2019年1月13日日曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと⑥

 ■隠された「ジュスタ」とその父「大友宗麟」

 4者が同一銘板に名前を連ねているこの石祠の謎をいかにして解くか―、筆者はそれらの共通項を探ることから着手した。
 先ず、建立の時代がキリスト教禁令下の徳川時代であることは、神名板に「―当家之祖先」とあること。大友親家の名前が改名後の「利根川道孝」になっていること。そして、神像が「かくれキリシタン」時代のそれであること、などから明らかである。
 次に、4者の共通項として上げられるのは、全員が「キリシタン」であったことである。
 したがってこの石祠は、キリスト教が弾圧された徳川時代と、その治下で暮らした「かくれ」信者たちの特殊な精神世界が反映され、考慮されて造られたと見なければならない。とくに、キリシタン大名・大友宗麟が豊後のみならず九州・四国地域まで勢力を伸ばし、キリシタン王国を築いた時代があり、大友氏宗家は彼の死後、権力者によって改易断絶させられたものの、配下のキリシタンらは四散しながら潜伏し、不穏な空気の中にあった。藩政時代の豊後国が細切れにして分割支配されたのは、彼らの再起結束を恐れた支配者らの防止策であった、と見ることができよう。
 この石祠がある臼杵市諏訪はキリシタン時代、宗麟が次男親家のために壮大な寺院・寿林寺を建てたところであり、のちイエズス会の修練院となり、大きな教会も付設建堂された宗麟ゆかりの場所―ある面、キリシタンらの聖地でもあった。ゆかりのある大友親家(ドン・セバスチャン、のち利根川道孝と改名)がここに名を連ねていることは、意味があることと思われる。
「姫君霊」石祠がある三双土木(株)資材置場。背後三方が山に囲まれ、前面は熊崎川の入江があったと思われる。

 以上の考察を踏まえ、さらその奥を探ってみよう。すると、4人の人物をつないでいるある一人の女性が見えてくるにちがいない。一條兼定および清田鎮忠とは「夫妻」の関係、利根川道孝(大友親家)とは「姉弟」の関係、「姫君」とは「母娘」の関係にある大友宗麟の長女「ジュスタ」である。神名板の4人の名前の上に「ジュスタ」を載せてみると、一目瞭然であろう。

 「姫君」を象(かたど)ったと思われる神像、命日を附して記された神名「―姫君霊」からして、この石祠はたしかに〃大友家の姫君〃を祀るものである。しかし、それだけではない。その母―「ジュスタ」という名の大友家の「姫(宗麟の長女)」が隠されている。
 大友親家の名が「利根川道孝」と敢えて「利根川」姓で記されているのは、「大友」姓が憚られたからに他ならない。こんにちでこそ大友宗麟の名前は、半ば誇り高いものとして豊後人の間で呼ばれ、その銅像も多く県内に見られるのであるが、「大友」を称することがタブーとされた徳川時代の、キリスト教徒とその類族に対する邪教蔑視感をくみ取るべきであろう。(つづく)

2019年1月12日土曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと⑤

 ■複数の人名が記された神名板の謎

 次に神名板に注目したい。見てきたように、神像は「姫君」のそれと思われるものが一個であるのに、ここには複数の人物名が記されている。一条兼定(「土佐國一條権中納言𣳾政公」)、清田鎮忠(「清田太郎鎮忠」、「清田新五左衛門阿波守」…この二人は同一人物)。大友親家(「利根川道孝」…大友宗麟の次男)、そして「𣳾政公乃姫君霊/天正六年三月十八日」)の、計4人である。
神名板

一般には、一つの祠に一個の神(人物)祀られる。この場合、「姫君」がそれであると考えられるが、神名板の中央には「土佐國一條権中納言𣳾政公」(一条兼定)が記され、「姫君」は左端に置かれている。その不一致も謎である。
 「清田太郎鎮忠」と「清田新五左衛門阿波守」は同一人物であるが、何故、ふたつ表記する必要があるのか。「利根川道孝」は何故、「大友親家」と記されないのか。そもそも、これら4人がいかなる関係にあるのか。それらの問題を解読するために、先ず、各人物の略歴から追ってみたい。

 ・一条兼定…公家出自の土佐一条家最後の当主。1543年(天文12)生まれ。父・房基の死去に伴い、7歳で家督。母は大友義鑑(宗麟の父)の娘。妻は伊予国の宇都宮豊網の娘。1564年(永禄7)離別し、その後、豊後国の大友宗麟の娘(長女ジュスタ)を娶った。台頭した長宗我部元親に領土を侵食され、1574年(天正2)2月、追われて豊後国臼杵に大友氏を頼った。夫妻はキリスト教の洗礼を受け、土佐での宣教を決心して戻ったが、留守中の代官長宗我部氏が政権を握り、兼定の長男内正(宇都宮豊網の娘との間の子)を大名として立てて対抗したため、妻ジュスタを豊後に戻し、自分は伊予国に退いた。ここで家臣入江左近に襲われ、瀕死の傷を負った。1585年(天正12)没。

