2017年7月21日金曜日

岡美穂子東京大学史料編纂所准教授の『ドン・ジョアン有馬晴信』書評

―岡美穂子(註1)の研究ブログ「南蛮の華」2013年4月27日付記事「〈タイトル〉=長崎郷土史研究者との交流」―

 長崎は郷土史が熱いところです。地元の郷土史家の間で刊行されている雑誌は貴重な史料の紹介や、地元ならではの興味深い研究の宝庫で、よくお世話になります。
 先年の長崎れきぶんぱくでの講演(註2)で知り合った宮本次人さんの『ドン・ジョアン有馬晴信』(海鳥社)を送っていただきました。地元ならではの有馬晴信への想いが随所に感じられる本です。
 その最終章で、晴信の遺品ともいわれる山梨県天目山栖雲寺の十字架を手にする虚空蔵菩薩像について言及されていました。有馬晴信の研究者の間では有名なようですが、私は恥ずかしながら今まで知りませんでした。
 この菩薩画は、長年有馬晴信が晩年に描かせた自画像とも言われてきたそうですが、2011年に京都大学の吉田豊教授(文献言語学)が、マニ教のイエス像であることを指摘したとのことです。それ以前に2006年には東北大学の泉武男教授が、景教のイエス像であるとの見解を示されています。いずれにしても、南宋~元代に寧波を中心に栄えた「寧波仏画」の流れをくむ可能性が高いと言われています。
 (※)偶像崇拝に敏感だった南蛮人宣教師から見れば、シンクレティズムの結晶である一菩薩像のイエス像は許容範囲を超えるものだったと思いますが、有馬晴信にとっては、これが彼の理解したイエス像にもっとも近かったのではと考えております。このあたり、現在執筆中の論文に組み込めればと思っています。キリシタン史ではこういう発想はご法度かもしれませんが。
 最近、某大学での講義中に、盛んに天草四郎の話をしている二人組がおります。島原・天草一揆にたどりつくのはずっと先なので、それまで頑張ってください。

 ※…この部分は追って次のように訂正された。「その後、研究交流メーリングリストで、非有馬晴信伝来説も説得力あるものが出てきたため、この部分改変しました。」

 ※註1…岡美穂子:1974年、神戸市生まれ。京都大学大学院博士課程修了。博士(人間環境学)。東京大学史料編纂所准教授。専攻は中近世移行期対外関係史、キリシタン史。著書に『商人と宣教師―南蛮貿易の世界』(2010年、東京大学出版会)、『大航海時代の日本人奴隷―アジア・新大陸・ヨーロッパ―』(夫ルシオ・デ・ソウザ氏との共著、2017年・中公叢書)など。世界史の視点から日本のキリシタン史を解析する気鋭のママさん研究者として活躍中。
 ※註2…2012年10月28日、長崎歴史文化博物館で開催された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」世界遺産フォーラム。岡氏は「贖宥への祈り―マリア十五玄義とオラショの功力」と題して講演し、長崎・西彼地域のかくれキリシタンが、フランシスコ会とドミニコ会によって再改宗された信者たちであったことをはじめて明らかにした。

五野井隆史氏の「ドン・ジョアン有馬晴信」書評

 五野井隆史氏(註1)の『ドン・ジョアン有馬晴信』(宮本次人著・2013年海鳥社)書評―福田八郎氏宛て書簡―

「拝復、ご無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。
この度は宮本次人著『ドン・ジョアン有馬晴信』をほ恵与下さり、有難うございました。
 沸々たる有馬晴信に対する思いが十分に読みとれました。大へん良く勉強され、晴信の実像に迫ろうとし、その再評価の努力はすばらしいと感嘆いたしました。
 クラッセの教会史(註2)に強いこだわりがあるように見えましたが、今なおクラッセに拠って話の切り口を見出されていることに、一寸驚きました。しかし、かような見方・考え方があることを知り、参考になりました。勉強の機会を与えて頂き有難うございました。
 彼岸も近く、ようやく春を感じるようになりましたが、まだ寒さが戻るかと思います。どうぞご健康に留意なさってください。お礼に代えて。
     二〇一三年三月一〇日、五野井隆史
福田八郎先生」

