎えに来る人を送り、すぐに彼の臣下に教理を聴かせようと言った。彼の臣下は男、女、子供合わせて七万人を超えるということである。…
ドン・パウロはキリシタンとなって志賀の領地に向かった。帯にはロザリオをつけて、それについて人がどう言うかも気にしなかった。その地では都合がつかなかったので、その近くの、かなり大きな教会がある夏足(なたせ)の領土のサンチョと呼ばれる別の殿と連絡をとり、そこに一司祭と修道士を呼ぶよう要請した。そうすれば、彼はそこに家臣の武士を送り、教理を聴かせ、すぐに洗礼を受けさせられるからである。そしてそのようにした。ここでは、その他の多くの出来事を語るのをやめ、我らの主がドン・パウロの信仰と精神を試し、確認するために用いた多くの逆境と、それがより大きな彼の生涯にわたる功績、好評、徳の向上につながって行ったことを語ることにしよう。(第Ⅲ期第七巻23~26頁)
―高田の未亡人の養子となっていた親次の下の弟―
彼の一番下の弟が、先に述べた府内の近くの大きな土地高田を治める未亡人の養子となっているが、そこの多くの人たちがすでに洗礼を受けているだけでなく、兄のパウロを通じキリシタンになる者がいるのは間違いない。彼は府内を去る前、弟が司祭や修道士と知り合いになり、友達となるよう、学院に行かせたからである。(第Ⅲ期第七巻26頁)
―祖父・志賀道輝(親守)および大友義統との確執―
(志賀)道輝と呼ばれる彼(親次)の祖父は、我らが豊後で持つ最大の敵の一人であり、孫の改宗を知ると極度に怒り、デウスの教えに対し悪態の限りをつくし、少し前に、国主フランシスコの命ずる通りにせよと孫に伝言したことを忘れ、いっそうそのことで怒って常軌を逸し、嫡子(大友義統)の所に次のような伝言を送った。「予の孫はキリシタンになったと言われる。彼のすべての祖先が崇めた神・仏(カミ・ホトケ)を拝むことをやめ、先頭に立ってそれを破壊しようとし、すでにそれに着手したと言われるが、寺院を破壊し、仏僧にキリシタンになれと勧めているといわれる。無知な若者なので、それが天から落ちたか、地から湧いたかわからぬ日本のものでない教えを受け入れた。これは明らかに志賀家、ひいては豊後の国の滅亡である。殿に彼を、その不服従に適わしい厳しさで罰するようお願いする。彼は予の忠告を無視し、キリシタンにならないとの殿への誓約さえ尊重しない」と。嫡子(義統)は非常に怒り、その件では最高に驚いており、彼に対する約束を破る以上のことであると言い、すぐ使者を遣わして、キリシタンであることをやめるよう命じ、もしこれに従わない場合は、今の地位からはずし、追放するであろう、と返事した。そして、すぐ高山およびもう一人の大津留殿と呼ばれる二人の武士を派遣して伝言を伝えさせた。その伝言は次のようなものである。「汝の祖父は、汝がキリシタンになったと言って寄こしたが、このことで予は非常に驚いている。これは極めて奇妙と思わざるを得ない。というのは、汝も知っての通り日本の習慣によれば、老人たちはその年齢と身体の不調により、この世の統治の仕事や役職をこなすことができないので引退し、家や収入をその子らに譲り、また自分自身の救いの事に専念することになっている。しかるに若い男子が信仰にうつつを抜かし、来世に望みを託すなど相応しくなく、褒められたことではない。なぜなら、若者の場合、信心深いとか、救われたい望みを持っているというよりは、むしろ臆病や覇気がないように見えるからである。したがって汝を愛し、また親類関係にある故、汝が転向し、これ以上偶像の寺院や神も仏も焼かないよう忠告する。もし汝に対する予の忠告が判らぬ場合は、予は予のなすべきことをなすであろう」と。ドン・パウロはその使者たちを歓待し、次の日、領地のかなりの部分が見渡せる高い所に建った家に彼らを招待することにした。彼らが着座した後、ドン・パウロは意図的に、その近くにある二カ所の神社に放火するようにと命じた。神社が炎を上げ始めると、家の中で大きなざわめきが上がった。というのは彼の家臣さえそれが何だか承知しておらず、使者たちの場合はなおさら驚嘆し、混乱し、ほとんど顔色を変え、窓の所まで行って、窓にくっつき、火を眺めていた。ドン・パウロは使者たちに言った。