2015年9月17日木曜日

嶋原純茂夫人「またれいな」の墓


     嶋原純茂夫人「またれいな」の墓
      ――被葬者特定の経緯――   宮本次人
                         

 はじめに
 長崎県島原市の三会(みえ)地区山寺町、雲仙岳の東部に拡がる扇状台地の畑中に「またれいな」の文字が刻まれたキリシタン墓碑がある。1926年(大正15)に発見され、翌1927年(昭和2)には早くも長崎県史蹟に指定された。
 当時、島原半島では蒲鉾(かまぼこ)の形をしたキリシタン墓碑の発見が相次ぎ、キリシタン南蛮文化に対する関心が高まっていた。
 雑草が生い茂っていた墓地は太平洋戦争(第二次世界大戦)後、経済成長とともに次第に様変わりし、「近代化」された。その中で「またれいな」墓碑だけは以前同様、地べたに置かれ、保護のためのドーム状のコンクリート製の覆いが施されたものの、林立する周囲の近代化墓碑の谷間に隠れ、目立たない。
 ここに立つと、静かな内湾の有明海が一望できる。沿岸を走る国道251号まで、距離にして約1・5㎞。国道の入口の角(三会新港付近)に「またれいな墓碑」の案内表示板が立っている。
 
 「またれいな」は、洗礼名「マダレイナ」(Madalena)の平仮名表示である。こんにち、カトリックでは一般的に「マグダレナ(マグダラ)」とされるが、日本のキリシタン時代には「マダレイナ」と「マグダレナ」の二種類が用いられた。その理由は、宣教師がそれぞれ出身地(ポルトガル、スペインなど)での呼称をそのまま使用したため、と考えられる。

 「またれいな」墓碑の最大の特徴は、島原半島に分布するキリシタン墓碑のほとんどがポルトガル様式の伏碑(ふせひ)であるのに対し、和風立塔型式を踏む立碑(りっぴ)型であることだ。加工された前面部分に「干十字」と「またれいな」の銘が施され、背後部分は自然石のさまがそのまま残されている。
1928年頃の「またれいな墓碑」風景


 一、「またれいな」の墓―被葬者特定に至るまで―

 新聞記者時代、自宅から新聞社まで8㎞を毎日往復した。国道251号の三会(みえ)付近を通過するたび「またれいな墓碑」の標示板を目にしたが、過去、多くの著書、観光パンフ等で繰り返し紹介されたものであり、それらをうんざりするほど見ていた私にとって、敢えて訪ねて見るほどのものではなかった。

 その「またれいな墓碑」がにわかに気になり始めたのは、2012年のことだ。キリシタン大名ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信の没後400年目にあたり、彼の晩年の最大の謎とされる長崎港でのマードレ・デ・デウス(グラッサ)号撃沈事件と、賄賂によって藤津郡(鍋島藩領)を詐取しようと企んだ岡本大八事件を解明したことがきっかけだった。
 イエズス会文書によると、ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信には実母がなく、「マダレイナ」という洗礼名の「乳母」が登場する。

 「…有馬殿(晴信)は、マダレイナという教名の自分を育てた老女を母とみなしていた。」(「1582年10月31日付、ルイス・フロイスによる1582年度年報」)。「…有馬にはドン・プロタジオ(晴信)を育てたマグダレナという老女があり、彼は彼女を母とも乳母とも慕っていた。」(「フロイスの『日本史』第43章)。
 