 ・清田鎮忠…大友家につながる戸次氏の支族。国衆の一人で、清田庄(大分市中判田周辺)を領した。大友宗麟の信頼があり、1575(天正3)年、宗麟の長女(ジュスタ)と結ばれ、受洗した。イエズス会の記録によると、夫妻には2歳で1578年(天正6)に病死した娘(註1)と、他に「世嗣ぎとなる娘」(註2)がいた。男子はなかった(註3)。対島津戦では多くの家臣が謀叛する中、最後まで抗したが、大友義統に就く家臣から讒言され、領土を失い、追われた。長崎に逃れ、「天正十五年十一月二十三日」に死去した。法名・玄麟(註4)。夫人ジュスタは長崎で隠棲し、のち、同じく長崎に移住して淵村庄屋となった志賀氏を頼り、そこで没した。「桑姫君」または「阿西御前」とも称され、「桑姫社」として祀られている(註5)。

 ・大友親家(利根川道孝)…大友宗麟の第二子。1561年生まれ。父宗麟は1571年ごろ、臼杵諏訪に寿林寺を建て、親家を僧侶にしようとしたが、親家はこれを嫌い、キリシタンになった(1575年受洗、ドン・セバスチャン)。寿林寺はその後、イエズス会の修練院となった(註6)。元服したとき(1578年)、宗麟は大友家の御同紋諸家の一つ・林家の名跡を継がせ、「林新九郎」と名乗らせた。1580年、安岐の田原宗家を継ぐ。一時期、キリシタン信仰から遠ざかったことがあるが、「悲惨な運命に立ち至り、…過去の不品行の償いをし」、キリシタンに戻った(註7)。1587年(天正15)、父宗麟が死去したとき、葬儀を取り仕切り、墓地の近くに「美しく巨大な十字架」を建てた(註8)。大友氏改易後は、立花宗茂に付き、のち1609年(慶長14)に細川忠興に仕官、利根川道孝と改名した。1641年(寛永18)死去。子孫は細川家の直臣となり、松野姓を称した。

 ・「姫君霊」…「姫君」の命日と思われる「天正六年三月十八日」と併記され、名前がない。「天正6年」は「西暦1578年」、これはイエズス会宣教師ルイス・フロイスの「1578年10月16日付書簡」に登場する清田殿・ジュスタ夫妻の「2歳くらい」で病死した「幼女」の死亡年と一致する。
 一条兼定に嫁いでいたジュスタ(宗麟の長女)が豊後に戻り、清田鎮忠に再嫁したのは1575年(天正3)であるから、3年後の1578年(天正6)に「2歳で亡くなった娘」は清田殿との間の幼女であった。そうであれば、「清田鎮忠乃―」とすべきであるが、神名板には「(一條)𣳾政公乃姫君霊」と記されている。もっとも「姫君」の称は、公卿・貴人・将軍の息女を言う(広辞苑)ので―「大友ジュスタの姫」とすることは可能であるが―大名でもなかった清田の娘を「姫」と称することはできなかったこともある。
 この表記の問題は、施主一条氏の意図が働いていると考察される。神名板の中央に「土佐國一條権中納言𣳾政公」と太文字で記され、その下に小さく「当家之祖先」とあるのは、この石祠が「一条権中納言兼定(泰正公)」を「祖先」にもつ同家の子孫によって建立されたものであることを物語っている。すなわち供養もしくは顕彰のため同祠を建立し、「姫君霊」を祀ったのは清田氏ではないのである。加えて、姫君の本来の父親である清田鎮忠の名前を重複して記している不自然さは、施主一条家の清田家に対する配慮の表れであろう。(つづく)

 ※1…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡」
 ※2…「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度年報」。鎮忠とジュスタとの間に「男子はなかった」が、鎮忠と前妻との間にはあった。
 ※3…「1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロヴァリニャーノ宛書簡」
 ※4…柳川に移住した清田一族―3代目当主清田正登作製の清田氏系図。
 ※5…桑姫社(長崎淵神社境内)はこれまで、マセンシア(1605年に長崎で病死した在俗修道女)説が唱えられてきたが、桑姫とマセンシアの死亡年に22年の誤差がある。筆者はこの問題を究明し、大友家の「姫君ジュスタ」(宗麟の長女)であることに辿り着いた。拙稿「桑姫再考」、「隠された大友家の姫ジュスタ」参照。
 ※6…場所は、アルメイダ以来の古い教会と連続した「(臼杵)城に近く」、「川に沿った」ところにあった(「1578年10月付、臼杵発信、ルイス・フロイスの書簡」)。「臼杵の海辺、諏訪明神の側…諏訪の北に山あり…佳景の霊地なり。」(『大友興廃記』)。「臼杵城の正面にあたり、中に入江(を挟んだ)対岸」(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第68章)。
 ※7…ルイス・フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第66章。
 ※8…ルイス・フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第72章


