2017年12月31日日曜日

矢文にみる島原の乱━その⑤―

 籠城キリシタンが再三にわたって「松倉様への恨み、これ無く候」と主張していたにもかかわらず、幕府側がそれでも「一揆」であるとしたのは、もしかしたら原城結集に至るまでの過程で取ったキリシタンの行動━役人の殺害や寺社放火、島原城に押し寄せたことなど━に拠るのであろうか。
 しかし、これについても彼らは、自分たちから一揆的な行動をしたのではない、「嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候」、と説明する。自分たちは、ただ「立上り」の行為をしたまでであるのに、これを役人らが妨害し「取り掛か」って来たので、「防」戦したに過ぎない、と言うのだ。
 それなら何故、寺社の放火破壊をもしなければならないのだろうか。一揆と見間違えやすいこの行為こそ、じつは彼らがいう「立上り」のための「きりしたんの作法」の一つであったのだが、これについては幕府にも理解してもらえなかったようだ(註1)。

「禁教令」が問題であると指摘
 矢文に記された主張の中で、彼らが敢えて問題点として上げているのは、幕府が1614年(寛永18年臘月)に発令した禁教令のことであろう。矢文2に、「きりしたん宗旨は…別宗に罷り成り候こと、ならぬ」ことであるのに、「天下様より数カ年御法度仰せ付けられ、度々迷惑致し仕り候」、とある。
 ━彼らは、幕府の禁教令によってキリシタンを「転び」、強制的に寺院の檀家にされていた。それがいかに侮辱的であり、キリシタンとして致命的なことであったか、「悲嘆身に余り候」との言葉から、その一旦を窺い知ることができよう。そうであるから「此のごとくの仕合わせ」に至ったのだ、と言っているのを見ると、幕府の禁教令こそが彼らの「立上り」行為を引き起こす要因であった、と言えるのではないだろうか(註2)。

 「転び」ながら、仕方なく仏教徒として生きてきたものの、何年経っても禁教令が解除される見込みはない。このままでは「後生の助かり」、「アニマ(霊魂)の救い」を逃してしまうことになる。そのように追い詰められた状況の中で、「天人・天草四郎」の出現があり、「不思議の天慮」に導かれて「(信仰が)燃え上がり」、死を覚悟して(註3)「立上り」の一斉行動に至った。━矢文をもって説明される彼らの行為の動機は、そのように読み取ることができるであろう。

「別宗に罷り成り候こと、ならぬ故に…」
 最後にもう一度、矢文2の次の文面に注目してみたい。

 「今度、下々として籠城に及び候。若し国家を望み、国守を背き申す様に思し召さるべくか。聊か其の儀にあらず候。きりしたんの宗旨は前々よりご存知のごとく、別宗に罷り成り候事、成らぬ故に御座候。」

 「…別宗に罷り成り候こと、ならぬ故に…」の「故」は、理由を意味する言葉である(註4)。意訳すると、「このたび原城に籠もったのは、幕府や藩に何か要求があってのことではない。キリシタンの宗旨は、別宗に罷りなってはいけないのに、転んで仏教徒になっていたからである」、となる。
 すなわち「矢文」によって籠城キリシタンが説明する事件の真相は、彼ら自身の一方的な理由━「転び」が原因であり、それより「立上り」、再びキリシタンに戻るためであった、と解することができる。

あとがき
 代表的な矢文3通をもとに、キリシタン側から島原の乱事件を検証してきた。
 彼らの「立上り」行為の遠因に「転び」があり、それは幕府や領主の禁教令・圧政に屈した自らの責任であったこと。ゆえに他への「恨み」を動機とする一揆的行動ではなく、失った「後生の助かり」、「アニマ(霊魂)の救い」を取り戻すため、キリシタンに帰る「立上り」の行動であったことが判明した。
 ところで「転び」から「立上る」行為は、「きりしたんの作法」である秘蹟(さからめんと)━具体的には「ゆるしの秘蹟」として為されるのが原則である。司祭の介在のもと、「こんちりさん」、「こんひさん」、「さちしはさん」の三過程で成就される「ぺにてんしやのさからめんと(ゆるしの秘蹟)」が、「立上り」行為によっていかに成されたかについては、稿を改めたい。(この稿おわり)

 ※註1…「キリシタン立上り」の作法の一つが、転び証文を取り戻す行為であった。寺院や島原城に押しかけ、その破壊行為をなしたのは、転び証文を処分する目的があった。本ブログの「転び証文を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦」(2016年1月13日付)、「転びキリシタン立上りの作法(1)―転び証文の取り扱い」(2017年5月15日付)、「転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例」(2017年7月15日付)参照。
 ※註2…複数の矢文は、幕府の禁教令こそが「迷惑」の原因であると訴えているように見える。かと言って、幕府に対して「恨み」があるかと言えば、松倉氏の苛政と同様、「天下(幕府)への恨み、これ無く(候)」と言い、「恨み」が立上りの原因ではない、としている。
 ※註3…死を覚悟して「立上り」行為に出たことは、矢文1の「我々を御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候」、矢文3の「片時も今生の暇(いとま=死に去ること)希(ねがう)計(ばかり)に候」によって知ることができる。
 ※註4…矢文2は、一般には熊本細川藩の史料によって紹介されることが多い。それによると「…別宗に罷り成り候こと、成らぬ教(おしえ)にて御座候」と、「故」が「教」になっている。筆者は同文の矢文を佐賀鍋島藩と萩毛利藩の記録に探し、いずれも「故」となっていることを確認した。
「別宗ニ罷成候事、不成故御座候」とある萩毛利藩記録の矢文2

2017年12月29日金曜日

矢文にみる島原の乱━その④―

領主松倉氏による苛政
 徳川幕府が、原城に籠もった「立上り」キリシタンに対して矢文をもって質問したのは、「天下(幕府)への恨み」、「(松倉)長門への恨み」の「在りや(否や)」であった(註1)。それは、幕府がキリシタン「立上り」の動きを百姓一揆と見たからであり、原因として想定される要素であったからである。
 籠城キリシタンの矢文の中に、松倉氏の苛政について述べた箇所がある。

 「近年、長門守様殿内検の地詰め存外の上、剰(あまつさ)え高免(「重税」の意カ)仰せ付けられ、四、五カ年の間、牛馬、妻子究状(窮状)せしめ、…責めて長門守殿へ一通の恨み申し畢(おわんぬ)」。

 この証言は、松倉氏による領民への重税の取り立てと、それによる住民百姓らの困窮が、否定できない事実として存在していたことを示すものである。
 
キリシタンの松倉殿への「恨み御座無く候」
 問題は、松倉氏による苛政の存在そのものではなく、苛政によって生じるキリシタンの「恨み」の有無にかんすることがらであろう。
 一般的には、苛政から恨みが生じ、それが蓄積されて一揆行動に至るというのは、なかば方程式であるかのように捉えられている。だからこそ、この方程式によって、島原の乱が領主松倉氏の苛政を初発の原因とする百姓一揆として解釈され、あたかもそれが真実であるかのごとく説明されてきたのであった。
 ところが、幕府軍が受け取った籠城キリシタンの矢文を見ると、そこには領主松倉長門守への恨みにかんして、一般人の常識を超える説明が記されていた。

