2024年7月7日日曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑④

 ■薬師堂と宗麟墓碑の配置

 臨済宗妙心寺派天徳寺(川野泰斉住職)には大友宗麟ゆかりの遺跡として宗麟墓碑と、もう一つ薬師堂がある。これについて増村氏は1954年(昭和29)、稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」で、次のように説明している。

 「宗麟の近侍山田某、小野某と寺社奉行役であった津崎某等7人の者は、相謀って宗麟の墓石と宗麟が生前愛蔵した仏像一体を潜かに暗夜に乗じて…持ち去った。彼ら7人が落ちて行った先は佐伯市長谷の現在の天徳寺のある台地だった。

 「宗麟の墓石を…持ち去った」については既に説明したように、宗麟の墓碑銘が刻まれていないのでそれと断言することはできない(ただし、破壊された津久見宗麟墓地の一部の墓石であったとは考えられる)。他のひとつ「宗麟が生前愛蔵した仏像」とは、こんにち同寺の薬師堂に祀られている「正親町天皇から拝受した(とされる)薬師如来像」である。

 薬師如来像を祀る薬師堂は、同寺の長い一直線の参道を登り、山門をくぐって右手に位置し、その裏側奥に大友宗麟の墓碑が佇んでいる。本堂と薬師堂、宗麟墓碑の位置関係を図示すると以下のようである。

天徳寺堂宇配置図(筆者取材帳スケッチ)

 同寺によると、年一回の例祭が1月8日にあり、檀信徒たちは本堂に入るより先に薬師堂に参拝し、供物を上げ、しかる後に左手庫裡の廊下を通って本堂に至るという。すなわち同寺では宗麟ゆかりの薬師仏が本堂の釈迦如来と同じく―もしくはそれ以上に―重要視されているのである。この参拝順路について川野住職は「昔からそうであった」と言われるが、その謎は、あるいは薬師堂に座してみると解るかもしれない。薬師仏を拝するその向こうに大友宗麟の墓碑が位置するのである(註1)。ここに至って、檀家の墓碑のほとんどが山麓南向きであるのに対し、宗麟墓碑のみが何故、薬師堂を向いて据えられているのか、納得したことであった。

写真】天徳寺境内―左手が本堂・庫裡、正面が薬師堂、その向こうに宗麟墓碑が位置する。


あとがき―キリシタン風土の中で

 その他、調査の過程で天徳寺の裏山に金比羅社が、その北麓の某寺院には準提観音が祀られていることも判明した。「金比羅さん(コンピラサン)」はかくれキリシタンたちの信仰所作「コンビサン」を、「準提」観音は信仰対象「提宇主(デイウス)」を隠す神仏とされるものである(註2)。筆者は禁教下の「かくれのかたち(形態)」の事例として調査を手掛けたことがあり、興味を持った。それらは周辺地域に分布する比較的小さな托鉢修道会系伏碑型キリシタン墓碑とともに、キリシタン寺・天徳寺と宗麟墓碑を取り巻くキリシタン的風土を形成するものである。

 増村氏が論考「大友宗麟の墳墓に関する研究」を1954年に発表されて今年(2024年)で70年になる。しかし、同寺の伝承・遺跡・遺物について同論考以上の調査は、これまでなされないままであった。本稿が再検証、再認識の契機になれば幸いである。(おわり) 

                           2024年水無月、72歳識す。

 

 註1…キリシタン大名を祀る仏堂の「かくれ」の工夫として、この種の配置は久留米城主であったシモン毛利秀包(1566-1601、夫人は大友宗麟の娘マセンシア)の位牌を祀る下関市滝部の玄済寺でも確認される。直線の長い参道の正面に本堂があって、その真後ろの裏山に秀包の墓碑がある。

 註2…文化年間、天草で発覚したかくれキリシタンたちも「準提観音」を所持していた(『天草吟味方控(解読本)』2001年・しまばら古文書を読む会発行、170頁)。キリシタンの神「デイウス(デウス)」は当時「提宇主」と表記された。準提観音の「準提」は正しくは「準」であるが、これを「準提」と表記することで「提宇主(デウス)に準じる」すなわち「神に従う」というかくれキリシタンの信心を仮託した。「金比羅さん―コンヒサン」については『ありあけの歴史と風土・第8号』(1992年・有明の歴史を語る会刊)掲載の拙稿「コンピサンとハライソと〈かくれのかたち〉」参照。


2024年7月4日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑③

 キリシタン寺・天徳寺のこと

 次にキリシタン寺・天徳寺について、その創立と破却、そして再建にいたる経緯を見ていきたい。

津久見天徳寺の建立

 大友宗麟が津久見を終の棲家と定め、仏教寺院を廃棄して(1582年)、礼拝堂を伴う私邸を建てたのは1583年(天正11)であった。イエズス会「1583年度年報」に、「…今、新たに立派な家数軒を建て、その邸内に美しい礼拝堂もしくは小聖堂を設けた」とある。そのころ、ジュリア夫人を伴い臼杵城から津久見の私邸に移り住んだ。

 その後、宗麟はキリスト教会の建設にも取りかかり、私邸からあまり遠くない場所に完成させた。その竣工の時期は1584年(天正12)暮れから翌1585年(天正13)はじめにかけてのことであったと思われる(註1)。「天徳寺」というのは、宗麟が津久見に立てたキリスト教会の名称である。イエズス会は日本布教に関して当初、日本文化順応方針を採用して宣教活動を展開した。そのため、キリスト教会も「寺」と呼ばれ、「吉利支寺」「南蛮寺」と総称された。津久見の天徳寺も同様であった。

天徳寺の破壊

 津久見のキリスト教会・天徳寺はその後、29年ほど同地に存在した。ところが徳川時代に入って1614年1月(慶長13年12月)、排吉利支丹文(キリスト教禁止令)が発布され、これにより長崎、京都をはじめ全国のキリスト教関連の施設および墓地が破壊された。津久見の天徳寺が宗麟邸の庭にあった墓碑(霊廟)とともに焼き討ちされたのもこの頃である。津久見の『解脱闇寺年代記』および『大友松野系図』に、「慶長19年(1614)2月2日」(西暦1614年3月12日)のこととして「宗麟の仏式墓は野火のために焼け、礎石を残すのみとなった」とあるのは、これを裏付けるものである(註2)

