三會村「転び」きりしたん、禁教下で「立あがり」!/定説揺るがす「元和年中証言文書」
=「島原の乱」真相解明に示唆―=
「転び」のキリシタンが徳川幕府のキリスト教禁制下で「立あがる」!そんなことがあり得るだろうか?三會村信徒の証言文書に見える「さんとどみんごのはてれふらい志ゆあん(聖ドミニコ会パーデレ、フライ・ジュアン・デ・ルエダ)」神父による「立あげ」の真否を確認するため、彼らがその理由として上げている「別而貴きろさりよのこんふらちや」、「ゐんづるせんしやす」等々、イエズス会にはなかったドミニコ修道会の用語とその信仰世界を繙(ひもと)いていくと、意外な事実が浮かび上がってくる。たしかに三會村の「転び」は元和年間「息を吹き返した」ようだ。「後生を扶(たすか)る」ための生き方―それはロザリオの組の名簿に名前を書き入れるという形式ではなく、「面々の行儀次第」であると弁(わきま)え、イエズス会の「妨害」に対しても信仰的姿勢を崩さず、「隔(へだ)てなく」「大切(=愛)を専(もつぱ)ら」に生きていた!その信仰はホンモノである、と言っていい。
従来のイエズス会中心のキリシタン史理解によれば、「立あがり」「復活」は幕末の「信徒発見」(1865年)を俟(ま)たねばならない。しかし、ドミニコ会によるキリシタン史では元和6―7年(1619―20)に「立あがり」があり、それが少なくとも島原の乱(1637―38)前後の期間(いつ頃までかは不明)継続した、と見ることができる。
「立あがり」は「転び」に対する逆の行為であり、転びという「罪」の「償い」の過程〈作法〉を経なければならないことは先に述べた。これについてもイエズス会とドミニコ会とでは、そのやり方に見解の違いがあったことをルエダ神父は「1619年3月20日付」書簡の中で指摘している。すなわちドミニコ会は「転び証文」を取り戻し、キリシタン信仰に戻ったことを奉行・役人に告げなければならない、と教えたのに対し、イエズス会(の中浦ジュリアン神父)はそこまでする必要はない、と―。
当時、この作法を「言い戻し」と言ったらしいが、三會村の信徒が「言い戻した」と思われる出来事が、実は元和6年(1619)にあった。島原城築城最中のことで、城下町における仏教寺院建設公役(くやく)(=加勢)に関する事件である。オルファネール神父の『日本キリシタン史・35章』に次のように出ている。
…当時、三會という有馬国の地方―現在、この地方の住民はすべてロザリオの組員で、己の霊魂の問題を真剣に語り、片時もロザリオの祈りを怠らぬようにしている―に私が滞在中、殿(松倉重政)の代理者が住民に対して、偶像に捧げる寺院建立助勢のため同地最大の市(まち)(=島原)に参集を命じた。これに対して、これらロザリオの組親たちは全組員を代表して「我等はキリシタンなるがゆえ、我らに命ぜられたことは致しかねます。しかし、その代りに偶像崇拝に関しないことであれば、何なりとも御下命なされませ。たとえその仕事の量が倍加しても喜んで致します」と答えた。…
フランシスコ・カレーロ神父もまた、著書『キリシタン時代の聖なるロザリオ信心』にこの事件を記し、「…熟慮した結果、全員の組員は意見を一致し、聖なるロザリオの乙名と組親は、(寺院建立公役(くやく)に)働かざること、ただし仕事は他のものに替えるように訴えること、を彼らに告げた。」と述べている。「彼ら(役人)に告げた」というのは、「自分たちはキリシタンに戻った」と公に宣言したこと、「立あがり」の手続きを踏んだことを意味しているではないか!当然「生命の危険にさらされることになる」が、それは覚悟の上であった。結末は、こうである―「奉行は善き組員の決意を知らされると激怒して、その人数を尋ねた。しかし四百人を超えるほど多数にのぼり、我が身を滅ぼすことになると悟ったので見過ごそうとし、『命じたことは今はさほど急がぬゆえ、放っておくように』と語った」。―つまりは黙認した、三會村信徒の「立あがり」を認めた、ということになる。
この事件は、ドミニコ会の『日本キリシタン史』では、ロザリヨ信心が深く浸透した顕著な事例として取り上げられているが、日本の一般的キリシタン史からすると、迫害期のごく初期―元和年間に「立あがり」の事実が存在したことであり、定説を揺るがす出来事である。このあと間もなく起こる「島原の乱」(1637―38)との関連で言えば、乱の参加者が南目(半島南部)に限られ、三會村以北の北目が参加しなかった謎に答えを提供し、さらには乱の真相が「立あがり」と関連した事件であったことを示唆するものであり、見逃すことのできない内容を秘めている。
従来、〃苛政に対する反乱(一揆)〃という構図で解釈され、それが一般に分かりやすいこともあって長年、そのように説明され語り継がれることの多かった島原の乱は、近年、各種資料に基づく学術研究により宗教原因説〈立あがり説〉がクローズアップされるようになってきた。それでも結果的行為の「乱」(=立あがり)のみに視点を当てる傾向があり、十分な解答が導き出せない状況にある。〈立あがり〉は、原因としての〈転び〉を抜きにしては説明できないことがらであれば、その解は〈転び〉問題の方程式を解いていく以外に得られない。
ドミニコ会神父コリャードが徴収した三會村信徒による「元和年間証言文書」は、そのような意味で貴重な資料となる。(つづく)
〔写真=『元和6年閏12月3日付、ひせんて平左衛門証言』文書(部分)。「伴天連ふらい寿庵、嶋原三會のころひたる者を立上被成候―」とある。〕 |
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