木浦鉱山女郎墓がかくれキリシタンの墓地であるとするなら、その背景としての宇目キリシタン史―とくに迫害時代に対処するイエズス会の地下組織・コングレガチオ信心会の実態と、同鉱山を含む周辺地域のキリシタン遺跡・遺物などを関連して検討しなければならない。
詳しくは今後の調査に譲るとして、現時点で把握されるいくつかの関連事項を次に上げてみたい。
①…1617年(元和3)のコウロス神父徴収文書の「豊後国なんぐん」の部に登場する6人のキリシタンリーダーのうち、第一人者として名前がある「佐藤九介はうろ Sato Cusuqe Paulo」なる人物と、宇目木浦鉱山の鉱山師「佐藤大膳」との係わり。
「佐藤九介」ら豊後国「なんぐん」のキリシタン組織指導者6人の署名があるコウロス徴収文書 |
②…重岡の「るいさ」銘キリシタン墓碑は、日本で確認される紀年銘ポルトガル様式伏碑型墓碑では最後(元和5年=1619年)になるが、同時に最大規模を有する墓碑である。それは、この地域に「るいさ」を中心とする強力なイエズス会地下組織「コングレガチオ信心会」が存在した証明でもある。イエズス会は豊後国のこの信心会の活動の一端を「1615-1616年度日本年報」に記している。
③…コングレガチオ信心会の女性リーダー「ルイサ」が元和5年(1619)正月に亡くなったあと、同地で地下宣教をしていた「へろはうろ(ペトロ・パウロ・ナヴァロ)」神父が肥前国(長崎県)島原半島に異動し、1621年(元和7)12月に捕らわれて島原の城下町で10ヶ月余り監禁されながら布教活動をしていたとき、豊後のキリシタンたちがナヴァロ神父のもとに駆け付けて見舞ったことがある(註1)。このように禁教時代であっても「かくれ」たちは互いに地域を越えて交流していたことであり、「方形石組み型墓碑」が長崎県と共通して大分県(野津、宇目木浦鉱山)に存在することの根拠になる。
④…『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著)は1626年、「豊後には(なおも)一人の神父がいた」と記し、また1633年、「豊後でマノエル・ボルゲス神父(イエズス会のプロクラドール)が2人の伝道師とともに捕縛され、長崎に連行された」と記している(註2)。これは1633年まで豊後国の山中どこかに隠れたイエズス会の組織(コングレガチオ)が維持されていたことの証しである。
⑤…1696年(元禄9)、木浦鉱山・山師の一人がキリシタンとして捕らわれ、木浦牢内で獄門に処せられた(『宇目町誌』213頁)。木浦鉱山には元禄年間、なおも隠れキリシタンが存在したことであった。
⑥…宇目から木浦鉱山に至る途中の中岳(長渕地区)にキリシタン洞窟やキリシタン柄鏡など複数のキリシタン関連遺物・遺跡が存在する。今回の調査で帰途、中岳山頂のかくれキリシタン墓地と考えられる場所に案内され、近世期の古い墓地の背後に十字紋と◯紋様が刻まれた「拝み石」があるのを確認した。その名称「拝み石」は、長崎県平戸島のかくれ集落・猪渡谷のキリシタン墓地の「拝み石」と同じである。
◯と十字紋が刻まれたキリシタンの「拝み石」(中岳山頂付近) |
⑦…木浦鉱山の正月行事として伝承される墨つけ祭りの御神体「大弊(おおべい)」に、キリスト教の罪標十字架(干十字)の形を重ねることができる(註3)。
⑧…女郎墓がある場所の字名「大切」は、キリシタン用語に登場する(註4)。
以上、概略列挙した木浦鉱山に係わるキリシタン史および習俗は、「女郎墓」と言われてきた墓碑遺構がキリシタン史における「方形石組み型墓碑」であることを裏付ける補助資料となるであろう。(つづく)
※註1…ナバロ師の捕縛…「島原の4人のキリシタンと有馬のキリシタン5人の責任の下に、アンデレア・マゴエモン(孫右衛門)の家に監禁されていた(ナバロ)師は、毎日ミサ聖祭を献て、キリシタンに聖体を授けた。これは単に島原、長崎、並びに高来の信者のみならず、豊前と豊後の信者が集まって来て、天主堂のやうであった。」(レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』中巻、252頁)。
