2017年11月29日水曜日

「桑姫」再考―その①―

 キリシタン神社として知られる長崎の桑姫社は従来、その被葬者(祀られている人物)を18歳で病死した在俗修道女マセンシアとして紹介されてきた。この説をはじめて唱えたのは片岡弥吉である。昭和12年(1937)、『長崎談叢・第19輯』に投稿した論考「浦上草創期の頃の二、三の事蹟」で言及した。その際、桑姫の没年「寛永4年(1627)」とマセンシアの死亡年「1605年」とに22年の誤差があるにもかかわらず、片岡氏は検証もしないまま「(桑姫)碑文の誤であろう」と一蹴した。
 6年後の昭和18年(1943)、浦川和三郎は著書『浦上切支丹史』に同説をそのまま掲載した。以来、この仮説はあたかも真実かのようにみなされ、戦後の桑姫社にかんする諸著述に繰り返し紹介されてきた、というのが一連の経緯である。

 筆者は2015年、マセンシア説に異を唱え、代案として、桑姫の死亡年をヒントに「1627年(寛永4)8月17日」長崎西坂で殉教したマグダレナ(マダレイナ)清田をそれとする小論を書いた。
 あれから2年余、種々の史料を検討するなかで、片岡―マセンシア説が誤りであると考えられる他の一つの理由を得た。それは、寛永年間に長崎奉行となった竹中采女正が、同じく「大友家に御由緒」あるとして淵村庄屋に取り立てた豊後出身の志賀宗頓(親成)から、「於西(阿西)御前(=のちの桑姫)のことを聞き、使者をして「時服、御酒、御肴、白米三十俵」を進上した、という記録である(註)。
 徳川幕府の長崎における行政権を代行する奉行竹中采女正が、それほど丁重な進物をする人物とは、竹中にとって相応の恩義がある人でなければならない。マセンシアは大友宗麟の孫娘(次女テクラの娘)であるとはいえ、彼女が長崎で修道女として生活した時代と、采女正が府内城主から長崎奉行に抜擢される時代とには20年余の誤差があり、面識もなかったであろう。そのようなマセンシアに竹中が恩義を感じて進物をしたとは考えられないのだ。
 この考察は、同時にマグダレナ清田(筆者は大友宗麟の長女ジュスタの娘と推定した)を桑姫とした自説の再考をも余儀なくされた。恩義の云々はもとよりだが、殉教者ともなったマグダレナ清田はキリシタン信仰において優れた人物ではあっても、これを徹底的に弾圧した為政者竹中采女正との接点が見いだせないからだ。
 桑姫は、まだどこかに隠れている!再度、諸史料、諸遺物を精査してこの課題を究明してみたい。(つづく)

 ※註…文政年間、淵村庄屋第8世志賀茂左衛門親籌が書き留めた『志賀家事歴』(長崎歴史博物館所蔵)、同じく文政年間(1820年頃)、饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した『長崎名勝図絵』に記されている。
長崎奉行竹中采女正が「御姫於西御前(桑姫)に丁重な進物をした旨が記されている『志賀家事歴』(部分)




 
 

2017年11月26日日曜日

清田鎮忠・ジュスタ夫妻の男児の有無に関する考察

                ドン・フランシスコ大友宗麟とその家臣について、イエズス会の報告書は多くの頁を割いて紹介している。なかでも長女ジュスタが嫁した清田鎮忠と同一族に関する記述は顕著である。
一方、清田家の子孫が伝える同家先祖についての史料もある。
両者は基本的に一致するが、異なる記述もある。最大の齟齬は、イエズス会が「彼ら(鎮忠とジュスタ夫妻)には男の子がなかった」(註1)とするのに対し、日本側の史料は鎮忠には嫡男・鎮隅、次男・五郎大夫がいた、としていることであろう。
筆者は2017年10月、清田五郎大夫家のご子孫清田泰興氏からその問題の指摘を受け、双方の史料を比較考察しながら数回にわたって意見を交わした。
本小論は、表題の課題に対する試論である。

結論を先に言うと、これは、鎮忠には実際、男の子供があった、としなければならないと考える。ただし、嫡男「鎮隅」と次男「五郎大夫」については、清田鎮忠が後室として迎えた大友宗麟娘ジュスタとの間の子供ではなく、前室・一色殿娘の子であること。そして、「鎮乗」はやはりイエズス会が指摘するように、「彼ら」すなわち鎮忠とジュスタの間「には男の子がなかった」ため「養子に迎えたドン・パウロ(志賀親次)の兄弟」であった、と思われる。