 「乳母マダレイナ」とはいったい誰であるのか。調査を進めていくと、有馬氏一族で島原半島の東部一帯に勢力を伸ばしていた嶋原右衛門大夫純茂の未亡人―安徳直治(安徳城主)の娘―が浮かび上がった。解明に至る経緯は複雑であり、詳細をここに紹介する余裕はないが、概略は、次のようである。
 ――有馬晴信の父・義貞は、邦文史料によると嶋原純茂夫人の姉妹を正室とし、両夫人(義貞夫人と純茂夫人の姉妹)は深江城主安富氏の娘とされてきた。ところがイエズス会史料は、安富氏ではなく、安徳氏であると伝えている(「ルイス・デ・アルメイダ修道士の1563年11月17日付書簡に基づくフロイス『日本史』の叙述)。
 これら邦文と欧文の系譜的矛盾は、安富家(深江城主)の次男・純俊が跡継ぎのない安徳家に養子になっている史実をつかむことで解決に至るが、こうした系譜的相関関係から、有馬―安富―安徳―嶋原の4氏が同族的関係にあったことが理解されてくる。その上で、晴信の「乳母」を探していくと、父有馬義貞の最初の夫人(安徳家の娘)が病死か何かの理由で亡くなり、その後迎えた後室・波多壱岐守盛の娘(この人が晴信の実母であったと思われる)も或る事情でいなくなり、結果、先ほど述べた同族的4氏の中から相応しい婦人―嶋原純茂夫人―が「乳母」となっていた、ということである。

 問題は、その後にあった。
 イエズス会史料に登場する「乳母マダレイナ」が「島原殿」嶋原純茂の未亡人であることが判明したとき、島原市山寺町にある長崎県指定史蹟「またれいな墓碑」がそれではないか、との新たな課題が浮上したからだ。
 以後、この予感的仮説を確かめるべく、私は半ば疎かにしていた「またれいな墓碑」に足繁く通い、あわせてその関連事項・事蹟の精査を余儀なくされた。



 二、有馬晴信の「乳母マダレイナ」を探す

 先に、「晴信の乳母マダレイナ」が嶋原純茂夫人であることを、もう少し詳しく説明しよう。
 有馬・嶋原・安富・安徳四氏の系譜的相関関係を図示すると、次のようになる。

  同4氏は島原半島の東部・有明海沿岸に、嶋原城、安徳城、深江城(安富氏)、有家城(ジョアン徳円)、日野江城(有馬氏)と並列して位置し、嶋原純茂と安徳家の三女性、安富家の三人の息子(純治、純俊、徳円―いずれも城主)、有馬義貞(晴信の父)の計8人は―婚姻と養子入りによって―義理の兄弟姉妹の関係を形成していた。なかでも安徳家3女性と安富家3城主は、「兄弟(姉妹)」とさえ称されていた。
 このうち、有家城主ジョアン安富左兵衛徳円の存在は特記されねばならない。彼は元、京都の高僧とも交流があった高位の禅宗僧侶であり、「権威ある仏僧」の助言によって受洗に至った経歴の持ち主であった。加えて、元尼僧であった夫人ゼロニマとともに熱心なキリシタン信者となり、国主ドン・プロタジオ有馬晴信とイエズス会の改宗事業に全面的に協力した。その功績により有馬氏の「奉行(老臣)」となり、有家の城主に取り立てられた。
 
 2015年8月26日、島原城であった市民大学講座で「続・嶋原氏のキリシタン史」と題して講義したとき、私は「1582年度(イエズス会)年報」の史料をもとに、ジョアン安富徳円が領内の仏僧たちの改宗に大きな力を発揮したことを紹介し、あわせて有馬晴信の「乳母マダレイナ」が「嶋原純茂夫人」であることを、同史料の記述によって繙(ひもと)いた。
 同史料「1582年度年報」によると、有馬晴信の「乳母」にかんする記述―「有馬殿は、マダレイナという教名の自分を育てた老女を母と見なしていた。」のあとに、有家城主ジョアン安富徳円の説明として、次の一文が出てくる。

 「…有馬の主な奉行者で、殿(晴信)の母の兄弟であるジョアンと称する伯叔父(安富徳円)がいる。」

 ここで言う「殿(晴信)の母」とは、文章の前後関係からして「乳母」マダレイナを指すことは明らかである。その「殿の母」すなわち「乳母マダレイナ」とは、「ジョアン安富徳円」の「兄弟(姉妹)」であった!と証言しているのだ。―これが、晴信の「乳母マダレイナ」を特定する有力な証拠史料になる。
 ジョアン安富徳円の兄弟には(実の)姉妹がいないのに、「乳母マダレイナ」が安富徳円の「兄弟(姉妹)」であると言っているのは、再三説明したように、安富家の次男「純俊」が、跡継ぎのいない安徳家に養子となることで、安徳家と安富家が同家同然となり、両家の「兄弟」と「姉妹」―つまりは義理の兄弟姉妹―があたかも実の兄弟姉妹のごとき関係をなしていたからである。

