6年後の昭和18年(1943)、浦川和三郎は著書『浦上切支丹史』に同説をそのまま掲載した。以来、この仮説はあたかも真実かのようにみなされ、戦後の桑姫社にかんする諸著述に繰り返し紹介されてきた、というのが一連の経緯である。
筆者は2015年、マセンシア説に異を唱え、代案として、桑姫の死亡年をヒントに「1627年(寛永4)8月17日」長崎西坂で殉教したマグダレナ(マダレイナ)清田をそれとする小論を書いた。
あれから2年余、種々の史料を検討するなかで、片岡―マセンシア説が誤りであると考えられる他の一つの理由を得た。それは、寛永年間に長崎奉行となった竹中采女正が、同じく「大友家に御由緒」あるとして淵村庄屋に取り立てた豊後出身の志賀宗頓(親成)から、「於西(阿西)御前(=のちの桑姫)のことを聞き、使者をして「時服、御酒、御肴、白米三十俵」を進上した、という記録である(註)。
徳川幕府の長崎における行政権を代行する奉行竹中采女正が、それほど丁重な進物をする人物とは、竹中にとって相応の恩義がある人でなければならない。マセンシアは大友宗麟の孫娘(次女テクラの娘)であるとはいえ、彼女が長崎で修道女として生活した時代と、采女正が府内城主から長崎奉行に抜擢される時代とには20年余の誤差があり、面識もなかったであろう。そのようなマセンシアに竹中が恩義を感じて進物をしたとは考えられないのだ。
この考察は、同時にマグダレナ清田(筆者は大友宗麟の長女ジュスタの娘と推定した)を桑姫とした自説の再考をも余儀なくされた。恩義の云々はもとよりだが、殉教者ともなったマグダレナ清田はキリシタン信仰において優れた人物ではあっても、これを徹底的に弾圧した為政者竹中采女正との接点が見いだせないからだ。
桑姫は、まだどこかに隠れている!再度、諸史料、諸遺物を精査してこの課題を究明してみたい。(つづく)
※註…文政年間、淵村庄屋第8世志賀茂左衛門親籌が書き留めた『志賀家事歴』(長崎歴史博物館所蔵)、同じく文政年間(1820年頃)、饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した『長崎名勝図絵』に記されている。
長崎奉行竹中采女正が「御姫於西御前(桑姫)に丁重な進物をした旨が記されている『志賀家事歴』(部分) |
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