その後の天徳寺

 1614年(慶長19)以降、日本のキリシタン史は潜伏地下活動の時代に入る。豊後国内でなおも宣教師を匿い、地下宣教活動を組織的に展開したのは毛利高政領の佐伯地方と、中川氏が治める竹田地域の「なんぐん」と称された一帯であった。「日本の改宗においてデウス(神)に次いで最も有力な手立てであった」と宣教師が評した大友宗麟は、豊後国のキリシタンたちにとっては「慈父」であり「支柱」であった。その恩顧を忘れない同国キリシタン信者が1614年、宗麟の墓碑が破壊された時、遺骨を拾い「聖遺物」としなかっただろうか。そして、徳川幕府のキリシタン迫害が過酷を極めた元和時代を過ぎ、寛永年間に入った頃、宗麟の遺骨を隠し持った信者たちが「かくれのキリシタン大名」毛利高政の領内・佐伯堅田下城の金比羅山南麓に秘かに墓碑を造り、そこに遺骨を埋葬した。―これが今日、佐伯堅田に現存する臨済宗妙心寺派天徳寺のはじまりである。同寺の史料によると「1636年(寛永13)、第2世百界榮三禅師谷川臨川庵、3月開山」とあるので、同年、堅田に移転して堂宇を新たに整えたと思われる。表向き仏教寺院ではあるが、実は「かくれ信者」たちのキリシタン寺であった。

佐伯天徳寺史料を解読する

 筆者は今、天徳寺の歴史を某史料によって記している。それは2020年6月に同寺を訪れた際、頂戴したものである。これをもとに以下、同寺の創建、破壊、そして再建に至る経緯をもう少し詳しく辿ってみたい。


 《史料その1》…「天正13乙酉 當山創立/開山章菴和尚禅師、18年丑12月10日示寂」とある、年表史料の断簡である。「開山章菴和尚禅師」とは、増村氏が稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」(1954年『大分縣地方史・創刊号』掲載)で述べている通り、大友宗麟を指すものである。禁教時代の事ゆえ、キリシタン大名の名前を出すことができなかったため、便宜上そのように表記したのであった。「天正13乙酉、當山創立」というのは、先ほど触れたように津久見の天徳寺が「天正13年(1585)」に建立されたことを述べている。問題は下方に記された「12月10日示寂」である。これは一見すると、「開山章菴和尚禅師」すなわち大友宗麟が「天正13年(1585)」に「示寂(死去)」した期日のように見えるが、そうであれば「(天正15年)5月23日」でなければならない。これを解く鍵は、右肩に小さく添えられた「18年丑」にあるようだ。和暦で「天正13年乙酉」以後の「18年丑」を繰ると、「慶長18年癸丑」が該当する。つまりは「慶長18年(1613)12月10日、示寂」したと記されているのであった。

 この年月日は、徳川家康がキリスト教禁止令「排吉利支丹文」を全国に発令した時期と一致する。この日を期してキリシタンの教会・墓地の破壊が始まり、日本のキリシタン史が暗転した史実を重ねてみるとき、それは津久見のキリシタン寺・天徳寺が焼却破壊された史実を伝えるものであったことが分かる。つまりは「章菴和尚禅師」の「示寂」死去ではなく、「天徳寺」の「示寂」破壊を意味するものであった。実際に同天徳寺が焼き討ちされたのは「慶長19年(1614)2月2日」(『解脱闇寺年代記』)であるのに、それより1ヶ月前の幕府の禁教令発布日を「示寂」としているところに、キリシタンの心理が読み取れるであろう。彼らにとって禁教令発令はそれほどに痛く、重大な出来事であったのだ。

 なお、筆跡が異なる字で「住職8年在住」とあるのは、開山年「天正6年(1578)」(後述)から数えて示寂年を「天正13年(1585)」とした、読み間違いによる後世の書き込みである。


 《史料その2》…同寺から頂いたもう一つの史料に、活字で清書された年表(これは前掲史料を含む同一史料をもとに現住職が作成されたものと思われる)がある。その冒頭に「1578年(天正6)、天徳寺を開山、章菴文公大和尚」とあることにも触れなければならない。「開山」とは「寺院を創始すること」または「寺院の創始者」を言うので、この場合、「章菴文公和尚」大友宗麟が天徳寺を開いたことを指す。その「開山」の年号を「天正6年(1578)」としているのは、大友宗麟が洗礼を受けてキリシタン信者となった年号(宗麟の受洗日=西暦1578年8月28日)である。これによって「天徳寺」は、宗麟が津久見に立てたキリスト教会を指すと同時に、キリシタンとなった大友宗麟自身を表すものでもあったことが判明する(註3)

 ここまで津久見の天徳寺が辿った歴史を見てきたが、同史料にはその後、天徳寺が佐伯に再建されたことも記されている。「1636年(寛永13)第2世百界榮三禅師 谷川臨川菴 3月開山」である。再び「開山」とあるのは、津久見の天徳寺が破却されたのを受け、佐伯堅田下城に「再建」されたという意味である。時代は禁教令が敷かれた徳川政権下、かつてはキリシタン寺(キリスト教会)であった天徳寺は、ここから表向き臨済宗妙心寺派の仏教寺院としての歴史が綴られることになる。かくれのキリシタン寺である。その中で、「大友宗麟のお骨を津久見より移し、天徳寺に埋葬するとの伝」は、留意すべきことと思われる。それは、佐伯天徳寺が藩政時代を通じて大友宗麟の霊を祀る廟所として存在したことをある程度、裏付けてくれるものであるからだ。その「お骨」は、あの宗麟墓碑の地下に眠っているものと思われる。

天徳寺・大友宗麟墓碑の全景(2024年6月28日撮影)

 「天徳寺」とは述べたように本来、大友宗麟が津久見に建立したキリシタン寺の名称であった。佐伯の天徳寺は、以上検証してきた通り、津久見天徳寺の歴史を継承するものであり、それだからこそ境内に大友宗麟の墓碑が半ば隠された格好で祀られてきたのであった。天徳寺と大友宗麟墓碑―両者は切れない縁で結ばれている。そして、あの天正の時代から4世紀余りを過ぎた今日に至るまで、豊後国の一角に佇んでいる。(つづく)

天徳寺事歴と大友宗麟キリシタン史の対照表


【註1】…「1585年8月10日付、ルイス・フロイスの書簡」に、1584年12月、宣教師と二人のイルマンが津久見に出かけ、降誕祭を催したことが記されている。

【註2】渡辺澄夫著『キリシタン大名大友宗麟』(1978・大分合同新聞社発行)311頁

【註3】宗麟は晩年、「天徳寺左衛門入道」と名乗った。『大分県地方史第6号』(1996)増村隆也「大友宗麟の墳墓に関する研究―続報―」。


2024年6月22日土曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑②

 ■天徳寺・宗麟墓碑を解析する

 冒頭に掲げた天徳寺・宗麟墓碑の写真は2018年の暮れ、佐伯を訪問する前に友人が送ってくれたものである。写真で見るかぎり、中央の墓石は仏塔のようであり、キリシタン墓碑の様相がない。そこで、周囲を石組みして墓碑を載せている四角形そのものが「方形石組型キリシタン墓碑」(註1)ではないかと推定した。この形式の墓碑は、30㌢前後の石を長方形に敷き並べて造られるもので、大分県内では臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地(註2)に典型事例がある。その後現地を訪ね、直接確認したところ、一辺約120㌢(4尺)ほどの正方形であることが分かり、これは墓石を据えるための単なる台座であると判断した。

