2020年10月29日木曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―①―

 

 元和3年に「三會(みえ)町」が存在?/「嶋原(しまばら)三會(みえ)信徒証言文書」が物語る


 17世紀初頭、托鉢修道会の一派ドミニコ修道会が肥前地方に進出した際、各所でイエズス会との間に門派対立が発生した。それは実際には、イエズス会による托鉢修道会排斥であった。本稿ではその実態について「三會村」を事例に取り上げることとする。

証言の舞台「三會村」その地理的背景

 「三會村」は嶋原村(いずれも現・島原市に含まれる)の北部に隣接する村である。のちに分離した杉谷村、三之澤(みつのさわ)村を含めてそう呼ばれていた時代があり、村名の「三會」とは、三つの入江ではなく、元和2年(1616)の大村藩記録に出てくる「北道、南道、三之澤」の三小村が「會」する意味らしい。

 島原の乱(1637―38)以前の島原・三會のキリシタン史をひもとくとき、「三會村」と「三會町」については後のそれと異なるため、注意を要する。たとえば「1621年1月30日」付けでドミニコ会修道士ディエゴ・コリャード神父がイスパニア語で書いた証言文に―

私は…三會地方の大手原(おおてばる)に於いて、右の記録の証言となったヴィセンテ(下田)平左衛門、ミゲル弥蔵および他の数名を召還した。…島原と三會の二つの町に於いては、人々がロザリオの組を棄てて…ロザリオの組の親も組も残っていない。

―とある。

 「1621年」は「元和7年」。松倉重政が島原城築城に着工(1618年)して4年目である。その際、重政は城の東側に城下町(町屋)を設計し、三會村の住民に呼びかけ移住を促し、さらには有馬氏時代の拠点であった日野江城の城下・有馬の町からも移住があり、それぞれ「三會町」「有馬町」を形成した、とされている。のちの上ノ町、中町、片町、宮ノ丁である。「三會町」の由来については従来、そのように解釈し、語り伝えてきた。

 ところで、ここに『元和年中島原切支丹証言文書』と称される手書きのキリシタン文書がある。昭和40年頃、キリシタン研究で著名な松田毅一氏がイタリアのローマ、スペインのカサナテンセ図書館等で発見した文書資料で、それが島原・三會のキリシタン信徒の証言文書であったため、地元の研究者―当時島原史学会(史談会)を主宰していた宮﨑康平氏のもとの送られてきたものである。

 4通(実際は10通ほどあるが、送られて来たのはその中の4通)あり、2通はイエズス会のマテウス・デ・コウロス神父が「元和3年(1617)」に徴収したもの。2通はその後(1619年以降)同地を訪れたドミニコ会士ディエゴ・コリャード神父が徴収した「元和6年(1620)」と「同7年(1621)」の文書であった。

 その中の一つ「元和3年8月日」付けコウロス神父徴収文書を見ると、「嶋原町」、「三會町」、「山寺」の区分けで信徒33人の役職名、洗礼名、本人名が記されている。不可解なのは「三會町」である。先ほどの解釈によると、島原城が築城される以前―『有馬古老物語』に見える築城開始の年「午年」(元和4年=1618年)以前には「三會町」は存在しなかったことになるのだが、まだ築城工事に取り掛かってもいない1617年(元和3)に「三會町」とあるのは、どうしたことか?仮に着工を元和4年ではなく元和3年(1617)としても、城下町が形成される段階にはなかった。

 加えて「三會町別当はうろ姉川茂左衛門/三會町別当ちいにす姉川伊兵衛/同おとな(乙名)ひせんて同玖右衛門…」と、例の「三會町別当」姉川氏の署名もあるので、「三會町」とあわせ、その実在を疑うことができない。

 宮﨑康平氏はこの文書を松田博士から受け取ったあと、西川源一氏の協力を得て解読し、解説文を添えて『嶋原半島の切支丹』(昭和52年8月発行)に発表した。しかし、「三會町」の謎については一言も触れられていない。

 一方、「嶋原町」については、島原氏の時代から「嶋原村」とともに存在した「町」として知られてきた。その範囲は、一般的にはこんにちの大手川以南にあったとされているが、一つの疑問が残る。大手川以北には住居がなかったのだろうか?往時の絵図で見ると島原湾の最奥部、舟の港としては最良の位置にあり、湾の入り口部(嶋原町)より集落を形成しやすい環境にある。ここに「嶋原町」と並んで「三會町」が、松倉氏による島原城築城以前から存在したと、そう仮定してもいいのではないだろうか。

 「元和6年」「同7年」のコリャード神父徴収文書には、しばしば「嶋原」と「三會」の「二つの町」が並列して登場する。「三會町」と「有馬町」が同時に形成されたとするなら、「有馬町」も同時同様に登場しなければならないが、ドミニコ会徴収の証言文書十数枚の中に「有馬町」の記述は皆無である。

 その他、「嶋原町、三會町ならびにその村々」を舞台にイエズス会とドミニコ会が展開した門派対立の経緯、双方の住民の位置関係等をドミニコ会関連文書によって総合的に勘案・比定していくと、「嶋原町」と「嶋原村(小村を含む)」、「三會町」と「三會村(小村を含む)」があり、それら四町村が森嶽(もりたけ)で一つに連なり、区分されていた状況が見えてくる。

 「元和3年8月3日」付けコウロス神父徴収文書は、「嶋原町」とともに「三會町」が島原城築城以前から存在したことを証言する文書でもあった。(つづく)

【写真】「嶋原町」「山寺」「三會村」の記載が見えるコウロス徴収文書の署名部分


 (付記)「しまばら」、「みえ」の表記について…現在では一般に「島原」、「三会」と記されるが、元和年間証言文書に「嶋原」、「三會」とある。本稿でもこれを歴史的表記として使用する。


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