「さあ、もとの座に戻られよ。何でもない。予の家臣の誰かが、長い間汚れていたあの社殿をきれいにしているのであろう。」と。そして接待が終わると次のように言った。「予は、第三者を通じて、特に予にとって極めて重要なことについて、嫡子にお答えするのは失礼と思うが、殿は貴公らが返事を持たずに帰ると良く思われないであろう。ついては次のように伝えてほしい。「予がキリシタンになった点については、予がデウスについて得た知らせにより、むしろ予の中に今まで以上に良く今後は嫡子に仕えようという気持ちが増したので、これを怒らないでほしい。また神・仏の寺社を、如何なる場合であれ焼くなどという命令については、殿に次のことを思い出してほしい。殿が繁栄した四カ国を失った後、従う民も、兵も、戦さで使う武器もなく、多くの悲惨さと不如意に陥った。その時、殿の慎重さと、その日その日の欠乏を埋めるための良き進言により、その解決策として、府内の市内にある主要な僧院で、領内でもっとも格式高く高名な万寿寺に密かに火を放つ命を下し、次いでその寺院の収入を戦場で殿に仕えた貧しい武士と兵に分配した。この解決策は非常に効果的だったので、短時日の間に事態を今日のように好転させるのに十分であった。このため予は、殿の真似をすることを強くの望み、殿により良く仕えるため、現在幾つかの寺院を焼いている、というのは、仏僧の収入を家臣に分配し、その数を増し、武器を光らせ、さらに良馬を探し、そしてその他の洗練された戦法と機動力を用いるものである。予が行なっていることは以上の通りなので、叱責や脅迫よりも殿からの栄誉や報賞、賞讃に価すると思う」と。嫡子は、この答えに憤慨し、幾度かさらに厳しい伝言を伝え、また別の伝言を世捨人のドン・パウロの父(志賀親度)に送り、何故息子に反対し、彼にキリシタンをやめるよう説得しないのかと言った。ドン・パウロは、学院に何回か書状を寄こしたが、その中で次のように述べている。「嫡子は盛んに私を脅迫し、転向させようとしている。しかし私はデウスの御慈悲により平静で、必要な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。何故なら、この七年間のキリシタンになりたいという望みが叶えられたということを知るだけで十分である。私が名を賜った使徒サン・パウロは、その信仰の告白のために死んだが、私もそのために死にたいと明言する」と。(第Ⅲ期第七巻26~28頁)
―ドン・パウロ親次の捨て身の信仰に祖父志賀道輝(親守)が折れる―
この時彼の祖父道輝は、国の岬にある宇目の砦を防衛しており、薩摩との戦さの懸念があった。そこへドン・パウロ(親次)は、四、五回使者を派遣し、祖父が嫡子(大友義統)に自分を中傷したことで非常に傷つけられたことを明らかにし、また祖父のような近い親類は、子孫がより繁栄するため、その世代を引き立て支援するのがどこの世界でも共通の慣習である。したがって祖父のように老齢で経験豊かな者が、そのまったく逆のことをするのは理解できない、と言った。そして、今祖父と話したい重要なことがあるので、御足労ではあるが、何かが生じ、その後では取り返しがつかなくなる前に、志賀まで来られるよう希望する、と熱心に頼んだ。老人道輝は、三、四回断ったが、彼の度重なる頼みにまけて、ドン・パウロに会いに志賀まで来た。
日本においては、家または父の所領を長男に譲る時は、その家の名誉の称号、祖先の中の著名な者、祖先が持っていた免責と特権を記した系図と呼ばれる書き物もいっしょに渡すのが習慣である。ドン・パウロは、これをすでに家と共に父と祖父から受理していた。ドン・パウロはわずか四、五名の家臣を従え、その内の一人が先に述べた書き物を収めた箱を持ち、祖父の道輝が待っていた部屋へ入って行った。そして言った。「私を殺すか、国の外に追放するよう嫡子に勧めた御許様の非人間的な私に対する残酷さを誠に残念に思わざるを得ないが、一つだけ私を励ますことがある。それはすでにキリシタンになった私の家臣の忠誠と愛を見ることで、皆の者の最終的な結論として、もし私が国外に追放される場合には私に付いてくる、もし私が殺されたら私と共に死ぬ。