 「天下への恨み、旁らへの恨み、別条御座なく候」(矢文3)。

 別の矢文(註2)には、「(松倉)長門様に恨み在り哉との由、少しも其の儀、御座なく候。(キリシタンの)宗旨に御構い御座なく候へば、何も恨みの事これ無く候」、と「長門様」の名前を上げ、「恨みがない」ことを説明しているのである。

 立上りキリシタンの矢文が多くの研究者たちから「理解に苦しむ」として疎んじられ、また十分に説明されてこなかったのは、こうした一般常識では考えられない内容が含まれるためであったと考えられる。この矢文を受けた幕府もまた、しかりであったにちがいない。
 重税の取り立て・苛政が存在したにもかかわらず、何故、彼らは「なにも恨みの事、これ無く候」と言うのであろうか。この謎の中にこそ「島原の乱」の真相を解く鍵が隠されているかもしれない。━筆者はそのように考え、これを解く鍵を「きりしたん宗門の奥義」、「キリシタンの作法」(註3)に求めた。

難儀・災難に対する「きりしたんの作法」
 キリシタンたちが宣教師から教義を学び、また、日本語に翻訳して出版された多くの信仰指導書を日々学んでいたことは知られている。なかでも愛読されたのは「こんてむつすむん地」(現代語では「キリストに倣いて」)であった(註4)。
 この中には「難儀」、「恥辱(ちじょく)」への対処の仕方が多々記されているが、「巻第三・第31,恥辱と難儀に遭ふ時、へりくだる心を以て堪忍(かんにん)すべき事」に、次のようにある。

 「…浮世の災難は汝が後生(ごしょう=来世)の助かりの為なれば、力の及ぶほど受け流さんと思い定め、まったく心を苦しむ事なかれ。汝の上にかかる難儀を喜びてこらゆる(堪える)事叶わずは、せめて堪忍(かんにん)をもって受くべきもの也。」

 現代語に直せば、「この世の災難は、汝の霊魂(アニマ)の救い、来世の救いを得るために(必要なこととして)あることだから、できるかぎり受け流して、心を苦しませない方がよい。自分の身の上に降りかかる難儀を喜んで受けることができないなら、せめて忍耐して受けなさい。」といった意味である。
 ━これがキリシタンと称される人たちの信仰の世界であり、生活の「作法」であった。

 もちろん、信仰は最初から完全なものはではない。経験や悟りの到達に程度の差があるから、そのような「堪忍」の生き方ができる人もあれば、できかねる人もある。一方では「何の恨みも、これ無く候」と言いながら、他方「せめて松倉長門守殿へ一通の恨み申し畢」と、一見矛盾するような表現が出て来るのは、生身の人間として仕方がないことであろう。
 領主松倉氏の苛政により耐えがたいほど困苦の生活を強いられながら、「松倉様には何の恨みのこと、これ無き候」、「天下への恨み、旁らへの恨み、別条御座なく候」と重ねていう彼らのキリシタン信仰に基づく主張には、謙虚に耳を傾けるべきではないだろうか。
 それでもなお「立上り」事件を起こした本人たちのこれらの証言を無視し、島原の乱を農民一揆であると結論づけるのは、論理的にも無理があると言わざるを得ない。(つづく)

 ※註1…「(寛永15年)正月中旬、松平伊豆守が城中へ」射た矢文。「態一翰申遣候、今度古城ニ楯籠、成敵条無謂、併天下ニ恨有之哉、又長門一分の恨有之哉、…」
 ※註2…「寛永15年1月19日付、城中よりの矢文」。前文に「城内之申状、被達上聞候由、実否不審ニ御座候得共、先以安堵仕候、被仰下候開之条々」とある。筆者は、この矢文を「天草四郎、今度一揆を披(ひら)く意趣」と捉え、「開之条々」と名付けている。
 ※註3…「開之条々」に「宗門の奥義」、「矢文1」に「きりしたんの作法」とある。
 ※註4…「こんてむつすむん地」は、キリシタン版のひとつ。1596年、天草で出版されたと推定されるローマ字本。1610年、都の原田アントニオの刊行にかかる国字本の二種が知られている。副題に「これ世を厭ひゼズキリシトの御行跡を学び奉る道を教ゆる経」とある。
キリシタンの信仰指導書『こんてむつすむん地』(1610年版)表紙

 
 

2017年12月26日火曜日

矢文にみる島原の乱━その③―

 次に、代表的な矢文を3通、読み下し文にて掲げる。

 ■矢文1城中より松倉陣に射られた矢文(日付け不明)
 城中より申し上げたき儀これ有るにおいて、聞(き)こし召(め)され候由(よし)候間、重ねて申し上げ候。この度(たび)、下々(しもじも)として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候。国郡(くにこおり)など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまひ御座なく候へば、存分(ぞんぶん)御座なく候。籠城(ろうじょう)の儀も、頻(ひたぶ)りに御取り掛かり成られ候につき、此(こ)のごとくに御座候。右の仕合(しあ)わせ、きりしたんの作法に候。御不審(ごふしん)に思(おぼ)し召(め)さるべく候へども、宗旨(しゅうし)に敵をなす輩(やから)は身命(しんめい)をすてふせぎ候はで叶(かな)わず。あらたなる証拠(しょうこ)、度々(よりより)御座候につき、此(こ)のごとくに候。かよう(斯様)の人をぼんぷ(凡夫)として罷(まか)りなることに候や。兎(と)に角(かく)、我々御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候哉。
 御陣中            城中より

