2019年1月13日日曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと⑥

 ■隠された「ジュスタ」とその父「大友宗麟」

 4者が同一銘板に名前を連ねているこの石祠の謎をいかにして解くか―、筆者はそれらの共通項を探ることから着手した。
 先ず、建立の時代がキリスト教禁令下の徳川時代であることは、神名板に「―当家之祖先」とあること。大友親家の名前が改名後の「利根川道孝」になっていること。そして、神像が「かくれキリシタン」時代のそれであること、などから明らかである。
 次に、4者の共通項として上げられるのは、全員が「キリシタン」であったことである。
 したがってこの石祠は、キリスト教が弾圧された徳川時代と、その治下で暮らした「かくれ」信者たちの特殊な精神世界が反映され、考慮されて造られたと見なければならない。とくに、キリシタン大名・大友宗麟が豊後のみならず九州・四国地域まで勢力を伸ばし、キリシタン王国を築いた時代があり、大友氏宗家は彼の死後、権力者によって改易断絶させられたものの、配下のキリシタンらは四散しながら潜伏し、不穏な空気の中にあった。藩政時代の豊後国が細切れにして分割支配されたのは、彼らの再起結束を恐れた支配者らの防止策であった、と見ることができよう。
 この石祠がある臼杵市諏訪はキリシタン時代、宗麟が次男親家のために壮大な寺院・寿林寺を建てたところであり、のちイエズス会の修練院となり、大きな教会も付設建堂された宗麟ゆかりの場所―ある面、キリシタンらの聖地でもあった。ゆかりのある大友親家(ドン・セバスチャン、のち利根川道孝と改名)がここに名を連ねていることは、意味があることと思われる。
「姫君霊」石祠がある三双土木(株)資材置場。背後三方が山に囲まれ、前面は熊崎川の入江があったと思われる。

 以上の考察を踏まえ、さらその奥を探ってみよう。すると、4人の人物をつないでいるある一人の女性が見えてくるにちがいない。一條兼定および清田鎮忠とは「夫妻」の関係、利根川道孝(大友親家)とは「姉弟」の関係、「姫君」とは「母娘」の関係にある大友宗麟の長女「ジュスタ」である。神名板の4人の名前の上に「ジュスタ」を載せてみると、一目瞭然であろう。

 「姫君」を象(かたど)ったと思われる神像、命日を附して記された神名「―姫君霊」からして、この石祠はたしかに〃大友家の姫君〃を祀るものである。しかし、それだけではない。その母―「ジュスタ」という名の大友家の「姫(宗麟の長女)」が隠されている。
 大友親家の名が「利根川道孝」と敢えて「利根川」姓で記されているのは、「大友」姓が憚られたからに他ならない。こんにちでこそ大友宗麟の名前は、半ば誇り高いものとして豊後人の間で呼ばれ、その銅像も多く県内に見られるのであるが、「大友」を称することがタブーとされた徳川時代の、キリスト教徒とその類族に対する邪教蔑視感をくみ取るべきであろう。(つづく)

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