2019年1月11日金曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと④

 ■かくれキリシタンの神像

 複数の人名が記された神銘板の謎を解く前に、同石祠の神像として収められてある石造物についてふれたい。
「姫君霊」の神像
人物像でありながら、造形が全体的に平面的で稚拙、丸い顔をして、肩から両肘―中央で合わせた手の形がW形(またはω形)をなし、天使の翼のようにも見える。この種の石造物は、九州地方ではあまり知られていないが、山口県の山間地域に多く分布するものである。前面に四角や三角形の窓が開けられた石の祠に収められ、人家の裏山など人が近づき難い場所にあり、その多くが禁忌的伝承を伴うことから隠れキリシタン墓碑の一種とされている(註)。
 諏訪の石祠に収められているものは、顔と胴、小さな足まであり、その姿格好からしてふくよかな和服を身につけた幼児―すなわち銘板にある「𣳾政公乃姫君」その人であると思われる。(つづく)

 ※…これを科学的に証明するのは困難であるが、筆者は現地調査をおこない、分布や伝承、遺物造形の特徴等を統計的に考察し、キリシタン関連の遺物遺構であると判断した。その主な理由は、津和野永明寺の裏山にあるそれと初代藩主坂崎出羽守直盛(キリシタン浮田左京亮)墓碑との相関関係。阿武郡紫福字市の原家墓地のそれと復活キリシタン原家との因果関係。数は少ないが乳房を持つ神像があり、これは女性や子どもの人権を一般男子と同様に認めた彼らのキリシタン信仰に基づくものであると考えられること。キリシタン三輪家と係わりがあると考えられる尼子家(※これについては調査中)墓地の一つー萩市奈古の尼子義久墓地に三基の同石造物・祠があること、等々である。

山口県山間地域に頻布する隠れキリシタン関連遺物「神像と祠」





2019年1月10日木曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと③

 ■「姫君霊」石祠の構造

 祠(ほこら)は、神を祀る小規模な殿舎である。木製が一般的だが、諏訪のそれは石製であるので、石祠(せきし)である。切妻屋根を備え、観音開きの戸を開けると、内部に仏像、神像などが納められている場合がある。
 件の石祠は、筆者が取材した2016年現在、写真で見るように前面の戸がなく、人物名称が陰刻された石製銘板と、その横に小さな石の神像が置かれている。さらに付近を観察すると、中央に縦長菱形の孔がある長方形の石板があり、二つに割れている。つなぎ合わせて、寸法を計測してみると、ちょうど祠の扉になる大きさである。石祠側にも、これをはめ込む溝が上下にあるので、それに間違いない。
 以上の観察結果から元の状態を復元すると、次のようになるであろう。すなわち石祠の中には、奥側から①神像、②神銘板―もしくはその逆―の二つが収められ、前面には小さな菱形の窓が開けられた蓋石の扉で閉じられていたことである。(つづく)
左から神像、神名板、扉。(スケッチ&計測=筆者)


 
 

2019年1月9日水曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと②

 ■2016年秋、現地調査

 最初に市役所の臼杵市教育委員会を訪ね、文化財担当の神田高士氏(文化財課文化財研究室々長)から、同祠についての情報、所在地を聴いた。その後、地図を見ながらいくつかの橋を渡って「諏訪」に向かい、石祠の場所―「三双土建(株)資材置場の土手の下」を探したが、なかなか見つからない。あとで分かったことだが、石祠は元あった場所から一段高い同資材置場の敷地に移されていたのだった。
 石祠は新たに設(しつら)えられた木製の囲いの玉垣の中にあり、その横には、元の場所の地下(またはその付近)に埋められていたという石棺の石材(緑泥片岩)が積まれていた。
 資材置場管理棟に声を掛けてみたが人影がない。広い敷地を歩いて反対側(山側)の建物に一人の婦人(同石祠を祀る関係者)を見つけ、話をうかがうことができた。(つづく)
2016年11月の「姫君霊」石祠の風景