 問題はやはり中央に置かれた石塔らしきものにあるようだ。その解析にあたり、先に、上部に載せられた無縫塔について言うと、後方から見ると分かるが、倒れないように小石を挟んであり、不自然である。これは後世、仏塔に見せる必要から他の場所にあったものを載せたものであろう。下の墓石とは本来別物であった。

【後方から見た宗麟墓碑。墓石と上の無縫塔の間に数個の小石が挟まれている。】


 行き着くところ、中央に位置する立方体の形をした墓石にある。増村氏の報告書(1954年)によると、これには「アーク(大日如来)」、「キリーク(阿弥陀如来)」、「ウン(阿閦如来)」の梵字が三面に刻まれているとあるので、その観察と位置の確認からはじめ、上下の確認、そして墓石の3方向の寸法測定など実施した。すると、そこに仕組まれた暗号、情報が隠されていることが次第に分かってきた。

梵字を倒して造形している

 隠された情報は、大きくは二つある。一つは、仏像を意味する梵字が故意に倒されていること。他の一つは、縦・横・高さの寸法を微妙に変えて伏碑型墓碑にしていることである。

 先ず梵字から説明する。その前に、増村氏が調査した1954年当時と、筆者が確認した2018年現在では、上下の向きと方向が異なっていたので、それにも触れなければならない。図示すると、次のようである。



 増村氏は、梵字の上下の向きから判断して「墓石が右の方向に倒されている」と説明しているが、その際、底面を確認したところ、鑿の痕跡が残る荒削りの状態であったので、これは元から右倒しになるよう造られていた、と言っている。その底面は、向きが置き換えられた現在の墓石では後面になるので、後部に廻って観ると、やはり粗面であった。これは、増村氏の主張の通り、元から粗面を下にして梵字(仏像)が倒される格好で造形されたものであったと理解される。その意味するところは何か。もしこれを造った者が転びのかくれキリシタンであるとするなら、幕府の禁教令によって強制された「仏教檀徒」を再び「転ぶ」ということ、つまりはキリシタン信仰を保持している、ということであろう。

それは伏碑型キリシタン墓碑であった

 次に、もう一つの伏せられた情報―「かくれのキリシタン墓碑」であることを説明しよう。それは寸法の割り出しと比較によって明らかになる。同墓石の高さ・幅・長さ(奥行き)の測定値を順に並べると、36㌢(高さ)、39㌢(幅)、42㌢(長さ)となる。江戸時代の寸法(1寸=約3㌢)に換算すると、12寸、13寸、14寸となり、1寸ずつ長さを違えていることが分かる。これが意図的なものか、それとも偶然であるのか―、これを考察するに典型的なキリシタン墓碑を参考に比較してみたい。そして、高さ・幅・奥行きの3辺がこれと同じ位置になるように、宗麟墓碑の向きを変えて二つを並べてみると、下図のようになる。



 伏碑キリシタン墓碑の特徴は、最短辺を縦(高さ)にし、最長辺を奥行きにすることである。宗麟墓碑について見れば、36㌢の最短辺が縦、42㌢の最長辺が奥行きになり、さらに梵字の向きも、正面から見たとき正しく前後に向くことになる。これにより、天徳寺の宗麟墓碑は「伏碑」の原則を踏まえて制作された「キリシタン墓碑」であることが判明する。しかも、津久見の宗麟墓碑が破壊されたあと秘かに佐伯で造られたものであるから、明らかにそれと分かる伏碑にすることができない。その「かくれ」の工夫として、三辺の寸法を僅かに1寸(3㌢)ずつ故意に違え、拵えたのであった。
 この墓碑に隠された情報を以上、二点ほど指摘したが、他にもある。上面と左右の面に描かれた三種の梵字のうち、大日如来を意味する「アーク」が(天)上面に配置されていることである。キリシタンが信じる唯一神「ダイウス」を「大日」とした史実(註3)を重ねてみるとき、あるいは「天に在(おわ)しますデウスの神」を表現したかったのではないかと考えられる。これについては十分な根拠がないので、参考として上げておきたい。

アウグスチイノ会に関連する墓碑であった

 ところで、かつては九州6ヶ国を治めたあの大友宗麟の墓碑であると伝承しながら、小振りな造りであるのは何故であろうか。この点について考えられるのは、1602年から豊後国の臼杵をはじめ津久見、佐伯、および日向国の縣(あがた=延岡)地域一帯に布教したアウグスチイノ修道会との関連である(註4)。托鉢修道会の一派である彼らは、清貧を旨とする人々であり、墓碑の大小は問題としない。むしろ貧弱にも見えるこの小さな墓碑こそが彼らにとっては信仰の証しでもあったのだ(註5)。筆者はその後、現地の協力者の案内により、小さな伏碑型キリシタン墓碑が古市栗木(善教寺跡墓地)や旧弥生村提内、さらに番匠川上流の直川村など天徳寺周辺および山手地域一帯に数多く存在していた事実を知った(註6)。それら一連の小型で立方体状の形をしたかくれキリシタン墓碑は、天徳寺宗麟墓碑と趣きを同じくする印象があった。いずれもアウグスチイノ修道会に属する信者たちの遺物と考えられる。(つづく)


 註1…本ブログ「キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論」(2019年2月20日~3月1日)参照。「方形石組型キリシタン墓碑」の原型は、長崎県島原半島(旧有馬晴信領)を中心に慶長年間から大石を使って扁平もしくは半円筒形に造形されたキリシタン墓碑にある。禁教時代に入ってかくれ信者たちは小さな石を方形に敷き並べて伏碑型墓碑を造った。それが「方形石組み型キリシタン墓碑である。

 註2…2011年以降の発掘調査で長方形に石組みされたキリシタン墓碑が多数(66基ほど)発見された。2018年国指定史蹟になる。

 註3キリスト教の唯一絶対の創造神「Deus」(ラテン語、ポルトガル語)は、ザビエルが来日した時、同伴者ヤジロウの示唆により仏教語の「大日」(大日如来)を訳語に宛てた。しかし、原語と異なる意味に解釈されたため、すぐに原語主義が採用され「デウス」または「デイウス」と表記された。