嫡男鎮隅、次男五郎大夫のこと
『太宰管内志』、『清田家旧記』などに出てくる「鎮忠の嫡子・鎮隅」なる人物は、天正15年(1587)豊前長野一揆に出陣し、そこで命を落としている。これから判断して、同年(1587年)当時、彼はすでに大人であったことは確かである。すなわち、ジュスタ(宗麟娘)と鎮忠が結ばれるのは1575年頃であるから、翌年(1576年)長男・鎮隅が生まれたとしても(ジュスタの子であるなら)「11歳」にしかすぎない。ゆえに鎮忠の男子、長男「鎮隅」、次男「五郎大夫」は前妻の子供であったと見るのが妥当である。これについては両者の母が「大友宗麟の娘」と明記されないことからも裏付けられる。

イエズス会記述の問題
次に、イエズス会が鎮忠とジュスタ夫妻と接したのは、あくまでもキリスト教布教という接点においてであるから、イエズス会は鎮忠の前歴を把握していなかった。と言うより、イエズス会が鎮忠に聞き取り調査をしたとき、鎮忠自身もイエズス会にその件を言う必要がなかったし、実際、言わなかったであろう。
清田鎮忠が主家である大友家から夫人を迎えたとき、清田家より主家大友家の家系を優先するのは、武家社会における主家と家臣の主従関係からしても当然のことであった。
しかし、ジュスタとの間に生まれたのは「女子」のみであった(註2)。そこで取られる措置は、ジュスタの娘―または連れ子―に養子を迎えることである。それが「1586年度イエズス会年報」に見られる記事―「彼らには男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子とした」―ことであった、と考えられる。

「鎮乗」の母は大友宗麟娘
この「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」なる養子は「鎮乗」であり、志賀(林)家系図から判断される「志賀浄閑(寿閑)」であった。イエズス会の「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」は、「同人(迎えた志賀家からの養子)に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。」と伝えている。
ドン・ペドロ鎮乗は鎮忠・ジュスタの「養子」であるが、「娘婿」であった。これが清田家の記録で、「寿閑(鎮乗)」についてのみ「母は大友宗麟娘」と記し、それ以外の嫡男鎮隅、次男五郎大夫については、その記述がないことの理由であろう。

キリシタン禁制時代における清田家系図
以上がキリシタン時代における清田鎮忠家の実際ではなかっただろうか。
ところが、徳川時代に移るとキリシタン宗が「御法度(禁制)」となり、状況が一転する。すなわち家系にキリシタンが存在した場合、「切支丹類族」として七代にわたって監視下に置かれことになり、これを消去または隠蔽する必要があった。
清田家の場合、キリシタンであった「鎮忠・ジュスタ」、「その娘」については「血筋」が「キリシタン類族」として仕分けられ、管理される。これを証明するものとして、細川藩の「(切支丹)類族帳」に、「私(細川家)家来清田石見母転切支丹凉泉院系」というのがある。この中に出ている「凉泉院」は清田石見の母、すなわち大友宗麟の長女ジュスタの娘であろう。志賀家から養子として入った夫「清田(志賀)鎮乗、后寿閑」と「凉泉院」の子孫が「転切支丹」として監視されていることが判明する。
こうして本来、鎮忠・ジュスタの娘とその夫(志賀鎮乗)によって継続されるべきであった清田鎮忠宗家は、藩政時代に入ると傍系に転じ、その一方で、キリシタンでなかった(と思われる)鎮忠の前妻の子供「鎮隅」、「五郎太夫」の家系が、同家の正統の位置を確保することになる。


※註1…「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」
※註2…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡」―「彼ら(清田鎮忠・ジュスタ)には二歳くらいの娘一人のみあって…」
「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報」―「嗣子となる幼い娘」
熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹涼泉院系」(部分)





2017年11月8日水曜日

『16・7世紀イエズス会日本報告集』による清田一族にかんする記録(史料)

