2025年8月16日土曜日

島原の切子燈籠

 島原の精霊流し行事は 、知名度こそ長崎のそれに及ばないが、優美さにおいて、また幻想的風情において、これに如くものはない。切子燈籠(きりことうろう)という独特の容姿をもつ役者が、それを演じてくれるからである。

 正八面体の八つの角を切り取り、横から見ると菱形を四個連ねた格好の灯袋と、その下方に長く垂らした四枚の色和紙の短冊、十字形の長い持ち柄に特徴がある。大分県臼杵市や京都府にもあると聞くが、毎年8月15日の夜、有明海の波間に流される精霊舟の灯りとして、現役でその仕事を果たしているのは、ここ長崎県島原市でしか見られない。

 『長崎名勝図譜(巻五上)』に、向井去来(1651ー1704)の俳句「咲みだる山路のきくを燈籠や」とあわせ島原の切子燈籠が出ているので、そのルーツは四百年以前の南蛮交易時代に遡ると思われる。おそらく「ハタ」や「ビードロ」などとともにポルトガル船によってもたらされた南方ー東南アジア渡来の文物の一つであったにちがいない。似たようなものでタイ国の燈籠がある。

 切子燈籠の日本における分布が、島原半島を中心に大分県、京都など制限されて点在する事実は、蒲鉾型(半円筒形)伏碑のキリシタン墓碑の発生とその伝播(分布)と奇妙にも一致する。謎はキリシタン史とともに隠されている、と言っても過言ではないようだ。イエズス会の記録を見ていくと、「1611年度日本年報」にそれらしい雰囲気を臭わせる記述がある。 

 「…夜には、本会(イエズス会)のコレジヨの垣根の高い所によく見えるように沢山の明かりが灯された。…その明かりはいろいろの色と形の提灯(ちょうちん)であった。…すでに真夜中になっているのに、明かりがたくさん灯っているので、夜景は美しく楽しいものであった。(註1)

 当時、長崎地方には南蛮渡来のさまざまな色・形の提灯があり、それがキリシタンの諸祝祭を彩ったということだが、この記述はイエズス会の創始者イグナチオの列福を祝う、日本ではじめての催しであった。島原半島でも有馬の日野江城城下の大教会でイグナチオ列福記念のミサが執り行われた。しかし、領主ドン・ジョアン有馬晴信が上京して不在であったため、提灯行列は「領主が帰るまで延期された」。晴信は武士として、同じく騎士出身の「福者イグナチオ師への信仰がいとも深かった」ため、祝祭の「提灯祭り」を晴信不在のまま決行することを地元のキリシタン領民らが憚ったからである。ところが不幸にも有馬晴信は翌年(1612年)6月、岡本大八事件に連坐して甲斐国山中で殺され、帰らぬ人となった。以後、日本のキリシタン史は徳川幕府の禁教令施行によって「かくれ」の時代に移行した。

 日本の仏教行事としての盂蘭盆は、聖母マリアの被昇天の祝日と重なっている。毎年8月15日、島原の有馬地方では「延期されたイグナシオの祝祭」とあわせ、亡き主人・有馬晴信の霊を迎え、切子燈籠で飾った精霊舟を有明海に流して再びあの世に送る慰霊の行事が隠れの信者たちによって秘かに執り行われたであろう。加えて、「切子とうろう」に「切子と(キリシト)」の文字が隠されているということを彼らは気づいていたに違いない。こうしたキリシタン史に絡む複雑な歴史が、島原地方の盆行事に切子燈籠を多用する文化を育んだのではないだろうか。つまり、イグナチオ・ロヨラを軍神として信奉したキリシタン大名・有馬晴信の存在、遠国での処刑により延期されたイグナシオ祝祭、その無念さを偲ぶ地元キリシタン住民らの「かくれの信仰」等々が、この独特の提灯文化に秘められている、ということだ。

 墓地にたくさんの提灯が灯され、爆竹花火が舞い、切り子燈籠の優雅な精霊舟が繰り出されるこの伝統は、四百年を経た今もなお、島原半島の各地で継続されている。

【写真】島原生まれの画人・小林観爾(1892-1974)作「切子燈籠」


註1…純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所編『長崎のコレジオ』(1985年・聖母の騎士社)184頁、「1611年イエズス会年報」。


2025年6月5日木曜日

幕府軍の攻撃に武器を持って防戦した「島原の乱」キリシタン

 

■はじめに

 島原の乱事件(1638年)で幕府軍と交わした籠城キリシタンの矢文に、「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て防ぎ候はで叶わず」と記されたものがある。意味が取りにくいくだりである。同矢文は島原の乱を紹介する論文、読み物等で引用されることが多いが、この部分について解説したものは見当たらない。原文は熊本細川藩の記録『綿考輯録・巻四三』にも収録されているので、一般にはこれによって確認することができる。読み下しで紹介すると、次のようになる。

 

 【読み下し文】… 城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。誠にこの度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、ふせぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまい御座なく候へば、存分これなく候。籠城の儀も、しきりに御取り掛かり成られ候につき、此のごとく御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法に候。御不審に思し召さるべく候へども、此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず。あらたなる証拠、度々御座候につき、此のごとくに候。か様の人をぼんぷ(凡夫)として罷り成ることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御合点成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■毛利家文庫収録の矢文