※註1…五野井隆史(1941―)歴史学者、東京大学名誉教授。北海道えりも町生まれ。1971年上智大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。1987年「徳川初期キリシタン史研究」で九州大学文学博士。東京大学史料編纂所助教授、教授。2003年定年退官。英知大学教授、校名変更で聖トマス大学教授。2012年退職。キリシタン史が専門。
※註2…クラッセ著『日本教会史』。著者ジャン・クラッセ(Jean Crasset、1618-1692)は、フランスのディエプ(Dieppe)生まれのイエズス会宣教師。著書『日本教会史全2巻』はフランソワ・ソリエー(Francois Soier,1558-1628)が日本から送られた年報や書簡をもとに纏めていた原稿「日本教会史」(Historie ecclesiastique des iles etroyaume du Iapon)にクラッセが補筆し、1689年にパリで出版したもの。西洋で紹介された日本キリスト教の通史としては初めてのものであった。日本では明治時代になって駐仏公使鮫島尚信が同書第二版を入手し、これを太政官の依頼を受けたフランス人宣教師が翻訳し、『日本西教史』のタイトルで出版された。「史料価値は低い」とされる一方で、日本におけるキリシタン史の最初の通史として、研究者たちに愛読された。


2017年7月15日土曜日

転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例

―事例1―
 島原城の南方に位置する有家村(現・南島原市有家町)の住民207人が1628年(寛永5)、転び証文を取り返すため島原城(城主=松倉重政)まで出かけた事件が『肥前國古老物語』(註1)に出ている。
 
 寛永五辰年にては、有家村の人民二百七人、以前宗門のころび判仕り候こと後悔に存じ、各残らず打連れ、嶋原へ判形取返しに参り候。その内、権左衛門、作右衛門、休意夫婦、又右衛門、監物が娘、この七人はその張本にて候ゆゑ、竹鋸にて挽かれ候。跡は堪へかね、皆皆ころび申し候。然れども、吉兵衛一人は転ばず、終に首を挽き落され申し候。然れどもこの者ども頭人たる故、権左衛門、作左衛門は誅せられ候て、残る四人御助けなされ候。その後、有家村庄屋内蔵之丞を始として、以上六人、堀之内の田に埋め、竹鋸にて首を引落しなされ候。これは、外道宗門にては無之候へども、村中を猥りに仕り候ゆゑ、右のごとく御仕置なされ候。

 「以前、(キリシタン)宗門のころび判形(=証文)仕り候こと(を)後悔に存じ…」とあるから、この207人は元キリシタン信者であり、幕府の禁教令(1614年)により「転んだ」人々であったことがわかる。筆記者は、彼らは「外道宗門にては之なく候」と断っているものの、転び証文を書いたことを「後悔に存じ」、それを取り戻す行動を起こしたのは、彼らがなおも心中でキリシタン宗を信仰していた「転び(潜伏)キリシタン」であったことを裏付けるものである。文章には一部、不可解なところがあるが、事件の結末は、首謀者のみが「竹鋸(たけのこ)挽き」の拷問で処刑され、残りはふたたび「転んだ」ことであった。
 このときに殉教したキリシタンの墓碑が有家町に現存する。

―事例2―
 島原の乱(1637―38)が勃発した当初、島原半島北部の「佐野村」の大庄屋源左衛門とその一類30人が島原城に避難する途中、檀那寺に立ち寄り、立上りを宣言し、転びを取り消す意志を伝えた事例である。1637年11月のことであった。史料は『佐野弥七左右衛門覚書』。

 三會村の内、佐野村の大庄屋源左衛門、妻子召し連れ、一類三十人味方と申し城中へ参り候処、門徒坊主見付け候て、(岡本)新兵衛居り候処へ参り、「拙者(の)旦那数人寺へ参り『今日より吉利支丹に罷り成り候。先年ころび候事、取り戻し候』と申し候。其者共、則ち彼等にて御座候」と窃かに知らせ候…