 註4…レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1606年の項に、アウグスチイノ修道会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が5人の修道者を伴って佐伯に布教した記事がある。その時、エルナンド師は「城下にささやかな修道院を建てた」が、藩主毛利高政もこれを歓迎し、自ら「天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。」

 註5…立方体状の形を持つこれら小型のキリシタン墓碑は、臼杵でも多数確認され、「斗枡(トーマス)墓」と称されている。その分布はアウグスチイノ修道会の宣教地域と重なるので、同修道会信者に係わる遺物と思われる。

 註6…故・五十川千代見氏による佐伯地域かくれキリシタン墓碑の調査報告がある。『佐伯史談』14号、16号、17号掲載。

五十川氏の栗木善教寺跡墓地キリシタン墓碑のスケッチ(『佐伯史談14号』掲載)



2024年6月20日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑①

 ■はじめに―宗麟墓碑の変遷

 豊後国の国主・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の逝去とその葬儀、墓地等について、彼の聴罪司祭であったフランシスコ・ラグーナ師は詳しい報告書を書いた(註1)。それによると、彼の終焉の地は津久見。1587年6月28日(聖霊降誕後の第6主日)に昇天し(註2)、葬儀ミサが3日後の7月1日(水曜日)、宗麟邸近くの教会(=天徳寺)で営まれ、亡骸は邸宅の庭に拵えられた墓地に埋葬された。

 同墓碑は当初、キリスト教式のものであったが、同年7月24日、秀吉がバテレン追放令を公布したため、息子義統はこれを仏式に改めた。この仏式墓碑は約25年間、1613年まで存在した(註3)。そして1614年1月(慶長13年臘月)、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令により破壊された。津久見の『解脱闇寺年代記』に「慶長19年2月2日、宗麟の墓堂が焼失した」とあるのは、禁教令に伴う破却を裏付けるものである。

 その後約190年間、同地に宗麟墓碑はなかった。宗門改めと檀家制度により禁教弾圧政策が徹底されたことに加え、キリシタン本人とその類族については一定期間(5代)、厳しい監視下に置かれたためである。その縛りが解けた頃、すなわち寛政年間(1789-1801)に臼杵城豊なる宗麟家来の子孫が自費で墓碑を新調し、津久見の「天徳寺御林之内」に建立した(註4)。これが今日、津久見市大字津久見字ミウチに確認される再建された宗麟墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘―「(正面)瑞峰院殿前羽林次将/兼左金吾休菴宗麟大居士(右側)天正十五丁亥年五月廿三日/春秋五十有八歳(左側)九州二島幷伊豫管領/従四位下兼左近衛少将/大友左衛門督源義鎮」は、破壊される前のその写しと思われる。

もう一つの宗麟墓碑

 ところで津久見の宗麟邸故地から南に約15㌖ほど隔てた佐伯市堅田に天徳寺と称する臨済宗妙心寺派寺院があり、そこに大友宗麟の墓碑なるものが存在する(註5)。それはキリスト教が禁止された藩政時代を通して、明治以降も戦前まで隠されてきたもので、これを最初に紹介したのは津久見在住の増村隆也氏が1954年(昭和29)、大分県地方史研究会の機関誌『大分県地方史』(創刊号、1954年10月25日発行)に発表した稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」であったと思われる。

 筆者がこの稿に接したのは、佐伯市宇目にある「るいさ」銘キリシタン墓碑を調査した頃、2018年のことであった。イエズス会が幕府の禁教弾圧に対処するため、豊後国「なんぐん(南郡)」にコングレガチオ信心会を組織して宣教師を匿っていた事実。その女性指導者であった「るいさ」(殉教者加賀山隼人の妹=註6)と、宣教師たちに「イチノカミドノ」と呼ばれ信心会を保護していた佐伯城主・毛利高政とが緊密な関係にあったこと(註7)など、佐伯地方の特殊なキリシタン史を把握していた筆者にとって、高政の領地に禁教時代、大友宗麟の御霊が秘かに祭られていたという史実は、矛盾する話ではなかった。すなわち佐伯の「殿」毛利高政は当時、「かくれのキリシタン大名」とも言える存在であって、「豊後国なんぐん」に秘密の潜伏キリシタン信心会が組織された時、その「保護者」となったのであり(註8)、仮に宗麟のかくれ墓碑が豊後国内に存在するとすれば、彼の領内以外には有り得ないのである。
 増村氏は稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」および「大友宗麟と臼杵・津久見・佐伯」(『大分県地方史13-16号』1958年)で、天徳寺の伝・大友宗麟墓碑は津久見から信者が秘かに持ち込んだ宗麟の墓碑であった、と言っているが、その点は頷けない。何故なら、天徳寺の墓碑には寛政年間に再建された仏式墓碑にもあるような宗麟の墓碑銘が刻まれていないからである。大名の墓碑にしては造りが小さく、一見して、潜伏キリシタン墓碑の印象があった(詳細は後述する)。
 この謎を解明するため、筆者は以後数年にわたり佐伯に足を運び、併せて同地域に存在したかくれキリシタンたちの遺物を求め、訪ねた。案の定、この宗麟墓碑に似た小規模の伏せ碑型キリシタン墓碑が周辺に散在していることが判明した。今、一通りの見通しがついたので、その報告書を記してみたい。(つづく)

 註1…ラグーナ師の報告書の原文はローマ・イエズス会文書館に保存されていないが、ルイス・フロイスが『日本史』に転写している。フロイス『日本史』第27章(第二部95章)。

 註2…宗麟の死去日は大友家史料系図によると「天正15年5月23日」とある。西暦では1587年6月28日であり、一致する。

 註3…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1613年の項に、「彼ら(アウグスチイノ会)は切支丹の数が増加したため、豊後の大名ドン・フランシスコの墓の所在地であり、なかなかに繁華な津組(=津久見)の町に天主堂を建てることにした。」とある。アウグスチイノ修道会の宣教師は1613年時点で、津久見の大友宗麟墓碑を目撃していた。

 註4…文化3年(1806)津久見村組の「改明細帳」に「一、大友家之墓所壱ケ所、但天徳寺御林之内」とある。「天徳寺御林」は天徳寺所有の山林。

 註5…「天徳寺」は宗麟が晩年(1585年?)津久見邸の近くに建てたキリスト教会の名称であった。藩政時代を通じてキリスト教会の名称は「南蛮寺」「切支丹寺」などと呼ばれ、「寺」は「教会」を表す文字としても使用された。また、受洗してキリシタンとなった宗麟自身(の姓)を表すものでもあった。

