同じく徳川時代末期に書かれた史料で、『太宰管内志』(1841年、伊藤常足編著)があるが、ここにもジュスタの夫・清田鎮忠について「大友義統婿」と、事実と異なる記述がある。正しくは「大友宗麟の婿」である。
■大友義統によって排斥された清田鎮忠・ジュスタ夫妻
清田鎮忠・ジュスタ夫妻とその一族が給領地・清田(豊後国判田一帯)を追放されたのは、島津との最後の激戦が展開された天正15年(1587)春のことだった。大友家救援のため「秀吉が小倉に着陣」したとき、島津に寝返った家臣らも馳せ参じたが、病身であった清田鎮忠は代わりに近臣を遣わした。そのとき「島津に与(くみ)していた輩(やから)が鎮忠を讒言(ざんげん)し」、ために鎮忠は「(追われ)肥前国に籠居」した、と『太宰管内志』は説明している。
清田鎮忠は何を理由に「讒され」、追放されたのだろうか。意味がくみ取りにくいが、これについて事件を直接目撃したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、反逆家臣を処分した理由を明確に述べている。すなわち、島津に与しながら秀吉の軍・黒田官兵衛のもとに来て、「我らは島津の敵だ」と言ってうそぶいた大友の家臣らの「領地・城を没収し、これらの者たちを殺すようにと命じた。」と―(註2)。つまりは、所領を没収し、追放処分にしたのは大友義統その人であったのだ。
実際、義統は島津に屈服した老中、国衆の朽網宗歴殿、戸次玄三、一万田紹伝、志賀道雲、志賀道易らを殺した(『両豊記』548頁)。ルイス・フロイスは「義兄弟清田殿」については「所領は没収したが、生命は許した。」と記している。しかし、彼は主家大友宗麟から絶大な信頼を受け、長女ジュスタをあてがわれた有力家臣であり、これを排斥した義統に対する鎮忠家来らの叛旗を恐れたであろう。長崎に向かって逃亡した鎮忠・ジュスタとその家族、家来たちを秘かに追跡させたようだ。
途中、肥後国の「御寮人(ジュスタ)に属するある場所」に立ち寄り、その年のうちに長崎に至った。「清田家総領家系図」(柳川関係史料)によると、「鎮忠は長崎に牢居、天正15年(1587)11月23日病死」した。
このように、清田鎮忠・ジュスタが大友義統によって追放された史実からすると、ジュスタとそれに係わる清田家、志賀家にとって、鎮忠を「大友義統の婿」とするのはもとより事実ではないし、考えられないことである。しかし、利害がからむ人間の歴史は、時に史実が隠され、書き替えられることがある。大友義鎮(宗麟)の婿・清田鎮忠を『太宰管内志』が「大友義統の婿」としたのは、明らかに史実の改竄であった。
■改竄された史実
「御西御前・桑姫」は「大友宗麟の女(むすめ)ジュスタ」である。それは史実ではあるが、同時に知られてはならないものであった。
ところが200年余りが経過した文政年間、『長崎名勝図絵』の編纂刊行が長崎奉行によって計画され、「桑姫墓」の真実が公に知られる危機が訪れたとき、当事者たちはその対策として、敢えて記念碑「天女廟碑」を淵村の氏寺萬福寺境内に建て、そこに「大友義統の二女」と虚偽の文字を刻んで逆宣伝しなければならなかったにちがいない。
同記念碑の前に立つとき、誰もがその巨大さに圧倒されるであろう。あたかも、「これが真実である」と宣告しているようである。(つづく)
※註1…大友義統は1587年4月27日、黒田官兵衛の勧めによってペロ・ゴーメス神父から洗礼を受け、コンスタンチイノと名乗った。ところが3ヶ月後、秀吉がバテレン追放令を発布するとすぐに棄教し、迫害者の側に回った。
※註2…「1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛の書簡(1587年度日本年報)」。松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅲ期第7巻』178頁。
淵神社(旧萬福寺)境内に建つ「天女廟碑」 |
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