■2022年マリアの受洗記念日(4月4日)のこと
神代城の支城・切通の砦に存在したという神代貴茂の夫人マリアとその息女の墓塔について、筆者は島原新聞社に記者として勤務していた2006年、神代在住の歴史研究家・坪田照子女史からある証言を聞いたことがある。「たしかに墓碑は切通の砦の場所に存在したが、町が同所の崖を切り崩して施設(研修センター、武道館)を作ったため行方不明になった」、というのだ。
いくつかの証言によると、切通の砦は現・神代小学校の敷地に位置し、南側に隣接して小高い丘があり、その上に墓石が存在していた。昭和の年号が平成に変わる頃まであったというその丘が、重機によって崩されるとき、この歴史的遺物(史跡)に対しての然るべき法律または人道に基づく対処はなかったらしい。同小学校敷地の片隅に棄てられたように置かれた墓石の残欠を、当時の学校長・岩崎氏が一カ所に拾い集め、神代氏ゆかりの光明寺(堺光憲住職)に回向(えこう=供養)を依頼したことがあった。堺住職もまた、その時の状況を話してくださった。
ところで、神代貴茂の夫人マリアとその息女らの墓石はその後、どうなったのだろうか。筆者は2021年9月、雲仙在住の歴史愛好家・中村泰尚氏から一枚の写真(本稿№①添付掲載)と新聞記事(註1)のコピーを頂戴した。写真には、破砕コンクリート片とともに側溝近くに置かれた神代マリア母子の五輪の塔の残欠が、廃棄された格好で写っていた。
それから半年が過ぎた2022年4月4日、マリアが嶋原純茂の娘(姫)としてアルメイダ師から洗礼を受けた記念日に、筆者はにわか仕立ての標柱と花を抱えて現場を訪れた。歴史愛好者ら関係者14~5人が集う中、神代マリアについていくらか説明し、可能であれば五輪の塔を復元しようと雑草を採り、作業を開始したところ、「そのままにしてくれ。立て札と花は撤去してくれ」、との声があった。
史跡としての神代貴茂夫人マリアの墓地を破壊し、墓石を廃棄した地元の行政の責任を言わず、これを哀れに思う在野の一研究家が訪れて、墓に花を供える行為を咎める理由はないはずだが、禁教令下、理不尽な世の中に生きたキリシタンを偲ぶには、むしろ相応しい状況であろう。2022年4月4日午後、わずかに5分間ほど「神代貴茂夫人マリアの墓」の標柱を立て、花を供えることができた記念として、ここに写真一枚を掲げ、霊界のマリア母子に捧げたい。(おわり)
【写真=神代貴茂夫人マリアの五輪塔残欠に標柱と花を捧げる】 |
初めてメールさせていただきます。私、長谷川正江(学界にて「倉員 くらかず」姓)は日本大学生物資源科学部一般教養に勤務し、日本近世文学を研究する者です。今回、多大なる学恩を蒙り拙稿を本学部紀要に
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