 註6…本ブログ稿「キリシタン加賀山一族関系図」(2019年10月8日記)参照。イエズス会は「1615年度年報」で、豊後国(「なんぐん」)の「加賀山ディエゴ隼人の姉妹ルイザという名の身分の高い女性」の信心行動を、「コングレガチオ(信心の組)」の一事例として紹介している。

 註7…本ブログ稿「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ」(2018年6月5日~6月22日記)参照。

 註8…イエズス会が禁教時代に組織した信心会に関する指導書―パアデレ・ジェロニモ・ロドリゲスが作った掟「日本のきりしたんだあでに於ける我等が御上天のさんたまりやの御組」(1944年刊『キリシタン研究第二輯』所載)に、「此の組は…小組、大組および親組」から成り、小組の「親は力を協せて大組並びにその属する親組を導くものなり。然れど親は常に各々の親組が保護者、即ち殿、またはその権威および恩恵を以て此の聖き業を保護し奨励し得る高貴なる人を有するべく心がくべきなり。」とある。佐伯城主毛利高政は「親組」である豊後国「なんぐん」信心会の「保護者」として迎えられた「殿」であった。


2023年8月9日水曜日

薩摩に咲いた花十字―喜入氏家紋―

  九州の南端に位置する鹿児島県薩摩半島に「花十字」の家紋を有する墓地がある。鹿児島藩主島津氏の家紋「丸に十字」の四隅に花弁があしらわれたもので、それは島津家に絡み付いたキリシタン史を見るようで興味深い。場所は枕崎市桜山本町の旧長善寺跡の裏山にある喜入(きいれ)氏累代墓地。枕崎は藩政時代、「鹿籠(かご)」と称され、島津家につながる喜入氏の領地であった。

写真=左が古い時代(江戸初期)の花十字、右は近年のもの。いずれも喜入家墓地】

 ■喜入氏とキリシタン

 喜入氏がキリシタンと関係を持ったのは第7代忠政(1571-1645)の頃である。彼は幼少の頃、仏門に入り、のち還俗して武将となった経歴の持ち主で、文化人でもあった。藩主・島津義久、義弘、家久(忠恒)、光久の4代に仕え、家久の時代には家老職にあった。忠政の後妻となる妙身は「マルタ」の洗礼名を持つキリシタンであり、肥前国高来(たかき=島原半島)のキリシタン大名・有馬晴信の息・ミゲル直純と婚姻の秘蹟を受けたが、有馬家の政略的事情によって破棄され、長崎近辺に隠れ住んでいた。また、直純との間に生まれた幼子・於満津を連れていた。

 マルタ妙身の母・カタリイナ永俊は有馬家の家臣・皆吉家の出身で、有馬晴信の「養女」としてキリシタン大名・小西行長の側室となり、その後、薩州家島津氏一族の島津清忠に嫁した。マルタ妙身は小西行長との間に生まれた娘であった。肥後国にいた同夫妻が島津本家の要請で鹿児島に移ったのは慶長14年(1609)のことである。

 数年後、カタリイナ永俊は長崎に隠棲していた娘・妙身マルタを鹿児島に呼んだ。元和5年(1619)の頃、母カタリイナ永俊が娘・妙身マルタを喜入忠政に後妻として紹介し、二人は夫婦となった。

 一方、カタリイナ永俊と島津忠清との間に生まれた娘・桂安は、藩主島津家久の側室となり、鹿児島藩第2代藩主となる光久を生んだ。喜入忠政は、カタリイナ永俊を介して藩主家久と義兄弟の間柄となり、時に藩主の代理役を務めるなど活躍した。

 ■鹿児島城の花十字瓦とカタリイナ永俊

 カタリイナ永俊は夫忠清とともに、はじめ鶴丸(鹿児島)城に居住した。近年、鶴丸城跡から長崎の教会で使用されたものと同じ「花十字紋瓦」が出土して話題になったが、これはカタリイナ永俊が鹿児島鶴丸城に住んでいた時、長崎から取り寄せたものであった。長崎の教会に葺かれていた数種の花十字紋瓦(軒丸瓦)のうちの一つが、鹿児島城で出土したものと同一の鋳型で製造されたものであることから確認される。

写真=左が長崎のサント・ドミンゴ教会跡で出土した花十字紋瓦の一つ。右は鹿児島城跡出土のそれ。】

 カタリイナ永俊は夫忠清が亡くなった元和6年(1620)以降、「堅野(たての)の今郷田氏辺」に移り住み、鹿児島に潜入したキリシタン武将らを匿い、保護した。徳川幕府の禁教令施策が厳しくなる中、藩主・家久にとって彼女の存在は悩みの種であった。それでも、10年ほど忍耐したが、終に家久は寛永9年(1632)、カタリイナ永俊の種子島配流を決定した。追って、カタリイナの娘で喜入忠政の夫人となっていた妙身マルタ、および彼女の二人の娘(津留、於満津)も種子島に送られた。

 ■「かくれ」喜入忠政のこと

 ところで、藩主・家久の家老であった喜入忠政がマルタ妙身を後妻に迎えたのは、尋常なことではなかった。何故なら、彼女とその背景にあるキリシタン色があまりにも濃かったからである。彼女はアゴスチイノ小西行長の娘であって、そして、ジョアン有馬晴信の息子・直純ミゲルの元正妻であった。両者の結婚は述べたようにカタリイナ永俊から持ち出されたものであるが、彼女を受け入れたことは、喜入忠政が当時国禁とされたキリスト教を暗に是認したことを意味するものでもあった。彼は表向き、キリシタンではなかったとされる。しかしながら、キリシタン信者と多方面で深く係わっていた。カタリイナ永俊が種子島に配流されたその翌年(寛永12年)、幕府から「鹿籠家中のキリシタン20名を捕え、島送りにせよ」との厳命が薩摩藩に届いたことがあった(註1)。「鹿籠家中のキリシタン」とは、「喜入忠政の家臣」のことであるから、忠政は実際、キリシタンの家臣20余人を抱えていたのであった。

 死後、彼の墓は父・喜入季久の墓地からさらに奥まった場所に、あたかも隠されたように設置され、しかも土盛りしただけの円塚であった。これらのキリシタン的状況を歴史学として如何に説明するのか、ふさわしい言葉は見当たらないが、「かくれのキリシタン武将であった」という以外にないと思われる。ここに紹介する喜入氏墓地の花十字家紋も、それを裏付けるものである。