矢文2「寛永15年1月13日(または15日)」付、城中より「御上使様御中/惣御陣中」宛て矢文
 今度(このたび)、下々(しもじも)として籠城(ろうじょう)に及び候。若(も)し国家をも望み、国守(こくしゅ)を背(そむ)き申す様に思(おぼ)し召(め)さるべく候歟(か)。聊(いささ)か其(そ)の儀にあらず候。きりしたんの宗旨(しゅうし)は前々より御存知(ごぞんぢ)のごとく、別宗(べつしゅう)に罷(まか)りなり候こと、成らぬ故(ゆえ)にて御座候。しかりといえども、天下様より数か年御法度(ごはっと)仰(おお)せ付(つ)けられ、度々(よりより)迷惑致し仕(つかま)り候。就中(なかんずく)、後生(ごしょう)の大事(だいじ)遁(のが)れ難く存(ぞん)ずる者は、宗旨(しゅうし)を易(か)えざるにより、いろいろ御糺明(きゅうめい)稠(しげ)しく、剰(あまつさ)え人間の作法にあらず。或(あ)るは恥辱(ちじょく)を現し、或(あ)るは窘迫(きんぱく)を極め、終(つい)に御来(ごらい)のため天帝(てんてい)に対し責め殺され候。其のほか、志(こころざし)御座候者も、色身(しきしん)を惜(お)しみ、呵責(かしゃく)を恐れ候故(ゆえ)、紅涙(こうるい)を押(お)さえながら数度(すうたび)、御意(ごい)に随(したが)い、宗門を改め候。然(しか)る処(ところ)、この度(たび)は不思議(ふしぎ)の天慮(てんりょ)計(はか)り難く、摠様(そうよう)此(こ)のごとく燃え立ち候。少(しょう)として国家の望みこれ無く、私の欲儀(よくぎ)御座なく候。前々のごとく罷(まか)り居(お)り候わば、右の御法度(ごはっと)に相替(あいか)わらず、種々様々の御糺明(きゅうめい)凌(しの)ぎがたくても、また執着(しゅうちゃく)の色身(しきしん)にて候へば、誤りて無量(むりょう)の天主(てんしゅ)に背き、今生(こんじょう)纔(わず)かの露命(ろめい)を惜(お)しみ、この度(たび)の大事(だいじ)、空(むな)しく罷(まか)り成るべき処(ところ)、悲嘆(ひたん)身に余り候故(ゆえ)、此(こ)のごとくの仕合(しあ)わせ、聊(いささ)かも邪路(じゃろ)にあらず候。然(しか)る処(ところ)、海上に唐船(からふね)見え来たり候、誠もって小事(しょうじ)の儀に御座候処、漢土(もろこし)まで相(あい)催(もよお)され候こと、城中の下々(しもじも)故に、日本の外聞(がいぶん)、然(しか)るべからず候。自国他国の取り沙汰(ざた)、是非(ぜひ)に及ばず候。此等(これら)の趣(おもむ)き、御陣中に披露(ひろう)預(あずか)かるべく候。恐誠謹言。
 寛永十五年             城内
 御上使衆御中/摠(そう)御陣中御申上

矢文3「正月」付、城中「天野四郎」より「松平伊豆守様」宛て矢文
 尊墨(そんぼく)畏(かしこ)み頂戴(ちょうだい)仕(つかまつ)り候。今度、楯籠(たてこも)り候意趣(いしゅ)は、天下への恨み、旁(かたわら)への恨み、別条(べつじょう)御座なく候。近年、長門守殿の内検(ないけん)の地詰(ちづめ)存外(ぞんがい)の上、剰(あまつさ)え高免(こうめん)仰せ付けられ、四、五ケ年の間、牛馬、妻子を究状せしめ、他を恨み、身を恨み、落涙(らくるい)袖を湿(ぬ)らし、納所(なっしょ)仕ると雖(いえど)も、早や勘定の切れ果つ。無疵(むきず)にて死に去る身の依(上?)の成れ果て、他国へ仕るに及ばず、責(せめ)て長門守殿へ一通の恨み申し畢(おわんぬ)。代々(よよ)此等(これら)の趣(おもむき)をはなれ候て、妻子の縁を切り、十月上旬以来、寒天(かんてん)の雪霜(せっそう)を凌(しの)ぎ、身の襖(ふすま)百重(ひゃくえ)、萬頭(まんとう)に藤烏帽子(ふじえぼし)を戴き、、焼野の蕨手(わらびで)出(いだ)す風情、是より罷(まか)り出(い)で申し候覚悟、更に之(これ)なく候。寔(まこと)に彼は多勢(たぜい)、此は無勢(むぜい)、虻蚊(ぼうぶん)群(むらが)りて雷電(らいでん)を成す如く、蟷螂蠡(とうろうれい)龍車(ぎっしゃ)を覆(くつがえ)すに似たり。是は昔の縦(たとい=喩え)也。地主(ちしゅ)の桜、盛りの頃、天地(てんち)霞花(かか)散乱し、邯鄲(かんたん)露生(ろせい)が夢の如し。五十年の栄花(えいが)も、一日の槿花(きんか)同前(どうぜん)と為すべし。来世(らいせ)の焔魔(えんま)の帳(とばり)を踏み破り、修羅道(しゅらどう)も踊り出(い)で、皆、極楽(ごくらく)に安(やす)く参るべき事、何(いずれ)の疑い、之(これ)有るべき哉(かな)。片時も今生(こんじょう)の暇(いとま)希(ねが)う計(ばかり)に候。謹言。
 正月          天野四郎
 松平伊豆守様

 ※…この部分の原文は「妻子令文状」となっている。意味が通じないので、筆記原文参照の上、「文」を「究」と判断し、「妻子、究状(窮状)せしむ」、と解した。文責筆者。(つづく)
萩毛利藩使者が記録した「今度」ではじまる矢文

 

2017年12月24日日曜日

矢文にみる島原の乱―その②―

 ■乱研究の史料の問題
 島原の乱を研究する上で、基礎資料をどこに求めるかによって結果が異なってくる。大別すると、二種類ある。一つは、この事件を征圧した幕府軍側の史料。他の一つは、籠城キリシタン側の史料である。
 従来の研究は、量的にも種類的にも圧倒的に多い幕府軍側の史料が用いられてきた。この中には、事件―島原陣に直接参加した兵士の従軍日記や役人らの報告書等と、これらを一次史料として時間をおいて編纂された幕府および参加各藩の公的記録があるが、前提の構図が農民一揆の鎮圧であり、したがって、そのほとんどが戦功・手柄を主眼に記されたものとなっている。
 他に、藩政時代に好まれた「軍記物」の題材としてこの事件を扱ったもの、歴史学者によってある意図をもって書かれた資料もある。いずれも幕府軍側の記録史料が用いられているので、その範囲を越えることはない。

 一方、事件の当事者―幕府側から見れば犯人―である「立上り」籠城キリシタンの史料は、在るにはあるが極めて少ない。たとえば、立上りの行動を呼び掛けた「寿庵の廻文」、籠城時に幕府軍と交わした「矢文」、「披き(開き)の条々」、熊本細川藩の兵士が原城に潜入して収拾したと思われる「四郎法度書」。時代はすこし遡るがイエズス会宣教師「コウロス神父の徴収文書」、ドミニコ会宣教師コリャードが集めた「切支丹証言文書」などである。
 これらは、キリシタン用語が多用され、キリシタン信仰の死生観、価値観などが述べられているので、一般には分かりにくい。研究者の中には、たとえば一揆説を説明するため「(領主松倉)長門殿に恨みの在りや」など、矢文の一部分を抽出して解説したものもあるが、その全文を取り上げて解読されることは少ない。

 事件の真相は、これを起こした当事者と、これに係わった―または調査・鎮圧した側の両者のうち、犯人である当事者が握っている。したがって、島原の乱を解く鍵は、後者の籠城「立上り」キリシタン側の文書の中に隠されている、と見ていい。―これが本稿で「矢文」を取り上げる主旨である。(つづく)
熊本細川藩が収拾した籠城キリシタン文書「四郎法度書」(「永青文庫」所蔵)

 