 筆者は2010年頃、萩毛利藩の歴史資料『毛利家文庫』の中に島原の乱に関する複数の史料があることを突き止め、調査したことがある(註1。その中にも籠城キリシタンの矢文2通が収録されており、うち1通がそれであった(註2。毛利藩は「嶋原陣事件」の際、国司下総守が率いる鉄砲隊と、他に使者として乃美豊後守元宜、志道兵庫頭、原権左衛門尉元勝らを派遣した。原権左衛門元勝は現場で直接取材し収拾した史料をもとに、随時の出来事を記録した『嶋原陣日記』を遺している(註3。これは同事件を現地で記録した従軍日記とも言える一次史料で、きわめて重要な史料であるが、筆者はその紹介事例、引用事例を見たことがない。

 今回、毛利家文庫史料を取り上げるのは、冒頭に記したくだり「此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず」の意味を究明する上で、欠かせないものであったからである。すなわち一般に周知される矢文と、毛利家文庫のそれは同一史料でありながら、異なる箇所があるのだ。

 

 【細川藩史料】…「…右之仕合きりしたんのさほうニ候、御不審ニ可被思召候へ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命を捨ふせき候ハで不叶…」

 【毛利家文庫史料】…「右之仕合きりしたん之作法には御不審ニ可被思召候ヘ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命をすてふせき候ハで不叶…」

 

 両者の違いは、「候」とされる所が、毛利家文庫史料では「は」となっていることである。「候」の場合、ここで文章が切れるが、「は」とした場合、次の文節「御不審に思し召さるべく候へど」に繋がり、「不審」であることの主語が「きりしたんの作法」であることが分かる。必然、本稿の問題とする「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」に係るので、その意味が割り出されるであろう。

 以下に、毛利家文庫収録の矢文の読み下し全文と、筆者がこれを口語体で意訳したものを掲げる。

 

 【毛利家文庫所収矢文読み下し文】…城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。この度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまひ御座なく候へば、存分御座なく候。籠城の儀も、頻りに御取り掛かり成られ候につき、此のごとくに御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法には御不審に思し召さるべく候へども、宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず(ぬ)あらたなる証拠、度々御座候につき、此のごとくに候。かようの人をぼんぷ(凡夫)として罷りなることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■口語体意訳文

 幕府方の矢文に、城中のキリシタン側から要望等があれば聞き入れてくださるとありましたので、再度、矢文をもって申し上げさせていただきます。

 今回、島原と天草の両所において起こしました私たちの一連の行動は、役人兵士たちが私たちの信仰行為を妨害し、攻撃を仕掛けて来ましたので、防戦したまでのことでした。田畑や領地、国が欲しいなどと要求しているのではありません。ただ、私たちが信仰するキリシタン宗を禁止しないで、自由にさせていただきたい。これが私たちの唯一の望みであります。

 こうして37千人が信仰のために原城に集結したこと、―(それはキリスト教禁令が敷かれて25年、「転び」の罪を犯してこれ以上この世で生きることが出来なくなりましたので、最後に悔い改めの行をして、みんなで一緒に死のうと決意したからでありますが)―、ここにも幕府の兵士たちが押し寄せて、しきりに攻撃を仕掛けて来ましたので、鉄砲・弓矢をもって防戦した次第です。

 攻撃に対して防戦するというような、こうした行動はキリシタンがすることではないのではないか、と疑問に思われるかもしれません。しかし、「この宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」―、すなわち「キリスト教に敵対する者たちから攻撃を受けた場合、信徒たちは家族・仲間を守るために殉教覚悟で戦わなければならない」のです。これは私たちが新たに天から受けたお告げですが、一度ならず再三にわたって徴(しるし)が示されましたので、その指示に従って行動いたしました。

 このようにキリシタンとして信念を持って生きた私たちですが、世間は愚か者と言うことでしょう。とにかく、私たち全員を踏み殺した後に、事の真実を分かっていただけるのではないかと思います。

 幕府軍御陣中へ         原城のキリシタンより。

 

■防衛はキリスト教の教えか?

 島原の乱事件がキリシタンの殉教として認められない最大の理由は、彼らが武器を持って応戦したことであった。これについて彼らは、「自分たちから攻撃したことは一度もない。幕府役人兵が自分たちの宗教行為を禁止し、攻撃してきたので、防戦したまでだ」と述べている。そして、「防戦すること」は従来のキリスト教の教理からすると理解に苦しむことだろうが、それは「神からのお告げ」であった、とも述べている。これはカトリック教理に係る事柄であり、キリスト教神学の問題である。17世紀初めの日本において、3万7千人の農民キリシタンたちが、「攻撃を受けた時、仲間を守るため命を捨てて戦わなければならない」との啓示を受け、そのように生き、全員が「踏み殺された」史実があったことを記しておきたい。  (2025年6月5日記)

【※写真=毛利家文庫所収の籠城キリシタン矢文】

【註1】…20092月から201111月にかけて計6回、山口県文書館を訪れ、閲覧および写真複写を実施した。

【註2】…毛利県文庫史料番号「16叢書-68、嶋原陣之時書状覚書等写」。

【註3】…毛利家文庫史料番号「15文武-38、旌旗考引書」―「原権左衛門元勝 嶋原陣日記」。



2024年7月7日日曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑④

 ■薬師堂と宗麟墓碑の配置

 臨済宗妙心寺派天徳寺(川野泰斉住職)には大友宗麟ゆかりの遺跡として宗麟墓碑と、もう一つ薬師堂がある。これについて増村氏は1954年(昭和29)、稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」で、次のように説明している。

