■ゆるしの秘蹟―その②こんひさん(言葉による告白、懺悔)
「転び」やその他のモルタル罪科は、司祭に罪を告白し、司祭から指示される償い、もしくは自発的な償いを行為によって果たすことで「ゆるし」に至るとされる。
原城に籠もった人々は、寿庵の廻文にあったように「きりしたんに成り申」すことを決意した者たちであった。その「立上り」の決意、信仰の強弱は人によって差があり、籠城の過程で落ちた人たちもあったものの、仏教信者や神道信者などが混じっていたという指摘は当たらない。強制された者もいたにはいたが、それを本人が受け入れたという点では、「立上り」キリシタンであった。
ところで、天草四郎が司祭として、原城に集った3万7千余人もの「こんひさん」をどのように聞き、請けたのだろうか。原則、密室で秘密裡に進行するこの秘蹟は、他人にもらすことがゆるされないため、四郎自身、本丸のどこか地下室にいて、この秘蹟を執り行なったと考えられる(註1)。これを裏付ける史料は少ないが、以下にいくつか参考となるものを上げてみる。いずれも城内からの落人の証言である。
「(四郎は)本丸に罷り在り候。此の度、取り詰め候て以後、一度二度、二ノ丸まで出で申し候」(註2)
「籠り候てより以後、四郎は罷り出でず候。名代島原に之れ有り候絵書右衛門作と、嶋原浪人忠右衛門と申す者両人(に)四郎(の)印持たせ廻り候」(註3)
「四郎が親甚兵衛一人具足をつけ、馬に乗り…城中に下知申し付け候…四郎は本丸の内に寺(教会)を立て、天守に居り、すすめをなし申し候由…」(註4)
四郎は城内のキリシタンたちの前にその姿を現すことは、ほとんどなかったらしい。本丸の内にこしらえられた「寺(教会)」にいて「すすめ」をなしていたという、その「すすめ」とは司祭としての「法儀のすすめ」、「信仰のすすめ」、または「ミサ(聖祭)」であった。『オランダ商館日記』(永積洋子訳)に「肥後生まれの16、7歳の若者が日に2回、ミサを行なっていた」とある。
実際、3万7千人の「告白」を直接聞くことは物理的に困難であったし、各村ごと、または信人会(コンフラリア)の組ごと代表者をたて、何らかの手続きがおこなわれたものと思われる。その進行の様子は、寛永15年2月1日(西暦1638年3月16日)付けで司祭・天草四郎から出された達書(たっしがき)「四郎法度書」の条文により、ある程度確認することができる。
「一、今度此の城内に御籠もり候各(おのおの)、誠に此の中、形の如く罪果数をつくし背き奉り候事に候へば、後生のたすかり不定の身に罷り成り候処に、各別の御慈悲を以て此の城内の御人数に召し抱えられ候事、如何ほどの御恩と思し召し候哉」(一、ここ原城に集った者たちは、いつも常習的に罪科をくり返し、天主を背信して来たので、死後、ハライソに行く保証がなくなってしまった。ところが、神の慈しみによって〃ゆるしの秘蹟〃の場であるこの原城に導かれたのだ。これがどれほどの神の恩恵であることか、分かっているのだろうか)。
「四郎法度書」の第一項に出てくる「形の如く罪科数をつくし(天主に)背き奉り候」というのは、「絵踏み」をくり返し、不信仰を重ねたキリシタンたちの「こんひさん(告白)」を聞き、それを踏まえた上でのくだりであると考えられる。
この後に続く条項には、司祭四郎による「ゆるしの秘蹟」の「さしちはさん」(行為による償い)に関する示達およびその指導が綴られている。(つづく)
【写真…「四郎法度書」第一項】 |
【註1】…原城本丸に「四郎の家」なるものが細川熊本藩の史料『綿考輯録』掲載の絵図に描かれている。これとは別に、本丸には地下室が存在したようで、大雨のたびに陥没したことがある。2021年にも大規模陥没があった。1963年豪雨時の陥没調査によると、「内部は段状になっており、深いところでは(高さ)4,3㍍あった」という。
【写真=原城本丸にあった四郎家(『綿考輯録』掲載)】 |
【註2】…鶴田倉蔵編『原史料で綴る天草島原の乱』(1994、本渡市)603頁「寛永14年12月25日付落人の証言」
【註3】…前掲史料608頁「寛永14年12月25日付、久留米藩が捕らえた落人の証言」
【註4】…前掲史料621頁「細川立允の家老志方半兵衛の12月29日付記録」
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