2017年12月29日金曜日

矢文にみる島原の乱━その④―

領主松倉氏による苛政
 徳川幕府が、原城に籠もった「立上り」キリシタンに対して矢文をもって質問したのは、「天下(幕府)への恨み」、「(松倉)長門への恨み」の「在りや(否や)」であった(註1)。それは、幕府がキリシタン「立上り」の動きを百姓一揆と見たからであり、原因として想定される要素であったからである。
 籠城キリシタンの矢文の中に、松倉氏の苛政について述べた箇所がある。

 「近年、長門守様殿内検の地詰め存外の上、剰(あまつさ)え高免(「重税」の意カ)仰せ付けられ、四、五カ年の間、牛馬、妻子究状(窮状)せしめ、…責めて長門守殿へ一通の恨み申し畢(おわんぬ)」。

 この証言は、松倉氏による領民への重税の取り立てと、それによる住民百姓らの困窮が、否定できない事実として存在していたことを示すものである。
 
キリシタンの松倉殿への「恨み御座無く候」
 問題は、松倉氏による苛政の存在そのものではなく、苛政によって生じるキリシタンの「恨み」の有無にかんすることがらであろう。
 一般的には、苛政から恨みが生じ、それが蓄積されて一揆行動に至るというのは、なかば方程式であるかのように捉えられている。だからこそ、この方程式によって、島原の乱が領主松倉氏の苛政を初発の原因とする百姓一揆として解釈され、あたかもそれが真実であるかのごとく説明されてきたのであった。
 ところが、幕府軍が受け取った籠城キリシタンの矢文を見ると、そこには領主松倉長門守への恨みにかんして、一般人の常識を超える説明が記されていた。

 「天下への恨み、旁らへの恨み、別条御座なく候」(矢文3)。

 別の矢文(註2)には、「(松倉)長門様に恨み在り哉との由、少しも其の儀、御座なく候。(キリシタンの)宗旨に御構い御座なく候へば、何も恨みの事これ無く候」、と「長門様」の名前を上げ、「恨みがない」ことを説明しているのである。

 立上りキリシタンの矢文が多くの研究者たちから「理解に苦しむ」として疎んじられ、また十分に説明されてこなかったのは、こうした一般常識では考えられない内容が含まれるためであったと考えられる。この矢文を受けた幕府もまた、しかりであったにちがいない。
 重税の取り立て・苛政が存在したにもかかわらず、何故、彼らは「なにも恨みの事、これ無く候」と言うのであろうか。この謎の中にこそ「島原の乱」の真相を解く鍵が隠されているかもしれない。━筆者はそのように考え、これを解く鍵を「きりしたん宗門の奥義」、「キリシタンの作法」(註3)に求めた。

難儀・災難に対する「きりしたんの作法」
 キリシタンたちが宣教師から教義を学び、また、日本語に翻訳して出版された多くの信仰指導書を日々学んでいたことは知られている。なかでも愛読されたのは「こんてむつすむん地」(現代語では「キリストに倣いて」)であった(註4)。
 この中には「難儀」、「恥辱(ちじょく)」への対処の仕方が多々記されているが、「巻第三・第31,恥辱と難儀に遭ふ時、へりくだる心を以て堪忍(かんにん)すべき事」に、次のようにある。

 「…浮世の災難は汝が後生(ごしょう=来世)の助かりの為なれば、力の及ぶほど受け流さんと思い定め、まったく心を苦しむ事なかれ。汝の上にかかる難儀を喜びてこらゆる(堪える)事叶わずは、せめて堪忍(かんにん)をもって受くべきもの也。」

 現代語に直せば、「この世の災難は、汝の霊魂(アニマ)の救い、来世の救いを得るために(必要なこととして)あることだから、できるかぎり受け流して、心を苦しませない方がよい。自分の身の上に降りかかる難儀を喜んで受けることができないなら、せめて忍耐して受けなさい。」といった意味である。
 ━これがキリシタンと称される人たちの信仰の世界であり、生活の「作法」であった。

 もちろん、信仰は最初から完全なものはではない。経験や悟りの到達に程度の差があるから、そのような「堪忍」の生き方ができる人もあれば、できかねる人もある。一方では「何の恨みも、これ無く候」と言いながら、他方「せめて松倉長門守殿へ一通の恨み申し畢」と、一見矛盾するような表現が出て来るのは、生身の人間として仕方がないことであろう。
 領主松倉氏の苛政により耐えがたいほど困苦の生活を強いられながら、「松倉様には何の恨みのこと、これ無き候」、「天下への恨み、旁らへの恨み、別条御座なく候」と重ねていう彼らのキリシタン信仰に基づく主張には、謙虚に耳を傾けるべきではないだろうか。
 それでもなお「立上り」事件を起こした本人たちのこれらの証言を無視し、島原の乱を農民一揆であると結論づけるのは、論理的にも無理があると言わざるを得ない。(つづく)

 ※註1…「(寛永15年)正月中旬、松平伊豆守が城中へ」射た矢文。「態一翰申遣候、今度古城ニ楯籠、成敵条無謂、併天下ニ恨有之哉、又長門一分の恨有之哉、…」
 ※註2…「寛永15年1月19日付、城中よりの矢文」。前文に「城内之申状、被達上聞候由、実否不審ニ御座候得共、先以安堵仕候、被仰下候開之条々」とある。筆者は、この矢文を「天草四郎、今度一揆を披(ひら)く意趣」と捉え、「開之条々」と名付けている。
 ※註3…「開之条々」に「宗門の奥義」、「矢文1」に「きりしたんの作法」とある。
 ※註4…「こんてむつすむん地」は、キリシタン版のひとつ。1596年、天草で出版されたと推定されるローマ字本。1610年、都の原田アントニオの刊行にかかる国字本の二種が知られている。副題に「これ世を厭ひゼズキリシトの御行跡を学び奉る道を教ゆる経」とある。
キリシタンの信仰指導書『こんてむつすむん地』(1610年版)表紙

 
 

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