写真=7代目忠政以降の喜入氏累代墓地(枕崎市)】

註1…枕崎市教育委員会(元)文化課課長・末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

2023年4月6日木曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉―皆吉氏系図考㊦

島原の乱を前後して

  ところで1634年(寛永11)春、カタリイナ永俊が種子島に遠島処分となった後、娘のマルタ妙身と孫娘(満津と津留)も同じくキリシタン宗門の廉で配流が決定され、1年3ヶ月ほど喜入氏の領地である鹿籠(かご=現枕崎市)の田代家で待機した後、1636年(寛永13)、種子島に流された。

 その翌年(1637、寛永14)、高来(島原)と天草地方の転びキリシタン3万7千人が「もとの宗門に立ち帰る」島原の乱事件が起きた(註1)。その舞台となったのは、島原半島の南東部、有明海に突き出た小高い丘「原城」と称される所であったが、そこは、かつて皆吉氏が領有した「大江」の一部であった。

南有馬村大江名のうちにある原城(藩政時代初期絵図)

 日向国に転封した有馬直純と行動を共にしなかった有馬氏の家臣、および住民ら「転びキリシタン」の多くが「立上り」に参加した。皆吉氏も、直純に従臣した次男・大膳亮純政一統以外は地元に居残り、この事件に関与したと思われる。

永俊に仕えていた皆吉長右衛門家族 

 島原の乱が終結したのは1638年(寛永15)の春、陰暦の2月28日(西暦4月12日)である。その一ヶ月後、カタリイナ永俊らを預かっている種子島の領主・種子島左近大夫忠清の許に衝撃的な連絡が入った。島原の乱に「与(くみ)した」某の息子・皆吉長右衛門がカタリイナの身内の者として種子島にいるので、彼とその妻子5人を捕らえ、送り届けよ、との命令である。『種子島家譜(五)』は、寛永15年4月3日付けで次のように記している。

 「渋谷恕兵衛および足軽三人、鹿府より来たり。永俊内・皆吉長右衛門および妻子五人を捕え、帰る。…是、長右衛門の父、島原一揆に與(与=くみ)するを以て也。

 この史料は『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ4・種子島家譜』に掲載されているが、茂野幽考氏は著書『日南切支丹史』で、同じ内容ながら異なる文面の史料を上げている。

 「永俊内・皆吉長右衛門は天下の囚人と為る。是に依り、渋谷恕兵衛四月三日下島、足軽三人を従え来る。是、長右衛門・親が今度、島原籠城の処、虜と為り、白状して曰く、長右衛門永俊に仕ゆと。是に由り長右衛門妻子五人搦(から)め、鹿陽に帰る。此の時、山崎新右衛門・羽生伊左衛門、警固の為、之に従う。

 史料名が「種子島家正統系図」とあるので、「種子島家譜」とは別のものである。仮に前者を〔〕、後者を〔〕とする。
 〔〕の史料で皆吉長右衛門は「島原一揆に与(くみ)した」とあるので、筆者は当初、直接参加したのではなく、間接的に係わった、と解した。何故なら、直接籠城した人々は山田右衛門作以外、全員が殺されたからである。ところが〔〕の史料を見ると「島原籠城之処、虜(とりこ)となり、白状し…」とある。間接的な係わりではなく、直接籠城し、そして捕虜となった人物であった。はたして「息子・皆吉長右衛門が永俊に仕えている」と白状した「父親」とは誰であるのか。息子の名前からすると「皆吉」家の者と思われるが、どういう訳か二つの史料は「父」「親」と記すのみで、実名を挙げていない。この問題を解く前に、先にこれと関連する他の一つの史料――「長右衛門の弟」が薩摩藩に潜入していたことを示す史料を取り上げたい。

長右衛門の「弟」も薩摩藩に―
 日付けは「寛永15年卯月13日」とあるので、(皆吉)長右衛門発覚事件から10日後のことである。

 「一筆申し入れ候。然者、最前申し入れ候皆吉長右衛門弟芦塚権右衛門と申すもの、歳比廿四五に成り申すものゝよし、薩摩殿御舎弟北郷式部殿に居り申す由、嶋原より只今到来候。穿鑿(せんさく)致され、御とらへ、小倉迄御越し有るべく候。…
 寛永十五年卯月十三日、     戸田左門氏鉄/松平伊豆守信綱
 山田民部殿/北郷佐渡殿(註2) 

 差出人は島原の乱で幕府軍総大将を務めた松平伊豆守信綱である。「小倉迄御越し有るべく候」というのは、乱後の「(陰暦)4月4日」、小倉に幕府軍参加の各藩代表を集め、処罰の上意を伝える会議があったので、松平信綱はそこで待機していたのであった(註3)
 従来、この文書は五味克夫氏(鹿児島県史料編纂委員・鹿児島大学教授)の論考「矢野主膳と永俊尼」(『鹿大史学第17号』掲載)により紹介されていたが、筆者が『鹿児島県史料旧記雑録後編五』で確認したところ、五味氏は「弟」を「方」と読み替えていて、正確ではないと分かった。「皆吉長右衛門」と「芦塚権右衛門」が兄と「弟」であるというのは理解し難いが、史料の記述通り、事実であると見なければならない(註4)。つまりは、カタリイナに仕えていた皆吉長右衛門と、北郷式部のもとにいた芦塚権右衛門は実の兄弟であり、島津藩に潜んでいたのであった。
 
 ■長右衛門・権右衛門兄弟の「父」は山田右衛門作か
 先に述べたように、籠城して生き残り、幕府軍の捕虜となって島原の乱の詳細を白状した人物は、公式的には山田右衛門作のみである(註5)。そうであるのに、ここにもう一人、生き残りの捕虜が存在したかのごとく島津藩文書は証言している。しかも、その文書の発信者は、小倉に山田右衛門作とともにいる幕府軍総奉行・松平伊豆守信綱であるから、事実を誰よりも承知していたはずである。信綱の念頭にある「籠城者の捕虜で、白状した」人物は山田右衛門作以外にあり得ないのだ。矛盾するかに見えるこの事の真相を読み解くには、両者を同一人物としなければならないであろう。すなわち「皆吉長右衛門の父」とは山田右衛門作その人であったということである。この仮説のもとで検証してみると、不思議にもいくつかの点で合点されることがある。以下に述べる。

