1587年(天正15)、清田鎮忠・ジュスタ夫妻が豊後を追われ、長崎を目指したとき、菊池郡のどこか―または高瀬にいた清田一族が病身の鎮忠を介抱し、長崎まで送り届けたのは間違いない。述べたように、鎮忠は同年暮れ(11月23日)、長崎で病死した。
■長崎のジュスタ
ジュスタはこのあと、1627年(寛永4)8月7日に逝去するまで約40年間、長崎で暮らすことになる。
寡婦になったとは言え、父宗麟の後妻で同じく未亡人となっていたジュリアとその娘、姪のマセンシヤ(妹テクラの娘)もいたし、また、大友家の家臣、そして一般のキリシタンたちも多数避難していた。迫害を逃れ、各地から移住したキリシタンたちによって新しく作られた町長崎は当時、長崎湾の最奥部に突き出た小高い丘の突端にイエズス会の日本管区本部サン・パウロ教会があり、その背後に大村町、横瀬浦町、島原町、五島町、博多町等が順次作られていた。ジュスタら豊後からの移住者たちも、そこに隣接して居住し、「豊後町」と名付けた。
やがて秀吉の時代が終わり、徳川氏が政権をとったそのごく最初の頃まで、キリシタンの全盛時代があり、ジュスタは他の大友家ゆかりの女性たちとともに教会に通い、ミサに預かり、祈り、時には彼女たちのリーダーとして「ポロシモの大切(隣人愛)」に励んだことと思われる。
ところが1613年、徳川幕府の禁教令発布を境に、暗転する。複数あった教会はことごとく取り壊され、抵抗する信者たちは捕らえられて殺された。5万人もいた長崎のキリシタン人口は、禁教令後、2万人に減少した(「1615・16年度イエズス会年報」)。キリシタンたちのほとんどは「転び」(棄教し)、近郊の野山に逃れた。
―ジュスタはこのとき、「豊後町」から何処に逃れ、隠れ住んだのだろうか。『志賀家事歴』(1821年・志賀親籌筆)によると、元和もしくは寛永年間はじめ頃、同じく豊後出身で、竹中采女正重義(府内城主のち長崎奉行となる)と懇意になって浦上淵村竹の久保に住んでいた志賀宗頓(ゴンサロ林与左衛門)を訪ねて来た、と記している。志賀氏は、すでに老年を迎えていた彼女を世話し、最期を看取った。
長崎町の対岸、稲佐山の南東麓に位置する浦上淵村13郷は、山里村6郷とともに当初、幕府領浦上村と称された。1605年(慶長10)以降、庄屋高谷氏(元「菊池」性、肥後国出身)が管轄し、その後寛永年間はじめ、志賀氏が里正(庄屋)となるにより淵村として分離された。山がすぐ海に迫る地形であるため、各郷は孤立し、往来は船によるしかない不便な土地であるが、転びのキリシタンたちが秘かに隠れ住むには格好の場所であった。寺野郷、竹久保郷、稲佐郷、水浦郷、西泊り郷、船津浦、立神郷、平戸小屋郷、瀬ノ脇浦、飽ノ浦郷、岩瀬道郷、木鉢郷、小瀬戸郷、―ジュスタはこのうちのどこかに身を潜めていたものと思われる。
■イエズス会から托鉢修道会に移行して
長崎のキリシタン史は1614年以降、イエズス会より半世紀遅れて来日した托鉢修道会の宣教師たちによる「転び」の「立ち上げ」(=再改宗)活動の時代になる。この事実は長年知られなかったが、最近、「浦上や外海のかくれキリシタンはドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチヌス会の信仰を伝承していた」ことが明らかにされている。元イエズス会信者で長崎代官となった村山等安が、途中からドミニコ会の信奉者に転向し、その一家が秘かにドミニコ会宣教師を匿い、支援していたこと。1627年、西坂で殉教したマグダレナ清田が、ドミニコ会所属の信者であったことなど、その一例である。
淵村・山里村は長崎町と同じく天領になるが、隣接の大村藩領(一部は佐賀藩領)を「或る時は野に臥し、山を家として」巡回していたドミニコ会、フランシスコ会の宣教師たちが訪れ、司牧した。その一人で、病に倒れるほど熱心に彼らの世話をしたドミニコ会のジュアン・デ・ルエダ神父は、今なお黒崎のかくれキリシタンたちに「サンジワン様」として崇められている(註2)。(つづく)
※註1…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガルイエズス会司祭・修道士宛書簡。「1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛・1582年度年報」。
※註2…枯松神社に祀られる「サンジワン様」はこれまで、イエズス会の史料で解くことができない、謎の人物とされてきた。筆者はドミニコ会の記録文書をもとに、「ロザリオ神父」と愛称された「ジュアン・デ・ルエダ神父」であることを突き止めた。この秋(2017年)、同神社例祭に招かれ、公表した。
「享和2年肥州長崎図」より部分 |
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