島原の精霊流し行事は 、知名度こそ長崎のそれに及ばないが、優美さにおいて、また幻想的風情において、これに如くものはない。切子燈籠(きりことうろう)という独特の容姿をもつ役者が、それを演じてくれるからである。
正八面体の八つの角を切り取り、横から見ると菱形を四個連ねた格好の灯袋と、その下方に長く垂らした四枚の色和紙の短冊、十字形の長い持ち柄に特徴がある。大分県臼杵市や京都府にもあると聞くが、毎年8月15日の夜、有明海の波間に流される精霊舟の灯りとして、現役でその仕事を果たしているのは、ここ長崎県島原市でしか見られない。
『長崎名勝図譜(巻五上)』に、向井去来(1651ー1704)の俳句「咲みだる山路のきくを燈籠や」とあわせ島原の切子燈籠が出ているので、そのルーツは四百年以前の南蛮交易時代に遡ると思われる。おそらく「ハタ」や「ビードロ」などとともにポルトガル船によってもたらされた南方ー東南アジア渡来の文物の一つであったにちがいない。似たようなものでタイ国の燈籠がある。
切子燈籠の日本における分布が、島原半島を中心に大分県、京都など制限されて点在する事実は、蒲鉾型(半円筒形)伏碑のキリシタン墓碑の発生とその伝播(分布)と奇妙にも一致する。謎はキリシタン史とともに隠されている、と言っても過言ではないようだ。イエズス会の記録を見ていくと、「1611年度日本年報」にそれらしい雰囲気を臭わせる記述がある。
「…夜には、本会(イエズス会)のコレジヨの垣根の高い所によく見えるように沢山の明かりが灯された。…その明かりはいろいろの色と形の提灯(ちょうちん)であった。…すでに真夜中になっているのに、明かりがたくさん灯っているので、夜景は美しく楽しいものであった。」(註1)
当時、長崎地方には南蛮渡来のさまざまな色・形の提灯があり、それがキリシタンの諸祝祭を彩ったということだが、この記述はイエズス会の創始者イグナチオの列福を祝う、日本ではじめての催しであった。島原半島でも有馬の日野江城城下の大教会でイグナチオ列福記念のミサが執り行われた。しかし、領主ドン・ジョアン有馬晴信が上京して不在であったため、提灯行列は「領主が帰るまで延期された」。晴信は武士として、同じく騎士出身の「福者イグナチオ師への信仰がいとも深かった」ため、祝祭の「提灯祭り」を晴信不在のまま決行することを地元のキリシタン領民らが憚ったからである。ところが不幸にも有馬晴信は翌年(1612年)6月、岡本大八事件に連坐して甲斐国山中で殺され、帰らぬ人となった。以後、日本のキリシタン史は徳川幕府の禁教令施行によって「かくれ」の時代に移行した。
日本の仏教行事としての盂蘭盆は、聖母マリアの被昇天の祝日と重なっている。毎年8月15日、島原の有馬地方では「延期されたイグナシオの祝祭」とあわせ、亡き主人・有馬晴信の霊を迎え、切子燈籠で飾った精霊舟を有明海に流して再びあの世に送る慰霊の行事が隠れの信者たちによって秘かに執り行われたであろう。加えて、「切子とうろう」に「切子と(キリシト)」の文字が隠されているということを彼らは気づいていたに違いない。こうしたキリシタン史に絡む複雑な歴史が、島原地方の盆行事に切子燈籠を多用する文化を育んだのではないだろうか。つまり、イグナチオ・ロヨラを軍神として信奉したキリシタン大名・有馬晴信の存在、遠国での処刑により延期されたイグナシオ祝祭、その無念さを偲ぶ地元キリシタン住民らの「かくれの信仰」等々が、この独特の提灯文化に秘められている、ということだ。
墓地にたくさんの提灯が灯され、爆竹花火が舞い、切り子燈籠の優雅な精霊舟が繰り出されるこの伝統は、四百年を経た今もなお、島原半島の各地で継続されている。
【写真】島原生まれの画人・小林観爾(1892-1974)作「切子燈籠」 |
※註1…純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所編『長崎のコレジオ』(1985年・聖母の騎士社)184頁、「1611年イエズス会年報」。