2018年10月27日土曜日

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

                                                       宮本次人

 ◆はじめに、―変遷したキリシタン墓碑―
 日本の「キリシタン時代」を彩る文化諸相の一つにキリシタン墓碑がある。それは当初、立碑塔形の日本様式墓碑が転用され、天正年間になると十字や洗礼名が彫刻された墓碑が京都・大坂に出現した。さらに十七世紀初頭、伏碑形式のポルトガル様式キリシタン墓碑が島原半島を中心として建立されたが、「キリシタン時代」としては、すでに終末期の出来事であった。
 イエズス会は「基本的に日本の文物に対する適応を重視した布教政策をとった」(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』45頁)。立碑塔形墓碑をそのままキリシタン墓碑に使用したのはその一環と見られるが、途中、方針を変更してポルトガル様式の墓碑を採用したのは何故であろうか。
 伏碑型キリシタン墓碑について故片岡弥吉氏は、その形式がポルトガル国由来のものであることを明らかにしている(註)。それならば、イエズス会の布教保護国ポルトガルを示威する意味、すなわちスペイン国を布教保護国とする托鉢修道会との確執が背景にあったとも考えられるが、真相は誰も明らかにしていない。
   ・片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」(『キリシタン研究』第十六輯)、片岡弥吉「キリシタン墓碑」(小学館一九七九年・『探訪大航海時代の日本7南蛮文化』)。

 ◆「死者のためのミサ」に限り喜捨受納を容認した謎
 高瀬弘一郎氏の著書『キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで』(岩波書店・2013年発行)は、イエズス会を取り巻く往時の世界史事情と同会の日本布教をめぐる経済活動、特殊事情等を明らかにしていて、有馬晴信の領国島原半島にポルトガル様式キリシタン墓碑が出現した事由を考察する上で、示唆に富んでいる。
 たとえば「死者のためのミサ」についての言及がある。
 「死者のためのミサ」とは、日本流に言う「葬礼(葬儀)」にあたる。仏教ではこれに対し「布施」というかたちで信者から僧侶に対して喜捨が上納されるが、清貧理念を基礎におくキリスト教では司牧活動や礼拝、洗礼、告解等の秘蹟などと同様、司祭職が執り行う聖務の一つであり、元来「無償」で行われるものであった。ところがヴァリニャーノの死後(1606年死去)、日本布教の方針―イエズス会会則が改変され、本来無償でなされるべき聖務のうち「死者のためのミサ」に限り喜捨の受納を特別に容認した、というのだ(前掲書117頁)。
 キリスト教宣教師が仏教の欺瞞性を言う場合、その理由の一つに掲げるのが仏僧たちの物欲―葬儀に対する布施を「回向」になると説いて正当に受け取ること―であった。加えてキリスト教は、東洋人が伝統的に有する先祖崇拝に対して「無知蒙昧」として一蹴してきた経緯がある。そうであるにもかかわらず、日本宣教半世紀を過ぎた十七世紀に至って「死者のためのミサ」(葬儀)に限り、仏教と同様に喜捨の受納を容認したのは何故であろうか。
 この点に関して高瀬氏は「単に(日本人の)習慣に順応するだけの意味で、このような重大な、(イエズス会)会憲に抵触しかねない変更を決したとは、ほとんど考えられない。布施の意味を承知の上で、たとい仏教と融合されたものであっても、日本人の祖先崇拝を無下に否定するだけでなく、その念いのこもった異教的な行為を、ある一局面のみであるが容認して取り組み、日本人の心情に応えようとしたのではないであろうか」と解釈している(前掲書121頁)。