                           ―――2017/11/08宮本作成

■1578年(天正6)
 【1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡
 …老国主(大友宗麟)は一女を清田殿と称する同国の主要なる殿の一人で、この臼杵より四、五里の所に屋敷と所領を有する人に嫁がせていた。彼らには二歳くらいの娘一人のみあって、非常に愛していたが、その娘が重い病にかかったので、諸々の偶像に供物を捧げ祈祷するため直ちに仏僧や妖術師、占者、その他同様の卑しき者多数が呼び寄せられた。…およそ十五日間に彼らは、生命を保証する右の法華宗徒らに一千クルザード近くを寄進した。幼女の両親は、彼らの神々の恵みと慈悲がどこまで通ずるかを見るため、供物と祈祷に力の及ぶ限り尽くすが、このように懇願した後、「生命を救うことができぬ場合は、神々の力がいかに小さいかを明確に知るであろう」と言った。(大友宗麟の)奥方イザベルは娘(清田殿夫人)の決心を知り、毎日彼女のもとに伝言を発し、「一度キリシタンになる意志を抱けば、それのみでも十分に幼女を死に至らしめるのであるから、神・仏に祈ることを止めぬよう」勧め、彼女もまた「神・仏に祈祷と寄進をして援助するであろう」と伝えたが、我らの主なるデウスは彼らがすることが少しも効果なく、幼女が死ぬことを許し給うた。父親(大友宗麟)はただちに妖術師の幾人かを殺させ、嫡子(義統)は当地から行った他の妖術師らを殺させた。清田殿は当地に来て、出立しようとしていた国主に別れを告げた際、(キリスト教の)説教を聴く許しを求め、当地と彼の家において数回説教を行ったが、彼は自領に帰ると、彼とその夫人、ならびに親戚の身分の高い人数人がキリシタンになるため、修道士のもとに迎えの馬と人を遣わした。修道士がかの地に滞在した間、(宗麟の)奥方イザベルより娘(宗麟の長女・清田殿夫人)宛の伝言が毎日届き、決してキリシタンになるべきでなく、夫がキリシタンになることにも同意してはならない、と伝えてきた。それから二、三日後、フランシスコ・カブラル師がかの地に赴き、彼(清田殿)と高貴な人数名に洗礼を授けたが、この時(清田殿の)夫人は母(イザベル)に譲渡したため、キリシタンになるという、いとも深きデウスの御恵みを蒙ることができなかった。

■1580年(天正8)
1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報
 国主フランシスコ(大友宗麟)が改宗したことにより、この豊後に最初の(改宗に対する)熱気が生じたとき、国主は自分の娘一人(長女ジュスタ)と、同国の重立った大身の一人である娘婿(清田殿)に力を注いで(改宗させんとした)ので、二人は洗礼を受ける決心をしたが、これは彼らの救いに対する希望と決心によるというよりは、国主が頻りに勧めたためであったので、彼らはわずか数人の家臣を伴うのみで、嗣子になる幼い娘や、清田殿と称する右の大身の母、その他貴人および家臣、使用人の一同、さらに二、三人の兄弟は(洗礼を受けず異教徒に)留め置いた。
 …清田殿の一兄弟が突如、悪魔に苦しめられるよう計らい給うた。諸人が明らかにそれと分かったのは、十人や十二人がありでも彼を抑えることができず、その顔は突き出して犬のような容貌となり、誰にも解らぬ別の言葉を喋って人々を身の毛もよだつほどの恐怖に陥れたからである。この噂に多数の人が集まったが、その中に右の清田殿の義兄弟にあたるキリシタンの貴人がいた。かれはロマンと称し、キリシタンになって二年に過ぎないが、信仰と徳においては清田殿と大いに異なり、迫害のもと絶えずその徳によって優れた模範を示した。この人は、清田殿の兄弟の身に起こったことを見ると深い信心と熱情に動かされ、身につけていた聖遺物入れ(キリシタン信心の聖具)を取ると、件の悪魔に憑かれた男の頸に懸けた。これによって男は大いに束縛され…、ただ大きな叫び声を上げるばかりで、聖遺物入れを取りさるよう求めた。ロマンが「彼は何者であり、なぜその男を苦しめるのか」と問うと、彼は「己は悪魔であり、その男がキリシタンにならず、キリシタンに敵対する故に苦しめるのだ」と答えた。ロマンは種々の質問をし、立ち去るよう強要すると…たちまち悪魔が去り、青年は自ら立てぬほど苦しめられ衰弱していたが、健康を回復し、間もなくしてキリシタンになる決心を固めた。
 …清田殿自身、過去を深く悔い、真のキリシタンになる希望を持ち始め、このことを母と妻に書状により伝えた。青年は非常に衰弱し、病身のまま清田に戻り、事の次第を母に語ると、彼女もまたキリシタンになることを決心し、さっそく彼らは説教を聴き始め、二人とも我らの主(なるデウス)より大いに助けられたので、真のキリシタンになることに決した。青年は…病と衰弱がひどくなったので、真のキリシタンとして遺言をし、…周囲の人たちに感化となるべき事柄を多く語り、それから数時間を経て死去した。…巡察使(ヴァリニャーノ師)がいとも荘厳に執り行わせた葬儀を見て、(死んだ息子の)母はたいそう心を動かされ、来世において息子と再会することを望んだので、息子の死は彼女の(キリシタン)帰依をいっそう促すこととなった。
…右のことにより清田に生じた動揺がきわめて大きかったので、巡察使は自ら人々に洗礼を授ける決心をし、同老女と清田殿の長女、清田殿の他の兄弟、亡くなった兄弟の夫人のほか、清田殿の親戚や多数の重立った貴人の男女らに洗礼を授けた。このほか諸人が説教を聴く決心をし、清田殿とその夫人も大いに心を動かされたので、既述のように彼らの娘に洗礼を授けさせたのみならず、義兄弟のロマンに命じて、彼自ら領内を巡って偶像をことごとく破壊し焼却させ、巡察使や、その他同地を訪ねた全ての司祭と修道士を非常に歓待した。…彼らは教会を開くため、はなはだ大きな僧院を(イエズス会に)与え、全領民を帰依させるため、同所に司祭一名と説教師一名を置くことを巡察使に懇願した。