2017年12月21日木曜日

矢文にみる島原の乱―その①―

 ■はじめに
 寛永14年秋にはじまり、翌15年2月28日(西暦1638年4月12日)に終結した島原・天草地方の「転びキリシタンの立上り事件」―島原の乱について、日本史は一貫してこれを「農民(百姓)一揆」と解説し、紹介してきた。
 「百姓(農民)一揆」とは、「幕藩体制下の百姓身分の者を中心として、幕府や領主の年貢の収奪強化などに抵抗しておこなわれたもの」(山川出版社『日本史小辞典』2007)である。―この定義によって島原の乱を検証してみると、乱の行動参加を呼び掛けた「寿庵の廻文」にも、また籠城して幕府軍に射た「矢文」にも「藩に対して蜂起することも、訴訟することも書かれていない」。それどころか、彼らは「国郡など望み申す儀、少しも御座なく候」、「国家を望み、国守を背き申す様に思(おぼ)し召さるべく候か、聊(いささ)かその儀にあらず候」と、矢文をもって重ねて「百姓一揆」でないことを否定しているのである。
 ―どうも様子がおかしい、と気付き、従来の農民一揆説の矛盾を指摘したのは神田千里氏(註1)であった。
 神田氏は、加えて彼らが住民にキリシタンを強要していることを取り上げ、「もし重税に講義して蜂起することが目的なら、相手が蜂起に同意しさえすればよいことであり、キリシタンであろうと、異教徒であろうと差し支えないことではないだろうか。…むしろ、単に藩への蜂起を促すだけであれば、ことさらキリシタンになることを強制することは、却って相手の村を同意しにくくさせるのではないか。」と述べている(同氏著書『島原の乱』57頁)。
 
 ■「立上り」の意味
 筆者は、同事件の第一当事者である籠城キリシタンの文書史料を中心にこの事件の真相解明に取り組み、2013年12月(註2)以来、島原の乱が「転びキリシタンの立上り事件」であることを紹介してきた。
 その過程で判明したのは、キリシタン文書に出て来る「立上り」という言葉を、ほとんどの研究者が「蜂起・訴訟」の意味に捉えていることであった。―はたして、そうであろうか。この言葉の読み違えこそが、島原の乱事件の読み違えにつながっているのではないかだろうか。
 農民一揆にしては藩や国に何の要求もしていないとして、その矛盾を指摘した神田氏自身、著書『島原の乱』(中公新書・2005年刊)の副題を「キリシタン信仰と武装蜂起」とし、本文でも「キリシタンが蜂起した」、「大規模蜂起」と繰り返し、「立上り」を「蜂起」の意味に読み替えて述べているのである。
 たしかに彼らは役人の殺害、寺社放火など「蜂起」と紛らわしい行動を取った。
 これについての彼らの説明は、「この度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候」、である。つまり、自分たちの「立上り」行為を役人たちが邪魔し、「取り掛かって」きたので、防戦したに過ぎない、と言っているのである。
 矢文にある、このような籠城キリシタン側の言い分についても、残念ながら十分には検討されてこなかった。

 さて、籠城キリシタンが言う「立上り」の意味とは何か。―それは、「転びキリシタンが再度、キリシタン宗に戻る行為、再改宗」のことである。(つづく)

 ※註1…神田千里(かんだ・ちさと)。1949年(昭和24年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。高知大学人文学部助教授、同教授を経て、東洋大学文学部教授。専攻、日本中世史(中世後期の宗教社会史)。著書『島原の乱』(中公新書)は2005年10月25日発刊。
 ※註2…2013年12月21日、有家コレジヨ文化講座「四郎法度書にみる島原の乱」。
神田千里著『島原の乱』(中公新書・2005年刊)

 
 

2017年12月19日火曜日

宗麟の娘ジュスタとマグダレナ清田のこと

 フランシスコ大友宗麟の長女ジュスタが前夫・一条兼定と離縁し、清田鎮忠に再嫁したのは1575年(天正3)頃のことである。3年後の1578年(天正6)、父・宗麟の受洗に伴って夫鎮忠は洗礼を受けた。夫人ジュスタは母イザベルの執拗な妨害があり、遅れて1580年(天正8)に受洗した。
 鎮忠・ジュスタ夫妻は豊後で約10年間、キリシタンとして暮らし、領民の改宗に努めたが、1587年(天正15)島津氏の豊後国攻撃のとき、国を追われ、長崎に向かった。
 病身であった鎮忠は同年(天正15,1587)「11月23日」(西暦1587年12月22日)長崎にて病没した。法名・玄麟(「柳川清田家・清田正登作成の系図」)。
 一方、夫人ジュスタはその後40年、長崎で過ごし、「寛永4年8月7日」、同じく豊後出身で淵村の里正となっていた志賀氏に看取られ「病没」した(「志賀家事歴」)。ジュスタの没年月日は、志賀家の資料―「志賀家系図」、文政12年建立の「天女廟碑」、明治33年築造の桑姫祠―で確認することができる。
 
 ところで、清田氏関連の諸著述には、鎮忠夫人ジュスタは「病死」ではなく、「殉教(死)した」と紹介されているのが多々ある。先般、清田氏ご子孫の某氏からもその旨を知らされ、筆者は「ジュスタが殉教したとの記録は、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会のいずれの史料にもない。それは何かの間違いでしょう。」と、これを否定した。
 追って、某氏からジュスタ殉教死の〃根拠となる資料〃が送られて来た。狩野照己・前田重治共著『大友の末葉・清田一族』38頁のコピーである。

 「…夫人(ジュスタ)は…捕らわれて寛永4年(1627)8月17日殉教した。」

 筆者はこれを見て唖然とし、また、合点した。「寛永4年(1627)8月17日に殉教」したのは、宗麟の娘ジュスタではなく「マグダレナ清田」である(註1)。清田氏研究者は「マグダレナ清田」の殉教日「(寛永4年)8月17日」と、ジュスタの病死日「(寛永4年)8月7日」とが、その数字の並びからしてきわめて似ているので、誤ってジュスタの死去日をマグダレナ清田の殉教日と混同してしまったようである。
 ちなみに、マグダレナ清田は殉教したとき58歳であった。換算すると、1569年(永禄12)の生まれとなる。宗麟の長女ジュスタはマグダレナ清田が生まれる以前、すでに結婚している(1564年?に一条兼定と結婚)。両者の年齢は母と娘ほどの差があり、まったくの別人であるのは明らかである(註2)。

ジュスタの墓碑
 参考まで、前掲書『大友の末葉・清田一族』によると、ジュスタの墓碑は元「(大分県)清田村民家の後ろ、銀杏大木を印」として在った。のち、「大分郡松岡村松岡山長興寺」に移され、追って石塔が建てられ、「清芳院殿月峯自圓大姉」と法号が刻まれた、という。これは、豊後に遺った大友氏の遺臣らがジュスタを偲び、供養のため建てたものであろうか。
 
 ジュスタが亡くなったのは、長崎である。その最期を看取った志賀氏は、当時キリシタン禁制の時代であり、キリシタンの墓碑を建てることが憚られたが、庄屋屋敷の一隅に自然石の小さな「塚」を建てた。明治期に移転を余儀なくされ、さらに昭和11年(1936)、淵神社境内に遷された。これがこんにち、同神社境内に鎮座するジュスタを祀るキリシタン神社「桑姫社」である。