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと①

 ―はじめに―

 大分県臼杵市大字諏訪に、一条兼定と清田鎮忠、利根川道孝(大友宗麟の次男親家)、そして「𣳾政公乃姫君霊」の文字が刻まれた謎の石祠がある。一条兼定、清田鎮忠、大友親家はいずれもキリシタン武将として知られた人物である。「姫君霊」の横に「天正六年三月十八日」とあり、姫君の死亡年月日と思料される。
 筆者がこの存在を知ったのは、イエズス会宣教師らが書き残した文書史料をもとに豊後国キリシタン史をひもとき、調査する過程でのことであった。「1578年10月16日付、ルイス・フロイスの書簡」に、これに関連すると思われる次の記事がある。

 …ここ豊後においては(尊師らが)知れば喜ぶであろう他の一事が生じた。すなわち以下のようである。老国主(大友宗麟)は一女を、清田殿と称する同国の主要なる殿の一人でこの臼杵より4、5里の所に屋敷と所領を有する人に嫁がせていた。彼らには2歳くらいの娘が一人のみあって、非常に愛していたが、その娘が重い病にかかったの、諸々の偶像に供物を捧げ、祈祷するためただちに仏僧や妖術師、占者、その他同類の卑しき者多数が呼び寄せられた。…彼らがすることが少しも効果なく、幼女が死ぬことを許し給うた。…父親(清田殿)は妖術師らを(家来に)殺させた。…(そして)キリシタンになるために修道士のもとに迎えの馬と人を遣わした。…それから2,3日後、フランシスコ・カブラル師がかの地に赴き、彼と高貴な人数名に洗礼を授けた。

 1578年(天正6年)、豊後国々主・大友宗麟の受洗と前後して記録されたこの記事は、家臣清田鎮忠とその夫人(宗麟の長女)との間に起きた幼女の死去と、それに伴う清田殿の受洗を伝えるものである。
 同じくイエズス会の史料「1582年度年報」に、「ジュスタという名の国主の娘は、清田殿(鎭忠)の夫人である。」とある。
 宗麟の長女ジュスタははじめ、土佐国の大名・一条兼定に嫁ぎ、内乱が起きたため1575年、豊後国に戻された(註)。清田鎮忠に再嫁したのはその後になるが、「1578年度年報」に「彼ら」清田鎮忠と夫人ジュスタの「2歳くらいの娘一人」が出てくるので、1575-6年頃と思われる。
 ところで、インターネット検索で得られる同石祠にかんする情報は、臼杵市教育委員会の「昭和63年1月」調査に基づくもので、表題が「中山古墳と祠」となっている。石祠は近世時代のものであるのに、古墳時代の遺構とあわせて説明してあるため、理解に苦しむ資料である。ただ「祠の中に納められている」という「碑」(神名板)に、前記3人の氏名とともに「姫君霊/天正六年三月十八日」とあるので、1578年(天正6)に2歳で病死した清田鎮忠・ジュスタ夫妻の幼女の霊を祀るものではないか、と推察される。
 イエズス会史料に記録される〃1578年に2歳で亡くなったジュスタの姫〃が、ここに記される「姫君」かどうか、その史実を究明するには、現物を確認するほかはない。筆者は新たな知見を得るべく2016年11月、現地に向かった。(つづく)

 ※…一条兼定とジュスタ夫人が離縁を余儀なくされたのは、長宗我部元親の謀叛事件が原因であった。兼定は自分が殺害される計画があるのを知らされ、「敵が決めたことが実行されるに先立って、姫(ジュスタ夫人)を豊後に送り返した。」(フロイス『日本史』豊後篇Ⅱ、82~83頁)。兼定自身も土佐国辺境に避難したが、長宗我部に買収された側近者(入江左近)によって瀕死の傷を負い、一命は取り留めたものの、「あたかも身体障害者のように」なった。1585年、流謫地の戸島で死去した。
「姫君霊」石祠




 

2018年10月27日土曜日

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

                                                       宮本次人

 ◆はじめに、―変遷したキリシタン墓碑―
 日本の「キリシタン時代」を彩る文化諸相の一つにキリシタン墓碑がある。それは当初、立碑塔形の日本様式墓碑が転用され、天正年間になると十字や洗礼名が彫刻された墓碑が京都・大坂に出現した。さらに十七世紀初頭、伏碑形式のポルトガル様式キリシタン墓碑が島原半島を中心として建立されたが、「キリシタン時代」としては、すでに終末期の出来事であった。
 イエズス会は「基本的に日本の文物に対する適応を重視した布教政策をとった」(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』45頁)。立碑塔形墓碑をそのままキリシタン墓碑に使用したのはその一環と見られるが、途中、方針を変更してポルトガル様式の墓碑を採用したのは何故であろうか。
 伏碑型キリシタン墓碑について故片岡弥吉氏は、その形式がポルトガル国由来のものであることを明らかにしている(註)。それならば、イエズス会の布教保護国ポルトガルを示威する意味、すなわちスペイン国を布教保護国とする托鉢修道会との確執が背景にあったとも考えられるが、真相は誰も明らかにしていない。
   ・片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」(『キリシタン研究』第十六輯)、片岡弥吉「キリシタン墓碑」(小学館一九七九年・『探訪大航海時代の日本7南蛮文化』)。