 「宗麟の近侍山田某、小野某と寺社奉行役であった津崎某等7人の者は、相謀って宗麟の墓石と宗麟が生前愛蔵した仏像一体を潜かに暗夜に乗じて…持ち去った。彼ら7人が落ちて行った先は佐伯市長谷の現在の天徳寺のある台地だった。

 「宗麟の墓石を…持ち去った」については既に説明したように、宗麟の墓碑銘が刻まれていないのでそれと断言することはできない(ただし、破壊された津久見宗麟墓地の一部の墓石であったとは考えられる)。他のひとつ「宗麟が生前愛蔵した仏像」とは、こんにち同寺の薬師堂に祀られている「正親町天皇から拝受した(とされる)薬師如来像」である。

 薬師如来像を祀る薬師堂は、同寺の長い一直線の参道を登り、山門をくぐって右手に位置し、その裏側奥に大友宗麟の墓碑が佇んでいる。本堂と薬師堂、宗麟墓碑の位置関係を図示すると以下のようである。

天徳寺堂宇配置図(筆者取材帳スケッチ)

 同寺によると、年一回の例祭が1月8日にあり、檀信徒たちは本堂に入るより先に薬師堂に参拝し、供物を上げ、しかる後に左手庫裡の廊下を通って本堂に至るという。すなわち同寺では宗麟ゆかりの薬師仏が本堂の釈迦如来と同じく―もしくはそれ以上に―重要視されているのである。この参拝順路について川野住職は「昔からそうであった」と言われるが、その謎は、あるいは薬師堂に座してみると解るかもしれない。薬師仏を拝するその向こうに大友宗麟の墓碑が位置するのである(註1)。ここに至って、檀家の墓碑のほとんどが山麓南向きであるのに対し、宗麟墓碑のみが何故、薬師堂を向いて据えられているのか、納得したことであった。

写真】天徳寺境内―左手が本堂・庫裡、正面が薬師堂、その向こうに宗麟墓碑が位置する。


あとがき―キリシタン風土の中で

 その他、調査の過程で天徳寺の裏山に金比羅社が、その北麓の某寺院には準提観音が祀られていることも判明した。「金比羅さん(コンピラサン)」はかくれキリシタンたちの信仰所作「コンビサン」を、「準提」観音は信仰対象「提宇主(デイウス)」を隠す神仏とされるものである(註2)。筆者は禁教下の「かくれのかたち(形態)」の事例として調査を手掛けたことがあり、興味を持った。それらは周辺地域に分布する比較的小さな托鉢修道会系伏碑型キリシタン墓碑とともに、キリシタン寺・天徳寺と宗麟墓碑を取り巻くキリシタン的風土を形成するものである。

 増村氏が論考「大友宗麟の墳墓に関する研究」を1954年に発表されて今年(2024年)で70年になる。しかし、同寺の伝承・遺跡・遺物について同論考以上の調査は、これまでなされないままであった。本稿が再検証、再認識の契機になれば幸いである。(おわり) 

                           2024年水無月、72歳識す。

 

 註1…キリシタン大名を祀る仏堂の「かくれ」の工夫として、この種の配置は久留米城主であったシモン毛利秀包(1566-1601、夫人は大友宗麟の娘マセンシア)の位牌を祀る下関市滝部の玄済寺でも確認される。直線の長い参道の正面に本堂があって、その真後ろの裏山に秀包の墓碑がある。

 註2…文化年間、天草で発覚したかくれキリシタンたちも「準提観音」を所持していた(『天草吟味方控(解読本)』2001年・しまばら古文書を読む会発行、170頁)。キリシタンの神「デイウス(デウス)」は当時「提宇主」と表記された。準提観音の「準提」は正しくは「準」であるが、これを「準提」と表記することで「提宇主(デウス)に準じる」すなわち「神に従う」というかくれキリシタンの信心を仮託した。「金比羅さん―コンヒサン」については『ありあけの歴史と風土・第8号』(1992年・有明の歴史を語る会刊)掲載の拙稿「コンピサンとハライソと〈かくれのかたち〉」参照。


2024年7月4日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑③

 キリシタン寺・天徳寺のこと

 次にキリシタン寺・天徳寺について、その創立と破却、そして再建にいたる経緯を見ていきたい。

津久見天徳寺の建立

 大友宗麟が津久見を終の棲家と定め、仏教寺院を廃棄して(1582年)、礼拝堂を伴う私邸を建てたのは1583年(天正11)であった。イエズス会「1583年度年報」に、「…今、新たに立派な家数軒を建て、その邸内に美しい礼拝堂もしくは小聖堂を設けた」とある。そのころ、ジュリア夫人を伴い臼杵城から津久見の私邸に移り住んだ。

 その後、宗麟はキリスト教会の建設にも取りかかり、私邸からあまり遠くない場所に完成させた。その竣工の時期は1584年(天正12)暮れから翌1585年(天正13)はじめにかけてのことであったと思われる(註1)。「天徳寺」というのは、宗麟が津久見に立てたキリスト教会の名称である。イエズス会は日本布教に関して当初、日本文化順応方針を採用して宣教活動を展開した。そのため、キリスト教会も「寺」と呼ばれ、「吉利支寺」「南蛮寺」と総称された。津久見の天徳寺も同様であった。

