2024年6月22日土曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑②

 ■天徳寺・宗麟墓碑を解析する

 冒頭に掲げた天徳寺・宗麟墓碑の写真は2018年の暮れ、佐伯を訪問する前に友人が送ってくれたものである。写真で見るかぎり、中央の墓石は仏塔のようであり、キリシタン墓碑の様相がない。そこで、周囲を石組みして墓碑を載せている四角形そのものが「方形石組型キリシタン墓碑」(註1)ではないかと推定した。この形式の墓碑は、30㌢前後の石を長方形に敷き並べて造られるもので、大分県内では臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地(註2)に典型事例がある。その後現地を訪ね、直接確認したところ、一辺約120㌢(4尺)ほどの正方形であることが分かり、これは墓石を据えるための単なる台座であると判断した。

 問題はやはり中央に置かれた石塔らしきものにあるようだ。その解析にあたり、先に、上部に載せられた無縫塔について言うと、後方から見ると分かるが、倒れないように小石を挟んであり、不自然である。これは後世、仏塔に見せる必要から他の場所にあったものを載せたものであろう。下の墓石とは本来別物であった。

【後方から見た宗麟墓碑。墓石と上の無縫塔の間に数個の小石が挟まれている。】


 行き着くところ、中央に位置する立方体の形をした墓石にある。増村氏の報告書(1954年)によると、これには「アーク(大日如来)」、「キリーク(阿弥陀如来)」、「ウン(阿閦如来)」の梵字が三面に刻まれているとあるので、その観察と位置の確認からはじめ、上下の確認、そして墓石の3方向の寸法測定など実施した。すると、そこに仕組まれた暗号、情報が隠されていることが次第に分かってきた。

梵字を倒して造形している

 隠された情報は、大きくは二つある。一つは、仏像を意味する梵字が故意に倒されていること。他の一つは、縦・横・高さの寸法を微妙に変えて伏碑型墓碑にしていることである。

 先ず梵字から説明する。その前に、増村氏が調査した1954年当時と、筆者が確認した2018年現在では、上下の向きと方向が異なっていたので、それにも触れなければならない。図示すると、次のようである。



 増村氏は、梵字の上下の向きから判断して「墓石が右の方向に倒されている」と説明しているが、その際、底面を確認したところ、鑿の痕跡が残る荒削りの状態であったので、これは元から右倒しになるよう造られていた、と言っている。その底面は、向きが置き換えられた現在の墓石では後面になるので、後部に廻って観ると、やはり粗面であった。これは、増村氏の主張の通り、元から粗面を下にして梵字(仏像)が倒される格好で造形されたものであったと理解される。その意味するところは何か。もしこれを造った者が転びのかくれキリシタンであるとするなら、幕府の禁教令によって強制された「仏教檀徒」を再び「転ぶ」ということ、つまりはキリシタン信仰を保持している、ということであろう。

それは伏碑型キリシタン墓碑であった

 次に、もう一つの伏せられた情報―「かくれのキリシタン墓碑」であることを説明しよう。それは寸法の割り出しと比較によって明らかになる。同墓石の高さ・幅・長さ(奥行き)の測定値を順に並べると、36㌢(高さ)、39㌢(幅)、42㌢(長さ)となる。江戸時代の寸法(1寸=約3㌢)に換算すると、12寸、13寸、14寸となり、1寸ずつ長さを違えていることが分かる。これが意図的なものか、それとも偶然であるのか―、これを考察するに典型的なキリシタン墓碑を参考に比較してみたい。そして、高さ・幅・奥行きの3辺がこれと同じ位置になるように、宗麟墓碑の向きを変えて二つを並べてみると、下図のようになる。



 伏碑キリシタン墓碑の特徴は、最短辺を縦(高さ)にし、最長辺を奥行きにすることである。宗麟墓碑について見れば、36㌢の最短辺が縦、42㌢の最長辺が奥行きになり、さらに梵字の向きも、正面から見たとき正しく前後に向くことになる。これにより、天徳寺の宗麟墓碑は「伏碑」の原則を踏まえて制作された「キリシタン墓碑」であることが判明する。しかも、津久見の宗麟墓碑が破壊されたあと秘かに佐伯で造られたものであるから、明らかにそれと分かる伏碑にすることができない。その「かくれ」の工夫として、三辺の寸法を僅かに1寸(3㌢)ずつ故意に違え、拵えたのであった。
 この墓碑に隠された情報を以上、二点ほど指摘したが、他にもある。上面と左右の面に描かれた三種の梵字のうち、大日如来を意味する「アーク」が(天)上面に配置されていることである。キリシタンが信じる唯一神「ダイウス」を「大日」とした史実(註3)を重ねてみるとき、あるいは「天に在(おわ)しますデウスの神」を表現したかったのではないかと考えられる。これについては十分な根拠がないので、参考として上げておきたい。

