2019年3月1日金曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑦

■七、禁教令後「かくれ型」墓碑へ移行
 1614年、禁教令が公布され、キリシタンの取り締まり・迫害がはじまると、信者たちは「殉教」もしくは「転び」(かくれ)を余儀なくされた。これに伴い、キリシタン墓碑も殉教(破壊)し、新たに造られる墓碑は「かくれ型」へと変容することになる。
 かくし・変型の在り方は、種々あるように見えるが、おおよそポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑が浸透した地域およびその周辺地域では、原則として伏碑のかたちを踏襲する傾向がある。
 熊本県天草島や豊後(大分)地域の「単一平石型」墓碑、長崎県西彼杵(そのぎ)半島や北松浦郡平戸市、また豊後の一部でみられる「方形石組型」墓碑などである。豊後のトマス(斗枡)墓と称されるもの、島原半島の塚墓なども同様であり、これは別に「伏碑形立碑型」墓碑として分類したい。
かくれ型墓碑の分類図(作成・宮本)


それ以外では、防長地域(山口県)の山間部に分布する「鎮堂(しずめどう)型」墓碑、熊本県菊池の自然石に稚拙な十字を彫り込んだもの、熊本県宇城市小川町でまとまって発見された仏塔型墓碑をそのまま転用して、天頂部に小さく十字架を刻みつけたものなどがある。これらは和風立碑のかたちをとっているので、そこにキリシタンの印(しるし)がなかった場合、たとえ「かくれ」信者のものであったとしても判別ができない。事例は少ないが、墓石そのものではなく花立や水入れの底部や裏面に隠して印が彫られていることもある。
 その他、「天」年号や「ウハキュウ」、「〇」印墓碑などにかんする統計的調査もおこなわれているが、それらの「かくれ」墓碑は、もとより「かくし」のかたちをとっているので、論証物件としては十分であるとは言いがたい。ここに「かくれ」キリシタン研究の難しさがある。
 それゆえ、「かくれ」墓碑の存否を云々する場合、それ以前のキリシタン史を第一次史料(宣教師書簡・報告など)をもとに十分に把握し踏まえた上で、一連の流れの中で捉えることが求められるであろう。
 
 ■方形石組型かくれキリシタン墓碑
 大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地は、豊後国野津のキリシタン史にかんする宣教師文書を参考にひもとかれ、2018年、国指定史跡に登録された。同墓地の「方形石組型」かくれキリシタン墓碑は、「かくれの里」として知られる長崎県西彼杵半島外海地方、北松浦郡平戸地方、さらに山口県大津郡向津具半島、また、イエズス会のコングレガチオ・マリアナ(精鋭会員の信心会組織)が存在した豊後国南海部郡宇目の木浦にも確認される。それは「かくれ」時代に信者たちが秘かに連絡しあったことであるのか、偶然の現象であるのか、今後、広域連携調査によって明らかにされることを期待したい。(つづく)
九州・山口地方に見られる「方形石組型かくれキリシタン墓碑」

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