天徳寺の破壊

 津久見のキリスト教会・天徳寺はその後、29年ほど同地に存在した。ところが徳川時代に入って1614年1月(慶長13年12月)、排吉利支丹文(キリスト教禁止令)が発布され、これにより長崎、京都をはじめ全国のキリスト教関連の施設および墓地が破壊された。津久見の天徳寺が宗麟邸の庭にあった墓碑(霊廟)とともに焼き討ちされたのもこの頃である。津久見の『解脱闇寺年代記』および『大友松野系図』に、「慶長19年(1614)2月2日」(西暦1614年3月12日)のこととして「宗麟の仏式墓は野火のために焼け、礎石を残すのみとなった」とあるのは、これを裏付けるものである(註2)

その後の天徳寺

 1614年(慶長19)以降、日本のキリシタン史は潜伏地下活動の時代に入る。豊後国内でなおも宣教師を匿い、地下宣教活動を組織的に展開したのは毛利高政領の佐伯地方と、中川氏が治める竹田地域の「なんぐん」と称された一帯であった。「日本の改宗においてデウス(神)に次いで最も有力な手立てであった」と宣教師が評した大友宗麟は、豊後国のキリシタンたちにとっては「慈父」であり「支柱」であった。その恩顧を忘れない同国キリシタン信者が1614年、宗麟の墓碑が破壊された時、遺骨を拾い「聖遺物」としなかっただろうか。そして、徳川幕府のキリシタン迫害が過酷を極めた元和時代を過ぎ、寛永年間に入った頃、宗麟の遺骨を隠し持った信者たちが「かくれのキリシタン大名」毛利高政の領内・佐伯堅田下城の金比羅山南麓に秘かに墓碑を造り、そこに遺骨を埋葬した。―これが今日、佐伯堅田に現存する臨済宗妙心寺派天徳寺のはじまりである。同寺の史料によると「1636年(寛永13)、第2世百界榮三禅師谷川臨川庵、3月開山」とあるので、同年、堅田に移転して堂宇を新たに整えたと思われる。表向き仏教寺院ではあるが、実は「かくれ信者」たちのキリシタン寺であった。

佐伯天徳寺史料を解読する

 筆者は今、天徳寺の歴史を某史料によって記している。それは2020年6月に同寺を訪れた際、頂戴したものである。これをもとに以下、同寺の創建、破壊、そして再建に至る経緯をもう少し詳しく辿ってみたい。


 《史料その1》…「天正13乙酉 當山創立/開山章菴和尚禅師、18年丑12月10日示寂」とある、年表史料の断簡である。「開山章菴和尚禅師」とは、増村氏が稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」(1954年『大分縣地方史・創刊号』掲載)で述べている通り、大友宗麟を指すものである。禁教時代の事ゆえ、キリシタン大名の名前を出すことができなかったため、便宜上そのように表記したのであった。「天正13乙酉、當山創立」というのは、先ほど触れたように津久見の天徳寺が「天正13年(1585)」に建立されたことを述べている。問題は下方に記された「12月10日示寂」である。これは一見すると、「開山章菴和尚禅師」すなわち大友宗麟が「天正13年(1585)」に「示寂(死去)」した期日のように見えるが、そうであれば「(天正15年)5月23日」でなければならない。これを解く鍵は、右肩に小さく添えられた「18年丑」にあるようだ。和暦で「天正13年乙酉」以後の「18年丑」を繰ると、「慶長18年癸丑」が該当する。つまりは「慶長18年(1613)12月10日、示寂」したと記されているのであった。

 この年月日は、徳川家康がキリスト教禁止令「排吉利支丹文」を全国に発令した時期と一致する。この日を期してキリシタンの教会・墓地の破壊が始まり、日本のキリシタン史が暗転した史実を重ねてみるとき、それは津久見のキリシタン寺・天徳寺が焼却破壊された史実を伝えるものであったことが分かる。つまりは「章菴和尚禅師」の「示寂」死去ではなく、「天徳寺」の「示寂」破壊を意味するものであった。実際に同天徳寺が焼き討ちされたのは「慶長19年(1614)2月2日」(『解脱闇寺年代記』)であるのに、それより1ヶ月前の幕府の禁教令発布日を「示寂」としているところに、キリシタンの心理が読み取れるであろう。彼らにとって禁教令発令はそれほどに痛く、重大な出来事であったのだ。

 なお、筆跡が異なる字で「住職8年在住」とあるのは、開山年「天正6年(1578)」(後述)から数えて示寂年を「天正13年(1585)」とした、読み間違いによる後世の書き込みである。


 《史料その2》…同寺から頂いたもう一つの史料に、活字で清書された年表(これは前掲史料を含む同一史料をもとに現住職が作成されたものと思われる)がある。その冒頭に「1578年(天正6)、天徳寺を開山、章菴文公大和尚」とあることにも触れなければならない。「開山」とは「寺院を創始すること」または「寺院の創始者」を言うので、この場合、「章菴文公和尚」大友宗麟が天徳寺を開いたことを指す。その「開山」の年号を「天正6年(1578)」としているのは、大友宗麟が洗礼を受けてキリシタン信者となった年号(宗麟の受洗日=西暦1578年8月28日)である。これによって「天徳寺」は、宗麟が津久見に立てたキリスト教会を指すと同時に、キリシタンとなった大友宗麟自身を表すものでもあったことが判明する(註3)

