2021年5月29日土曜日

日田のドン・パウロ志賀親次③

 ■1596年度日本年報ー日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその②志賀親次のこと

 豊後の国王(大友義統)のかの不運の際に追放処分を受けたドン・パウロ(志賀親次)は、日田に近い地で二千俵の禄を受けていたが、先の高貴な殿(毛利高政)の特別な友人であったので、六千歩隔たった所にいる彼(ドン・パウロ)を呼んで、イエズス会の司祭が一人の修道士とともに訪れていることを知らせ、そして彼(ドン・パウロ)はこう言った。自分は司祭に対して罪の告白をしたいと望んでおり、また己が家臣たちに対しては少しずつ福音の説教を聞いてキリシタンになるよう勧め、また教会を建てることをも考えていると。彼はやがて仲間の数名の貴人たちと一緒に教理を聞きはじめ、そして疑問の箇所を出して、それらの解答によって大いに満足した。彼は熱心な人であったので、修道士の説教の際しては援助の手をさしのべた。また彼は自分の家臣たちに対してこう言っていた。すべての神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることはなおさらでできない、と。

 彼は夕方には二、三十名の貴人たちと訪ねて来て、デウスの言葉を聞いてただすよう勧めたが、彼には、このようなことができることより楽しいことは何もなかった。彼はその間は彼らのもとを去らず、彼らと一緒に夜半過ぎまで説教を聞き、若者たちに対してこう言った。彼らの改宗によって自分もまた利益に与っていると。そして彼は言った。「なぜなら私は、キリシタンたちはデウスを畏れているから信頼するが、異教徒たちに対しては同様にはいかぬからである。我らの法が基づいている平易で明白な諸道理を理解しない人々があるとすれば、それ自体が狭量の精神と判断の人である徴しだからである」と。さらに彼はこう付言した。福音の法が自分の気持ちに合ってもキリシタンにはならぬ人々は、自分の意見によると、その改宗を引き延ばしているのは、他の人々の禄をよりかってに掠めるためにほかならないと。最後に彼は、己がすべての家臣たちに対してこう示した。もし自分(ドン・パウロ)の禄によって生活を受けることを望む者は、以後は妻は一人にすることで満足すべきであり、この点では己が模範をまねるがよいと。

 〈解説〉「豊後の国王(大友義統)のかの不運」とは、朝鮮戦役(文禄の役)での失策である。これによって大友氏は改易処分となったが、志賀親次は秀吉との特別の誼(よしみ)から「千石の知行」を「日田郡大井庄」に受けた。ここに宣教師が言う「ドン・パウロが受けた」「二千俵」の「日田に近い地」がそれである。

 高政と親次の両者は「特別な友人であった」とあるが、過去における交友の経緯は分からない。ただし、二人がキリシタンゆえの友人であったことは、親次が「私は、キリシタンたちはデウスを畏れているから信頼するが、異教徒たちに対しては同様にはいかぬ」と述べていることから明白である。

 志賀親次は家臣や貴人たちを引き連れて大肥庄から日田の宣教師のもとに来た。その距離は「六千歩」(註1)。大肥庄と日田盆地とを隔てる田代峠ー山田地区を経る道程であったと思われる。最初に「己が家臣たち」、次に「やがて仲間の数人の貴人たちと」、さらには「夕方には二、三十人の貴人たちと訪ねて来て」とあるので、それは一度ならず再々のことであった(註2)。中でも「熱心」であったのは親次本人であり、「修道士の説教の際には、援助の手をさしのべた」ほどであった。

 この中で、親次が家臣らに述べた言葉は興味深い。「福音の教えの諸問題をよく理解して、しかもキリシタンにならず、これを引き延ばしている者は、禄盗人である」。「わが禄を食む者は妻を一人以上もってはならぬものと考えよ」(佐久間訳)と述べ、自らその模範を示して見せたことなどは、彼のキリシタン信仰の純真さ、高潔さ、堅固さを示すものであろう。

 また、「(日本の)神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることなどなおさらできない」と明言しているのは、彼が日本の神仏宗教の救いの限界を論理的に理解していたことを表している。ドン・パウロはかつて、父・志賀道輝(親守)が親次の固いキリシタン信仰に折れて、「汝はキリシタンのままで良い。でも、一つだけお願いがある。予はもう年寄りで仏教徒だ。だからここにある二つの寺院には手を付けないでほしい」と頼み込んだことがあり、それに対しても敢然と「デウスに対する冒涜に同意するわけにはいかない。御許様の言う通りにすれば、悪魔を再び尊拝することを認めることになる」と一蹴したことがあった(註3)。キリシタン教理に対する一点の妥協も許さない潔癖さである。このように火の如く燃える信仰と、また理知的に教理を把握する点では、ドン・パウロ志賀親次と毛利高政の両者は一致するところがあったかもしれない。(つづく)


※註1…佐久間正訳「1596年度イエズス会年報」(『キリシタン研究・第二十輯』所載)では、「2レーグア」となっている。なお、この翻訳では「パウロを呼びにやった」人物を、〔〕付で「宗像」と注記しているが、「毛利高政」の間違いである。

※註2…前掲書(佐久間正訳)では、「毎晩…来て」と翻訳されている。

※註3…「1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡」(『十六-七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅲ期第7巻』28-30頁掲載)


0 件のコメント:

コメントを投稿