そしてもし私がこの地に留まれば大いなる忠誠をもって尽くすことに決めている。これは彼らがキリシタンとなり、デウスの教えを知ったことから来るものである。御許様は身分高く、多くの経験を重ね、名誉とこの国についての知識で尊敬されているので、私は御許様の不興の種となることを望まず、また御許様が今まで私に与えたものより以上のものを受け取るつもりはない」と言い、書き物が入った箱を取り、立ち上がってそれを老人の前に置き、次のように述べた。「ここに私は志賀家の長子を放棄し、御許様にお返しする。私には二人の弟がいるので、二人のうち、どちらか御許様が気に入った方に志賀家を継がせてほしい。そして家を二つに割るもよく、一つは御許様がこれから定める長子のものとし、もう一つは私に。というのは、この家の主要な従臣と武将は私に仕えたがっており、別人には仕えたがらないからである。この新しい長子に残される収入で皆の者が暮らし、私は国を治める大きな義務から免れ、多くの煩瑣からも自由になって、戦さのことで今まで以上に嫡子に、身軽になって仕えられよう」と。老人(道輝)は、その孫がそのようにつきつめて決心しているのを見て驚き、特に家を分けるというのを聞き、それも半々に分ければすぐ家の滅亡につながるので、ふたたびその箱をドン・パウロの前に押し返したが、彼は受け取らなかった。そこで少し押し問答があった。「汝が受け取るべきだ」。「いや私がとるべきではない」と。ついに老人が善意をもって彼に言った。「息子(孫)よ。すでに予と汝の父(親度)が志賀家を汝に渡した以上、汝は一時の感情から家の相続を放棄するというのは良くない。嫡子(義統)に対し、汝を𠮟るように言ったのは、憎しみからではなく、汝に対する愛情からだというのは判るだろう」と。そして目に涙をためて、付け加えた。「キリシタンのままで良い。その内予が嫡子に、そのことで汝を苦しめないよう働きかけよう。一つだけお願いがある。汝も見ての通り、予はもう年寄りで、仏教徒だ。だからここにある二つの寺院には手を付けないでほしい。これは先祖からの寺院で、予が死んだ時仏僧が予を埋め、葬式をするようにだ」と。孫のドン・パウロはこれに答えて言った。「デウスに対する冒瀆に同意する訳にはいかない。御許様の言う通りにすれば、悪魔をふたたび尊拝することを認めることになってしまう」と。その時彼の年老いた家臣が十名から十二名入って来、穏やかな言葉でドン・パウロに、そのような小さな事では祖父に同意した方がいいのではないかと言い、さらに彼がいかに祖父の恩を受けているか考えてほしいとか、祖父の願いを弁解し、それをかなえるよう、涙をためて彼に願った。ドン・パウロは。極めて厳しい顔付きを見せ、短く次のように言った。「汝らは皆、予に対する愛がないから、祖父のために予にそのようなことを頼むのだ。そんなことをすれば、予は地獄に投げ込まれる。出て行け。もう二度とそのことは言うな」と。そして祖父道輝に別れを告げ、書き物を入れた箱を持って家へ帰った。
老人道輝はふたたび嫡子(義統)に話しに行って、言った。「殿、私の孫がキリシタンになったので罰するようにお願いしたことで私をお許しいただきたい。彼は若く、忠告する者がいないため、志賀の家を分裂の危機に追いやるかも知れない。それによって国を乱し、すぐ問題を新たに生じさせるであろう。それ故彼をキリシタンのままにして置くよう殿にお願いする。そうすれば、時が問題を解決するであろう」と。嫡子は怒り、老人に対して激しい口調で言った。「予の父が支配していた頃、予は五、六カ国を有しており、その後自ら治めるようになって以来、いつも御身は自分の言葉に責任を持ち、年齢に相応しい助言をする男だと思ってきた。ところが、今や精神がすでに錯乱しており、予は御身のことを恥ずかしく思う。御身は予を知恵の足りない男と思い、どんな言葉にでも動かされると思っている。御身の孫がキリシタンをやめるようにしてくれと予に頼んでおいて、今度はキリシタンであることを認めてくれと、またわけもわからず頼みに来た。御身に対しては、もっと厳しく答えるべきだが、今陣中にあり、混乱を引き起こさないよう、これ以上は言わない」と。(第Ⅲ期第七巻26~31頁)
―国主に対するドン・パウロ志賀親次の忠節、および親次家族らの受洗―