 ここまで津久見の天徳寺が辿った歴史を見てきたが、同史料にはその後、天徳寺が佐伯に再建されたことも記されている。「1636年(寛永13)第2世百界榮三禅師 谷川臨川菴 3月開山」である。再び「開山」とあるのは、津久見の天徳寺が破却されたのを受け、佐伯堅田下城に「再建」されたという意味である。時代は禁教令が敷かれた徳川政権下、かつてはキリシタン寺(キリスト教会)であった天徳寺は、ここから表向き臨済宗妙心寺派の仏教寺院としての歴史が綴られることになる。かくれのキリシタン寺である。その中で、「大友宗麟のお骨を津久見より移し、天徳寺に埋葬するとの伝」は、留意すべきことと思われる。それは、佐伯天徳寺が藩政時代を通じて大友宗麟の霊を祀る廟所として存在したことをある程度、裏付けてくれるものであるからだ。その「お骨」は、あの宗麟墓碑の地下に眠っているものと思われる。

天徳寺・大友宗麟墓碑の全景(2024年6月28日撮影)

 「天徳寺」とは述べたように本来、大友宗麟が津久見に建立したキリシタン寺の名称であった。佐伯の天徳寺は、以上検証してきた通り、津久見天徳寺の歴史を継承するものであり、それだからこそ境内に大友宗麟の墓碑が半ば隠された格好で祀られてきたのであった。天徳寺と大友宗麟墓碑―両者は切れない縁で結ばれている。そして、あの天正の時代から4世紀余りを過ぎた今日に至るまで、豊後国の一角に佇んでいる。(つづく)

天徳寺事歴と大友宗麟キリシタン史の対照表


【註1】…「1585年8月10日付、ルイス・フロイスの書簡」に、1584年12月、宣教師と二人のイルマンが津久見に出かけ、降誕祭を催したことが記されている。

【註2】渡辺澄夫著『キリシタン大名大友宗麟』(1978・大分合同新聞社発行)311頁

【註3】宗麟は晩年、「天徳寺左衛門入道」と名乗った。『大分県地方史第6号』(1996)増村隆也「大友宗麟の墳墓に関する研究―続報―」。


2024年6月22日土曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑②

 ■天徳寺・宗麟墓碑を解析する

 冒頭に掲げた天徳寺・宗麟墓碑の写真は2018年の暮れ、佐伯を訪問する前に友人が送ってくれたものである。写真で見るかぎり、中央の墓石は仏塔のようであり、キリシタン墓碑の様相がない。そこで、周囲を石組みして墓碑を載せている四角形そのものが「方形石組型キリシタン墓碑」(註1)ではないかと推定した。この形式の墓碑は、30㌢前後の石を長方形に敷き並べて造られるもので、大分県内では臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地(註2)に典型事例がある。その後現地を訪ね、直接確認したところ、一辺約120㌢(4尺)ほどの正方形であることが分かり、これは墓石を据えるための単なる台座であると判断した。

 問題はやはり中央に置かれた石塔らしきものにあるようだ。その解析にあたり、先に、上部に載せられた無縫塔について言うと、後方から見ると分かるが、倒れないように小石を挟んであり、不自然である。これは後世、仏塔に見せる必要から他の場所にあったものを載せたものであろう。下の墓石とは本来別物であった。

【後方から見た宗麟墓碑。墓石と上の無縫塔の間に数個の小石が挟まれている。】


 行き着くところ、中央に位置する立方体の形をした墓石にある。増村氏の報告書(1954年)によると、これには「アーク(大日如来)」、「キリーク(阿弥陀如来)」、「ウン(阿閦如来)」の梵字が三面に刻まれているとあるので、その観察と位置の確認からはじめ、上下の確認、そして墓石の3方向の寸法測定など実施した。すると、そこに仕組まれた暗号、情報が隠されていることが次第に分かってきた。

梵字を倒して造形している

 隠された情報は、大きくは二つある。一つは、仏像を意味する梵字が故意に倒されていること。他の一つは、縦・横・高さの寸法を微妙に変えて伏碑型墓碑にしていることである。

 先ず梵字から説明する。その前に、増村氏が調査した1954年当時と、筆者が確認した2018年現在では、上下の向きと方向が異なっていたので、それにも触れなければならない。図示すると、次のようである。



 増村氏は、梵字の上下の向きから判断して「墓石が右の方向に倒されている」と説明しているが、その際、底面を確認したところ、鑿の痕跡が残る荒削りの状態であったので、これは元から右倒しになるよう造られていた、と言っている。その底面は、向きが置き換えられた現在の墓石では後面になるので、後部に廻って観ると、やはり粗面であった。これは、増村氏の主張の通り、元から粗面を下にして梵字(仏像)が倒される格好で造形されたものであったと理解される。その意味するところは何か。もしこれを造った者が転びのかくれキリシタンであるとするなら、幕府の禁教令によって強制された「仏教檀徒」を再び「転ぶ」ということ、つまりはキリシタン信仰を保持している、ということであろう。

それは伏碑型キリシタン墓碑であった

 次に、もう一つの伏せられた情報―「かくれのキリシタン墓碑」であることを説明しよう。それは寸法の割り出しと比較によって明らかになる。同墓石の高さ・幅・長さ(奥行き)の測定値を順に並べると、36㌢(高さ)、39㌢(幅)、42㌢(長さ)となる。江戸時代の寸法(1寸=約3㌢)に換算すると、12寸、13寸、14寸となり、1寸ずつ長さを違えていることが分かる。これが意図的なものか、それとも偶然であるのか―、これを考察するに典型的なキリシタン墓碑を参考に比較してみたい。そして、高さ・幅・奥行きの3辺がこれと同じ位置になるように、宗麟墓碑の向きを変えて二つを並べてみると、下図のようになる。