 佐野村は、島原城北部の大野村と湯江村(いずれも現島原市有明町)の境、山手に位置する小村。島原の乱が南目の旧イエズス会所属のキリシタン住民を中心に動き出したとき、托鉢修道会ドミニコ会に所属替えしていた北部住民はほとんど動きを見せなかったが、島原・三會村に近い位置にある佐野村の転びキリシタンは、三會村住民がそうであったように、一部の転びキリシタンが立ち上がった。島原城に避難したのは、南目の旧イエズス会所属のキリシタンと十分に連絡がなかった状況での、ちぐはぐな行動であったと思われる。立上りキリシタンであることを隠して島原城に一時避難したことであったが、寺の僧侶によって彼らの正体が暴かれ、全員が城内で処断(死刑)された。

 なお、島原の乱事件(1637~38年)で「立上り」キリシタンが村々の寺社に放火し、また島原城に押しかけたことは、武装蜂起すなわち農民一揆であると解釈されてきた。しかし、矢文その他による彼らの説明は、幕府や領主松倉氏への「望み」など何もない、一切が「きりしたんの作法」であるとしている。よって寺院放火や島原城への強訴行動も「立上り」行為の一環としての「転び証文」を取り戻す行為、またはそれを処分する行為であったと見られる。

※註1…「肥前國有馬古老物語」。有馬・松倉氏領内におけるキリシタン史31年間を記録したもの。著者は北有馬村農夫とされている。
 
寛永5年(1628)の転び証文取り戻し事件で竹鋸刑によって殉教したキリシタンを祭る墓碑。墓碑前面(写真上)に竹鋸歯形の紋様が刻まれている。南島原市有家町久保。

 





2017年5月15日月曜日

転びキリシタン立上りの作法(1)―転び証文の取り扱い

 キリシタンが権力者の弾圧によって棄教したとき、それを証明する記録文書が作成された。一般に「転び証文」と称されるこの文書は、徳川幕府が禁教令を敷く1614年2月以前にも存在した。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨセフ・デ・サン・ハシントは1609年2月、島津(鹿児島)藩内で目撃した転びについて次のように述べている。

 「彼らは僅か一晩で何の抵抗もなく教えを捨てた。…彼らはロザリオ、聖遺物、御絵などをことごとく役人に引き渡し、彼らの名はみな日記niqiに書き入れられてゆきます。」(註1)。

 また、フランシスコ会のフライ・セバスティアン・デ・サン・ペドロは1613年のこととして、「転び棄教した者は釈放し、その旨署名文書を出させた。そして、仏僧たちのうちの誰か、および彼らの宗派のうちのどれかに属する旨、記させた。」と、転び文書の作成とともに仏教信者に組み入れられた事実を報告している(註2)。
 このような「転び」にかんする記録文書の提出および仏教諸宗派への半強制的組み入れは、後日、彼らが再びキリシタンに「立帰る」(立上る)際、当然問題とされることがらであった。

 ドミニコ会のディエゴ・コリャード神父は、転びキリシタンに「ゆるしの秘蹟」を授けたとき、それを償うため、次のように指導をした。
 「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、それを言ひもどさいでならぬが、その分でござったか」(=表面的に転んだとしても、それを取り消さなければならないが、そのようにされたのか)。「その奉行のせられた事どもの日記は、どこにあるぞ。すなはち、それを持って上(のぼ)られたらば、その奉行へ文なりとも、使いを遣ってなりとも言いもどさいでは(ならぬ)」(=役人がなした事どもの転びの記録文書はどこにあるのか。その記録文書を持って引き上げたのなら、その役人に転びを取り消す手紙を出すか、使者を遣わして取り消さなければならない)(註3)。

 日本人の転びキリシタンが立上りの行動を起こすとき、このような問題―転び手続きの証拠―を解決する義務があったのは言うまでもない。
 転びキリシタンの立上り事件「島原の乱」(1637―38)において、彼らが領主の居城・島原城に押しかけたこと、寺社に放火したことは、一般には「一揆」反乱の行動と解されているが、そうではない。役所・島原城に転び証文を取り消す旨を告げる「言い戻し」の行動であり、寺社に保管されている転び証文を取り消し、焼き捨てる行動であった。

