2020年6月2日火曜日

木浦鉱山キリシタン墓地―「女郎墓」調査記①

まえがきキリシタン墓碑の変遷概観
 死者を葬り供養する墓石は日本において総じて「石塔」と称され、縦長の塔形をなしたものであった。ところがキリシタン時代、地面に伏せる形態の墓石が西欧から導入され、石塔史に画期的時代をもたらした。研究者たちはこれを「伏碑(ふせひ)」と称し、地域によっては「寝墓(ねばか)」とも呼ばれている。
 日本におけるキリシタン墓碑は、それでも当初、キリスト教を伝えたイエズス会が日本文化順応の布教方針を採ったため、塔形立碑(とうけいりっぴ)をなしていた。ポルトガル様式の伏碑型キリシタン墓碑が出現するのは、意外にも慶長期半ば以降である(註1)。
 1614年1月(慶長18年臘月)、徳川幕府によってキリスト教が禁止され「かくれ」を余儀なくされたとき、一部は従前の塔形に戻ったが、キリシタン墓碑の特徴である伏碑型を変容させて継承したものも多くあった。その一つに「方形石組み型(かくれ)キリシタン墓碑」がある。長崎県のかくれキリシタンの里として知られる外海地方や平戸、そして長崎の信者らとの往来があった山口県の日本海側―長門市向津具(むかつく)などで分布が確認される。
〔写真〕左から長崎県外海、同平戸、山口県長門市油谷向津具の石組み型キリシタン墓碑
 近年、大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地で発見された墓碑も「方形石組み型かくれ墓碑」の典型事例であるが、同市教育委員会はこの造立時期を野津のキリシタン指導者リアンが存在した時代(天正年間)としている(註2)。
〔写真〕大分県臼杵市野津「下藤キリシタン墓地」の石組み型墓碑

島原と木浦鉱山二箇所の「女郎墓」
 ところで、キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の領地であった長崎県島原半島に、「女郎墓」と称されるキリシタン墓碑がある。美しい花十字と「慶長拾伍年/るしや/生年二十歳/拾一月十七日」の銘が刻まれた典型的なポルトガル様式の墓碑である。地元(南島原市北有馬町)では昔から「寝ている墓、すなわち寝商売の女郎の墓と言い伝えられて」きた(註3)。
〔写真〕女郎墓と伝承されてきた南島原市北有馬の「るしや」キリシタン墓碑

 一方、筆者は2017年5月、「るいさ」銘のキリシタン墓碑がある大分県佐伯市宇目を訪れて以来、イエズス会の記録文書(註4)をもとに同地に組織された信心会「コングレガチオ」の痕跡を追ってきた。宣教師文書によると、「ルイサ」は豊後地方で夫「イチノカミドノ」と協力して宣教師を匿い、コングレガチオ信心会運営に尽力した女性リーダーである(註5)。
 当時(1617年)、イエズス会のコウロス神父は全国を巡回して各地のキリシタン指導者たちの署名と証言文書を収拾した。「コウロス徴収文書」と称される同文書には、豊後地方のキリシタンを潜伏しながら指導した宣教師として「へろなはろ」―正式には「ペトロ・パウロ・ナヴァロ」神父―が記録されている。同宣教師が「ルイサ」らとともに豊後国のどこかに地下の宣教組織コングレガチオをつくり、近隣各地のキリシタン組織(コンフラリア)と連絡しながら禁教時代のキリシタン信者を指導していたのだ。その場所として想定されるのが「コウロス徴収文書」に登場する「豊後国・なんぐん(南郡)」である(註6)。現竹田市と佐伯市が接する宇目・木浦鉱山地域は、「るいさ」の墓碑をはじめ多くのキリシタン遺跡・遺物が分布しており、有力な候補地であるにちがいない。筆者はその調査の過程で、木浦鉱山の山中に「女郎墓」があるのを知った。(つづく)
〔写真〕大分県佐伯市宇目木浦鉱山の「女郎墓」

註1〕…『南島原市世界遺産地域調査報告書―日本キリシタン墓碑総覧』(2012・南島原市教育委員会発行)掲載の「紀年銘キリシタン墓碑一覧」史料によると、伏碑型の初出は1604(慶長9)年、長崎県雲仙市の「上土手元第一号墓碑」。最後は1619(元和5)年、大分県佐伯市宇目重岡の「るいさ」墓碑である。
註2〕…大分県臼杵市野津・下藤地区キリシタン墓地の説明板に「この墓地は、下藤村の地侍でキリシタンであったリアンが、キリシタンとなった村人のため、天正7年(1579)頃に造ったものと考えられます」とある。それは野津キリシタン史の始まりではあるが、「かくれ」の時代が連続している。墓碑・墓地造立の時代は再考されるべきであろう。天正年間のキリシタン墓碑はまだ伏碑ではなく、立碑形式のものであった。紀年銘でもっとも古いものは大坂四条畷の「礼幡」墓碑(1581年)、次に大坂八尾の「MANTIO」墓碑(1582年)が知られているが、いずれも塔形立碑である。
註3〕…『島原風土記第4号』(1987・島原歴史懇話会発行)125-126頁「北有馬町西田平、るしやキリシタン墓碑発見記―太田金敏」参照。
註4〕…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』全15巻(同朋社発行)。
註5〕…「ロレンゾ・ポッツェ訳イエズス会総長宛、1615・16年度日本年報」(ミラノ版、日本・シナ・ゴア・エティオピア年報3~84頁)」(1996・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、219-221頁)。
註6〕…「なんぐん(南郡)」はコウロス徴収文書で豊後国のキリシタン宗団の一つとして登場する。その中に、「こんはにや(イエズス会)のはてれ(バーデレ=宣教師)へろはうろ(ペトロ・パウロ・ナバロ神父)様当国ニ聢被成御在宅方々被成御辛身候…」とある。ちなみに、コウロス徴収文書に登場するナバロ神父の活動範囲は、豊後国の「臼杵、油布院、野津、高田、なんぐん(南郡)、日出、府内、利光・戸次・清田、種具村・丹生・志村・大佐井村」。日向国の「縣(あがた)」であった。
 
 

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