 宮本付記…この年(1580)「洗礼を受けた〃清田殿の長女〃」とあるのは、後世、熊本細川藩が家来として抱えた「清田石見」の母「涼泉院」であろうか。彼女「涼泉院」は熊本藩のキリシタン類族として記録されている(上妻博之編著『肥後切支丹史・下巻』409頁)。涼泉院が宗麟の長女ジュスタの娘であったか、それとも清田鎮忠の前妻の娘であったかは判然としない。


1581年(天正9)
 【1581年9月15日付、日本発信、フランシスコ・カブラルの総長宛書簡
 …臼杵から四里のところに野津の司祭館があり、…この司祭館の周囲三里には約一万五千名がいて、その内三千人はすでにキリシタンであり、立派な教会が一つある。この教会はある貴人のキリシタンが他の人達の助力を得て建立したもので、…。この地は国主(大友宗麟)の婿清田(鎮忠)殿の所領となっている彼(清田鎮忠)の夫人(ジュスタ)が洗礼を受けたのは三年前のことで、彼(鎮忠)は一年半になろう。彼らは(臼杵から)遠くにいて、教化にあずかることができずにいたため、二、三ヶ月前までは幾分冷淡になっていたところ、司祭が当(臼杵)修道院および府内の学院(コレジオ)からたびたび彼らのもとへ足を運んで説教をおこない、特別に世話をしたので、ふたたび熱意を取り戻した。また両人は彼らの数多い家臣をことごとくキリシタンにすることを決意し、実際に多くの者がすでにキリシタンとなっている。

■1582年(天正10)
 【1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1582年度年報
 ジュスタという名の国主(大友宗麟)の娘は清田(鎮忠)の夫人であるが、その夫とともに彼女はデウスの教えを理解し、これを好むことを所作により徐々に示している。新たな教会を建立して諸聖儀にたびたび列席し、同教会を司祭や修道士が訪れると盛大にもてなし、デウスについて新たに聴聞することを常に望むのである。彼らの家人もほとんど全員がすでに洗礼を済ませているが、豊後においてなされつつあることのすべてはデウスの直接の恩寵に次ぐ同国の善良なる国主フランシスコ(大友宗麟)の熱情と才覚によるものである。

1584年(天正12)
 【1584年9月3日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1584年度日本年報
 府内から二里のところにあり、キリシタンである国主の一女(ジュスタ)が嫁している清田では5月に130人が受洗し、その内数人は身分ある領袖(であった)。

■1585年(天正13)
 【1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡
 …ペロ・ゴーメス師が清田に立ち寄った時、国主フランシスコの娘ジュスタは彼女が建てた新しい教会に司祭一人を住まわせ、告白を聴き、キリシタンを助けるよう熱心に頼んだ。しかし豊後の多数のキリシタンに対し、司祭が少ないために派遣するのが不可能であった。しかし都へ出発する便船を待っていたフランシスコ・パシオ師を、何日かそこに留めることにした。司祭はジュスタとその夫(清田鎮忠)の告白を聴き、彼女がデウスの前で、大いにほめられ、家臣の模範になるべき人であると考えた。彼女は夫(清田鎮忠)と公に婚姻の秘蹟を受けることを望んでいた。その夫(清田鎮忠)は盲目で重病を患っていたが、司祭は、その望み通りにした。また彼女は、教会の近くに小さな家を一軒建てさせ、司祭や修道士がそこに行ってミサを行ない、告白を聴く時に宿泊できるよう、必要なすべてのものを備えさせた。
 その後…1300人近くがキリシタンになった。…これにより、清田の地の者は、すべてすでにキリシタンとなった