嫡子(大友義統)は、もし国主フランシスコ(宗麟)の勧誘と尽力がなければ、ドン・パウロ(親次)の改宗は行なわれなかったに違いないと思うようになり、そのことについて国主に幾度か伝言を送り、また非常に礼を失した書状を二通送り、その中で、今や国主の助力は不可欠ではなく、必要ともしないこと、国のこと〔すでに譲位している〕に必要以上に介入し過ぎることを明確に判らせるようにした。国主は、当然これを非常に残念がり、今日に至るも互いに連絡はない。…
戦さに出掛ける時が来ると、嫡子は国内の主要な殿である国衆に兵を調えて出発するよう書状を送ったが、ドン・パウロに対してだけは、彼に対する不興のため、書状を送らなかった。そして老国主(宗麟)に国主自ら彼に戦さの準備をするよう命じてほしいとの伝言を送った。しかし国主の伝言は必要がなかった。というのは、彼自ら、嫡子に書状を出さないのを詫び、すぐ出発したからである。そして嫡子のいた玖珠に最初に着いたのは彼であった。彼は故意に少しの兵しか伴って行こうとしなかった。というのは、嫡子が彼に対して何かたくらんだ場合、自分を守るために兵を連れて来たと思われないためである。皆が、このことを勇気があり、また思慮あることと解釈した。嫡子は、彼がこのように早く来たのを見て、彼に言った。「良く来た。他の国衆はまだ来ていないので、汝は引き返してゆっくり兵を集め、連れて来るが良い」と。ドン・パウロはこの伝言をもって家に帰り、彼の夫人と家族全員が洗礼を受けるため、司祭一人と修道士一人を臼杵に呼びにやった。修練生の指導司祭であるペロ・ラモン師と日本人の修道士一人がそこに向かった。彼らがそこに着く前に、ドン・パウロは家を出、途中のかなり手前で出迎えた。というのは、家におれる日がすくなかったので、戦さの準備で忙しくなるに先立って、その間に彼の妻、家の身分の高い何人かの人々、他所から来てそこにいた同様の人たちに教理を聴かせるべきだと思っていたからである。説教が終わり、司祭が彼らに洗礼を授けたが、その時ドン・パウロの一人の息子もいっしょであった。その子はドン・パウロがキリシタンになる前に生まれていたのである。そこで司祭と修道士は臼杵に帰り、彼はすぐ戦さに行く準備をした。(第Ⅲ期第七巻31~32頁)
―ドン・パウロ親次の男児の死去、および臣下の受洗―
我らの主は、ドン・パウロの心を試そうと、さらに手を下し始めた。というのは受洗の直後、ドン・パウロの子供が膀胱炎を病んだ。皆の者が驚いたのは、息子の病気の際に見せた彼の平常心と強さで、またその子が死ぬと、彼は人や家族を励まし、息子は間違いなく天国にあり、父より何と幸せで至福に満ちていることか、父にはこれから先何が起こるのか判らないと説いたことを知った時の皆の驚きはいっそう大きなものがあった。
ドン・パウロは軍団を離れて家に帰ろうとした時、それに先立ってペロ・ゴーメス師に伝言を送り、彼が家に帰り着いた時、そこに司祭一人と幾人かの修道士がすでに来て、引き続き彼の臣下をキリシタンにするよう、熱心に願った。すぐペロ・ラモン師と二人の日本人修道士が行った。ドン・パウロは五、六人頼んだのであったが、それ以上は無理で、三人であった。というのは、その他の者は他の地方を説教し、洗礼を授けて廻っていたからである。ペロ・ラモン師は修練院で引き続き大いに必要とされていた人であるが、かの地に今是非行く三つの理由があった。第一に国主フランシスコが何度もそれを勧め、そこに司祭を駐在させるよう切望したこと。第二に同師の教理、忠告、および慣行により、ドン・パウロが我らの聖教について、より良く知り、彼がしっかり知ることによって臣下が堅固な信仰を持つからである。今試そうとしていることは、主要な頭(カペーサス)をすべてキリシタンにすることである。第三に仏僧や、デウスの教えの敵たちは、この地を撹乱するため、ドン・パウロの子供の死が明らかにドン・パウロに対する神や仏の罰であると声を大にして言うに違いないからである。そこで司祭が同地にいて、これらの噂、中傷、および大騒ぎを打ち消すことが必要であった。ドン・パウロ自身、ペロ・ゴーメス師に、修道士一人と司祭一人が、その地の人々を教化するために必要であると伝えて来た。