 伏碑キリシタン墓碑の特徴は、最短辺を縦(高さ)にし、最長辺を奥行きにすることである。宗麟墓碑について見れば、36㌢の最短辺が縦、42㌢の最長辺が奥行きになり、さらに梵字の向きも、正面から見たとき正しく前後に向くことになる。これにより、天徳寺の宗麟墓碑は「伏碑」の原則を踏まえて制作された「キリシタン墓碑」であることが判明する。しかも、津久見の宗麟墓碑が破壊されたあと秘かに佐伯で造られたものであるから、明らかにそれと分かる伏碑にすることができない。その「かくれ」の工夫として、三辺の寸法を僅かに1寸(3㌢)ずつ故意に違え、拵えたのであった。
 この墓碑に隠された情報を以上、二点ほど指摘したが、他にもある。上面と左右の面に描かれた三種の梵字のうち、大日如来を意味する「アーク」が(天)上面に配置されていることである。キリシタンが信じる唯一神「ダイウス」を「大日」とした史実(註3)を重ねてみるとき、あるいは「天に在(おわ)しますデウスの神」を表現したかったのではないかと考えられる。これについては十分な根拠がないので、参考として上げておきたい。

アウグスチイノ会に関連する墓碑であった

 ところで、かつては九州6ヶ国を治めたあの大友宗麟の墓碑であると伝承しながら、小振りな造りであるのは何故であろうか。この点について考えられるのは、1602年から豊後国の臼杵をはじめ津久見、佐伯、および日向国の縣(あがた=延岡)地域一帯に布教したアウグスチイノ修道会との関連である(註4)。托鉢修道会の一派である彼らは、清貧を旨とする人々であり、墓碑の大小は問題としない。むしろ貧弱にも見えるこの小さな墓碑こそが彼らにとっては信仰の証しでもあったのだ(註5)。筆者はその後、現地の協力者の案内により、小さな伏碑型キリシタン墓碑が古市栗木(善教寺跡墓地)や旧弥生村提内、さらに番匠川上流の直川村など天徳寺周辺および山手地域一帯に数多く存在していた事実を知った(註6)。それら一連の小型で立方体状の形をしたかくれキリシタン墓碑は、天徳寺宗麟墓碑と趣きを同じくする印象があった。いずれもアウグスチイノ修道会に属する信者たちの遺物と考えられる。(つづく)


 註1…本ブログ「キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論」(2019年2月20日~3月1日)参照。「方形石組型キリシタン墓碑」の原型は、長崎県島原半島(旧有馬晴信領)を中心に慶長年間から大石を使って扁平もしくは半円筒形に造形されたキリシタン墓碑にある。禁教時代に入ってかくれ信者たちは小さな石を方形に敷き並べて伏碑型墓碑を造った。それが「方形石組み型キリシタン墓碑である。

 註2…2011年以降の発掘調査で長方形に石組みされたキリシタン墓碑が多数(66基ほど)発見された。2018年国指定史蹟になる。

 註3キリスト教の唯一絶対の創造神「Deus」(ラテン語、ポルトガル語)は、ザビエルが来日した時、同伴者ヤジロウの示唆により仏教語の「大日」(大日如来)を訳語に宛てた。しかし、原語と異なる意味に解釈されたため、すぐに原語主義が採用され「デウス」または「デイウス」と表記された。

 註4…レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1606年の項に、アウグスチイノ修道会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が5人の修道者を伴って佐伯に布教した記事がある。その時、エルナンド師は「城下にささやかな修道院を建てた」が、藩主毛利高政もこれを歓迎し、自ら「天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。」

 註5…立方体状の形を持つこれら小型のキリシタン墓碑は、臼杵でも多数確認され、「斗枡(トーマス)墓」と称されている。その分布はアウグスチイノ修道会の宣教地域と重なるので、同修道会信者に係わる遺物と思われる。

 註6…故・五十川千代見氏による佐伯地域かくれキリシタン墓碑の調査報告がある。『佐伯史談』14号、16号、17号掲載。

五十川氏の栗木善教寺跡墓地キリシタン墓碑のスケッチ(『佐伯史談14号』掲載)



2024年6月20日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑①

 ■はじめに―宗麟墓碑の変遷

 豊後国の国主・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の逝去とその葬儀、墓地等について、彼の聴罪司祭であったフランシスコ・ラグーナ師は詳しい報告書を書いた(註1)。それによると、彼の終焉の地は津久見。1587年6月28日(聖霊降誕後の第6主日)に昇天し(註2)、葬儀ミサが3日後の7月1日(水曜日)、宗麟邸近くの教会(=天徳寺)で営まれ、亡骸は邸宅の庭に拵えられた墓地に埋葬された。

 同墓碑は当初、キリスト教式のものであったが、同年7月24日、秀吉がバテレン追放令を公布したため、息子義統はこれを仏式に改めた。この仏式墓碑は約25年間、1613年まで存在した(註3)。そして1614年1月(慶長13年臘月)、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令により破壊された。津久見の『解脱闇寺年代記』に「慶長19年2月2日、宗麟の墓堂が焼失した」とあるのは、禁教令に伴う破却を裏付けるものである。