 ◆「乳母マダレイナ」は嶋原純茂夫人であった
 ここまで来ると、「乳母マダレイナ」の正体が見えてくる。安富徳円の兄弟姉妹になる安徳家の3人の女のいずれかである。このうち有馬義貞に嫁いだ一人―すなわち晴信の父の最初の夫人は早くに亡くなっていた。安徳家に残った一人は、隣村深江村から安富純俊を養子に迎え、本家を嗣いでいる。残るは一人、嶋原純茂に嫁いだ女性しかいない。
 夫の嶋原純茂は嶋原にアルメイダ修道士を招き、キリシタンを入れた先駆者であったが、反対派仏教勢力によって排斥され、三会城に拠って1570年ごろに亡くなった。未亡人となり、嶋原にいることもできなかったため、姉妹が嫁いだ有馬家に拠り、晴信の「乳母」として日野江城の邸宅の家事「いっさいを司(つかさど)って」いた、と思われる。



  三、島原山寺の「またれいな墓碑」との関連

 有馬晴信の「乳母マダレイナ」は、「島原殿」嶋原純茂の未亡人(=安徳直治の女)であった。この事実が判明したとき、述べたように、島原のかの有名なキリシタン墓碑―「またれいな墓碑」との関連が想起された。あれは、嶋原純茂夫人すなわち晴信の「乳母マダレイナ」の墓碑ではないか、と―。
 「またれいな」は、洗礼名「マダレイナ」の日本語仮名表記である。古文では濁点が省略されるのが通例であるので、「マダレイナ」は「またれいな」となる。墓石の大きさ(高さ91㌢、幅66㌢、厚さ34㌢)や加工の程度からすると、被葬者は一般信者ではなく、上層クラスの女性であると考えられる。一見して、領主夫人のそれにふさわしいものであるが、果たして「またれいな墓碑」が嶋原純茂夫人の墓碑であるかどうか、「乳母マダレイナ」の死亡年と「またれいな墓碑」の建立年代、所在地「山寺」と嶋原氏との関連等、検証してみたい。
 
〈検証1〉「乳母マダレイナ」の死亡年と「またれいな墓碑」の造立年
 イエズス会文書(年報、書簡)によると、「1589年度年報」に「…乳母マダレイナは教会へ通い、キリシタンとしての生活に専念することによって、自ら模範となり、また少なからぬ支援をもたらしている。」とあり、これを最後に姿を消してしまう。1589年―90年ごろ死去したものと考えられる。1582年当時、「年の頃60歳」であったので、生年は1522年頃、68~69歳で亡くなったことになる。
 一方、「またれいな墓碑」の造立年代は、島原半島に「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑」が出現する1603年(慶長8)以前の、「立碑造形型キリシタン墓碑」時代と判断される(註)。一部の郷土史家はこれを禁教迫害期の「元和初期」としているが、前面に「干」十字を大きく彫り出した大胆な造形からして、迫害・弾圧期に比定することは不可能であろう。
 立碑造形型キリシタン墓碑で最古のものは、大坂出土の「天正9年(1581)」の「十字、礼幡」銘墓碑が知られている。
 島原市山寺町の「またれいな墓碑」は、1580年(天正8)以降の天正時代中・後期から1600年以前の慶長初期にかけてのものであり、1590年(天正18)頃死去した「乳母マダレイナ」嶋原純茂夫人の死亡年と時代が一致する。

 【註】…キリシタン墓碑は当初、「日本文化に順応」した「仏塔代用墓碑」からはじまり、次に十字や洗礼名等を刻む「立碑造形墓碑」、さらに仏塔立碑(日本文化)を否定する伏碑型の「ポルトガル様式墓碑」を経て、最期に禁教弾圧期の「かくれ墓碑」へと移行する(宮本試案)。