 ◆「死者のためのミサ」に限り喜捨受納を容認した謎
 高瀬弘一郎氏の著書『キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで』(岩波書店・2013年発行)は、イエズス会を取り巻く往時の世界史事情と同会の日本布教をめぐる経済活動、特殊事情等を明らかにしていて、有馬晴信の領国島原半島にポルトガル様式キリシタン墓碑が出現した事由を考察する上で、示唆に富んでいる。
 たとえば「死者のためのミサ」についての言及がある。
 「死者のためのミサ」とは、日本流に言う「葬礼(葬儀)」にあたる。仏教ではこれに対し「布施」というかたちで信者から僧侶に対して喜捨が上納されるが、清貧理念を基礎におくキリスト教では司牧活動や礼拝、洗礼、告解等の秘蹟などと同様、司祭職が執り行う聖務の一つであり、元来「無償」で行われるものであった。ところがヴァリニャーノの死後(1606年死去)、日本布教の方針―イエズス会会則が改変され、本来無償でなされるべき聖務のうち「死者のためのミサ」に限り喜捨の受納を特別に容認した、というのだ(前掲書117頁)。
 キリスト教宣教師が仏教の欺瞞性を言う場合、その理由の一つに掲げるのが仏僧たちの物欲―葬儀に対する布施を「回向」になると説いて正当に受け取ること―であった。加えてキリスト教は、東洋人が伝統的に有する先祖崇拝に対して「無知蒙昧」として一蹴してきた経緯がある。そうであるにもかかわらず、日本宣教半世紀を過ぎた十七世紀に至って「死者のためのミサ」(葬儀)に限り、仏教と同様に喜捨の受納を容認したのは何故であろうか。
 この点に関して高瀬氏は「単に(日本人の)習慣に順応するだけの意味で、このような重大な、(イエズス会)会憲に抵触しかねない変更を決したとは、ほとんど考えられない。布施の意味を承知の上で、たとい仏教と融合されたものであっても、日本人の祖先崇拝を無下に否定するだけでなく、その念いのこもった異教的な行為を、ある一局面のみであるが容認して取り組み、日本人の心情に応えようとしたのではないであろうか」と解釈している(前掲書121頁)。

 ◆イエズス会の経済問題が絡む?
 加えて同書は、日本布教が布教保護国の「ポルトガル圏に属しながら、現実にポルトガルの植民地にならなかった」(前掲書78頁)特殊事情と、それに起因する不自然かつ厳しい経済事情があったことを明らかにしている。
 前後二つの指摘は、「死者のためのミサ」に限り会則を改変して喜捨受納を認めたことが伏碑型キリシタン墓碑の出現を勧誘し、その背景にイエズス会の経済問題が絡んでいたことを推察させるものだが、高瀬氏は伏碑型キリシタン墓碑出現との関連については一言も言及していない。そして、「死者のためのミサ」に伴う喜捨は、イエズス会の「財源としては取るに足らない」(同書117頁)として、これが経済問題対策の一環であったとは解釈していない。
 筆者がこの件にかんし疑問を抱くのは、次に述べるように、高瀬氏がコレジオ(学院)の問題を資産保有と関連づけて紹介しているからである。すなわち有馬に設置されたコレジオが常識を逸していたものであるとの高瀬氏の指摘は、その不自然さからして、「死者のためのミサ」によって上がる喜捨資産の保有、つまりは経済問題に絡むものであると推察したい。