 ※註1…洗礼名「マグダレナ」は、「マタレイナ」と記されることもある。
 ※註2…「マグダレナ清田」は清田家の誰の娘であるのか、筆者は先に、年齢から見てジュスタの連れ子―すなわち一条兼定との間の娘と想定した。清田鎮忠前妻の娘、鎮忠の兄弟の娘も考えられるが、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』に「マグダレナ清田は豊後のドン・フランシスコ(大友宗麟)の子孫」とあるので、ジュスタの連れ子とみるのが妥当と思われる(2019/02/05追記)(註3)。
 ※註3…本ブログをご覧になった広島市在住の清田鎮忠・ジュスタ夫妻のご子孫から連絡があった。霊界から鎮忠が出て来られ、「マグダレナは義理の妹ではなく、わしの実の妹じゃ」、と言われたとのこと。清田惣領家伝来の系図「柳川関係史料」によると、鎮忠は1587年に58歳で亡くなっているので1529年の生まれ。一方、長崎で殉教したマグダレナ清田は1569年の生まれであるので、両者の年齢差が40年ある。他にひとり、清田一族の中に「マグダレナ」の洗礼名を持つ人がいる。1620年、小倉で殉教したシモン清田卜斎の妻である。イエズス会史料によると、シモン清田は鎮忠の「義兄弟」ロマン清田の弟であるので、その妻「マグダレナ」が「鎮忠の実の妹」であるかもしれない。
明治33年(1900)桑姫ジュスタの石祠に刻まれたジュスタの没年月日、「寛永四年八月七日没、私に諡(おくりな)して曰く、桑姫君と」、とある。

 
 
 

2017年12月12日火曜日

「桑姫」再考―あとがき―

 筆者は2015年、「桑姫」を「マセンシア」とする従来の定説に疑問を抱き、代案として「マグダレナ(マダレイナ)清田」説を提示する小論を書いた(本ブログ記事「桑姫御前はマダレイナ清田か?」全7回参照)。それは、「桑姫・御西御前」の死亡年「寛永4年(1627)8月7日」と、「マグダレナ清田」の殉教年「寛永4年(1627)8月17日」とがきわめて近いことを根拠に、イエズス会史料をもとにマグダレナ清田を割り出し、清田鎮忠の後妻となった大友宗麟の長女ジュスタの連れ子とするものであった。
 あれから2年余、この問題をさらに考察・思案するなか、一つの気に掛かる情報を得た。「阿西(於西・御西)御前は大友宗麟の長女ジュスタ」であるとの某記事である。それは清田家研究者が書いたものであったが、清田氏関係文書にそれが存在するとの確証は得られなかった。
 その一方で、『志賀家事歴』(文政4年・志賀親籌筆)の記録を再読しながら、「於西御前」が「大友家の姫」であること。これと同時期(1821年)に記された『長崎名勝図絵』(饒田喩義編著)に「桑姫はもと豊州の太守大友宗麟の女なり、阿西(おにし)御前と称す」の記事があることがわかり、「桑姫・御西御前」を「マグダレナ清田」とした自説は見直しを余儀なくされた。
 また、他の一つの視点―すなわち封建社会的価値観から見て、キリシタンを弾圧した長崎奉行・竹中采女正から「大友家の由緒」をもって丁重な進物を受けるほどの「御西御前・宗麟の娘」は、当時の長崎に「長女ジュスタ」以外にはあり得ない、との結論に至った。
 加えて、これを後押しする出来事があった。すなわち2017年11月、ジュスタのご子孫(長崎市出身、広島市在住)にお会いし、桑姫は宗麟の長女ジュスタであると伝えたところ、霊界からジュスタ本人が現れて「その通りじゃ」と証言したことである(註)。しかし、この種の霊的現象は日本の歴史学においては取り扱わないので、本文ではこれを省いた。

 結論として、「桑姫=大友宗麟の長女ジュスタ」に至ったいま、ジュスタと同年に昇天した「マグダレナ清田」をそれとする前稿は、訂正もしくは廃棄しなければならないが、今振り返ってみるとき、前稿を踏まえなければこの度の結論もなかったことであり、そのまま残すこととした。読者は、その旨をご理解され、原稿の日付けを確認して読まれることをお勧めしたい。2017/12/12 記。

…同家には、キリシタンにまつわる伝承秘話がある。これは史実で確認することも可能であるので、後日、機会があれば紹介したい。
 

2017年12月11日月曜日

隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考・その⑦―

 述べたように、清田鎮忠とその妻・大友宗麟の長女ジュスタは1587年(天正15)、島津氏との戦いで「敵方に与した」廉をもって国主大友義統から給料地を没収されて追われ、肥後国を経て長崎に避難移住した。病身であった夫鎮忠は同年「11月23日病没」した。
 寡婦となったジュスタはその後、「寛永4年(1627)8月7日」、淵村庄屋志賀氏に看取られ病死するまでの約40年間、同じく豊後国を追われて長崎に避難した大友家の姫たち、そしてキリシタン家臣らと交わりながら、前半は内町の豊後町で、後半は対岸の浦上淵村のどこかに隠れながらキリシタン信仰に生きた。
 ―これらは、「清田惣領家伝来系図―柳川関係史料」、「志賀家事歴」、そしてイエズス会年報などで、いずれも確認することが出来る。

■ジュスタの墓碑「桑姫君墓」
 ジュスタが晩年、浦上淵村の庄屋に任ぜられた大友家家臣・志賀氏を頼り、そこで最期を迎えたとき、志賀氏はジュスタを竹の久保尾崎の「庄屋屋敷の内に葬り奉り、一塚を築いた」。そして「桑の一木を植え、桑姫御前の号を贈り奉った」(「志賀家事歴」)。この「塚」こそが『長崎名勝図絵』(饒田喩義編著)に出ている「桑姫君墓」―自然石に「大友家桑姫御前塚」の文字が彫り込まれたそれであった。
 こんにち、木造の立派な社殿が築かれ、「桑姫社」という名のキリシタンを祀る神社として周知されるものになっているが、当初は「神社」と称されるものではない、自然石の「塚」の墓碑であった。
 その形態が、江戸時代から明治、大正期を経て昭和になって神社のかたちになっていくのも興味深いが、それとともに「大友宗麟の女(むすめ)ジュスタ」が「大友義統公二女」に書き換えられ、より深く封じ込められてしまったのは、歴史の悪戯(いたずら)としか言いようがない。

