2020年11月4日水曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑦―

 元和6年ロザリオの組を離れる謎/背後にイエズス会の「教皇ジュビレオ」独占操作?

=ジュビレオの取り扱いに問題あり=

 ―ここに一つの謎がある。ロザリオのコフラヂア(組)の「別而貴き」こと「高上なる事を弁え」、同組に入会した嶋原・三會のキリシタンのうち、「嶋原と三會の二つの町に於いて」は、ロザリオの組が消えてしまった!ことである。「元和6年閏師走3日付、ひせんて平左右衛門証言」文書に、「…さりながらこんはにや(コンパニヤ)(=イエズス会)のはてれ(パーデレ)、同宿、かん坊、組親より色々の事を申され候間、きりしたん衆大形(おおかた)ろさりよの組をすて候」と。また、ドミニコ会士コリャード神父が1621年1月31日付けで書いたイスパニア文の証言文書にも、「嶋原と三會の二つの町に於いては人々がロザリオの組を棄てて以来、…ロザリオの組親も組も残っていない。…」とある。

 それより一年ほど前「1619年(元和5)」まで、「三會という有馬国の地方―この地方の住民はすべてロザリオの組員で、己の霊魂の問題を真剣に語り、片時もロザリオの祈りを怠らぬようにして」いた(オルファネール著『日本キリシタン史』第35章)。また、ルエダ神父が初め「嶋原町」に、1619年(元和5)3月から三會村に入り、「嶋原と三會の転びたる者をおおよそ御立上げなられ、ろさりよの御組に惣別(そうべつ)(=全体として)御入れ」られた。そのなりゆきからしても奇異である。ルエダ神父自身、後日、マニラに帰還して執筆した報告書「1621年9月4日付」の中で、「聖なるロザリオの信心について、このような出来事はまことに珍しいことでした」、と述べている。

 理由の一つに、領主松倉重政が島原城を森嶽(もりたけ)に築き、「嶋原町」と「三會町」(=森嶽の東側周辺―島原港奥部に存在したと考えられる)が城下町として改変されつつあったことも上げられようが、彼らの信仰「ロザリオ信心」はそのような外的要因に影響される性格のものではなかった。一体何が、「嶋原町」と「三會町」のロザリオ組員の心を変えたのだろうか?

 この疑問は長いこと解けなかったが、答えは2005年10月、東京ドミニコ会聖ヨセフ修道院(同修道院はその後、愛媛県松山市のロザリオの聖母管区日本地区本部に統合された)の岡本哲男司祭から送られてきた一冊の書籍『17世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父 伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年、聖ドミニコ修道会発行)の中にあった。「ジュビレオ」に絡む、次のような出来事である―、


 …昨年、1620年に起こった出来事をここでお話ししましょう。それは多くのキリシタンがこの迫害中に示した勇気を、彼らのうちの多くの者が聖なる信仰のために命を捧げたことを私たちの教皇聖下パウロ五世が聞かれて、彼らを勇気づけ、忍耐するように励ますために告白し聖体拝領をした者に全免償を許可されましたが、その奉仕者は私たち全修道会のあらゆる修道者たちであり、私たちはさまざまな地方を巡るはずであったのに、教皇がこの全免償の知らせを送付された司教総代理がイエズス会の神父で、彼は他の修道会のいかなる修道者にもその公布を委託しないで、ただイエズス会の神父たちだけ委託しました。

 そして、私たちはこの会の神父を幾人か知っていますが、彼らが上記の全免償の特典を公布し、それを得させるためにキリシタンたちの告白を聴こうと巡っているとき、聖なるロザリオの信心会員で私たちに告白していたキリシタンたちがいる地方では、これらの神父たちは決してそれを公布せず、また全免償の特典を知らせようともしなかったので、この地方のキリシタンたちは全免償を得ることなく取り残されてしまいました。その結果、これらの神父たちは私たちとの平和と一致を望まないゆえに、教皇が大きい愛徳と寛大さでもって差別なく全員に許可された全免償という宝物をあのキリシタンたちから剥奪してしまったのです。(同書282頁)


 ローマ教皇パウロ五世が「異例のジュビレオ(カトリック信者が償うべき罪に対し、ローマ教皇が特別の赦しを与えること。聖年、回勅とも言う)」を発布したのは「1617年6月14日」。聖ペテロ大聖堂の本体「身廊」の完成・祝別を記念するものであった。これが日本にもたらされたのは「1620年(元和6)8月20日」パウロ五世による日本の信者のための「慰めの書簡」が特別に添えられていた。嶋原・三會にロザリオ信心が拡まり、イエズス会とドミニコ会との「対立」が深刻化していた頃である。

 ルエダ神父が述べているように、「ジュビレオ」は会派・修道会を隔てることなく、あらゆる会員がその恩恵の対象になる。―にもかかわらず、イエズス会だけがこれを独占し、他の修道会「ロザリオの信心会員たちがいる地方では(知られると困るため)、決してそれを公布せず、全免償の特典を知らせようともしなかった」。唖然とするような事実が隠されていたのだ。

 「免償」のないがために苦戦を強いられていたイエズス会・ゾラ神父は、これにより「嶋原・三會の二つの町」の信徒らの奪回に成功したものと考えられる。信仰に燃え、「立あがり」を公に宣言したあの固い決意のロザリオ信心信徒らが、短期間に豹変した理由を他に見つけることはできない。(つづく)

写真=ルエダ神父自筆の「1621年9月4日付―報告書」の最後の頁。同神父の真正の署名で終わっている(『17世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師―ルエダ神父―報告書』掲載)。〕


 

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