「貴(たつと)きろさりよ、別而(べつして)御恩深重(ごおんしんちよう)」/悲しみの「転(ころ)びきりしたん」息を吹き返す
=ドミニコ会ルエダ神父による「立あげ」そのⅠ=
ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が「嶋原・三會」地方の信徒から証言文書を徴収したのは「元和6年(1620)」から同「7年(1621)」にかけてのことであった。当時、嶋原では有馬氏失脚のあと元和2年(1616)に入部した新領主松倉重政が本拠地を有馬からここに移し、同4年(1618)に着工した島原城の建設工事が進められていた。
それより以前、この「町」にドミニコ会修道士ジュアン・デ・ルエダ神父がはじめて入ったのは、徳川幕府のキリスト教禁止令発布後、宣教師らが国外追放された事件(1614年11月)直後の1615年(元和元)はじめ、領主有馬直純が日向国縣(あがた)に去り、旧有馬氏領・島原半島の北目を大村氏、南目を鍋島氏が預かっていた時のことだ。
コリャード神父徴収文書『元和7年霜月10日付―』には、その頃の「嶋原・三會ならびに其の村々」のキリシタン住民らの様子が、次のように描かれている。
「先年へるせきさん(=迫害)相始(あいはじ)まり候節(せつ)、弱き色躰(しきたい)にひかれ、ころび(=棄教)申すもの数限りなく候つれども、いづれも御出家(=司祭・神父)衆には離れ申し、立ちあがり申すべき便り(=頼みの綱)も御座なく、昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居(お)り候。」そこに「さんととみんごのはてれ(=ドミニコ会パードレ)ふらいしゆあん(=フライ・ジュアン・デ・ルエダ神父)此の表へ御越し成られ、嶋原・三會ならびに其の村々のきりしたんを大かた残らず御立(おんた)ちあげ成られ候。」
ルエダ神父自身も報告書「1621年9月4日付」で、この時のできごとを筆記している。
「有馬の国において…(迫害・拷問により)幾人かのキリシタンが、棄教するのを望まなかったため殉教しました。」でも、「その場所(嶋原・三會地方)では…少なくとも外面的に棄教した人の数は何千人でありました。私はたびたび…棄教者たちを立ち上がらせました。…弱り果て、自分の救いの希望をなくしていたこの地のキリシタンが息を吹き返したのです。」
「転び(きりしたん)」というのは、その多くは「外面的に棄教した人」―内面的には信仰を維持している人―のことだが、彼らが「立ち上がる(=本来の信仰者の姿に戻る)」ためには、迫害に屈した不信仰の(罪の)償いをしなければならない。信仰上、その手続きを踏まなければ「立ち上がり」として認められない。この場合「こんひさんさからめんと(告解・ゆるしの秘蹟)」がそれに相当する。『元和7年霜月10日付―証言』文書には、「同門(ドミニコ会)の御出家衆(=司祭・神父)折々見廻り成られ、こんひさんさからめんと(コンピサンの秘蹟)等を執(と)り行われ…」、とある。
それだけではない。「其ほか殊勝千万(しゆしようせんばん)なる行跡(こうぜき)(=品行、行状)の御かがみ(=お手本)、御教化等を以(もつ)て我等を御導き成られ候」、というのだ。ドミニコ会神父の模範的清貧の生活・おこないがあり、それに接することのできた喜びと感謝の気持ちまでが書き添えられている。
そもそも嶋原・三會のキリシタンはイエズス会の宣教師によって司牧され、イエズス会流の信仰を育んできた半世紀近くの歴史があった。ここに至って幕府による弾圧迫害に遭遇し、「転び申し」「かなしみに沈み罷り居り候」ことであったが、そんな彼らがドミニコ会宣教師ルエダ神父と出会うことで、何故「立あがり」を決意したのだろうか?
ここで言う「立あがり」とは、「行動に出る」とか「蜂起(ほうき)する」とかの言語的な意味ではない。キリシタン信仰上の「立あがり」であり、ひとたび棄教者名簿(帳面)に名前を記して「転んだ」者たちが、それを廃棄し、再びキリシタン信者であることを宣言・公表することである。当然、その時代であれば、迫害や拷問への覚悟を伴うものであった。
キリシタン宗でない他の一般宗教からすれば、死を覚悟してまで「立あがる」彼らの心理は理解し難いものがあるが、少なくともこの文書を読み進めていくと、ここに日本キリシタン史上稀に見る信仰の昂揚がある!と見ることができる。
いったい何が彼らをそうしたのだろうか?コリャード神父徴収文書は、その理由を次のように説明し、「証言」する。
「此等の御恩深重(ごおんしんちよう)の中に、別而(べつして)(=とりわけ、特に)貴(たつと)きろさりよのこんふらちや(貴きロザリオのコフラヂア=ロザリオの組)を御興行(こうぎよう)成られ候に付き、其のみちを以て行儀(ぎようぎ=おこない)を改め、善道に立ち入り候」と―。
「別而御恩深重」であったという「貴きろさりよのこんふらちや(貴きロザリオのコフラヂア)」とは、如何なるものなのか?嶋原・三會のキリシタン信仰史を読み解くためには、イエズス会にはなかったドミニコ会のキリシタン用語を理解しなければならないようだ。(つづく)
〔写真=ロザリオ信心により嶋原・三會の「転び」を立ち上げたドミニコ会士、「ロザリオ神父」とも称されたジュアン・デ・ルエダ神父の肖像画。「マニラに保存されている彼と同時代の17世紀に描かれた人物画から想像して復元された」。同神父の『―伝記・書簡・調査書・報告書』(平成6年、聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区日本地区発行)掲載。〕 |
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