※註1…ナバロ師の捕縛…「島原の4人のキリシタンと有馬のキリシタン5人の責任の下に、アンデレア・マゴエモン(孫右衛門)の家に監禁されていた(ナバロ)師は、毎日ミサ聖祭を献て、キリシタンに聖体を授けた。これは単に島原、長崎、並びに高来の信者のみならず、豊前と豊後の信者が集まって来て、天主堂のやうであった。」(レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』中巻、252頁)。
※註2…前掲史料下巻247頁。同261頁には、「この神父は、ここ12年間、立派な仕事をなし遂げた。彼は山間に匿われていた他の神父たちの会計係であった」とある。
※註3…イエズス会は、日本の正月行事をキリスト教の祝日「御守りのサンタマリア」と定め、マリアの誕生を祝うための諸催し―キリスト教的な舞を奉納したり、数珠に代えてロザリオをもって(神社に)参拝したりした。この取り決めはヴァリニヤーノ師が来日した1580年、イエズス会会議で「決裁」された。木浦鉱山の墨つけ祭り(正式名称は「山上がり祭り」)に、そのようなキリスト教の祝日祭りが重ねられていたとすれば、神社名「山神社(さんじんじゃ)」の「さん」は、長崎の岬にあったイエズス会本部教会名「サン・パウロ」の「サン」に通じるであろうし、また祭りの御神体である「大弊」が罪標十字架の骨組みを有していることの謎も解けてくる。加えて大弊の十字形骨組みに白い御弊を「1440枚」下げる(『宇目町誌』629頁記載)という数字の謎は、聖書「ヨハネ黙示録」に記されている「14万4千」に依拠したものと考えられ、聖書に通じたイエズス会宣教師の指導のもとに始められた祭りであると推察される。
※註4…キリシタン時代の教理書、信仰指導書に「御大切(おんたいせつ)」という言葉が出てくる。これは聖書で言う「神の愛」を意味する、当時のキリシタン用語であった。たとえば『こんち里さんのおらっしょ』に「御大切にわもやうされ」(神への愛にかられて)。フランシスコ会の信心会規約『勢数多講定之事』に「いかにも大切を以てひそかに異見を申し」(どのようにでも愛をもってひそかに意見を述べ)。またイエズス会の信心会『せすゝの組れいからす』規約に「此くみは、互に兄弟のちきり、大切のむすびなれば」(この組の目的は、互いの誓い、神の愛による結束であるから)。『高来に於いてバアデレ・ジャコメ・アントニヨ・ジャノネの編める組の掟』に「御おきてのきわめとなるでうすの御大切にいたらん事をほつし」(組の規約の最終目的である神の愛に至ることを願い)」、などとある。
木浦鉱山をモデルとした童話『神楽の夜』に“女郎の墓”が登場します。
返信削除『神楽の夜』は、「zawazawa」というレンタル掲示板の“トピックを検索”という小窓に、「CRのガレージ」と入力してそのトピックに進み、「CRのガレージ」内の“コメントを検索”という小窓で「連載第」と入力すると、どなたでも閲覧することのできる童話です。
作品はフィクションですので、“千人間府”の記述が現状とかなり異なっていたり、伝説や夜神楽が実在しないなどの点はありますが、その他は木浦鉱山の現状にほぼ沿った物語となっています。
『神楽の夜』は、「神のご加護を」という台詞やラストシーンなど、キリスト教の影響を感じさせる物語となっています。
「キリスト教の影響を感じさせる物語・童話『神楽の夜』」…興味深いですね。中原中也の作品もそうでした。彼の先祖に、中原善兵衛アンドレという殉教キリシタン(1605年萩で殉教)がいましたので―、若い頃、彼の詩を一生懸命、読みました。。
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