 ◆謎の「有馬コレジオ」
 高瀬氏の著書『キリシタンの世紀―』によると、イエズス会員が所有する機関には、司祭が居住する「カーザ・教会」と、それ以外の者が使用する「コレジオ・修練院」がある。前者は喜捨を経済基盤とし、後者はレンタ(教会領などの土地から定期的に得られる所得)を所有してそれを財源とすることが決められていた。つまり「司祭は、個人はもとより会としても、資産を所有してそれに依存して暮らすことは、一切禁ぜられた」(前掲書71頁)。ところが、実際には日本布教の特殊事情、厳しい経済事情により、「カーザやレジデンシア(小規模カーザ)がレンタを経済基盤とするという、会憲違反が行なわれ」ていた。その両者の矛盾を埋め合わせる工夫として、「長崎のみに存在したはず」のコレジオを「長崎・有馬・京都の下京と、三つもあるように」し、「レンタを財源に暮らすことが許された」コレジオの生徒を「ほとんどすべてのカーザやレジデンシアに居住したような形にし」て報告された、というのだ(前掲書73頁)。
 この中で高瀬氏は、コレジオが「長崎のみに存在したはず」だと言っているが、1600年以降、有馬にもコレジオ(学院)が設置された史実がある。
 有馬にコレジオが設置された経緯は、「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集・新版第一冊・第一部第二巻第八~四十五章」の「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」に記されている(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集/第一期第三巻』所収、184―189頁)。それはドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が二度目の結婚でジュスタ夫人を迎えるため日野江城下の市の中の「海の近く或る大きな広場の端」に新築した邸宅を、「イエズス会に対して抱いている深い愛情から」同会に寄進したもので、イエズス会はこれを「学院(コレジオ)」として使用した。
 この件について一般には、晴信の新築邸宅が「セミナリヨ(神学校)」になったと勘違いされているようだが、同史料には「邸宅はむしろイエズス会の学院(コレジオ)のために意図して作られたかのように我らの様式に非常にかなっていた」。「邸宅が譲渡され、すでに(イエズス)会の学院になっている。」、と明記されている(註)。
   ・前掲史料「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」によると、セミナリヨ(神学校)はこのあと教会とともに大広場の邸宅(コレジオ)に隣接または向かい側に新築され、「邸宅」寄進より遅れてイエズス会に奉献された。

 高瀬氏が、「コレジオは長崎のみに存在したはず」と主張するのは、何か理由があるのだろうか。当時、「国内のコレジオには教師や必用な書籍等の備えもなく」、そのため一五九四年マカオに設置されたコレジオが日本人司祭養成の役割を担っていた。日本国内に複数のコレジオが存在することなどあり得なかったのかもしれない。
 加えて高瀬氏は、「コレジオは実は、教会の経済問題の延長線上にある」と主張する(前掲書『キリシタンの世紀』250頁)。なぜなら「コレジオはそこに学ぶ修学生のために、喜捨によらないで資産を所有してもよいと規定」され、ゆえに「資産を保有するには、コレジオがないと困る」(前掲書248頁)からである。
 コレジオの設置はイエズス会が資産を保有するための工夫であった―との高瀬氏の説明は、有馬キリシタン時代の知られざる一面を暴くことになる。たとえば、前掲史料に登場する晴信寄進の邸宅すなわち「有馬のコレジオ」に、「邸宅にあるすべての庭園と菜園」のほか「併設されている家臣の家屋」などが含まれていたこと―その意味するところである。「庭園」と「菜園」、「家臣の家屋」などは、日本の神社・仏閣の「寺領」「社領」にあたる「教会領」、すなわちレンタ収入のある不動産ではないだろうか。「菜園」とは米・野菜を栽培し収穫する「田畑」である。イエズス会としても半ば会憲に抵触することであれば触れたくないであろうから、その場所や面積等についての詳細は判らない(註)。
   ・あるいは、これらの教会領が伏碑型キリシタン墓碑の分布と関連していたとも考えられる。

 本来「長崎にのみ存在したはず」のコレジオが、実際には有馬に存在した理由は、宗教史・文化史中心の従来のようなキリシタン研究の手法では解答を得にくい。
 十七世紀はじめ、有馬晴信の領内・島原半島にポルトガル様式の伏碑型キリシタン墓碑が出現した問題の解明もまた同様であろう。それはイエズス会が「死者のためのミサ」にかぎり喜捨を許容したこと、そして、有馬に資産所有が認められる「コレジオ」が設置されたことと複雑に関連したことであり、背景に経済問題が絡んでいたと見ていいようだ。


 ◆立碑墓碑に代え伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑を採用した理由
 見てきたように、伏碑型キリシタン墓碑の出現には、イエズス会の日本布教にかかる経済問題が絡んでいたと推察される。しかし、単にそれだけの理由であるなら、喜捨(布施)のみ受け入れ、日本の伝統的な塔形墓碑を代用する従来の方針を変更しなくてもよさそうである。あえて西欧ポルトガル様式のそれを導入した理由がほかにあったのだろうか、考察してみたい。

 =その①
 考えられる理由の一つに、彼我の分別が上げられる。すなわち従来の立碑(りっぴ)塔形墓碑を転用した場合、仏教徒として死んだ先祖をあわせ崇拝することになるため、キリシタン信者のそれと区別する必用があったことである。キリスト教は、「神を信じないまま死亡した近親者や先祖の霊の行方を案じて悲しむ日本人に対し、教義上いかんとも為し得ない」ものであった。会則を改変してまで喜捨の受納を認めた「死者のためのミサ」の「死者」とは、キリシタン信者のことである。その葬儀によって上納された喜捨が、伏碑型キリシタン墓碑の建立に関連したとすれば、それとこれとを視覚的にも判別できるよう工夫しなければならなかったであろう。