1586年(天正14)
 【1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡
 清田は、御寮人(ジュスタ)とその夫清田(鎮忠)殿がキリシタンで、その領地をすべてキリシタンにしたので、今日全員がキリシタンである。彼らには(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にしドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。そこで我らはドン・パウロとドン・ペドロの二人の兄弟の豊後の国衆を持っている・

■1587年(天正15)
 【1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡―1587年度年報
 …薩摩の兵は、豊後の国の破壊を中断することなく、(島津)中務は進入して来た道の確保を終えた後、ドン・パウロ(志賀親次)を除いた南郡(なんぐん)のすべての殿を味方にし、嫡子(大友義統)と仙石のいた府内に向かって兵と共に進軍した…。ついに最後の時が来、仙石と嫡子(大友義統)は、短い期間で敗北し、生命からがら、ごくわずかの兵を連れて逃げ、府内の中も安全ではないと考え、そこから三里の小城に退いた。が、そこも安全ではなく、豊前に逃れた。この敗北により、すぐ清田も降伏したが、これは府内の近くの別の城で、嫡子の義兄弟(清田鎮忠)のものである。それから敵は進んで、突然府内に入り、すべてのものを焼き破壊したので、そこの住民になされた破壊、敵が背後にあって焼かれた家々から逃げる男女、子供たちを見るのは悲惨な思いであった。

 …小寺(黒田官兵衛)がその兵と共に豊後に入って行くと、薩摩の兵も退き始めた。最初豊後に背いた人たちも時勢の変化を見、転向して嫡子(大友義統)の側につき、薩摩の敵だと公言した。薩摩の軍は官兵衛が来る前に退却しようと急いだが、初め味方についた豊後のその同じ殿たちから少なからず損害を被った。しかしこうして何の役にも立たず、嫡子は彼らに相応しい罰を与え、領地、城を没収し、これらの者を殺すようにと命じた。こうして、老中、国衆の朽網(宗歴)殿とその息子たちを殺し、他の国衆たちは助けを求めたが、すべて国外に追放された義兄弟の清田(鎮忠)殿からもその所領を没収したが、生命は許した

 (※…1587年6月28日、老国主フランシスコ大友宗麟は津久見で逝去した。)

■1588年(天正16)
1589年2月24日付、日本副管区長ガスパル・コエリユのイエズス会総長宛、1588年度日本年報
 …国主(大友義統)は都に赴いたが…まったく恐怖にうちひしがれ卑屈になり、…配下の殿たちに関白(秀吉)殿が既述の朱印で命じていること(=バテレン追放令)を即刻実行に移させるようにとの書状をしたため、実際にそうした。…(これに抵抗したのは)国主フランシスコの妻のジュリアとその家族。レジイナ(宗麟の娘)とその一族。…ドン・パウロ(志賀親次)の伯叔父・林ゴンサロ殿と、ジュリアの娘であるコインタ、および志賀ドン・パウロ殿とその妻マダレイナ、さらにはキリシタンである彼らの家来たちである。彼らの数はすでにしたためたように8千人を超えた。同じように既述の不当な命令を承諾することを望まなかったのは、同じ国主(義統)のもう一人の姉妹である御寮人(ジュスタ)とその夫ドン・清田殿であった。今、この両人は既述の御寮人(ジュスタ)に属するある場所で貧弱に暮らしている。清田殿がかつて有していた諸領をほかならぬ国主(義統)に召しあげられたためである。国主はこれについて清田殿にこう語った。「貴殿は過ぐる戦さにおいて薩摩の側に肩入れした。やがて貴殿はおのが運命の尽きたことを認めて薩摩の連中とともに降伏の余儀なきにいたった。が、それは、薩摩の国主が打破され敗走するのを見届けたあとだったではないか」、と。