 ◆イエズス会の経済問題が絡む?
 加えて同書は、日本布教が布教保護国の「ポルトガル圏に属しながら、現実にポルトガルの植民地にならなかった」(前掲書78頁)特殊事情と、それに起因する不自然かつ厳しい経済事情があったことを明らかにしている。
 前後二つの指摘は、「死者のためのミサ」に限り会則を改変して喜捨受納を認めたことが伏碑型キリシタン墓碑の出現を勧誘し、その背景にイエズス会の経済問題が絡んでいたことを推察させるものだが、高瀬氏は伏碑型キリシタン墓碑出現との関連については一言も言及していない。そして、「死者のためのミサ」に伴う喜捨は、イエズス会の「財源としては取るに足らない」(同書117頁)として、これが経済問題対策の一環であったとは解釈していない。
 筆者がこの件にかんし疑問を抱くのは、次に述べるように、高瀬氏がコレジオ(学院)の問題を資産保有と関連づけて紹介しているからである。すなわち有馬に設置されたコレジオが常識を逸していたものであるとの高瀬氏の指摘は、その不自然さからして、「死者のためのミサ」によって上がる喜捨資産の保有、つまりは経済問題に絡むものであると推察したい。

 ◆謎の「有馬コレジオ」
 高瀬氏の著書『キリシタンの世紀―』によると、イエズス会員が所有する機関には、司祭が居住する「カーザ・教会」と、それ以外の者が使用する「コレジオ・修練院」がある。前者は喜捨を経済基盤とし、後者はレンタ(教会領などの土地から定期的に得られる所得)を所有してそれを財源とすることが決められていた。つまり「司祭は、個人はもとより会としても、資産を所有してそれに依存して暮らすことは、一切禁ぜられた」(前掲書71頁)。ところが、実際には日本布教の特殊事情、厳しい経済事情により、「カーザやレジデンシア(小規模カーザ)がレンタを経済基盤とするという、会憲違反が行なわれ」ていた。その両者の矛盾を埋め合わせる工夫として、「長崎のみに存在したはず」のコレジオを「長崎・有馬・京都の下京と、三つもあるように」し、「レンタを財源に暮らすことが許された」コレジオの生徒を「ほとんどすべてのカーザやレジデンシアに居住したような形にし」て報告された、というのだ(前掲書73頁)。
 この中で高瀬氏は、コレジオが「長崎のみに存在したはず」だと言っているが、1600年以降、有馬にもコレジオ(学院)が設置された史実がある。
 有馬にコレジオが設置された経緯は、「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集・新版第一冊・第一部第二巻第八~四十五章」の「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」に記されている(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集/第一期第三巻』所収、184―189頁)。それはドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が二度目の結婚でジュスタ夫人を迎えるため日野江城下の市の中の「海の近く或る大きな広場の端」に新築した邸宅を、「イエズス会に対して抱いている深い愛情から」同会に寄進したもので、イエズス会はこれを「学院(コレジオ)」として使用した。
 この件について一般には、晴信の新築邸宅が「セミナリヨ(神学校)」になったと勘違いされているようだが、同史料には「邸宅はむしろイエズス会の学院(コレジオ)のために意図して作られたかのように我らの様式に非常にかなっていた」。「邸宅が譲渡され、すでに(イエズス)会の学院になっている。」、と明記されている(註)。
   ・前掲史料「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」によると、セミナリヨ(神学校)はこのあと教会とともに大広場の邸宅(コレジオ)に隣接または向かい側に新築され、「邸宅」寄進より遅れてイエズス会に奉献された。