〈検証2〉「またれいな墓碑」の所在地「山寺」のこと
 「山寺」集落は嶋原町から三会城に至る途中、北西方向約3㎞の山手に位置する。
 「島原殿」嶋原右衛門大夫純茂は、居城・嶋原城(=のちに松倉重政が近世城郭島原城を築いた森岳に在った)を中心に、「嶋原町」および周辺の嶋原村を領有していたと思われるが、北部に隣接する「三会(みえ)村」も彼の支配下にあった。それは、純茂が1563年、ルイス・デ・アルメイダ修道士を招いてキリスト教を「嶋原町」に容れたあと、1566年9月、「祇園(ぎおん)祭り事件」を機に反対派仏教勢力によって排斥されたとき、「三会の城」に避難していた(『藤原有馬世譜』)ことからも推察される。
 「三会」と「山寺」が嶋原氏の支配下にあったことを裏付ける史料が、イエズス会文書の中にもある。イエズス会神父コウロスによって徴収された「1617年8月3日」付け「嶋原町・山寺・三會(みえ)村」信者の証言文書(スペイン国アルカラ・デ・エナーレス、イエズス会トレド管区文書館所蔵)である。
 この中に「嶋原町」の11人、「三會(みえ)町」の13人とともに「山寺」の8人が、それぞれ信者代表として署名している。「山寺」は、嶋原氏配下のキリシタン信者が集落をなしていた、ということであろう。

 見てきたように、「またれいな墓碑」は、領主クラスの夫人の墓碑にふさわしいものであり、嶋原純茂夫人「(晴信の)乳母マダレイナ」の死亡年と墓碑建立年代が一致すること。所在地「山寺」は嶋原純茂ゆかりのキリシタンが住居する集落であったことなど、同墓碑が嶋原純茂夫人のそれであることを矛盾なく説明することができる。



 四、それは嶋原純茂夫人の供養碑であった

 以上の検証により、次の結論を得ることが可能になる。すなわち、嶋原純茂夫人「マダレイナ」は、夫純茂が1570年ごろ三会城で死去したあと、有馬晴信の「乳母」として日野江城に迎えられ、晴信を養育しながら城の家事一切を司(つかさど)っていたが、1580年頃死去した。その亡骸は嶋原・山寺のキリシタン信者たちの手で夫純茂が眠る嶋原に戻され、反対派仏教勢力を避けて山手の集落「山寺」に葬られた、と―。
 「またれいなの墓」は、嶋原純茂夫人の供養碑であった、と結論づけることができよう。

 今、振り返って思うに、有馬晴信の「乳母マダレイナ」を探し出すことがなければ、「またれいな墓碑」の被葬者も明らかにすることができなかったにちがいない。筆者は『ドン・ジョアン有馬晴信』を書き終えたあと、「乳母まだれいな」探求に導かれ、その結果として嶋原純茂夫人に行き着いた。「不思議な天慮」であった思われる。
1985年頃の「またれいな墓碑」風景―ここに有馬晴信の「乳母マダレイナ」嶋原純茂夫人が眠る

 あとがき
 「またれいな墓碑」の被葬者について、筆者は2013年春、島原新聞に掲載した論考「続・嶋原キリシタン史発掘」ではじめて言及し、「嶋原純茂夫人」であることを明らかにした。それは、述べたように有馬晴信の「乳母まだれいな」の正体を突き止める途上、付随的に生じた課題であり、論理的にまとまったものではなかった。その後、1年ほどして「1582年度(イエズス会)年報」に同説を補足する有力史料があることに気づき、単一の論考『マダレイナの墓―嶋原純茂夫人「またれいな」墓碑に眠る―』としてまとめたが、これは未発表のままであった。2015年8月、島原城市民大学講座で「嶋原氏のキリシタン史(続編)」について講義する機会があり、その中で再び「まだれいな墓碑」の被葬者の証明を試みた。本稿はそれをもとに、できる限り簡略を心がけ、説明したものである。