 ◇その①、名前の「右衛門」が共通する。…父は山田右衛門作(佐)、息子の兄は皆吉長右衛門、「弟」が芦塚権右衛門である。
 ◇その②、皆吉家と山田家とのつながりは、皆吉本家(大膳亮純政家系)に於いて存在した。…山田氏の有馬氏家臣としての出自は、有馬氏の分家になる古賀城主・山田氏である(註6)。この家系の直純時代の家臣は有馬長兵衛純親であるが、その息子・大膳純忠は皆吉本家を相続した大膳亮純政の家に養子となっている(本稿註1参照)。つまり皆吉氏と山田氏は一族的な関係にあったので、皆吉家の長男権左衛門の家系にも山田氏が係わっていたことは、あり得ることである。山田右衛門作は島原の乱当時、口之津村の庄屋であったとされるが、有馬氏の家臣であったのは間違いない。
 ◇その③、父の実名を伏せるに理由があった。…島原の乱にかんするすべての情報を受けていた幕府軍総奉行・松平信綱は、長右衛門・権左衛門兄弟の「父親」が誰であるか承知していたはずである。ところが、島津藩に宛てた文面で、それを敢えて伏せた様子が見られるのは、それなりの理由があったからではないか。山田右衛門作に対する幕府のその後の待遇は、「松平伊豆守に召され、江戸へ参り候」(註7)であった。幕府はこの人物が、その後の幕政上―とくにキリシタン政策上、必要であると見ていたのだ。しかし、ここで実名を明かしたなら、息子たちが処罰されたその父親を幕府が抱えることになるから、控えなければならい、―そのような配慮があって敢えて名を伏せた、と見ることができよう。

山田家から皆吉家、芦塚家に養子
 意外な展開となったが、皆吉氏の系譜を探る上では、新たな事実が確認されたことになる。カタリイナ永俊に仕えていた皆吉長右衛門は、皆吉家の人物ではなく、実は山田家からの養子であったということだ。藩主光久の舎弟北郷式部殿のところに潜入していた「弟・権右衛門」もまた、皆吉家出自ではなく、山田家から芦塚家に養子となり、「芦塚権右衛門」を称していたのであった。有馬晴信や小西行長のもと、かつてキリシタンの名族として活躍した皆吉氏、山田氏、芦塚氏などがこのように連携して、あの困難な弾圧時代を生き抜こうとした日本キリシタン史の、複雑な一端が窺える事例であろう。

 なお、皆吉長右衛門家族がカタリイナ永俊に仕えたのは、永俊の意向に依るものと思われる。その期間は、わずかに4年間ほどであった(註8)。1634年に種子島大長野に配流された永俊と、その2年後の1636年に配流された娘マルタ妙身および孫娘二人は、皆吉長右衛門家族逮捕事件から一年後の1639年(寛永16)6月、ともに赤尾木石之峯に拠り、その後「井ノ上」に移った。その際、処分された皆吉長右衛門家族に代わり、新たに「仕える人数」として「女七人、男三人、合わせて拾人を召し置かれた」という(註9)

 以上の考察のもと、皆吉氏の系図をまとめると、以下のようになる。(おわり)
皆吉氏系図(宮本作成)

註1…島原の乱は、従来の見解では農民一揆とされるが、本質は「転びキリシタンの立上り」事件である。薩摩藩のキリシタン事情に通じた家老・喜入忠政、島津弾正大弼久慶らは「今度、有馬へきりしたん宗誇(=起こり)候儀、…それより前ころびたる者共も皆々もとのやうに宗を直したる由に候」(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』692頁、№1115史料)と、ほぼ正確に事の真意を捉えている。

註2…『鹿児島県史料旧記雑録後編五』799頁、№1296史料。

註3…島原の乱後、寛永15年(1638)4月4日、幕府の特使・太田備中守が小倉に下り、乱に関与した各藩の代表らに対し同事件に関する処罰の上意が伝えられた。

註4…芦塚忠右衛門は元、小西行長の家臣で、その子(同じく忠右衛門)とともに1615年、大坂陣で真田信繁の隊に加わった。真田信繁はのち、薩摩に逃れ、「芦塚」姓を名乗った(伝説)。芦塚忠右衛門は1637年、島原の乱でキリシタン軍の天草四郎のもと、軍奉行(参謀)を務めたとされる。舎弟に忠大夫、嫡子に左内がいた。

註5…捕えられた山田右衛門作が島原の乱の経緯について詳細を述べた記録が「山田右衛門作口上書」として知られている。

註6…山田氏は有馬経純の末男・嶋原純尚越前守につながる家系である。山田主計頭(有馬貴純・純鑑時代の老職)―山田兵部少輔(有馬晴純時代の古賀城主)―…有馬長兵衛純親(直純時代の公族大夫)と続いた(『国乗遺聞巻三』)。

註7…『別当杢左衛門覚書』(『島原半島史・中巻』91頁)。

註8…江戸詰家老・伊勢兵部貞昌が在国家老に宛てた「寛永10年9月19日」付け書状に、「(北郷)式部殿御側に、わかき男罷居候て、御ぐしなと結申候、いつかたより参たる人にて候哉、たて野の御引付にて御座候…」とある。ここにある「わかき男」は、すなわち(皆吉)長右衛門の弟・(芦塚)権右衛門である。彼は「たて野(カタリイナ永俊)の御引き付け」により、北郷式部殿の御側に仕えていたのであった。なお、捕縛された長右衛門と権右衛門二人の処罰が如何に行われたかは不明である。このうち長右衛門について茂野幽考氏は著書『薩藩史料集成』で、「鹿児島から長崎に送られ、処刑された」(205頁)と記しているが、根拠が示されていない。

註9…『枕崎市史』掲載「喜入氏系図」中、忠政の女子・津留の項に「寛永13年丙子4月母及ビ姉(満津)ニ随ッテ種子島ニ放タレ6月26日石之峯ニ拠ル、後井ノ上ニ移ル」。『鹿児島県史料旧記雑録家わけ4・種子島家譜』84頁に、「寛永16年6月28日、喜入摂津守忠政室(永俊娘)及女子二人(姉は島津中務久茂室・忠政非実子、妹者忠政之実子也)坐永俊之事被放、中江主水入道護送来、皆與永俊共居(自大長野移居赤尾木石之峯時也)…」。同史料85頁掲載「寛永16年6月22日付川上久国外三名種子島左近大夫宛連署状」に、「一書申候、然者立野・摂州内儀・基太村越中守殿内儀・摂州息女四人、相中ニ可被召仕人数女七人男三人、合拾人被召置…」とある。


2023年4月1日土曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉ー皆吉氏系図考㊤

 カタリイナ永俊の出自である皆吉氏は小西行長の臣ではなく、有馬氏の家臣であった。筆者は稿「カタリイナ永俊」で史料『藤原有馬世譜』をもとにこれを明らかにし、概略の系図(下図)を紹介した。

