当時の宣教師の記録によると、「彼は2年前(1617年)にすでに信仰のため(=キリシタン信仰を捨てないがため)に領地を取り上げられ」(註1)、そして「全家族とともに一軒の小屋に閉じ込められ」ていた。翌1618年、藩主はなおも「ディエゴ隼人を打ちのめすことができなかったので」、代わりに城下のキリシタン35人を処刑した(「1618年度日本年報補遺」)。そして1619年、殿は隼人に死刑の宣告文を突きつけた(註2)。
「1620年10月1日付(イエズス会)1619年度日本年報」は、ジャコウベ(ディエゴ)加賀山隼人が殉教した次第について、次のように記録している(註3)。
(越中殿=細川忠興から死刑の宣告が使者を通じて届けられた)その時、家の奥には妻マリアと、3名の子供の中の娘(次女)ルシアがいたが、彼は彼女らに涙を流さず、また泣き叫びもしないと約束をさせてからでなければ最後の暇乞(いとまご)いは許さなかった。しかし感情は約束を抑えておくことはできなかった。彼女たちは感情をほとばしらせ、突然涙を流し、妻は夫に、娘は父にすがりついて、自分たちが何時までも生き残っていなければならぬのを歎いた。ジャコウベ(ディエゴ隼人)は二人を𠮟り、今は嘆き悲しむ時ではなく、歓喜をもって祝うべきだと諭した。…彼は…「救霊の悔悛について」という小冊子(「コンチリサンの略」か)を手に取って長い間祈祷にひたり、…最後に別離の杯を交わし、一同に別れを告げ、大祝日に着用していた晴れ着をまとって刑吏の許(もと)に出頭した。晴れ着はヨーロッパ風の半長靴と下着で(かつてグレゴリオ・セスペデス師(1611年死去)から贈られたものであった)。(その上に日本の羽織を着て)、…こうして彼は小舟に乗って領国の主都で殿の居城である小倉の市(まち)から千歩隔たった所定の刑場へ連行された」。
「海路」(をたどり)、…舟から上がると、彼は絹の上衣を脱ぎ、それを施しとしていっしょに伴ってきた一人のキリシタンに与えた。それから彼は裸足になり、目前に聳(そび)えた丘まで詩篇と連祷を代わる代わる唱えた。頂上に着くと跪(ひざまづ)いて祈り、イエズスとマリアの聖名(みな)を呼び、自らどうすればより巧(うま)く首が斬れるかを刑吏に教えてから、静かに太刀を浴びた。斬首されたのは十月十五日であり、遺体は二人のキリシタンによって能(あた)うるかぎり鄭重に葬られた。時にジャコウベ(ディエゴ)は五十四歳であった。」
ディエゴ加賀山隼人の屋敷はそれ以前、「ないき殿(細川忠利)、長岡中務殿(孝之)」ら家老クラスの屋敷が並ぶ小倉城二の丸(本丸の北側に隣接する場所)にあり(註4)、1617年からキリシタンを捨てない理由で城内の牢に入れらた。
1619年10月15日、死刑の命を受けて刑場に向かうとき「小舟に乗って」出たというその場所は、絵図にある「舟入」であったと想定される。すなわち、隼人の(元)屋敷と「舟入」は常盤橋を挟んでごく近い距離にあるので、二年ほど監禁された「小屋(牢屋)」も、元の隼人の屋敷からほど近い所にあったと思われる。
彼は「舟入」から舟に乗せられ「海路」、「小倉の市から千歩隔たった所定の刑場」に至るが、「所定の刑場」と言うのは「平松浦」の刑場であったにちがいない。同藩の『行刑録』を見ても、処刑場は「平松浦」以外には記されていない。
「豊後国小倉城絵図」(国立稿文書館蔵)でその場所を探すと、小倉城の北西方向に位置するようだ。すなわち西側外堀を形成する「溜池(ためいけ)」があり、その北側を閉じる格好で長い砂嘴(さし)状の島(こんにちの平松町?)が描かれているが、そこを通る一本の道が西側の陸地と繋がるところに「平松口」と記されている。こんにちの日明(ひあがり)地区と平松町とをつなぐ、板櫃川に架かる「地獄橋」(今では「極楽橋」と称されている)であろう。「所定の刑場」は、そこからさらに西方向に海沿いの道を行ったところにある。
「豊前國小倉城絵図」(国立公文書館蔵)部分。絵図の中に「平松口」、「溜池」の記載がある。 |
地図を見ながら現地を訪ねてみると、道は「日明5丁目」のところで緩やかにカーブを描き、右側に墓地が見えてくる。そして、帯状につづく二箇所の墓地の西外れに、「日明濱處刑諸霊塔」(ひあがりはましょけいしょれいとう)の文字が刻まれた自然石の記念碑が建っている。藩政時代、この場で処刑された人の霊をまつる供養塔であり、同時に処刑場を記念するものである。