 ※註1…1876年、ホセ・デルガド・ガルシーア編『福者ホセ・サン・ハシント・サルバネスOP書簡・報告』40頁
 ※註2…1988年、高瀬弘一郎編、岩波書店『イエズス会と日本二』309頁
 ※註3…1957年、風間書房『コリャード懺悔録』13~14頁


ディエゴ・コリャード編著「懺悔録」(部分)



 
 

2016年5月31日火曜日

日野江城「仏塔石階段」―それはコンチリサンの遺構であった

 ■イエズス会日本布教方針の矛盾
 イエズス会による日本国へのキリスト教布教の過程で、ヴァリニャーノ巡察使が打ち出した日本文化順応方針(註1)は、一時的には効果があったものの、結果的には自己破綻をきたす要因となった。その最大の理由は、日本文化の根底にある「異邦の神々」と、キリスト教の「唯一神」信仰は元来、異次元のものであり、和合する性格のものではなかったことである。
 「われ以外に何者をも神としてはならない」とある十のマダメント(Mandamento、十戒)第一戒は、旧約ユダヤ教の伝統を引き継ぐ新約キリスト教の根本教理であった。ヴァリニャーノ師が日本文化順応方針を打ち出したとき、一部の宣教師はその矛盾性に気付いていた節がある。
 しかし、ローマ教皇を頂点とする厳格階級制のカトリックにおいて、イタリア人法学博士にして「東洋巡察使」なるヴァリニャーノ師の決定に、たとえ異議を唱えることができたにしても、方針変更は困難であったに違いない。
 ところが1603年、ヴァリニャーノ師が最後(第三回)の日本巡回を終えて離日したとき、それまで燻(くすぶ)っていた布教方針是正論がにわかに台頭した。その具体事例を、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入に見ることができる。

■ポルトガル様式キリシタン墓碑出現の理由
 それまで約半世紀にわたる日本キリシタン史のキリシタン墓碑は、日本文化順応方針に従って仏教様式の立碑(りっぴ)で代用されていた。その間、豊臣秀吉による伴天連追放令発布(1587年)があり、イエズス会は全国の教会、セミナリヨ、ノビシャド(修練院)、コレジオを閉鎖し、唯一「イエズス会の擁護に命をかけた」キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の領地・島原半島とその周辺地域に逼塞を余儀なくされた。そうした布教困難の状況を招いた原因として、異邦神に連結された日本文化への順応方針がキリスト教の戒律違反であるとの指摘が、イエズス会内部にあったものと思われる。当時、有馬晴信の領内にいたイエズス会指導陣は、ヴァリニャーノ師の離日(1603年)と相前後して仏教様式墓碑のキリシタン墓碑代用を改め、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入を開始した(註2)。
 島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑が慶長年間後期―1604年以降―に出現する謎は、いまだ誰も解明していないが、その理由はおおよそ、以上述べた経緯から説明されるであろう。

 ■異邦神にかかわった罪の償いとその遺構「仏塔石階段」
 ところで、問題はその処理にあった。一般的には、単にキリシタン墓碑を変更するだけで済むことだろうが、キリスト教が「異邦神」と関わったこの問題は、ユダヤ教・キリスト教の伝統作法として、相応の償いを必要とするものであったのだ。
 償いの程度は、犯した罪の種類にもよるが、第一戒を犯したそれは「モルタル科(とが)」すなわち「死に値する犯罪」として、より厳格な償いが要求された。熱心なキリシタンであり、イエズス会の擁護者でもあった領主ドン・ジョアン有馬晴信はこのとき、自らの居城である日野江城の二の丸に、それまで代用した仏教墓石で「償い」のための階段を構築し、晴信自身とその家族、家臣全員がある一定期間―おそらくは四旬節の期間―毎日これを足で踏み、異邦神の墓石を使用した罪を悔い、二度とこのような罪を犯さない決意をもって神父に告白し、ゆるしの秘蹟にあずかったと考えられる。この仮説を物語る資料が1998年、日野江城二の丸の発掘調査で出土した「仏塔石階段遺構」である。
ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城」二の丸から出土した「仏塔石階段」遺構