 高瀬氏が、「コレジオは長崎のみに存在したはず」と主張するのは、何か理由があるのだろうか。当時、「国内のコレジオには教師や必用な書籍等の備えもなく」、そのため一五九四年マカオに設置されたコレジオが日本人司祭養成の役割を担っていた。日本国内に複数のコレジオが存在することなどあり得なかったのかもしれない。
 加えて高瀬氏は、「コレジオは実は、教会の経済問題の延長線上にある」と主張する(前掲書『キリシタンの世紀』250頁)。なぜなら「コレジオはそこに学ぶ修学生のために、喜捨によらないで資産を所有してもよいと規定」され、ゆえに「資産を保有するには、コレジオがないと困る」(前掲書248頁)からである。
 コレジオの設置はイエズス会が資産を保有するための工夫であった―との高瀬氏の説明は、有馬キリシタン時代の知られざる一面を暴くことになる。たとえば、前掲史料に登場する晴信寄進の邸宅すなわち「有馬のコレジオ」に、「邸宅にあるすべての庭園と菜園」のほか「併設されている家臣の家屋」などが含まれていたこと―その意味するところである。「庭園」と「菜園」、「家臣の家屋」などは、日本の神社・仏閣の「寺領」「社領」にあたる「教会領」、すなわちレンタ収入のある不動産ではないだろうか。「菜園」とは米・野菜を栽培し収穫する「田畑」である。イエズス会としても半ば会憲に抵触することであれば触れたくないであろうから、その場所や面積等についての詳細は判らない(註)。
   ・あるいは、これらの教会領が伏碑型キリシタン墓碑の分布と関連していたとも考えられる。

 本来「長崎にのみ存在したはず」のコレジオが、実際には有馬に存在した理由は、宗教史・文化史中心の従来のようなキリシタン研究の手法では解答を得にくい。
 十七世紀はじめ、有馬晴信の領内・島原半島にポルトガル様式の伏碑型キリシタン墓碑が出現した問題の解明もまた同様であろう。それはイエズス会が「死者のためのミサ」にかぎり喜捨を許容したこと、そして、有馬に資産所有が認められる「コレジオ」が設置されたことと複雑に関連したことであり、背景に経済問題が絡んでいたと見ていいようだ。


 ◆立碑墓碑に代え伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑を採用した理由
 見てきたように、伏碑型キリシタン墓碑の出現には、イエズス会の日本布教にかかる経済問題が絡んでいたと推察される。しかし、単にそれだけの理由であるなら、喜捨(布施)のみ受け入れ、日本の伝統的な塔形墓碑を代用する従来の方針を変更しなくてもよさそうである。あえて西欧ポルトガル様式のそれを導入した理由がほかにあったのだろうか、考察してみたい。

 =その①
 考えられる理由の一つに、彼我の分別が上げられる。すなわち従来の立碑(りっぴ)塔形墓碑を転用した場合、仏教徒として死んだ先祖をあわせ崇拝することになるため、キリシタン信者のそれと区別する必用があったことである。キリスト教は、「神を信じないまま死亡した近親者や先祖の霊の行方を案じて悲しむ日本人に対し、教義上いかんとも為し得ない」ものであった。会則を改変してまで喜捨の受納を認めた「死者のためのミサ」の「死者」とは、キリシタン信者のことである。その葬儀によって上納された喜捨が、伏碑型キリシタン墓碑の建立に関連したとすれば、それとこれとを視覚的にも判別できるよう工夫しなければならなかったであろう。

 =その②
 故片岡弥吉氏が1974年、伏碑型キリシタン墓碑のルーツを追跡調査して―スペインではなく―ポルトガルにあるとしたこと(註)は留意すべきであろう。そこから見えてくるのは、托鉢修道会またはプロテスタント(新教)との確執に起因するポルトガルの潜在的領有地としての縄張りを主張する意図である。
   ・片岡弥吉氏は昭和49年(1974)11月、「キリシタン文化講演会」で『キリシタン墓碑の源流とその思想・形式分類試案』と題して研究報告し、「キリシタン墓碑の源流はポルトガルからローマにさかのぼることを明らかにした。」(『キリシタン研究第十六輯』116頁、片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」)

 高瀬氏によると、日本教会は1576年1月のグレゴリウス十三世の大勅書によりマカオ司教区に包含され、ポルトガル国王の潜在的領有地になった。続いて1588年、日本司教区が府内に設置されたことにより、これ以降日本イエズス会はマカオ司教区から独立することとなった。これに対しスペイン国を布教保護国とするフランシスコ会、ドミニコ会、オルガンチーノ会が1590年代以降、日本に進出し、教派(門派)抗争を展開した。それは宗派の対立が第一義ではなく、実は布教保護権をもつスペイン国とポルトガル国との「政治的背景あっての勢力争い」(前掲書20頁)であった。
 また1600年以降、プロテスタント国(オランダ、イギリス)が日本に進出したため、イエズス会は複雑かつ危機的な政治勢力構図の中におかれていた。窮地に立つポルトガル国が、その布教保護権を示威する必用に駆られたことは考えられる。