日明濱處刑場跡(墓地)全景。西端から墓地方向(東側)を見る。 |
道路から見て墓地の後方(北側)はやや低くなっていて、線路(鹿児島本線)が走り、往時は海がすぐ近くまで迫っていたであろう。ここが「平松浦」の処刑場であるに相違ないが、1620年、イエズス会が記録したディエゴ加賀山隼人の殉教地の情景とは、ややへだたりがある。隼人の処刑地は、「舟から上が」り、裸足で歩きながら辿った「目前に聳えた丘」の「頂上」であったのだ。
筆者は現場に立ち、しばし背後の「丘」を探した。そして、日明小学校の南側山手を目指して、ゆるやかな坂道を登って行った。同小正門を通り過ぎ、しばらく行くと、途中「日明一本松塚遺跡」の標識があり、さらに登って行くと頂上を過ぎて下り坂になる。その「頂上」付近に「一池妙蓮信女」の墓碑(江戸中期に不遇の死を遂げた美女を祀る墓)と、「六地蔵」(昭和初期建立)があるのを見つけた。地番は「日明3丁目2の1」だが、六地蔵の説明板に「高台町のお地蔵さん」とあるので、ここがかつて「高台町」と呼ばれた「高台」であったことが判明する。
先ほどの刑場跡墓地から道に迷いながら時間をかけて登ったので30分ほど要したが、往時「一本松」があって、ほとんど自然のままの地形であったとするなら、海辺の砂浜から10分ほどで辿り着く「丘の頂上」である。
〔写真左〕…日明小の正門を横切ってしばらく行くと、右側に「日明一本松塚遺跡」の標識が見える(写真左の右上)。〔写真右〕…最後の坂道を登り着いたところ=写真右の正面奥に見える家の裏手が頂上になる。 |
高台にある「一池妙連信女」を祀る墓碑と「高台町お地蔵さん」の説明板。 |
ディエゴ隼人の死後間もなく記されたイエズス会の文書史料と古絵図、そして現在の地図をもとに現地を踏査し、「日明(ひあがり)」と呼ばれる1丁目から5丁目全体(旧「干上村」)の往時の地形を思い描いてみた。海に面した長い海岸は「干上がる」ほどの遠浅の砂浜があり、人家も少なかったであろう。後方には古墳を含む自然のままの丘があり、「高台」をなしていた。江戸時代、浜辺にやや突き出た所(日明5丁目)は処刑場となり、そこに墓地が形成されていった。
1619年10月、小倉城の「舟入」から舟に乗って平松浦の日明濱(ひあがりはま)に着いたディエゴ加賀山隼人は、「舟から上がり、それから裸足になって、目前に聳えた丘の上まで詩篇と連祷を唱えながら歩いた」。今では丘の上まで家が建ち並び、裏手には大きな道路も通って原形が失われているものの、なお遺るこの「高台」こそがディオゴ隼人の殉教地であり、そこに至る細い山道は彼の最期の足跡(あしあと)であるにちがいない。
彼の殉教400年を記念する2019年10月15日、日明濱の処刑場を訪れる巡礼者は他になかったのだろうか。わたしは島原からペットボトルに入れて持参した雲仙岳の湧水を「日明濱處刑諸霊塔」に献げ、あの日、泣いてすがる妻や娘に「今は嘆き悲しむ時ではない。歓喜をもって祝うべし」と諭した彼のキリシタン信仰を偲んだ。そして、首を斬られたのは確かに「丘の頂上」であったが、日明のこの浜辺から「高台」まで、緩やかな坂道を歩いて登ったのは事実であるから、「日明濱處刑諸霊塔」があるこの刑場跡を「高台」と含めてディエゴ加賀山隼人の殉教地としていいのではないか、―とそう思った。
小倉藩・平松浦日明濱処刑場の諸霊を祀る記念碑「日明濱處刑諸霊塔」(小倉北区日明5丁目) |
※註1…ドミニコ会『福者ハシント・オルファネールOP書簡・報告』(1983・キリシタン文化研究会刊)167頁。
※註2…イエズス会「1620年10月1日付、マカオ発信、ガスパル・ルイスのイエズス会総長宛、1619年度日本年報」。
※註3…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(同朋社出版・全15巻)のうち第Ⅱ期第3巻、38~40頁。
※註4…慶長17(1602)年頃、萩藩毛利家の密偵が探索して描いたとされる「豊前国小倉城図」に「加賀山隼人」屋敷の記載がある。写真のそれは「津々堂のたわごと日録」氏のブログ掲載から借用し、一部加筆した。
「豊前小倉城図」(山口県文書館蔵)。№5(赤字)が加賀山隼人の屋敷。 |
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