 その後約190年間、同地に宗麟墓碑はなかった。宗門改めと檀家制度により禁教弾圧政策が徹底されたことに加え、キリシタン本人とその類族については一定期間(5代)、厳しい監視下に置かれたためである。その縛りが解けた頃、すなわち寛政年間(1789-1801)に臼杵城豊なる宗麟家来の子孫が自費で墓碑を新調し、津久見の「天徳寺御林之内」に建立した(註4)。これが今日、津久見市大字津久見字ミウチに確認される再建された宗麟墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘―「(正面)瑞峰院殿前羽林次将/兼左金吾休菴宗麟大居士(右側)天正十五丁亥年五月廿三日/春秋五十有八歳(左側)九州二島幷伊豫管領/従四位下兼左近衛少将/大友左衛門督源義鎮」は、破壊される前のその写しと思われる。

もう一つの宗麟墓碑

 ところで津久見の宗麟邸故地から南に約15㌖ほど隔てた佐伯市堅田に天徳寺と称する臨済宗妙心寺派寺院があり、そこに大友宗麟の墓碑なるものが存在する(註5)。それはキリスト教が禁止された藩政時代を通して、明治以降も戦前まで隠されてきたもので、これを最初に紹介したのは津久見在住の増村隆也氏が1954年(昭和29)、大分県地方史研究会の機関誌『大分県地方史』(創刊号、1954年10月25日発行)に発表した稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」であったと思われる。

 筆者がこの稿に接したのは、佐伯市宇目にある「るいさ」銘キリシタン墓碑を調査した頃、2018年のことであった。イエズス会が幕府の禁教弾圧に対処するため、豊後国「なんぐん(南郡)」にコングレガチオ信心会を組織して宣教師を匿っていた事実。その女性指導者であった「るいさ」(殉教者加賀山隼人の妹=註6)と、宣教師たちに「イチノカミドノ」と呼ばれ信心会を保護していた佐伯城主・毛利高政とが緊密な関係にあったこと(註7)など、佐伯地方の特殊なキリシタン史を把握していた筆者にとって、高政の領地に禁教時代、大友宗麟の御霊が秘かに祭られていたという史実は、矛盾する話ではなかった。すなわち佐伯の「殿」毛利高政は当時、「かくれのキリシタン大名」とも言える存在であって、「豊後国なんぐん」に秘密の潜伏キリシタン信心会が組織された時、その「保護者」となったのであり(註8)、仮に宗麟のかくれ墓碑が豊後国内に存在するとすれば、彼の領内以外には有り得ないのである。
 増村氏は稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」および「大友宗麟と臼杵・津久見・佐伯」(『大分県地方史13-16号』1958年)で、天徳寺の伝・大友宗麟墓碑は津久見から信者が秘かに持ち込んだ宗麟の墓碑であった、と言っているが、その点は頷けない。何故なら、天徳寺の墓碑には寛政年間に再建された仏式墓碑にもあるような宗麟の墓碑銘が刻まれていないからである。大名の墓碑にしては造りが小さく、一見して、潜伏キリシタン墓碑の印象があった(詳細は後述する)。
 この謎を解明するため、筆者は以後数年にわたり佐伯に足を運び、併せて同地域に存在したかくれキリシタンたちの遺物を求め、訪ねた。案の定、この宗麟墓碑に似た小規模の伏せ碑型キリシタン墓碑が周辺に散在していることが判明した。今、一通りの見通しがついたので、その報告書を記してみたい。(つづく)

 註1…ラグーナ師の報告書の原文はローマ・イエズス会文書館に保存されていないが、ルイス・フロイスが『日本史』に転写している。フロイス『日本史』第27章(第二部95章)。

 註2…宗麟の死去日は大友家史料系図によると「天正15年5月23日」とある。西暦では1587年6月28日であり、一致する。

 註3…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1613年の項に、「彼ら(アウグスチイノ会)は切支丹の数が増加したため、豊後の大名ドン・フランシスコの墓の所在地であり、なかなかに繁華な津組(=津久見)の町に天主堂を建てることにした。」とある。アウグスチイノ修道会の宣教師は1613年時点で、津久見の大友宗麟墓碑を目撃していた。

 註4…文化3年(1806)津久見村組の「改明細帳」に「一、大友家之墓所壱ケ所、但天徳寺御林之内」とある。「天徳寺御林」は天徳寺所有の山林。

 註5…「天徳寺」は宗麟が晩年(1585年?)津久見邸の近くに建てたキリスト教会の名称であった。藩政時代を通じてキリスト教会の名称は「南蛮寺」「切支丹寺」などと呼ばれ、「寺」は「教会」を表す文字としても使用された。また、受洗してキリシタンとなった宗麟自身(の姓)を表すものでもあった。

 註6…本ブログ稿「キリシタン加賀山一族関系図」(2019年10月8日記)参照。イエズス会は「1615年度年報」で、豊後国(「なんぐん」)の「加賀山ディエゴ隼人の姉妹ルイザという名の身分の高い女性」の信心行動を、「コングレガチオ(信心の組)」の一事例として紹介している。

 註7…本ブログ稿「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ」(2018年6月5日~6月22日記)参照。

 註8…イエズス会が禁教時代に組織した信心会に関する指導書―パアデレ・ジェロニモ・ロドリゲスが作った掟「日本のきりしたんだあでに於ける我等が御上天のさんたまりやの御組」(1944年刊『キリシタン研究第二輯』所載)に、「此の組は…小組、大組および親組」から成り、小組の「親は力を協せて大組並びにその属する親組を導くものなり。然れど親は常に各々の親組が保護者、即ち殿、またはその権威および恩恵を以て此の聖き業を保護し奨励し得る高貴なる人を有するべく心がくべきなり。」とある。佐伯城主毛利高政は「親組」である豊後国「なんぐん」信心会の「保護者」として迎えられた「殿」であった。