 宮本付記清田鎮忠とその夫人ジュスタが豊後国を追放され、「ある場所で貧弱に暮らした」ところについて、イエズス会は「御寮人(ジュスタ)に属する(場所)」としている。これに関連する記事として、「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル、イエズス会司祭・修道士宛書簡」に、「キリシタン貴人二人」すなわち清田鎮忠とその夫人ジュスタの依頼により、フランシスコ・カブラル師とルイス・フロイス師、日本人修道士の三人が豊後国から「9~10里のところ、肥後国」に赴いて同地で「66人に洗礼を授けた」ことがあった。また「1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛・1582年度年報」には、アントニオ師が「(肥後国)高瀬に赴き、国主の娘ジュスタの家臣60人に洗礼を授けた。その後も他に200人が(教理を)聴聞し、洗礼を目指して」いる旨、記されている。肥後国の高瀬およびその周辺に、ジュスタの所領地があったのは確かである。よって、豊後国を追われた清田鎮忠・ジュスタ夫妻が「貧弱に暮らした」場所は、肥後国の高瀬もしくはその周辺地と考えられるが、定かではない。

…松田毅一監訳、同朋舎出版の『十六・七世紀イエズス会日本報告集』。第Ⅰ期5巻、第Ⅱ期3巻、第Ⅲ期7巻、計15巻からなる。

2017年7月21日金曜日

岡美穂子東京大学史料編纂所准教授の『ドン・ジョアン有馬晴信』書評

岡美穂子(註1)の研究ブログ「南蛮の華」2013年4月27日付記事「〈タイトル〉=長崎郷土史研究者との交流」

 長崎は郷土史が熱いところです。地元の郷土史家の間で刊行されている雑誌は貴重な史料の紹介や、地元ならではの興味深い研究の宝庫で、よくお世話になります。
 先年の長崎れきぶんぱくでの講演(註2)で知り合った宮本次人さんの『ドン・ジョアン有馬晴信』(海鳥社)を送っていただきました。地元ならではの有馬晴信への想いが随所に感じられる本です。
 その最終章で、晴信の遺品ともいわれる山梨県天目山栖雲寺の十字架を手にする虚空蔵菩薩像について言及されていました。有馬晴信の研究者の間では有名なようですが、私は恥ずかしながら今まで知りませんでした。
 この菩薩画は、長年有馬晴信が晩年に描かせた自画像とも言われてきたそうですが、2011年に京都大学の吉田豊教授(文献言語学)が、マニ教のイエス像であることを指摘したとのことです。それ以前に2006年には東北大学の泉武男教授が、景教のイエス像であるとの見解を示されています。いずれにしても、南宋~元代に寧波を中心に栄えた「寧波仏画」の流れをくむ可能性が高いと言われています。
 (※)偶像崇拝に敏感だった南蛮人宣教師から見れば、シンクレティズムの結晶である一菩薩像のイエス像は許容範囲を超えるものだったと思いますが、有馬晴信にとっては、これが彼の理解したイエス像にもっとも近かったのではと考えております。このあたり、現在執筆中の論文に組み込めればと思っています。キリシタン史ではこういう発想はご法度かもしれませんが。
 最近、某大学での講義中に、盛んに天草四郎の話をしている二人組がおります。島原・天草一揆にたどりつくのはずっと先なので、それまで頑張ってください。

 ※…この部分は追って次のように訂正された。「その後、研究交流メーリングリストで、非有馬晴信伝来説も説得力あるものが出てきたため、この部分改変しました。」

 ※1…岡美穂子:1974年、神戸市生まれ。京都大学大学院博士課程修了。博士(人間環境学)。東京大学史料編纂所准教授。専攻は中近世移行期対外関係史、キリシタン史。著書に『商人と宣教師―南蛮貿易の世界』(2010年、東京大学出版会)、『大航海時代の日本人奴隷―アジア・新大陸・ヨーロッパ―』(夫ルシオ・デ・ソウザ氏との共著、2017年・中公叢書)など。世界史の視点から日本のキリシタン史を解析する気鋭のママさん研究者として活躍中。
 ※2…2012年10月28日、長崎歴史文化博物館で開催された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」世界遺産フォーラム。岡氏は「贖宥への祈り―マリア十五玄義とオラショの功力」と題して講演し、長崎・西彼地域のかくれキリシタンが、フランシスコ会とドミニコ会によって再改宗された信者たちであったことをはじめて明らかにした。

五野井隆史氏の「ドン・ジョアン有馬晴信」書評

 五野井隆史氏(註1)の『ドン・ジョアン有馬晴信』(宮本次人著・2013年海鳥社)書評―福田八郎氏宛て書簡

「拝復、ご無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。
この度は宮本次人著『ドン・ジョアン有馬晴信』をほ恵与下さり、有難うございました。
 沸々たる有馬晴信に対する思いが十分に読みとれました。大へん良く勉強され、晴信の実像に迫ろうとし、その再評価の努力はすばらしいと感嘆いたしました。
 クラッセの教会史(註2)に強いこだわりがあるように見えましたが、今なおクラッセに拠って話の切り口を見出されていることに、一寸驚きました。しかし、かような見方・考え方があることを知り、参考になりました。勉強の機会を与えて頂き有難うございました。
 彼岸も近く、ようやく春を感じるようになりましたが、まだ寒さが戻るかと思います。どうぞご健康に留意なさってください。お礼に代えて。
     二〇一三年三月一〇日、五野井隆史
福田八郎先生」