 =その②
 故片岡弥吉氏が1974年、伏碑型キリシタン墓碑のルーツを追跡調査して―スペインではなく―ポルトガルにあるとしたこと(註)は留意すべきであろう。そこから見えてくるのは、托鉢修道会またはプロテスタント(新教)との確執に起因するポルトガルの潜在的領有地としての縄張りを主張する意図である。
   ・片岡弥吉氏は昭和49年(1974)11月、「キリシタン文化講演会」で『キリシタン墓碑の源流とその思想・形式分類試案』と題して研究報告し、「キリシタン墓碑の源流はポルトガルからローマにさかのぼることを明らかにした。」(『キリシタン研究第十六輯』116頁、片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」)

 高瀬氏によると、日本教会は1576年1月のグレゴリウス十三世の大勅書によりマカオ司教区に包含され、ポルトガル国王の潜在的領有地になった。続いて1588年、日本司教区が府内に設置されたことにより、これ以降日本イエズス会はマカオ司教区から独立することとなった。これに対しスペイン国を布教保護国とするフランシスコ会、ドミニコ会、オルガンチーノ会が1590年代以降、日本に進出し、教派(門派)抗争を展開した。それは宗派の対立が第一義ではなく、実は布教保護権をもつスペイン国とポルトガル国との「政治的背景あっての勢力争い」(前掲書20頁)であった。
 また1600年以降、プロテスタント国(オランダ、イギリス)が日本に進出したため、イエズス会は複雑かつ危機的な政治勢力構図の中におかれていた。窮地に立つポルトガル国が、その布教保護権を示威する必用に駆られたことは考えられる。

 =その③
 もう一つ、伏碑型ポルトガル様式のキリシタン墓碑の建立者が、おもに名家、資産家ら上層階級の人々に限られた事実がある(註)。そこから見えてくる理由は、「特別な位置にあった人々」と、それに伴う相応の額の喜捨に対するイエズス会の配慮である。
   ・上智大学の川村信三氏は、「私はそれが、指導的な立場にあったか、あるいは宣教師のものであったと推定している。一般のキリシタンたちにとって、墓石を特別につくるほどの余裕はなかったと考えるからである。現在、各地で発見されているキリシタン墓碑のほとんどが、そうした特別な位置にあった人々のものではないかと推測している。」と述べている(南島原市教育委員会・企画、大石一久・編集、『日本キリシタン墓碑総覧』、川村信三「キリシタンの葬送典礼」418頁)

 一例として、ローマ字彫刻のキリシタン墓石として知られる南島原市西有家町砂原墓地のそれ(国指定史蹟)を取り上げてみよう。
 日本26聖人記念館館長デ・ルカ・レンゾ氏によると、これは「作右衛門とディオゴの名前が付いた、キリシタンとして貢献していた身分の高い人で、…史料に現れる限り、上の条件を満たすのは、小西行長の家老、八代の城主であった小西美作ディエゴ、木戸作右衛門(末郷)であった可能性が高い」という(前掲書『日本キリシタン墓碑総覧』422頁、デ・ルカ・レンゾ「キリシタンの共同体の意識を表す墓碑」)。
 小西一族は、行長アゴスチイノが1600年、関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れると家臣らは領国(肥後南部)を追われて四散し、「ディエゴ作右衛門」(小西美作行重)と一族家臣ら1500人は60隻の船で薩摩国に逃れた。「ディゴ作右衛門」小西美作が1602年に亡くなったあと息子のヤコベ小西忠次郎が薩摩の領主から俸禄米六千俵の江口領の相続を認められたが、領主島津氏のキリシタン迫害に伴い1609年、長崎に移った。ヤコベ忠次郎は堺のキリシタン商人ディオゴ日比屋了珪の息ビセンテ兵衛門の娘アガタを娶っていた。ほかに隣国有馬晴信の領内に移住したキリシタンも多くあり、重臣の一人ジョルジ結城弥平次は有馬晴信に抱えられた。
 ディエゴ作右衛門(小西美作)の夫人は、小西行長の娘イサベルである。1602年に死去したディオゴ作右衛門(小西美作)の「死者のためのミサ」が―おそらくはその後のイエズス会の方針変更に伴って―有馬のコレジオもしくは有馬の教会で営まれ、小西家はもとより日比屋家を含む親族、家臣らからのミサ法要にかかる多額の布施(註)がイエズス会に上げられたことであろう。
   ・前述したように高瀬氏は、これにかかる喜捨は「財源としてはほとんど取るに足らない」(『キリシタンの世紀』117頁)としている。筆者は、その額は決して小さくはなかった、としたい。