アウグスチイノ会に関連する墓碑であった

 ところで、かつては九州6ヶ国を治めたあの大友宗麟の墓碑であると伝承しながら、小振りな造りであるのは何故であろうか。この点について考えられるのは、1602年から豊後国の臼杵をはじめ津久見、佐伯、および日向国の縣(あがた=延岡)地域一帯に布教したアウグスチイノ修道会との関連である(註4)。托鉢修道会の一派である彼らは、清貧を旨とする人々であり、墓碑の大小は問題としない。むしろ貧弱にも見えるこの小さな墓碑こそが彼らにとっては信仰の証しでもあったのだ(註5)。筆者はその後、現地の協力者の案内により、小さな伏碑型キリシタン墓碑が古市栗木(善教寺跡墓地)や旧弥生村提内、さらに番匠川上流の直川村など天徳寺周辺および山手地域一帯に数多く存在していた事実を知った(註6)。それら一連の小型で立方体状の形をしたかくれキリシタン墓碑は、天徳寺宗麟墓碑と趣きを同じくする印象があった。いずれもアウグスチイノ修道会に属する信者たちの遺物と考えられる。(つづく)


 註1…本ブログ「キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論」(2019年2月20日~3月1日)参照。「方形石組型キリシタン墓碑」の原型は、長崎県島原半島(旧有馬晴信領)を中心に慶長年間から大石を使って扁平もしくは半円筒形に造形されたキリシタン墓碑にある。禁教時代に入ってかくれ信者たちは小さな石を方形に敷き並べて伏碑型墓碑を造った。それが「方形石組み型キリシタン墓碑である。

 註2…2011年以降の発掘調査で長方形に石組みされたキリシタン墓碑が多数(66基ほど)発見された。2018年国指定史蹟になる。

 註3キリスト教の唯一絶対の創造神「Deus」(ラテン語、ポルトガル語)は、ザビエルが来日した時、同伴者ヤジロウの示唆により仏教語の「大日」(大日如来)を訳語に宛てた。しかし、原語と異なる意味に解釈されたため、すぐに原語主義が採用され「デウス」または「デイウス」と表記された。

 註4…レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1606年の項に、アウグスチイノ修道会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が5人の修道者を伴って佐伯に布教した記事がある。その時、エルナンド師は「城下にささやかな修道院を建てた」が、藩主毛利高政もこれを歓迎し、自ら「天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。」

 註5…立方体状の形を持つこれら小型のキリシタン墓碑は、臼杵でも多数確認され、「斗枡(トーマス)墓」と称されている。その分布はアウグスチイノ修道会の宣教地域と重なるので、同修道会信者に係わる遺物と思われる。

 註6…故・五十川千代見氏による佐伯地域かくれキリシタン墓碑の調査報告がある。『佐伯史談』14号、16号、17号掲載。

五十川氏の栗木善教寺跡墓地キリシタン墓碑のスケッチ(『佐伯史談14号』掲載)



2024年6月20日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑①

 ■はじめに―宗麟墓碑の変遷

 豊後国の国主・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の逝去とその葬儀、墓地等について、彼の聴罪司祭であったフランシスコ・ラグーナ師は詳しい報告書を書いた(註1)。それによると、彼の終焉の地は津久見。1587年6月28日(聖霊降誕後の第6主日)に昇天し(註2)、葬儀ミサが3日後の7月1日(水曜日)、宗麟邸近くの教会(=天徳寺)で営まれ、亡骸は邸宅の庭に拵えられた墓地に埋葬された。

 同墓碑は当初、キリスト教式のものであったが、同年7月24日、秀吉がバテレン追放令を公布したため、息子義統はこれを仏式に改めた。この仏式墓碑は約25年間、1613年まで存在した(註3)。そして1614年1月(慶長13年臘月)、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令により破壊された。津久見の『解脱闇寺年代記』に「慶長19年2月2日、宗麟の墓堂が焼失した」とあるのは、禁教令に伴う破却を裏付けるものである。

 その後約190年間、同地に宗麟墓碑はなかった。宗門改めと檀家制度により禁教弾圧政策が徹底されたことに加え、キリシタン本人とその類族については一定期間(5代)、厳しい監視下に置かれたためである。その縛りが解けた頃、すなわち寛政年間(1789-1801)に臼杵城豊なる宗麟家来の子孫が自費で墓碑を新調し、津久見の「天徳寺御林之内」に建立した(註4)。これが今日、津久見市大字津久見字ミウチに確認される再建された宗麟墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘―「(正面)瑞峰院殿前羽林次将/兼左金吾休菴宗麟大居士(右側)天正十五丁亥年五月廿三日/春秋五十有八歳(左側)九州二島幷伊豫管領/従四位下兼左近衛少将/大友左衛門督源義鎮」は、破壊される前のその写しと思われる。