 墓石を階段状に敷き詰めたこの謎の遺構をめぐっては、さまざま論議と解釈が飛び交っているが、大方はキリスト教による仏教弾圧のみせしめとする意見に集約される。しかし、そうであるなら一般市民が入ることもない領主の城郭に拵えるより、市井の目にふれる町中につくる方が効果的であろう。また、これが登城の実用に耐えない、一季の梅雨でも流出するほど稚拙なものであることは、素人の目にも明らかである。キリシタンたちが、何らかの宗教儀式のために、一時的に使用したものであると見るのが妥当であろう。
 筆者は、当時のイエズス会を取り巻く諸事情、キリシタン墓碑が慶長期半ばに突如変換される謎、キリシタンの信仰作法など総合的に考慮して、上記の解答を割り出した。
 「仏塔石階段遺構」は、日本のキリシタンが如何に厳格なかたちで罪の償いをしたかを証明する遺物であり、このあと、かくれキリシタンがその信仰を維持するのに重要な役割を果たすことになるコンチリサン(真の痛悔のいのり)(註3)を、目に見えるかたちで伝える希有なキリシタン資料である、と言うことができよう。

 ■惜しまれる日野江城の世界遺産(構成資産)除外 
 世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の一つにあげられていたキリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城跡」が、2016年5月、除外される事件があった。それは、ここにある「仏塔石階段」遺構の真の意味を誰も解明できなかったこと、そして、当地島原半島の全住民をキリシタンに導き、国家権力によるキリシタン迫害からイエズス会とキリシタンを擁護するため命を賭けた日野江城主・有馬晴信のキリシタン信仰とその功績を、正当に評価できなかったことが要因であった、と思われる。(2016年5月31日、宮本次人記)

※註1…ヴァリニャーノ師は、『日本諸事要録補遺』(1592年筆)で「日本の習慣や生活方法に順応する」、と表現している。
※註2…有馬のセミナリヨ(神学校)で、「日本の宗派(仏教)の虚偽性を容易に論破する方法が教授され」、神学生らがこの問題を研究したことが、「1601、1602年日本の諸事―フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集」に記されている。仏教墓石を代用するキリシタン墓碑の問題も討議されたものと思われる。
※註3…コンチリサン(Contricao)は、カトリックの「ゆるしの秘蹟」において求められる「心の底からの後悔」である。キリシタン時代、すでに1591年に出版された日本語版『ドチリイナーキリシタン』(キリシタンの教理)の中で、「ぺにてんしや(告解・ゆるし)のさからめんと」における三要素―痛悔・告白・償い―の一つとして説明されている。その重要性を指摘し、詳細に解説したのは『こんちりさんのりやく』であったが、その著述・発刊の年月「慶長8年(1603年)4月下旬」が、ヴァリニャーノ師の離日「1603年1月15日」の直後であるのは、留意すべきであろう。
「千六百三歳」(1603年)に著述された「こんちりさんのりやく」冒頭部分

2016年2月10日水曜日

禁教期潜伏キリシタンを支えた托鉢修道会の信仰

 こんにちに至る2000年の世界史は、詰まるところキリスト教の歴史であった。日本は、明治以降、世界史・キリスト教の潮流に合流したが、じつはそれより300年ほど以前、「キリシタン時代」と呼ばれる、世界史に組み込まれた時代が存在した。江戸時代、徳川幕府がこれを禁止し、弾圧したことにより、日本におけるこれら二つの世界史時代は隔離された。

 このたびの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推進運動は、これら二つの時代を秘かに連結した「禁教期かくれ・潜伏キリシタンの時代」を、世界史潮流に照らして人類の普遍的価値として見いだし、評価しようとするものである。従って、これは従来の日本史を世界史の観点から「読み直す」ことであり、引いては日本そのものを再評価するための試みである、と言うことができよう。イコモスが「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に関して、「禁教期の潜伏(かくれ)期に焦点を当てよ」と言うのは、その謂いであるに違いない。
 