■隠された大友宗麟の姫ジュスタ
 一般には、「桑姫君」あるいは「御西御前」と呼ばれたその人が、実は「大友宗麟の女ジュスタ」であることは、志賀氏をはじめとする大友家の遺臣らの間では―内密のこととして―知られていることであったに違いない。文政年間の1820年頃、饒田喩義がこれを取材して『長崎名勝図絵』の原稿に、「桑姫はもと豊州の太守大友宗麟の女(むすめ)なり。阿西(おにし)御前と称す」と書いていることからも明らかである。この史実は、饒田喩義が時の庄屋・第8代親籌から聞き取った情報であった。
 まだキリシタン禁制が解けていなかった時代である。隣の浦上山里村では、寛政2年(1790)、天保13年(1842)、安政3年(1856)とキリシタン存在の告発事件が相次ぎ、ついには一村全住民が追放される慶應3年(1867)の四番崩れ(弾圧)事件に発展した。
 「桑姫が大友宗麟の女」であることが公に知られてはならないこの時代に、饒田喩義を介して生じた一つの小さな出来事は、あるいは淵村崩れの一大事に発展する火種ともなりかねない。急遽、庄屋志賀氏と薬師寺種茂、同種文、吉岡親平、蘆茢純房ら長崎在住の旧大友遺臣らが集って秘かに話し合いがなされ、「桑姫=大友宗麟の女」を否定して、新たに「桑姫=大友義統二女」とする史実の改竄(かいざん)がおこなわれた。それが如何に深刻であったかは、文政12年(1829)、庄屋志賀氏と旧大友遺臣らによって氏寺・宝珠山能満院萬福寺の境内に建立された巨大な『天女廟碑』を見るとわかる。
 それから8年後の天保8年(1837)、淵村竹の久保尾崎の庄屋屋敷にあった自然石の「桑姫君墓」にも石の祠(ほこら)が新調され、丁重に包み隠された。それは追って明治32年(1899)、庄屋屋敷が「兵営」地になったため、法入に移設されたが、その際、石祠に志賀家が「大友義統公世臣」であり、桑姫が「大友義統公二女」であると、重ねて〈偽史が〉彫り込まれた。
 片岡弥吉は「昭和11年(1936)春、更に淵神社(旧萬福寺)境内に移転した」と伝えている(1937年刊『長崎談叢第19輯』・12頁)。これが、こんにち同神社境内に見ることのできる「桑姫社」である。
 祀られている「桑姫ジュスタ、御西御前」は社殿の中にではなく、社殿の下部に拵えられた檻(おり)のような構造の床下部屋に収納されている。その格好はまるで、キリシタンが禁教時代に捕らえられ、収容された牢(ろう)のようでもある。大友宗麟の姫ジュスタは、何故に閉じ込められなければならないのだろうか。
 400年、複雑な歴史の中で史実が枉げられ、墓石までもが封じ込められてしまったが、そろそろ「檻」の中から出して、解放してあげなければならない。この稿が、その一助となることを願っている。(おわり)
『長崎名勝図絵』に掲載された文政年間までの「桑姫御前塚」(左)と、檻のような床下部屋に閉じ込められた現在の桑姫社の同塚(右)


 

2017年12月6日水曜日

隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考・その⑥―

 キリシタン時代、宣教師たちが長崎―豊後間を往来するとき、多くは肥後国高瀬を経由した。そこは、菊池川が菊池平野を大きく蛇行して有明海に注ぐ河口にあり、当時、中国船も出入りする国際的な港町として賑わっていた。大友宗麟が九州六カ国を支配した時代、高瀬には家臣清田氏一族が代官として配置された。また、清田鎮忠・ジュスト夫妻が、宣教師を豊後から「肥後国の御寮人(ジュスタ)に属する」場所に派遣し、「ジュスタの家臣」数十人をキリシタンにしたことがあった(註1)。肥後国には清田一族が早くから進出し、定着したところであったようだ。
 1587年(天正15)、清田鎮忠・ジュスタ夫妻が豊後を追われ、長崎を目指したとき、菊池郡のどこか―または高瀬にいた清田一族が病身の鎮忠を介抱し、長崎まで送り届けたのは間違いない。述べたように、鎮忠は同年暮れ(11月23日)、長崎で病死した。

■長崎のジュスタ
 ジュスタはこのあと、1627年(寛永4)8月7日に逝去するまで約40年間、長崎で暮らすことになる。
 寡婦になったとは言え、父宗麟の後妻で同じく未亡人となっていたジュリアとその娘、姪のマセンシヤ(妹テクラの娘)もいたし、また、大友家の家臣、そして一般のキリシタンたちも多数避難していた。迫害を逃れ、各地から移住したキリシタンたちによって新しく作られた町長崎は当時、長崎湾の最奥部に突き出た小高い丘の突端にイエズス会の日本管区本部サン・パウロ教会があり、その背後に大村町、横瀬浦町、島原町、五島町、博多町等が順次作られていた。ジュスタら豊後からの移住者たちも、そこに隣接して居住し、「豊後町」と名付けた。
 やがて秀吉の時代が終わり、徳川氏が政権をとったそのごく最初の頃まで、キリシタンの全盛時代があり、ジュスタは他の大友家ゆかりの女性たちとともに教会に通い、ミサに預かり、祈り、時には彼女たちのリーダーとして「ポロシモの大切(隣人愛)」に励んだことと思われる。
 ところが1613年、徳川幕府の禁教令発布を境に、暗転する。複数あった教会はことごとく取り壊され、抵抗する信者たちは捕らえられて殺された。5万人もいた長崎のキリシタン人口は、禁教令後、2万人に減少した(「1615・16年度イエズス会年報」)。キリシタンたちのほとんどは「転び」(棄教し)、近郊の野山に逃れた。
 ―ジュスタはこのとき、「豊後町」から何処に逃れ、隠れ住んだのだろうか。『志賀家事歴』(1821年・志賀親籌筆)によると、元和もしくは寛永年間はじめ頃、同じく豊後出身で、竹中采女正重義(府内城主のち長崎奉行となる)と懇意になって浦上淵村竹の久保に住んでいた志賀宗頓(ゴンサロ林与左衛門)を訪ねて来た、と記している。志賀氏は、すでに老年を迎えていた彼女を世話し、最期を看取った。

 長崎町の対岸、稲佐山の南東麓に位置する浦上淵村13郷は、山里村6郷とともに当初、幕府領浦上村と称された。1605年(慶長10)以降、庄屋高谷氏(元「菊池」性、肥後国出身)が管轄し、その後寛永年間はじめ、志賀氏が里正(庄屋)となるにより淵村として分離された。山がすぐ海に迫る地形であるため、各郷は孤立し、往来は船によるしかない不便な土地であるが、転びのキリシタンたちが秘かに隠れ住むには格好の場所であった。寺野郷、竹久保郷、稲佐郷、水浦郷、西泊り郷、船津浦、立神郷、平戸小屋郷、瀬ノ脇浦、飽ノ浦郷、岩瀬道郷、木鉢郷、小瀬戸郷、―ジュスタはこのうちのどこかに身を潜めていたものと思われる。

■イエズス会から托鉢修道会に移行して
 長崎のキリシタン史は1614年以降、イエズス会より半世紀遅れて来日した托鉢修道会の宣教師たちによる「転び」の「立ち上げ」(=再改宗)活動の時代になる。この事実は長年知られなかったが、最近、「浦上や外海のかくれキリシタンはドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチヌス会の信仰を伝承していた」ことが明らかにされている。元イエズス会信者で長崎代官となった村山等安が、途中からドミニコ会の信奉者に転向し、その一家が秘かにドミニコ会宣教師を匿い、支援していたこと。1627年、西坂で殉教したマグダレナ清田が、ドミニコ会所属の信者であったことなど、その一例である。
 淵村・山里村は長崎町と同じく天領になるが、隣接の大村藩領(一部は佐賀藩領)を「或る時は野に臥し、山を家として」巡回していたドミニコ会、フランシスコ会の宣教師たちが訪れ、司牧した。その一人で、病に倒れるほど熱心に彼らの世話をしたドミニコ会のジュアン・デ・ルエダ神父は、今なお黒崎のかくれキリシタンたちに「サンジワン様」として崇められている(註2)。(つづく)