 その額が無視できないほどのものであったがゆえ、イエズス会としては逆に、それに見合うもの―布教保護国由来の墓碑―を用意せざるを得なかったのかもしれない。上層階級の「特別な位置にあった人々」から相応の喜捨が寄せられるものであればこそ、それ以外の一般信徒のそれと区別する必用があったとも言えよう。
 キリシタン宗は、川村信三氏が前掲論文で述べているように、「慈悲の所作」として「身寄りのない人々へ、本来ならば、誰にも看取られず、ただ穴を掘って埋められた遺体に、全身全霊で奉仕した」。ゆえに、「特別な位置にあった人々」と貧困者、一般者とを差別するというのではない。多額の喜捨を寄せたものへの配慮として、従来の日本の習慣文化と異なる墓碑―布教保護国ポルトガルの様式によるキリシタン墓碑を導入した、との解釈である。
 日本で1605年に出版された『サカラメンタ提要』の「死者の典礼」の部の目次が、川村信三氏の論文「キリシタンの葬送典礼」(『日本キリシタン墓碑総覧』所載)に掲載されている。それによると「葬儀」として「一般信者の荘厳な葬儀―」と「一般信者の通常の葬儀」、「洗礼を受けた子供の葬儀」の三項目があり、区別して執り行われたことがわかる。ここで言う「一般信者」とは、宣教師たちイエズス会会員と区別してのものであり、この中に日本社会の「特別な位置にあった人々」から「身寄りのない人々」までが含まれていた。その葬儀が「荘厳な儀式」と「通常の儀式」と区別して営まれたというのは、上述した日本社会の「特別な位置にあった人々」すなわち資産があり相応の喜捨を上げられる人々の葬儀が「特別な儀式」で、それ以外の人々の葬儀が「通常の葬儀」として、区別しておこなわれたと解釈していいようだ。
 葬儀が「特別」と「一般」とに区別される以上、それに伴う喜捨の多寡や墓碑建立の有無がある。また、上層階級の「特別な位置にあった人々」に限りキリシタン墓碑が建立されたとしても、身分の上下、喜捨の多寡にともなう墓石の大小・形態、花十字等装飾の区分けなどが存在したことは、考えられるであろう。
 

 ◆まとめ、―付随する問題二、三
 伏碑のポルトガル様式キリシタン墓碑が何故十七世紀初頭に出現したのか、その理由を高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』を手がかりに探ってみた。背景に、主として財政問題があり、ほかにも托鉢修道会への対応、日本人の先祖崇拝問題への対処等々、危機に立たされた当時のイエズス会側の諸事情が原因として存在していたことが明らかになった。

 ・有馬に発生→全国に波及?
 今回取り上げた伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑出現の解析は、同時に同型墓碑の発生および波及の問題についても解明の糸口を与えることになるであろう。
 一般的には、関西京都や大分県、熊本県、長崎市、大村市等に少数点在するそれを含めて、それらは全国同時発生であったと暗黙的に認識されているようだが、有馬晴信の領地島原半島南部に集中的に分布する特異な現象があること、イエズス会との係わりが主原因であったこと、そして、キリシタン大名有馬晴信とイエズス会が運命を一にしていた状況があったこと(註)等からして、その発生源は自ずか絞られてくるにちがいない。それは、コレジオがそれらの複雑な問題と係わる重要な役割を担い、それが「有馬」に存在した史実からしても言えることである。
    ・松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス記日本報告集第Ⅰ期第Ⅰ巻』「1588年度年報」16頁。宮本次人『ドン・ジョアン有馬晴信』(2013・海鳥社)「第三章・晴信に見るキリシタン信仰の世界」。

 ・日野江城二の丸「仏塔石階段」との関連
 こうした有馬の周辺事情が判明してくると、有馬晴信の居城日野江城の二の丸で発掘された「仏塔石階段」の謎も、また新たな視点で捉えられることになる。伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入は、同時にそれまで代用してきた立碑塔形墓碑の廃棄処分に係わるからである。キリスト教の性格上、それは単に廃棄すればいいということにはならない。逆に異教的事物に係わったというような新たな問題を突きつけたであろうし、そうであれば、「贖罪」的な信仰上の対処が要求され、ある種神聖な儀式が、これら廃棄墓石をもって実施されることになる(註)。
   ・「日野江城二の丸仏塔石階段」については稿を改めたい。(本ブログ2016年5月31日付記事「日野江城〃仏塔石階段〃―それはコンチリサンの遺構であった」参照)

                           (2015年1月4日記)
キリシタン墓碑変遷図(宮本作図)