「霊魂の救い」道を得て「立あがり」/「功徳の配分」に預かるロザリオ信心
=ドミニコ会ルエダ神父による「立あげ」そのⅢ=
■功徳の配分に預かる―
ロザリオ信心の最大の特徴は、言うまでもなく「免償(インズルゼンシアス)」を有することにあるが、他に「功徳の配分に預かる」特典がある。「貴きロザリヨの組の御定め・第一」条に、「此の(組員の)内には多くの善人在(ましま)す儀なれば、其の功徳の配分に預りたてまつる事、誠に浅からざる御恩なるべしと弁(わきま)ふべし」。同「第二」条に、「サント・ドミンゴの門派の諸出家(修道士)行はるる御ミイサ、オラショ(祈り)、ゼジュン(断食)、ヂシピリナ(鞭(むち)打ちの苦行)、其の外の善作(ぜんさ)の功力(くりき)を組の衆に、此の門派(もんぱ)のパアデレゼネラル(総長)通用させ給ふなり。これまた数千人の出家と言ひ、善行に募(つの)られたる衆多ければ、其の功徳の配分も莫太(ばくたい)なるべしと心得(こころう)べし」、とあるのがそれだ。
信仰は個人もしくは先祖の救いを目的とするのが一般的だが、自分が為した善行の功徳が隣人・仲間にも「配分」され、また、組員となることで自分には出来そうにないパーデレたちの清貧のおこない―「捨身行(しやしんぎよう)」等による大きな「功徳の配分」にも預かることができる―というのは、キリスト教が強調する隣人愛「ぽろしもの御大切(おんたいせつ)」の一つのかたちであり、心の世界における相互扶助と見ることができる。
この点についても三會村信徒たちは理解していた。「さんたまりやの御敬いと申し、人前(にんぜん)の鏡と申し、一入(ひとしお)善の心懸けも肝要に候。此等の趣(おもむ)き、さんととみんこのはてれ衆は申すにおよばず、其の下々(しもじも)の衆(組員)迄も道の御教化にて候」、と証言文書に綴っている。
ロザリオ信心の「インヅルゼンシアス」と「功徳の配分」とを理解し、「立あがり」に至った1616年(元和2)と1619年(元和5)の、長崎と三會村におけるロザリオ信心に関する二つの出来事は、イエズス会の前に劣勢を強いられ奮闘するドミニコ会にとって、大きな力になったに違いない。オルファネール神父もルエダ神父も、重ねてこの「驚嘆すべき」出来事、「慣習の大改革」、「罪人の改心」にふれ、報告している。
■後生を助かるべき頼もしきの綱…
ところで、ロザリオ信心が奇蹟的に拡まった長崎と三會村の二つの出来事のうち、三會村の「立あがり」では「ゐんづるぜんしやす(免償)」とは別の、もう一つの要因があった事実を伝えている。「ロザリオの組の設立の目的を語った」こと、「どのようにロザリオの信心が創設され、その由来が異端者や罪人の改心のためであったかを話して聞かせた」こと(ルエダ神父「1619年12月6日付書簡」)、である。
「ロザリオ信心の由来が異端者や罪人の改心のためであった」、ということが何故、彼らの「心を打ち」、「改心」に至らしめたのだろうか?人生の価値がモノやカネに置き換えられてしまいがちな現代人にとって、「罪人の改心」と言ってもピンと来ないかもしれない。しかし、ひとたびはキリシタンとして救いの道を悟りながら、「転び」という「罪」を犯した我々島原人の先祖たちにとって、立ち直ること、「改心」は宿命的な課題であった。島原のキリシタン史を理解するには、彼らが生きた時代と、彼らの事情・心情に対峙(たいじ)しなければならない、と思われる。
ルエダ神父が1620年(元和6)暮れ、健康を回復するため一旦マニラに戻り、再来日を期して著した『ロザリオ記録』(ローマ字綴りの日本語版)を開いてみよう。「第一」章「ロザリオのコフラヂアの根元の事」に「ロザリオの由来」が詳しく紹介されている。1216年、聖ドミニコが南フランスのアルビ村で聖霊に燃え、サンタ・マリアに対し「後生(ごしよう)(=死後)を助かるべき頼(たの)もしきの綱(が)切れ果てたる」人々の救いを祈願していたとき、「憐れみの御母サンタ・マリア現はれ給ひ」て、「貴きロザリオのオラショとコフラヂヤの理(ことわり)」を教示された、と―。
注目したいのは「後生を助かるべき頼もしきの綱、切れ果てたる人々の救い…」である。当時、三會村の信徒たちは、迫害と拷問の恐怖に屈し「転」んでいた。「立ち上がる」にはコンヒサンを執りなす「ご出家(パーデレ)」が必要であったが、「いづれも御出家衆には離れ申し、立あがり申すべきたより御座なく、昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居り候」であった。何が悲しいかと言えば、「後生の助かりの望みが切れ果てたこと」―すなわちあの世に逝(い)っても救われないことであった。そのような打ち拉(ひし)がれた彼らの前に、「後生の助かりの頼もしきの綱、切れ果てたる人々の救い」をもたらすという「ロザリオのオラショとロザリオのコフラヂヤ」(=ロザリオ信心)がルエダ神父によって提示されたのだから、その出会いがいかなるものであったか理解されよう。ルエダ神父は「主(なる神)が彼らの理性に霊の力を降し、彼らの心を打ち給うた」、と表現している。
一方、三會村の信徒たちはと言うと「人の後生の扶かり候事」、「(ロザリオの組の)人数(にんじゆ)一分(いちぶ)に召し加えられ候故、後生の道をいよいよ弁(わきま)え申し候…」と、「後生の扶(たすか)かり」を得た喜びを繰り返している。すなわち「昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居り候」三會村の「転(ころ)び」たちは、ドミニコ会神父ルエダ師との出会い、ロザリオ信心との出会いにより「心打たれ」、「立あがり候」ことであった。(つづく)
〔写真=「元和七年霜月十日、ひせんて平左衛門」ら三會村信徒証言文書の冒頭部分。「ころび申し…立あがり申すべき便り(頼り)も御座なく、昼夜かなしみに沈み罷り居り候」とある。〕 |
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