2023年8月9日水曜日

薩摩に咲いた花十字―喜入氏家紋―

  九州の南端に位置する鹿児島県薩摩半島に「花十字」の家紋を有する墓地がある。鹿児島藩主島津氏の家紋「丸に十字」の四隅に花弁があしらわれたもので、それは島津家に絡み付いたキリシタン史を見るようで興味深い。場所は枕崎市桜山本町の旧長善寺跡の裏山にある喜入(きいれ)氏累代墓地。枕崎は藩政時代、「鹿籠(かご)」と称され、島津家につながる喜入氏の領地であった。

写真=左が古い時代(江戸初期)の花十字、右は近年のもの。いずれも喜入家墓地】

 ■喜入氏とキリシタン

 喜入氏がキリシタンと関係を持ったのは第7代忠政(1571-1645)の頃である。彼は幼少の頃、仏門に入り、のち還俗して武将となった経歴の持ち主で、文化人でもあった。藩主・島津義久、義弘、家久(忠恒)、光久の4代に仕え、家久の時代には家老職にあった。忠政の後妻となる妙身は「マルタ」の洗礼名を持つキリシタンであり、肥前国高来(たかき=島原半島)のキリシタン大名・有馬晴信の息・ミゲル直純と婚姻の秘蹟を受けたが、有馬家の政略的事情によって破棄され、長崎近辺に隠れ住んでいた。また、直純との間に生まれた幼子・於満津を連れていた。

 マルタ妙身の母・カタリイナ永俊は有馬家の家臣・皆吉家の出身で、有馬晴信の「養女」としてキリシタン大名・小西行長の側室となり、その後、薩州家島津氏一族の島津清忠に嫁した。マルタ妙身は小西行長との間に生まれた娘であった。肥後国にいた同夫妻が島津本家の要請で鹿児島に移ったのは慶長14年(1609)のことである。

 数年後、カタリイナ永俊は長崎に隠棲していた娘・妙身マルタを鹿児島に呼んだ。元和5年(1619)の頃、母カタリイナ永俊が娘・妙身マルタを喜入忠政に後妻として紹介し、二人は夫婦となった。

 一方、カタリイナ永俊と島津忠清との間に生まれた娘・桂安は、藩主島津家久の側室となり、鹿児島藩第2代藩主となる光久を生んだ。喜入忠政は、カタリイナ永俊を介して藩主家久と義兄弟の間柄となり、時に藩主の代理役を務めるなど活躍した。

 ■鹿児島城の花十字瓦とカタリイナ永俊

 カタリイナ永俊は夫忠清とともに、はじめ鶴丸(鹿児島)城に居住した。近年、鶴丸城跡から長崎の教会で使用されたものと同じ「花十字紋瓦」が出土して話題になったが、これはカタリイナ永俊が鹿児島鶴丸城に住んでいた時、長崎から取り寄せたものであった。長崎の教会に葺かれていた数種の花十字紋瓦(軒丸瓦)のうちの一つが、鹿児島城で出土したものと同一の鋳型で製造されたものであることから確認される。

写真=左が長崎のサント・ドミンゴ教会跡で出土した花十字紋瓦の一つ。右は鹿児島城跡出土のそれ。】

 カタリイナ永俊は夫忠清が亡くなった元和6年(1620)以降、「堅野(たての)の今郷田氏辺」に移り住み、鹿児島に潜入したキリシタン武将らを匿い、保護した。徳川幕府の禁教令施策が厳しくなる中、藩主・家久にとって彼女の存在は悩みの種であった。それでも、10年ほど忍耐したが、終に家久は寛永9年(1632)、カタリイナ永俊の種子島配流を決定した。追って、カタリイナの娘で喜入忠政の夫人となっていた妙身マルタ、および彼女の二人の娘(津留、於満津)も種子島に送られた。

 ■「かくれ」喜入忠政のこと

 ところで、藩主・家久の家老であった喜入忠政がマルタ妙身を後妻に迎えたのは、尋常なことではなかった。何故なら、彼女とその背景にあるキリシタン色があまりにも濃かったからである。彼女はアゴスチイノ小西行長の娘であって、そして、ジョアン有馬晴信の息子・直純ミゲルの元正妻であった。両者の結婚は述べたようにカタリイナ永俊から持ち出されたものであるが、彼女を受け入れたことは、喜入忠政が当時国禁とされたキリスト教を暗に是認したことを意味するものでもあった。彼は表向き、キリシタンではなかったとされる。しかしながら、キリシタン信者と多方面で深く係わっていた。カタリイナ永俊が種子島に配流されたその翌年(寛永12年)、幕府から「鹿籠家中のキリシタン20名を捕え、島送りにせよ」との厳命が薩摩藩に届いたことがあった(註1)。「鹿籠家中のキリシタン」とは、「喜入忠政の家臣」のことであるから、忠政は実際、キリシタンの家臣20余人を抱えていたのであった。

 死後、彼の墓は父・喜入季久の墓地からさらに奥まった場所に、あたかも隠されたように設置され、しかも土盛りしただけの円塚であった。これらのキリシタン的状況を歴史学として如何に説明するのか、ふさわしい言葉は見当たらないが、「かくれのキリシタン武将であった」という以外にないと思われる。ここに紹介する喜入氏墓地の花十字家紋も、それを裏付けるものである。

写真=7代目忠政以降の喜入氏累代墓地(枕崎市)】

註1…枕崎市教育委員会(元)文化課課長・末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。