六月四日に、ペロ・ラモン師は、志賀からペロ・ゴーメス師に一通の書状を寄こし、いかにしてどこで千数百人の人々に洗礼を授けたか、また改宗の仕事が順調に進んでいる旨、報告してきた。また修道士の一人は、そこに教会がないため、ドン・パウロは彼の何軒かの家を明け渡し、そこを一教会としたが、そこに三、四千人が入れる旨知らせてきた。戦さの人手を増やすため、仏僧たちの収入を臣下に分配しつつあり、そのため彼に従軍する騎馬武者の数がかなりあり、戦場で多くの異教徒の中を彼が十字架の旗を立てて進む目立つ姿は、大いに見応えがあると言われている。(第Ⅲ期第七巻32~33頁)
―志賀と久我殿領との境界にある寺院の顛末―
嫡子(義統)は今のところ、ドン・パウロが臣下をキリシタンにするのを妨害してこなかった。ただ数日前、ドン・パウロの管轄地内の嫡子自身の給人に、キリシタンにならないよう命じている。これにより、嫡子はドン・パウロの権限内のことには、あえて干渉しないように見える。国主フランシスコの婿の一人(久我三休)が、志賀領に接して少しばかりの農園を持っていたが、この男は昔仏僧で久我殿と呼ばれ、常にデウスの敵であった。嫡子には義兄弟に当たるが、それでも嫡子を喜ばせようとしてキリシタンに非常な敵意を示していた。彼の領地の境界に一大寺院があり、双方の領主に属する標識、または境界線となっていたが、ドン・パウロはキリシタンなので、その偶像を取り壊したいと彼に伝言を伝えた。久我殿は異教徒なので、破壊したくないと返事した。そこでドン・パウロは彼に属する寺院の半分を破壊し、他の半分はその持ち主のために残して置くよう命じ、相手側の権利を損なうことなく、それを実行した。しかし寺院は機能しなくなり、きたなくなって、異教徒のための祈祷の場所というより、むしろ烏たちの家のようになった。(第Ⅲ期第七巻33頁)
―ドン・パウロ親次、仏僧を追放する―
ドン・パウロは家臣の幾人かに教理の説教を聴くように話した。彼らは答えて言った。「喜んで聴きましょう。またキリシタンにもなりましょう。というのは、主君が新しい教えを受け入れるには、それが日本の教えより良いとまず確かめたに違いないからです」と。彼らの中に、神や仏を深く信じていた一人の自由で大胆な仏僧がいて、言った。「拙僧も聴きましょう。しかしキリシタンになるについては、もしそれが理解できればなりましょう。ということは、理解するということは、そうなりたいということと同じです。何故なら、そうなる気がない人々は理解することができないというか、或いは理解することが信ずることと同じだというのが判らないからです」と。ドン・パウロは、彼の言うことが理解できたので、すぐに、「予は説教を聴き、理解した。汝が理解できないはずはない。ところが汝は今理解する期待がほとんどないことを自ら明らかにしている以上、汝がキリシタンになる期待は予にはなおさら持てないので、説教は聴かなくてよろしい。立ち去って自分の生活を探すがよい」と言い、彼を追放した。(第Ⅲ期第七巻34頁)
―大友宗麟亡き後の強力な円柱となるであろう―
これが本年一五八五年の一月から七月末までに豊後で生じたことである。我らの主の愛により、ぜひ尊師が、司祭と修道士たちに、その祈りにおいてドン・パウロを推奨するよう命じられんことをお願いする。また我らの主が彼を守り、前進する砦を彼に与え給わんことを祈る。これはデウスの恩顧の力により彼の中で始まったものを我らが見るからである。我らの主が、国主フランシスコを御許に召し給うとも、豊後の国においてはドン・パウロが一つの強力な円柱となろうからである。船が出帆するまでに、さらに豊後で起こるべきことについては、司祭たちが当方に知らせてくるにつれて、尊師とインド管区長師に通信することにしたい。以上により、尊師からの聖なる祝福をお願いし、また、尊師の犠牲と祈りにおいて、我らの主に、我らをよろしく推奨お願いしたい。/長崎より、一五八五年八月二十日、/キリストにおける尊師の息子、ルイス・フロイス(第Ⅲ期第七巻34頁)(つづく)
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