 =その③
 もう一つ、伏碑型ポルトガル様式のキリシタン墓碑の建立者が、おもに名家、資産家ら上層階級の人々に限られた事実がある(註)。そこから見えてくる理由は、「特別な位置にあった人々」と、それに伴う相応の額の喜捨に対するイエズス会の配慮である。
   ・上智大学の川村信三氏は、「私はそれが、指導的な立場にあったか、あるいは宣教師のものであったと推定している。一般のキリシタンたちにとって、墓石を特別につくるほどの余裕はなかったと考えるからである。現在、各地で発見されているキリシタン墓碑のほとんどが、そうした特別な位置にあった人々のものではないかと推測している。」と述べている(南島原市教育委員会・企画、大石一久・編集、『日本キリシタン墓碑総覧』、川村信三「キリシタンの葬送典礼」418頁)

 一例として、ローマ字彫刻のキリシタン墓石として知られる南島原市西有家町砂原墓地のそれ(国指定史蹟)を取り上げてみよう。
 日本26聖人記念館館長デ・ルカ・レンゾ氏によると、これは「作右衛門とディオゴの名前が付いた、キリシタンとして貢献していた身分の高い人で、…史料に現れる限り、上の条件を満たすのは、小西行長の家老、八代の城主であった小西美作ディエゴ、木戸作右衛門(末郷)であった可能性が高い」という(前掲書『日本キリシタン墓碑総覧』422頁、デ・ルカ・レンゾ「キリシタンの共同体の意識を表す墓碑」)。
 小西一族は、行長アゴスチイノが1600年、関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れると家臣らは領国(肥後南部)を追われて四散し、「ディエゴ作右衛門」(小西美作行重)と一族家臣ら1500人は60隻の船で薩摩国に逃れた。「ディゴ作右衛門」小西美作が1602年に亡くなったあと息子のヤコベ小西忠次郎が薩摩の領主から俸禄米六千俵の江口領の相続を認められたが、領主島津氏のキリシタン迫害に伴い1609年、長崎に移った。ヤコベ忠次郎は堺のキリシタン商人ディオゴ日比屋了珪の息ビセンテ兵衛門の娘アガタを娶っていた。ほかに隣国有馬晴信の領内に移住したキリシタンも多くあり、重臣の一人ジョルジ結城弥平次は有馬晴信に抱えられた。
 ディエゴ作右衛門(小西美作)の夫人は、小西行長の娘イサベルである。1602年に死去したディオゴ作右衛門(小西美作)の「死者のためのミサ」が―おそらくはその後のイエズス会の方針変更に伴って―有馬のコレジオもしくは有馬の教会で営まれ、小西家はもとより日比屋家を含む親族、家臣らからのミサ法要にかかる多額の布施(註)がイエズス会に上げられたことであろう。
   ・前述したように高瀬氏は、これにかかる喜捨は「財源としてはほとんど取るに足らない」(『キリシタンの世紀』117頁)としている。筆者は、その額は決して小さくはなかった、としたい。