 250年の徳川幕府による厳しい禁教・弾圧政策下で、彼ら潜伏キリシタンは如何にして信仰を維持したのであろうか。その理由こそ徹底して究明がなされるべきであろうが、残念ながら日本におけるこの分野の研究は遅れている。
 今ここに紹介するのは、田舎の貧乏書生が、「わが先祖史」として30年余取り組んだ「かくれキリシタン信仰の維持と復活の理由」の要旨である。

 大きくは2点ある。
 ■1つは、かくれ(潜伏)期のキリシタンは、イエズス会から托鉢修道会―おもにフランシスコ会、ドミニコ会―に再改宗していたことである。(実のところ、日本キリシタン史研究はこの事実さえ認識していない)。
 両者の違いは複数あるが、この場合、インズルゼンシア(贖宥)の有無を挙げねばならない。イエズス会とそのコンフラリア(信心会)にはこれが無く、托鉢修道会とそのコフラディアは、これを「豊かに」有していた。
 インズルゼンシアは、「ローマのパパさま」(教皇)から下賜された「贖宥」(償いの免除=ゆるし)であり、日本人信者にとっては「御恩」とみなされた。これを受けることにより、「ローマのパパさま」とのつながり・絆を育み、その一方で、日本人特有の精神文化「ご奉公」に連結された潜伏キリシタン特有の信仰を育んだ。
 ■2つ目は、「かくれ信仰」を維持する工夫として、コフラディア(信心会)をもち、集団で信仰を維持しつつ、その中で転びの罪を償う為の祈り「コンチリサンのオラショ」を欠かさなかったことである。「マタイによる福音書」18章20節に 「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」とあるように、ここに神が生きてはたらき、聖霊の役事を可能にするものであった、と考えられる。
 キリスト教信者が生きた信仰を維持するのに、コンチリサン(悔悛の祈り)が果たした役割がいかに大きいか、2000年のキリスト教の歴史を見ると理解できる。平戸・生月系のかくれ信仰が長い「かくれ」を経て土俗信仰に変容し、長崎(浦上)・外海系かくれキリシタンのような「復活」を為し得なかったのは、「コンチリサンのオラショ」を伝承しなかったことが大きな要因であった。
 「コンチリサンのオラショ」を教える文書『こんち里さんのりやく』によると、原則として罪を司祭(コンヘソーロ)に告白すべきことが記されている。幕末に来日した宣教師司祭との邂逅を果たし、奇蹟の「復活」をなし得たのは、一に「コンチリサン」を守り通したことであり、そこに神の生きたはたらき、「聖霊の役事」がなされたことに因る、と言えるであろう。
 
 托鉢修道会が禁教期潜伏キリシタンの信仰維持に大きく関与した史実は、これまでほとんど語られることはなかったが、近年、東京大学史料編纂所の岡美穂子助教によって、長崎外海に伝承された絵画資料をもとに明らかにされつつある(註)。
 筆者も、いくつかの証拠をつかんだ。たとえば、『こんち里さんのりやく』にかんして、一般にはイエズス会司祭の手になるものとされているが、「後悔(悔い改め)」の程度をイエズス会史料『サカラメンタ提要』と比較してみると、明らかに異なる記述が見られる。故に、これは「達したる(徹底した)後悔」を旨とする托鉢修道会の手によって編集されたものである、と考えられるのだ。
 また、ドミニコ会の信仰が長崎、大村、島原(三會)地域に及んだ状況は、ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が同地域の信者から徴収した文書によって知ることができる。
 それらの拠点となったのは、言うまでもなく長崎のサント・ドミンゴ教会、サン・フランシスコ教会である。長崎市勝山町のサント・ドミンゴ教会跡は、幸いにも遺跡が保存されているが、上記世界遺産登録推進審議の過程で除外された。禁教期潜伏キリシタンを物語る上で欠かせない遺構であっただけに、惜しまれる。
サント・ドミンゴ教会の回廊跡遺構(長崎勝山町)
 ※註…岡美穂子助教の代表的論文に、「外海地方のキリシタン絵画にみる托鉢修道会の痕跡と「贖宥」」(『長崎県内の多様な集落が形成する文化的景観保存調査報告書 論考編』、長崎県文化財調査報告書第210集、2013年)。「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」(『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年、風響社)などがある。 
 

2016年2月7日日曜日

「教会群」よりも「かくれ」信仰の解明を!