もう一つの宗麟墓碑

 ところで津久見の宗麟邸故地から南に約15㌖ほど隔てた佐伯市堅田に天徳寺と称する臨済宗妙心寺派寺院があり、そこに大友宗麟の墓碑なるものが存在する(註5)。それはキリスト教が禁止された藩政時代を通して、明治以降も戦前まで隠されてきたもので、これを最初に紹介したのは津久見在住の増村隆也氏が1954年(昭和29)、大分県地方史研究会の機関誌『大分県地方史』(創刊号、1954年10月25日発行)に発表した稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」であったと思われる。

 筆者がこの稿に接したのは、佐伯市宇目にある「るいさ」銘キリシタン墓碑を調査した頃、2018年のことであった。イエズス会が幕府の禁教弾圧に対処するため、豊後国「なんぐん(南郡)」にコングレガチオ信心会を組織して宣教師を匿っていた事実。その女性指導者であった「るいさ」(殉教者加賀山隼人の妹=註6)と、宣教師たちに「イチノカミドノ」と呼ばれ信心会を保護していた佐伯城主・毛利高政とが緊密な関係にあったこと(註7)など、佐伯地方の特殊なキリシタン史を把握していた筆者にとって、高政の領地に禁教時代、大友宗麟の御霊が秘かに祭られていたという史実は、矛盾する話ではなかった。すなわち佐伯の「殿」毛利高政は当時、「かくれのキリシタン大名」とも言える存在であって、「豊後国なんぐん」に秘密の潜伏キリシタン信心会が組織された時、その「保護者」となったのであり(註8)、仮に宗麟のかくれ墓碑が豊後国内に存在するとすれば、彼の領内以外には有り得ないのである。
 増村氏は稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」および「大友宗麟と臼杵・津久見・佐伯」(『大分県地方史13-16号』1958年)で、天徳寺の伝・大友宗麟墓碑は津久見から信者が秘かに持ち込んだ宗麟の墓碑であった、と言っているが、その点は頷けない。何故なら、天徳寺の墓碑には寛政年間に再建された仏式墓碑にもあるような宗麟の墓碑銘が刻まれていないからである。大名の墓碑にしては造りが小さく、一見して、潜伏キリシタン墓碑の印象があった(詳細は後述する)。
 この謎を解明するため、筆者は以後数年にわたり佐伯に足を運び、併せて同地域に存在したかくれキリシタンたちの遺物を求め、訪ねた。案の定、この宗麟墓碑に似た小規模の伏せ碑型キリシタン墓碑が周辺に散在していることが判明した。今、一通りの見通しがついたので、その報告書を記してみたい。(つづく)

 註1…ラグーナ師の報告書の原文はローマ・イエズス会文書館に保存されていないが、ルイス・フロイスが『日本史』に転写している。フロイス『日本史』第27章(第二部95章)。

 註2…宗麟の死去日は大友家史料系図によると「天正15年5月23日」とある。西暦では1587年6月28日であり、一致する。

 註3…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1613年の項に、「彼ら(アウグスチイノ会)は切支丹の数が増加したため、豊後の大名ドン・フランシスコの墓の所在地であり、なかなかに繁華な津組(=津久見)の町に天主堂を建てることにした。」とある。アウグスチイノ修道会の宣教師は1613年時点で、津久見の大友宗麟墓碑を目撃していた。

 註4…文化3年(1806)津久見村組の「改明細帳」に「一、大友家之墓所壱ケ所、但天徳寺御林之内」とある。「天徳寺御林」は天徳寺所有の山林。

 註5…「天徳寺」は宗麟が晩年(1585年?)津久見邸の近くに建てたキリスト教会の名称であった。藩政時代を通じてキリスト教会の名称は「南蛮寺」「切支丹寺」などと呼ばれ、「寺」は「教会」を表す文字としても使用された。また、受洗してキリシタンとなった宗麟自身(の姓)を表すものでもあった。

 註6…本ブログ稿「キリシタン加賀山一族関系図」(2019年10月8日記)参照。イエズス会は「1615年度年報」で、豊後国(「なんぐん」)の「加賀山ディエゴ隼人の姉妹ルイザという名の身分の高い女性」の信心行動を、「コングレガチオ(信心の組)」の一事例として紹介している。

 註7…本ブログ稿「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ」(2018年6月5日~6月22日記)参照。

 註8…イエズス会が禁教時代に組織した信心会に関する指導書―パアデレ・ジェロニモ・ロドリゲスが作った掟「日本のきりしたんだあでに於ける我等が御上天のさんたまりやの御組」(1944年刊『キリシタン研究第二輯』所載)に、「此の組は…小組、大組および親組」から成り、小組の「親は力を協せて大組並びにその属する親組を導くものなり。然れど親は常に各々の親組が保護者、即ち殿、またはその権威および恩恵を以て此の聖き業を保護し奨励し得る高貴なる人を有するべく心がくべきなり。」とある。佐伯城主毛利高政は「親組」である豊後国「なんぐん」信心会の「保護者」として迎えられた「殿」であった。