■天徳寺・宗麟墓碑を解析する
冒頭に掲げた天徳寺・宗麟墓碑の写真は2018年の暮れ、佐伯を訪問する前に友人が送ってくれたものである。写真で見るかぎり、中央の墓石は仏塔のようであり、キリシタン墓碑の様相がない。そこで、周囲を石組みして墓碑を載せている四角形そのものが「方形石組型キリシタン墓碑」(註1)ではないかと推定した。この形式の墓碑は、30㌢前後の石を長方形に敷き並べて造られるもので、大分県内では臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地(註2)に典型事例がある。その後現地を訪ね、直接確認したところ、一辺約120㌢(4尺)ほどの正方形であることが分かり、これは墓石を据えるための単なる台座であると判断した。
問題はやはり中央に置かれた石塔らしきものにあるようだ。その解析にあたり、先に、上部に載せられた無縫塔について言うと、後方から見ると分かるが、倒れないように小石を挟んであり、不自然である。これは後世、仏塔に見せる必要から他の場所にあったものを載せたものであろう。下の墓石とは本来別物であった。
【後方から見た宗麟墓碑。墓石と上の無縫塔の間に数個の小石が挟まれている。】 |
行き着くところ、中央に位置する立方体の形をした墓石にある。増村氏の報告書(1954年)によると、これには「アーク(大日如来)」、「キリーク(阿弥陀如来)」、「ウン(阿閦如来)」の梵字が三面に刻まれているとあるので、その観察と位置の確認からはじめ、上下の確認、そして墓石の3方向の寸法測定など実施した。すると、そこに仕組まれた暗号、情報が隠されていることが次第に分かってきた。
■梵字を倒して造形している
隠された情報は、大きくは二つある。一つは、仏像を意味する梵字が故意に倒されていること。他の一つは、縦・横・高さの寸法を微妙に変えて伏碑型墓碑にしていることである。
先ず梵字から説明する。その前に、増村氏が調査した1954年当時と、筆者が確認した2018年現在では、上下の向きと方向が異なっていたので、それにも触れなければならない。図示すると、次のようである。
増村氏は、梵字の上下の向きから判断して「墓石が右の方向に倒されている」と説明しているが、その際、底面を確認したところ、鑿の痕跡が残る荒削りの状態であったので、これは元から右倒しになるよう造られていた、と言っている。その底面は、向きが置き換えられた現在の墓石では後面になるので、後部に廻って観ると、やはり粗面であった。これは、増村氏の主張の通り、元から粗面を下にして梵字(仏像)が倒される格好で造形されたものであったと理解される。その意味するところは何か。もしこれを造った者が転びのかくれキリシタンであるとするなら、幕府の禁教令によって強制された「仏教檀徒」を再び「転ぶ」ということ、つまりはキリシタン信仰を保持している、ということであろう。
■それは伏碑型キリシタン墓碑であった
次に、もう一つの伏せられた情報―「かくれのキリシタン墓碑」であることを説明しよう。それは寸法の割り出しと比較によって明らかになる。同墓石の高さ・幅・長さ(奥行き)の測定値を順に並べると、36㌢(高さ)、39㌢(幅)、42㌢(長さ)となる。江戸時代の寸法(1寸=約3㌢)に換算すると、12寸、13寸、14寸となり、1寸ずつ長さを違えていることが分かる。これが意図的なものか、それとも偶然であるのか―、これを考察するに典型的なキリシタン墓碑を参考に比較してみたい。そして、高さ・幅・奥行きの3辺がこれと同じ位置になるように、宗麟墓碑の向きを変えて二つを並べてみると、下図のようになる。
■アウグスチイノ会に関連する墓碑であった
ところで、かつては九州6ヶ国を治めたあの大友宗麟の墓碑であると伝承しながら、小振りな造りであるのは何故であろうか。この点について考えられるのは、1602年から豊後国の臼杵をはじめ津久見、佐伯、および日向国の縣(あがた=延岡)地域一帯に布教したアウグスチイノ修道会との関連である(註4)。托鉢修道会の一派である彼らは、清貧を旨とする人々であり、墓碑の大小は問題としない。むしろ貧弱にも見えるこの小さな墓碑こそが彼らにとっては信仰の証しでもあったのだ(註5)。筆者はその後、現地の協力者の案内により、小さな伏碑型キリシタン墓碑が古市栗木(善教寺跡墓地)や旧弥生村提内、さらに番匠川上流の直川村など天徳寺周辺および山手地域一帯に数多く存在していた事実を知った(註6)。それら一連の小型で立方体状の形をしたかくれキリシタン墓碑は、天徳寺宗麟墓碑と趣きを同じくする印象があった。いずれもアウグスチイノ修道会に属する信者たちの遺物と考えられる。(つづく)
註1…本ブログ「キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論」(2019年2月20日~3月1日)参照。「方形石組型キリシタン墓碑」の原型は、長崎県島原半島(旧有馬晴信領)を中心に慶長年間から大石を使って扁平もしくは半円筒形に造形されたキリシタン墓碑にある。禁教時代に入ってかくれ信者たちは小さな石を方形に敷き並べて伏碑型墓碑を造った。それが「方形石組み型キリシタン墓碑である。
註2…2011年以降の発掘調査で長方形に石組みされたキリシタン墓碑が多数(66基ほど)発見された。2018年国指定史蹟になる。
註3…キリスト教の唯一絶対の創造神「Deus」(ラテン語、ポルトガル語)は、ザビエルが来日した時、同伴者ヤジロウの示唆により仏教語の「大日」(大日如来)を訳語に宛てた。しかし、原語と異なる意味に解釈されたため、すぐに原語主義が採用され「デウス」または「デイウス」と表記された。
註4…レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1606年の項に、アウグスチイノ修道会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が5人の修道者を伴って佐伯に布教した記事がある。その時、エルナンド師は「城下にささやかな修道院を建てた」が、藩主毛利高政もこれを歓迎し、自ら「天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。」
註5…立方体状の形を持つこれら小型のキリシタン墓碑は、臼杵でも多数確認され、「斗枡(トーマス)墓」と称されている。その分布はアウグスチイノ修道会の宣教地域と重なるので、同修道会信者に係わる遺物と思われる。
註6…故・五十川千代見氏による佐伯地域かくれキリシタン墓碑の調査報告がある。『佐伯史談』14号、16号、17号掲載。
五十川氏の栗木善教寺跡墓地キリシタン墓碑のスケッチ(『佐伯史談14号』掲載) |