註1…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガルイエズス会司祭・修道士宛書簡。「1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛・1582年度年報」。
註2…枯松神社に祀られる「サンジワン様」はこれまで、イエズス会の史料で解くことができない、謎の人物とされてきた。筆者はドミニコ会の記録文書をもとに、「ロザリオ神父」と愛称された「ジュアン・デ・ルエダ神父」であることを突き止めた。この秋(2017年)、同神社例祭に招かれ、公表した。
「享和2年肥州長崎図」より部分

 
 
 

2017年12月4日月曜日

隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考・その⑤―

 大友宗麟の長女ジュスタが「御西御前・桑姫」であることを認識しながら、それを公に言うことが憚られた理由は、父宗麟とともに彼女が著名なキリシタンであったからであろう。その点、息子の大友義統は歴史上、キリシタンを迫害した武将として伝えられてきた(註1)。よって「大友宗麟の女(むすめ)」でありながら、これを「大友義統の二女」と書き換えた歴史の改竄(かいざん)は、キリシタン禁制下における時代の成せる業であった、と思われる。
 同じく徳川時代末期に書かれた史料で、『太宰管内志』(1841年、伊藤常足編著)があるが、ここにもジュスタの夫・清田鎮忠について「大友義統婿」と、事実と異なる記述がある。正しくは「大友宗麟の婿」である。
 
■大友義統によって排斥された清田鎮忠・ジュスタ夫妻
 清田鎮忠・ジュスタ夫妻とその一族が給領地・清田(豊後国判田一帯)を追放されたのは、島津との最後の激戦が展開された天正15年(1587)春のことだった。大友家救援のため「秀吉が小倉に着陣」したとき、島津に寝返った家臣らも馳せ参じたが、病身であった清田鎮忠は代わりに近臣を遣わした。そのとき「島津に与(くみ)していた輩(やから)が鎮忠を讒言(ざんげん)し」、ために鎮忠は「(追われ)肥前国に籠居」した、と『太宰管内志』は説明している。
 清田鎮忠は何を理由に「讒され」、追放されたのだろうか。意味がくみ取りにくいが、これについて事件を直接目撃したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、反逆家臣を処分した理由を明確に述べている。すなわち、島津に与しながら秀吉の軍・黒田官兵衛のもとに来て、「我らは島津の敵だ」と言ってうそぶいた大友の家臣らの「領地・城を没収し、これらの者たちを殺すようにと命じた。」と―(註2)。つまりは、所領を没収し、追放処分にしたのは大友義統その人であったのだ。
 実際、義統は島津に屈服した老中、国衆の朽網宗歴殿、戸次玄三、一万田紹伝、志賀道雲、志賀道易らを殺した(『両豊記』548頁)。ルイス・フロイスは「義兄弟清田殿」については「所領は没収したが、生命は許した。」と記している。しかし、彼は主家大友宗麟から絶大な信頼を受け、長女ジュスタをあてがわれた有力家臣であり、これを排斥した義統に対する鎮忠家来らの叛旗を恐れたであろう。長崎に向かって逃亡した鎮忠・ジュスタとその家族、家来たちを秘かに追跡させたようだ。
 途中、肥後国の「御寮人(ジュスタ)に属するある場所」に立ち寄り、その年のうちに長崎に至った。「清田家総領家系図」(柳川関係史料)によると、「鎮忠は長崎に牢居、天正15年(1587)11月23日病死」した。
 このように、清田鎮忠・ジュスタが大友義統によって追放された史実からすると、ジュスタとそれに係わる清田家、志賀家にとって、鎮忠を「大友義統の婿」とするのはもとより事実ではないし、考えられないことである。しかし、利害がからむ人間の歴史は、時に史実が隠され、書き替えられることがある。大友義鎮(宗麟)の婿・清田鎮忠を『太宰管内志』が「大友義統の婿」としたのは、明らかに史実の改竄であった。
 
■改竄された史実
 「御西御前・桑姫」は「大友宗麟の女(むすめ)ジュスタ」である。それは史実ではあるが、同時に知られてはならないものであった。
 ところが200年余りが経過した文政年間、『長崎名勝図絵』の編纂刊行が長崎奉行によって計画され、「桑姫墓」の真実が公に知られる危機が訪れたとき、当事者たちはその対策として、敢えて記念碑「天女廟碑」を淵村の氏寺萬福寺境内に建て、そこに「大友義統の二女」と虚偽の文字を刻んで逆宣伝しなければならなかったにちがいない。
 同記念碑の前に立つとき、誰もがその巨大さに圧倒されるであろう。あたかも、「これが真実である」と宣告しているようである。(つづく)

 ※註1…大友義統は1587年4月27日、黒田官兵衛の勧めによってペロ・ゴーメス神父から洗礼を受け、コンスタンチイノと名乗った。ところが3ヶ月後、秀吉がバテレン追放令を発布するとすぐに棄教し、迫害者の側に回った。
 ※註2…「1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛の書簡(1587年度日本年報)」。松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅲ期第7巻』178頁。
淵神社(旧萬福寺)境内に建つ「天女廟碑」


 

2017年12月2日土曜日

「桑姫」再考―その④―

文政年間初め頃まで正説が伝承されていた
 「大友家由緒」をキーワードに、回りくどい論理を立てながら「桑姫」として祀られた人物が大友宗麟の長女ジュスタでなければならないことを見てきた。この結論に至ったとき、意外なことに気付かないであろうか―。徳川時代末期の文政年間(1820年頃)、長崎聖堂の儒者・饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した、あの著名な『長崎名勝図絵』の中の「桑姫君墓」の説明文である。

 「桑姫君墓は浦上淵村竹ノ久保と云ふ所に在り。世に伝ふ桑姫はもと豊州の太守大友宗麟の女(むすめ)なり。阿西御前と称す…」

 江戸時代の記録は、すでに「桑姫」を「大友宗麟の女」と伝えていたのだ。
 これと同じ頃、文政4年(1821)に淵村庄屋第八代当主・志賀茂左衛門親籌が書いた文書『志賀家事歴』にも、「桑姫御前」は「大友の御姫於西御前」(註)であると明記されている。
 両史料はほぼ同時期に記録されているので、『長崎名勝図絵』の編著者・饒田喩義は、淵村庄屋志賀親籌に直接取材して「桑姫君」を「大友宗麟の女」であるとしたにちがいない。つまりは、徳川時代文政年間まで桑姫について―キリシタン史に係わることであるので秘密裡ではあるが―正確な伝承があったのだ。 