 すなわち、皆吉氏の祖・又次郎重能は鎌倉時代、高来郡東郷御墓野村および佐賀郡西泉の地頭職にあり、「御墓野」姓を称していた。出羽守長能の頃、佐賀城城主となり、同地に進出した有馬氏第10代晴純に帰属した。その子・久右衛門續能(つぐよし)の時代、主君有馬氏から高来(たかき=島原半島)の内「大江」を宛行(あてが)われ、その頃、姓を「皆吉」に改めたらしい。同史料には、佐賀から大江に移った理由は記されていないが、台頭した龍造寺氏に城を「抜かれた」ためである(『国乗遺聞』後述)。續能の子が権左衛門、そしてカタリイナ永俊であった。権左衛門は、一時期「東」氏を称し、後「有馬」氏を賜ったという。

 ところで、キリシタンとして活躍した永俊が寛永11年(1634)、種子島に配流されたとき、「皆吉長右衛門」なる人物が家族とともにカタリイナに仕えた、という記録が島津藩の記録(後述)にある。それは、皆吉一族が依然としてキリシタン宗と係わりながら生き延びたことを証言するものであるが、上記皆吉氏系図上での「長右衛門」の位置は不明である。本稿では、散見される皆吉氏関連史料を拾い集め、皆吉氏系図――とくに、禁教令を前後してキリシタン宗と密に係わった同一族の系譜――の解明を試みたい。

『国乗遺聞』が伝える皆吉氏

 皆吉氏または東氏についての記事は、有馬氏の他の一つの史書である『国乗遺聞』にもいくつか見られる。たとえば第10代有馬晴純公時代の「国老」の一人「佐賀城主御墓野出羽守長能」について、次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能。此の御代、初て(有馬晴純)麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ。…其の子・有馬大膳亮純政、士将に大夫を兼ね、子孫代々此の職を領す。」

 この中に、皆吉續能の子で「有馬大膳亮純政」とあるのは、『藤原有馬世譜』が「(續能の子)権左衛門」としているのと異なっている。これを解釈するに参考となるのが、次の記事である。

 「東左馬大夫・民部少輔。…実は皆吉久右衛門の二男。東家の養子となり、後、実家を相続して有馬大膳亮と称す。…

 これは、キリシタン大名として知られる有馬氏第13代晴信公時代の国老「東左馬大夫・民部少輔」についての記述であるが、この中に出てくる「有馬大膳亮」が前項に登場した皆吉續能子「有馬大膳亮純政」である。彼は「実は皆吉久右衛門の二男」であって、一旦「東家の養子」となったが、後(ある事情により)「実家」すなわち「皆吉」本家を相続した。その際、「有馬大膳亮と称した」というのである。

 これによって『藤原有馬世譜』にあった、續能の子「権左衛門」皆吉氏が「東姓を冒し、後、有馬姓を賜った」という記述の事情が判明するであろう。と同時に、「権左衛門」と「大膳亮純政」の二人が、いづれも皆吉久右衛門續能の息子であり、兄弟であったことも判明する。問題となるのは、皆吉本家を相続したはずの長男・権左衛門が有馬晴信時代に「二男・大膳亮純政」に取って代わられた家督相続の謎である。

 この謎は、キリシタン宗門を巡る徳川幕府と有馬氏との対立、そして、有馬氏が辿った幕府恭順の道、それを機として家臣団が二分した有馬家の事情を検証することで、解けてくるであろう。

 ■有馬藩のキリシタン事情ー奨励から禁圧へ

 有馬氏は、第13代晴信(1661―1612)が1580年(天正10)に受洗してキリシタンとなったあと、30年余りにわってイエズス会と連携し、領国の支配体制を確立した。その途次、新たに来日した托鉢修道会との確執をめぐるイエズス会の陰謀に巻き込まれ、有馬晴信は1612年5月、甲斐国で生涯を閉じた。危うく改易になるところ、晴信の嗣子直純が幕府に恭順することで領国は維持されたものの、それは同時にキリスト教を遺棄することであり、正妻のマルタ(妙身)を離縁し、代わりに家康の孫娘国姫を妻として迎え入れた。直純は幕府の意向であるキリスト教迫害に着手したが、徹底することができず、幕府に転封を願い出た。こうして有馬氏は1614年7月、日向国縣(あがた=現延岡市)に移った。

 この直純の幕府恭順を巡って、そのほとんどがキリシタンであった家臣団の選択は二分した。棄教して直純に従う者と、信仰を維持して地元に留まる者とにである。

 ■皆吉権左衛門、有馬氏を離れる

 有馬家の史書は後世、再編纂されたものであるから、家臣団はこの時点で直純に従った者を中心として記録され、キリシタンとして有馬家を離れた者は、徳川時代のキリシタン禁圧政策とも絡んで故意に隠され、もしくは切り捨てられた。―これが、皆吉家の長男・権左衛門の家系が姿を消し、次男の大膳亮純政が本家を継いで記録に遺された理由である。次男であるから当初、本家を出て「東」家に養子となったとあり、その「後、実家(皆吉家)相続して有馬大膳亮と称」した、というのは、長男・権左衛門が有馬氏の家臣「国老」の立場を離れたためであった。

 なお、有馬氏家臣としての皆吉家を相続した二男・大膳亮純政の系譜は、その後、大膳純景、そして大膳純忠(養子、実は古賀城主・山田兵部少輔の家系になる有馬長兵衛純親の息子)と続いた(註1)。(つづく)

皆吉氏系図(宮本作図)


 ※註1…『国乗遺聞』巻三の記載で、「直純公・六公子」の一人に「女子・与志子(母皆吉氏)」とあり、彼女は有馬氏の臣(山田家)有馬長兵衛純親に下嫁して、吉兵衛純右、大膳純忠(有馬/皆吉大膳純景養子)および三女子を生み、その一女子が「有馬大膳純景に嫁す」とある。ここに「大膳純忠」と「大膳純景」の二人が登場するが、両者の関係は「純景の養子」が「純忠」であるので、「純景―純忠(養子)」と並べることができる。同じ官途名「大膳」を冠していることから、皆吉家の本家を相続した次男「大膳亮純政」の家系につながるものと考えられる。また、これら三者が同じ「純」の共通字を持っているのは、主君・有馬直純に仕える家臣であり、その偏諱を受けたものであろう。

 養子・大膳純忠が古賀城主・山田氏の家系になる者であることは、彼の母が「与志子」であり、その夫が「有馬長兵衛生純親」であること。そして同じく『国乗遺聞・巻三』の記事に「有馬長兵衛純親」は「古賀城主・山田兵部少輔(の)…三代孫・有馬長兵衛純親」とある。つまり、(古賀城主)山田兵部少輔―…有馬長兵衛純親―大膳純忠、とつながる山田氏系譜の人物であった。なお、山田氏は有馬家から分家した有馬一族である。