2017年12月2日土曜日

「桑姫」再考―その④―

文政年間初め頃まで正説が伝承されていた
 「大友家由緒」をキーワードに、回りくどい論理を立てながら「桑姫」として祀られた人物が大友宗麟の長女ジュスタでなければならないことを見てきた。この結論に至ったとき、意外なことに気付かないであろうか―。徳川時代末期の文政年間(1820年頃)、長崎聖堂の儒者・饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した、あの著名な『長崎名勝図絵』の中の「桑姫君墓」の説明文である。

 「桑姫君墓は浦上淵村竹ノ久保と云ふ所に在り。世に伝ふ桑姫はもと豊州の太守大友宗麟の女(むすめ)なり。阿西御前と称す…」

 江戸時代の記録は、すでに「桑姫」を「大友宗麟の女」と伝えていたのだ。
 これと同じ頃、文政4年(1821)に淵村庄屋第八代当主・志賀茂左衛門親籌が書いた文書『志賀家事歴』にも、「桑姫御前」は「大友の御姫於西御前」(註)であると明記されている。
 両史料はほぼ同時期に記録されているので、『長崎名勝図絵』の編著者・饒田喩義は、淵村庄屋志賀親籌に直接取材して「桑姫君」を「大友宗麟の女」であるとしたにちがいない。つまりは、徳川時代文政年間まで桑姫について―キリシタン史に係わることであるので秘密裡ではあるが―正確な伝承があったのだ。 

■志賀親善の時代に異変が
 問題は、その直後に生じたようだ。数年後の文政12年(1829)、淵村庄屋志賀家第九代親善(実は西彼杵郡浦上の田中善三郎の子)と町年寄・薬師寺久左衛門種茂ら旧大友家遺臣4人が、「桑姫」の由来を誌す巨大な「天女廟碑」を同村の氏寺・宝珠山能満院萬福寺(現淵神社)の境内に建てたことがあった。その理由は定かではないが、石碑には何故か「桑姫」が「大友義統二女」として紹介されている。
 さらに、次の第10代志賀親憲は天保8年(1837)、竹の久保尾崎の庄屋屋敷に「桑姫の墳塋祠」を建立した。これは明治32年(1899)、尾崎屋敷が重砲大隊用地となったため、第11代志賀親朋が「法入」の地に移設し、あわせて記念の石祠を建てた。そこにも、同じく「大友義統公の二女」と刻まれているのだ(註2)。
 以後、歴史家たちはこれらの石碑に刻まれた文字を読み、「桑姫=大友義統の二女」説を繰り返した。キリシタン研究家・片岡弥吉は昭和12年(1937)、『長崎談叢・第19輯』誌上で「義統公二女」説を紹介しながら、さらにこれを否定して「マセンシア」説を主張し、結果として桑姫の正体「大友宗麟の女ジュスタ」を重ねて隠蔽することとなってしまった。遺憾としか言いようがない。(つづく)

 ※註1…大友宗麟の長女ジュスタは「おにし御前」と記録されることがあるが、『長崎名勝図絵』は「阿西御前」、『志賀家事歴』は「於西御前」と表記している。読みは、いずれも「おにし(の)ごぜん」である。
 ※註2…一連の桑姫石祠は昭和11年(1936)、淵神社の境内に移転された。これが現在ある「桑姫社」である。
「大友義統公二女」と刻まれた桑姫社横の石祠

 

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