※註1…五野井隆史(1941―)歴史学者、東京大学名誉教授。北海道えりも町生まれ。1971年上智大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。1987年「徳川初期キリシタン史研究」で九州大学文学博士。東京大学史料編纂所助教授、教授。2003年定年退官。英知大学教授、校名変更で聖トマス大学教授。2012年退職。キリシタン史が専門。
※註2…クラッセ著『日本教会史』。著者ジャン・クラッセ(Jean Crasset、1618-1692)は、フランスのディエプ(Dieppe)生まれのイエズス会宣教師。著書『日本教会史全2巻』はフランソワ・ソリエー(Francois Soier,1558-1628)が日本から送られた年報や書簡をもとに纏めていた原稿「日本教会史」(Historie ecclesiastique des iles etroyaume du Iapon)にクラッセが補筆し、1689年にパリで出版したもの。西洋で紹介された日本キリスト教の通史としては初めてのものであった。日本では明治時代になって駐仏公使鮫島尚信が同書第二版を入手し、これを太政官の依頼を受けたフランス人宣教師が翻訳し、『日本西教史』のタイトルで出版された。「史料価値は低い」とされる一方で、日本におけるキリシタン史の最初の通史として、研究者たちに愛読された。


2017年7月15日土曜日

転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例

―事例1―
 島原城の南方に位置する有家村(現・南島原市有家町)の住民207人が1628年(寛永5)、転び証文を取り返すため島原城(城主=松倉重政)まで出かけた事件が『肥前國古老物語』(註1)に出ている。
 
 寛永五辰年にては、有家村の人民二百七人、以前宗門のころび判仕り候こと後悔に存じ、各残らず打連れ、嶋原へ判形取返しに参り候。その内、権左衛門、作右衛門、休意夫婦、又右衛門、監物が娘、この七人はその張本にて候ゆゑ、竹鋸にて挽かれ候。跡は堪へかね、皆皆ころび申し候。然れども、吉兵衛一人は転ばず、終に首を挽き落され申し候。然れどもこの者ども頭人たる故、権左衛門、作左衛門は誅せられ候て、残る四人御助けなされ候。その後、有家村庄屋内蔵之丞を始として、以上六人、堀之内の田に埋め、竹鋸にて首を引落しなされ候。これは、外道宗門にては無之候へども、村中を猥りに仕り候ゆゑ、右のごとく御仕置なされ候。

 「以前、(キリシタン)宗門のころび判形(=証文)仕り候こと(を)後悔に存じ…」とあるから、この207人は元キリシタン信者であり、幕府の禁教令(1614年)により「転んだ」人々であったことがわかる。筆記者は、彼らは「外道宗門にては之なく候」と断っているものの、転び証文を書いたことを「後悔に存じ」、それを取り戻す行動を起こしたのは、彼らがなおも心中でキリシタン宗を信仰していた「転び(潜伏)キリシタン」であったことを裏付けるものである。文章には一部、不可解なところがあるが、事件の結末は、首謀者のみが「竹鋸(たけのこ)挽き」の拷問で処刑され、残りはふたたび「転んだ」ことであった。
 このときに殉教したキリシタンの墓碑が有家町に現存する。

―事例2―
 島原の乱(1637―38)が勃発した当初、島原半島北部の「佐野村」の大庄屋源左衛門とその一類30人が島原城に避難する途中、檀那寺に立ち寄り、立上りを宣言し、転びを取り消す意志を伝えた事例である。1637年11月のことであった。史料は『佐野弥七左右衛門覚書』。

 三會村の内、佐野村の大庄屋源左衛門、妻子召し連れ、一類三十人味方と申し城中へ参り候処、門徒坊主見付け候て、(岡本)新兵衛居り候処へ参り、「拙者(の)旦那数人寺へ参り『今日より吉利支丹に罷り成り候。先年ころび候事、取り戻し候』と申し候。其者共、則ち彼等にて御座候」と窃かに知らせ候…