 その額が無視できないほどのものであったがゆえ、イエズス会としては逆に、それに見合うもの―布教保護国由来の墓碑―を用意せざるを得なかったのかもしれない。上層階級の「特別な位置にあった人々」から相応の喜捨が寄せられるものであればこそ、それ以外の一般信徒のそれと区別する必用があったとも言えよう。
 キリシタン宗は、川村信三氏が前掲論文で述べているように、「慈悲の所作」として「身寄りのない人々へ、本来ならば、誰にも看取られず、ただ穴を掘って埋められた遺体に、全身全霊で奉仕した」。ゆえに、「特別な位置にあった人々」と貧困者、一般者とを差別するというのではない。多額の喜捨を寄せたものへの配慮として、従来の日本の習慣文化と異なる墓碑―布教保護国ポルトガルの様式によるキリシタン墓碑を導入した、との解釈である。
 日本で1605年に出版された『サカラメンタ提要』の「死者の典礼」の部の目次が、川村信三氏の論文「キリシタンの葬送典礼」(『日本キリシタン墓碑総覧』所載)に掲載されている。それによると「葬儀」として「一般信者の荘厳な葬儀―」と「一般信者の通常の葬儀」、「洗礼を受けた子供の葬儀」の三項目があり、区別して執り行われたことがわかる。ここで言う「一般信者」とは、宣教師たちイエズス会会員と区別してのものであり、この中に日本社会の「特別な位置にあった人々」から「身寄りのない人々」までが含まれていた。その葬儀が「荘厳な儀式」と「通常の儀式」と区別して営まれたというのは、上述した日本社会の「特別な位置にあった人々」すなわち資産があり相応の喜捨を上げられる人々の葬儀が「特別な儀式」で、それ以外の人々の葬儀が「通常の葬儀」として、区別しておこなわれたと解釈していいようだ。
 葬儀が「特別」と「一般」とに区別される以上、それに伴う喜捨の多寡や墓碑建立の有無がある。また、上層階級の「特別な位置にあった人々」に限りキリシタン墓碑が建立されたとしても、身分の上下、喜捨の多寡にともなう墓石の大小・形態、花十字等装飾の区分けなどが存在したことは、考えられるであろう。
 

 ◆まとめ、―付随する問題二、三
 伏碑のポルトガル様式キリシタン墓碑が何故十七世紀初頭に出現したのか、その理由を高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』を手がかりに探ってみた。背景に、主として財政問題があり、ほかにも托鉢修道会への対応、日本人の先祖崇拝問題への対処等々、危機に立たされた当時のイエズス会側の諸事情が原因として存在していたことが明らかになった。

 ・有馬に発生→全国に波及?
 今回取り上げた伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑出現の解析は、同時に同型墓碑の発生および波及の問題についても解明の糸口を与えることになるであろう。
 一般的には、関西京都や大分県、熊本県、長崎市、大村市等に少数点在するそれを含めて、それらは全国同時発生であったと暗黙的に認識されているようだが、有馬晴信の領地島原半島南部に集中的に分布する特異な現象があること、イエズス会との係わりが主原因であったこと、そして、キリシタン大名有馬晴信とイエズス会が運命を一にしていた状況があったこと(註)等からして、その発生源は自ずか絞られてくるにちがいない。それは、コレジオがそれらの複雑な問題と係わる重要な役割を担い、それが「有馬」に存在した史実からしても言えることである。
    ・松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス記日本報告集第Ⅰ期第Ⅰ巻』「1588年度年報」16頁。宮本次人『ドン・ジョアン有馬晴信』(2013・海鳥社)「第三章・晴信に見るキリシタン信仰の世界」。

 ・日野江城二の丸「仏塔石階段」との関連
 こうした有馬の周辺事情が判明してくると、有馬晴信の居城日野江城の二の丸で発掘された「仏塔石階段」の謎も、また新たな視点で捉えられることになる。伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入は、同時にそれまで代用してきた立碑塔形墓碑の廃棄処分に係わるからである。キリスト教の性格上、それは単に廃棄すればいいということにはならない。逆に異教的事物に係わったというような新たな問題を突きつけたであろうし、そうであれば、「贖罪」的な信仰上の対処が要求され、ある種神聖な儀式が、これら廃棄墓石をもって実施されることになる(註)。
   ・「日野江城二の丸仏塔石階段」については稿を改めたい。(本ブログ2016年5月31日付記事「日野江城〃仏塔石階段〃―それはコンチリサンの遺構であった」参照)

                           (2015年1月4日記)
キリシタン墓碑変遷図(宮本作図)