■志賀親善の時代に異変が
 問題は、その直後に生じたようだ。数年後の文政12年(1829)、淵村庄屋志賀家第九代親善(実は西彼杵郡浦上の田中善三郎の子)と町年寄・薬師寺久左衛門種茂ら旧大友家遺臣4人が、「桑姫」の由来を誌す巨大な「天女廟碑」を同村の氏寺・宝珠山能満院萬福寺(現淵神社)の境内に建てたことがあった。その理由は定かではないが、石碑には何故か「桑姫」が「大友義統二女」として紹介されている。
 さらに、次の第10代志賀親憲は天保8年(1837)、竹の久保尾崎の庄屋屋敷に「桑姫の墳塋祠」を建立した。これは明治32年(1899)、尾崎屋敷が重砲大隊用地となったため、第11代志賀親朋が「法入」の地に移設し、あわせて記念の石祠を建てた。そこにも、同じく「大友義統公の二女」と刻まれているのだ(註2)。
 以後、歴史家たちはこれらの石碑に刻まれた文字を読み、「桑姫=大友義統の二女」説を繰り返した。キリシタン研究家・片岡弥吉は昭和12年(1937)、『長崎談叢・第19輯』誌上で「義統公二女」説を紹介しながら、さらにこれを否定して「マセンシア」説を主張し、結果として桑姫の正体「大友宗麟の女ジュスタ」を重ねて隠蔽することとなってしまった。遺憾としか言いようがない。(つづく)

 ※註1…大友宗麟の長女ジュスタは「おにし御前」と記録されることがあるが、『長崎名勝図絵』は「阿西御前」、『志賀家事歴』は「於西御前」と表記している。読みは、いずれも「おにし(の)ごぜん」である。
 ※註2…一連の桑姫石祠は昭和11年(1936)、淵神社の境内に移転された。これが現在ある「桑姫社」である。
「大友義統公二女」と刻まれた桑姫社横の石祠

 

2017年12月1日金曜日

「桑姫」再考―その③―

■大友宗家を代表する「姫」とは誰か
 大友宗麟の一族で、豊後国を逃れ、長崎に避難・移住した女性は複数いる。以下に挙げてみる。

 ◇宗麟の長女ジュスタ
 元土佐国主一条兼定の室。1575年ごろ、清田鎮忠の後室になった。夫鎮忠は1587年、島津の豊後国攻撃のとき(父宗麟が死去し)「敵側に肩入れした」廉で義統により所領を没収され、夫婦ともに豊後を追われ、一時期、「ある場所で暮らしていた。」(1588年度イエズス会年報)。「ある場所」とは、『肥後国細川藩拾遺・新肥後細川藩侍帳』にある「(肥後国)菊池郡源川(深川)」と思われる。この時、娘夫婦(婿は養子=ドン・パウロ志賀親次の兄弟・浄閑(寿閑)清田鎮乗)と、その娘夫婦が介抱していた「女子一人、男子一人」の幼子二人を連れていた。
 鎮忠・ジュスタ夫妻は、間もなく「肥前国長崎」に移り「牢居」。夫・鎮忠は同年「11月23日、58歳で病死」した(「清田総領家伝来系図」)。ジュスタは寡婦となり、寛永4年(1627)8月7日逝去した。長崎で39年、暮らしたことになる。

 ◇マグダレナ(マダレイナ)清田
 イエズス会より半世紀遅れて来日したドミニコ修道会が、殉教者マグダレナ清田について「豊後国主フランシスコ大友宗麟の家系に属する子孫である」と記録している。「宣教師たちを自分の家に泊めた理由で、1627年(寛永4)8月17日。長崎西坂において生きながら火炙りの刑に処せられた」。筆者が先に、彼女の殉教日を根拠に「桑姫」と推定した人である。
 イエズス会の諸記録から見て、宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)の娘(実は連れ子)と判断される。清田氏が豊後国を追われた天正15年(1587)、同じく領国を離れ、柳川を経て長崎に逃れ、30歳のとき寡婦となった。このあとイエズス会を離れ、「ドミンゴ・カスレット神父によって聖ドミニコ信徒会員として受け入れられた」。1627年8月17日、宣教師を匿(かくま)った廉で死刑に処せられた。
 (※追記…筆者はこの原稿を書いた2017年12月当時、イエズス会1580年度記録に出てくる清田鎮忠・ジュスタ夫妻の「嗣子になる幼い娘」をジュスタの連れ子(一条兼定との間の娘)と見ていた。その後の考証により、ジュスタの連れ子と「嗣子になる幼い娘」が別人であることが判明した。すなわち連れ子は後の「マグダレナ清田」(1627年8月17日殉教)であり、「嗣子になる幼い娘」は清田鎮忠の養子「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」鎮乗と結ばれる、後の「凉泉院」である。2019年2月1~2日付本ブログ「清田凉泉院とマグダレナ清田のこと」参照。)

 ◇宗麟の正室ジュリアその娘
 イエズス会の1596年度年報に、「ジュリアは(1595年当時)筑後の領域に逃れていた。…14歳になるひとりの娘がともにいた。…その後、母娘は長崎に至った。」とある。
 ジュリアは、大友宗麟が受洗した1578年、前妻イザベルを離縁して正式に婚姻の秘蹟を結んだ宗麟の正室―実は宗麟の次男親家の嫁の母(林姓)―である。1595年「14歳になるひとりの娘」は1581年生まれであるので、宗麟とジュリアとの間の「御姫」であった。

 ◇志賀宗頓親成の室コインタ
 コインタは、宗麟の正室ジュリアの連れ子で、元は「林」姓。ドン・パウロ志賀親次の兄弟・宗頓親成の室となった。夫志賀宗頓は林与左衛門(洗礼名ゴンサロ)とも名乗った。
 志賀宗頓は長崎淵村庄屋となった志賀家の「始祖」とされる。史料『志賀家事歴』によると当初、柳川立花家を頼り、のち肥後八代を経て「長崎に罷り越した」。コインタ夫人は、夫志賀宗頓とともに長崎に至ったものと思われる。

 ◇宗麟の次女テクラの娘マセンシア
 片岡弥吉が―誤って―「桑姫」として想定した修道女である。イエズス会「1605年日本の諸事」に、「豊後のフランシスコ(大友宗麟)の子孫のうち、一人の孫娘、すなわち娘の娘が長崎の市(まち)に暮らしていた。彼女の父親は公家(久我三休)であった。…彼女は祖母と他の親戚たちとともに追放されてきた。祖母は血縁から言えば祖母ではなかったが、…その愛においては祖母であった。」と紹介している。「血縁から言えば祖母ではなかった」祖母とは、宗麟の後室ジュリアである。純粋なキリシタン信仰をもち、1605年、18歳で病死した。

■「桑姫」は宗麟の長女ジュスタである
 この中で、「大友宗家を代表する御姫」とは誰か。血筋を重視するなら、宗麟の血を直接引く女性(宗麟の娘)がふたりいる。長女ジュスタと、室ジュリアの娘である。このうち、キリシタン信仰という要素を除外して、長崎奉行竹中采女正から「大友家の由緒」である理由によって進物を受けるにふさわしい人物という条件を付すなら、ジュスタをおいてあり得ないだろう。(つづく)