 佐野村は、島原城北部の大野村と湯江村(いずれも現島原市有明町)の境、山手に位置する小村。島原の乱が南目の旧イエズス会所属のキリシタン住民を中心に動き出したとき、托鉢修道会ドミニコ会に所属替えしていた北部住民はほとんど動きを見せなかったが、島原・三會村に近い位置にある佐野村の転びキリシタンは、三會村住民がそうであったように、一部の転びキリシタンが立ち上がった。島原城に避難したのは、南目の旧イエズス会所属のキリシタンと十分に連絡がなかった状況での、ちぐはぐな行動であったと思われる。立上りキリシタンであることを隠して島原城に一時避難したことであったが、寺の僧侶によって彼らの正体が暴かれ、全員が城内で処断(死刑)された。

 なお、島原の乱事件(1637~38年)で「立上り」キリシタンが村々の寺社に放火し、また島原城に押しかけたことは、武装蜂起すなわち農民一揆であると解釈されてきた。しかし、矢文その他による彼らの説明は、幕府や領主松倉氏への「望み」など何もない、一切が「きりしたんの作法」であるとしている。よって寺院放火や島原城への強訴行動も「立上り」行為の一環としての「転び証文」を取り戻す行為、またはそれを処分する行為であったと見られる。

※註1…「肥前國有馬古老物語」。有馬・松倉氏領内におけるキリシタン史31年間を記録したもの。著者は北有馬村農夫とされている。
 
寛永5年(1628)の転び証文取り戻し事件で竹鋸刑によって殉教したキリシタンを祭る墓碑。墓碑前面(写真上)に竹鋸歯形の紋様が刻まれている。南島原市有家町久保。

 





2017年5月15日月曜日

転びキリシタン立上りの作法(1)―転び証文の取り扱い

 キリシタンが権力者の弾圧によって棄教したとき、それを証明する記録文書が作成された。一般に「転び証文」と称されるこの文書は、徳川幕府が禁教令を敷く1614年2月以前にも存在した。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨセフ・デ・サン・ハシントは1609年2月、島津(鹿児島)藩内で目撃した転びについて次のように述べている。

 「彼らは僅か一晩で何の抵抗もなく教えを捨てた。…彼らはロザリオ、聖遺物、御絵などをことごとく役人に引き渡し、彼らの名はみな日記niqiに書き入れられてゆきます。」(註1)

 また、フランシスコ会のフライ・セバスティアン・デ・サン・ペドロは1613年のこととして、「転び棄教した者は釈放し、その旨署名文書を出させた。そして、仏僧たちのうちの誰か、および彼らの宗派のうちのどれかに属する旨、記させた。」と、転び文書の作成とともに仏教信者に組み入れられた事実を報告している(註2)
 このような「転び」にかんする記録文書の提出および仏教諸宗派への半強制的組み入れは、後日、彼らが再びキリシタンに「立帰る」(立上る)際、当然問題とされることがらであった。

 ドミニコ会のディエゴ・コリャード神父は、転びキリシタンに「ゆるしの秘蹟」を授けたとき、それを償うため、次のように指導をした。
 「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、それを言ひもどさいでならぬが、その分でござったか」(=表面的に転んだとしても、それを取り消さなければならないが、そのようにされたのか)。「その奉行のせられた事どもの日記は、どこにあるぞ。すなはち、それを持って上(のぼ)られたらば、その奉行へ文なりとも、使いを遣ってなりとも言いもどさいでは(ならぬ)」(=役人がなした事どもの転びの記録文書はどこにあるのか。その記録文書を持って引き上げたのなら、その役人に転びを取り消す手紙を出すか、使者を遣わして取り消さなければならない)(註3)

 日本人の転びキリシタンが立上りの行動を起こすとき、このような問題―転び手続きの証拠―を解決する義務があったのは言うまでもない。
 転びキリシタンの立上り事件「島原の乱」(1637―38)において、彼らが領主の居城・島原城に押しかけたこと、寺社に放火したことは、一般には「一揆」反乱の行動と解されているが、そうではない。役所・島原城に転び証文を取り消す旨を告げる「言い戻し」の行動であり、寺社に保管されている転び証文を取り消し、焼き捨てる行動であった。

 ※註1…1876年、ホセ・デルガド・ガルシーア編『福者ホセ・サン・ハシント・サルバネスOP書簡・報告』40頁
 ※註2…1988年、高瀬弘一郎編、岩波書店『イエズス会と日本二』309頁
 ※註3…1957年、風間書房『コリャード懺悔録』13~14頁


ディエゴ・コリャード編著「懺悔録」(部分)