 教会群とキリシタン史遺産の世界遺産登録推進に取り組んでいる長崎県であるなら、公共図書館にキリシタン史専門の関連図書が必ず備えてあるはず―、そう思いつつ県立図書館をはじめ各市の図書館をネットで検索しても見つからず、半ば諦めかけていた書籍を今月4日、福岡市内で偶然、探し当てた!同市総合図書館で『文学第13巻第5号』(2012年9-10月号、岩波書店発行)、同県立図書館で『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年3月、風響社発行)、この2冊だ。前者に「贖宥の祈り―マリア十五玄義図とオラショの功力」が、後者に「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」が掲載されている。いずれも岡美穂子東京大学史料編纂所助教の論文だ。

 不思議なことに同日夜、宿泊先のホテルで、ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が日本政府に対し「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録申請の推薦を取り下げ、推薦書を作り直すよう要請している旨のニュースを知った。驚きと同時に、内心「やはりそうか」と思った。考えられる理由はひとつ、普遍的価値のあぶり出しが不十分であったこと。―でなければ政治的理由として、シリア難民の世界拡散によるイスラム教との関連性もあり得る。
 翌5日午前、福岡市総合図書館を訪れ、新聞コーナーに急いだ。イコモスが日本政府に改訂を求めているのは、「(教会群中心に記述された)現状の推薦書を書き直し、禁教期に焦点を当てるよう勧めている」(読売新聞)ことだ、と判明した(註)。
 「禁教期に焦点を当てよ」と言うのは、具体的には「かくれ」時代のキリシタン信仰―禁教下で250年にわたり信仰を伝承し、幕末、再び司祭に出会って「復活」したことを指す。
 長崎県が当初、この案件による世界遺産登録に取り組んだのは、そのような精神遺産ではなく、和洋折衷の独特の建築様式をもつ教会群であり、「かくれ」信仰は推進運動の過程で追加されたものであった。その成り行きからして「かくれ」信仰の究明に関しては、十分な研究と審議、対策が講じられたとは言えないであろう。

 結論として私見を申し上げるなら、「かくれ」時代の日本キリシタン史の問題は、イエズス会とその関連史料を中心に取り組んできた従来の日本キリシタン史研究だけでは解明が困難である。長崎地方の「かくれ」の信仰は、イエズス会ではなく、1614年幕府の禁教令発布を前後して「転び」キリシタンの「立上げ」(再改宗)で精力的に尽力した托鉢修道会―とくにフランシスコ会、ドミニコ会の信仰とそのコフラディア(信心会)が色濃く反映されていたからだ。
 現時点において、かくれキリシタンと托鉢修道会との関連を指摘し、解説した研究者・論文は、残念ながら少ない。出色なのは、冒頭で触れた岡美穂子先生である。私が固執して探してきた岡助教の論文は、その代表的なものであるから、長崎県はその関連図書を県内の図書館に配架すべきであろうに、お粗末すぎた。
 今回のイコモスによる推薦書取り下げ・改訂勧告が、本県関係者の意識を覚醒させてくれるだろうか。「焼き直し」で済む、と考えるなら、この先も難航が予想される。

※註…長崎新聞(2月5日付)は次のように報道している。「(長崎)県によると、1月下旬に文化庁から『イコモスから届いた中間報告で、キリスト教の禁教と潜伏の時代に重点を置いて説明すべきと厳しく指摘されている』と連絡があった。現状ではイコモスが5月ごろに出す勧告の内容が『登録延期』になる見通しと説明を受けたという。」
福岡県立図書館で「キリスト教とナショナリズム」を閲覧した際の同館「所蔵レシート」