2015年6月11日木曜日

キリシタン志賀一族ほか、長崎に至り…②

 寛永年間、長崎浦上淵村に居着いた志賀宗頓「林ゴンサロ」・コインタ夫妻のもとに、ある日、大友家の姫「於西御前」(※1)が訪ねて来た。その頃、豊後府内城主から長崎奉行に抜擢されていた竹中采女正がこれを聞き付け、服や酒肴、白米などを姫に贈り届けている。こうした往来もあって志賀宗頓は竹中と懇意になり、やがて淵村の庄屋役を仰せ付けられることになった。同村庄屋初代は、『志賀家事歴』によると宗頓の「嫡子・内蔵丞親勝」となっている。
 なお、志賀宗頓は別名、親成(ちかしげ)、またの名を林与左衛門と称した。

 ◇肥後の名族・菊池氏の末裔もキリシタン史に係わる
 ここでもう一つ、大友家旧家臣が長崎に移住して浦上山里村庄屋に取り立てられた話を紹介したい。
 浦上山里村は、浦上川を挟んで淵村の対岸(東側)に位置する。里郷、中野郷、家野郷、本原郷、馬込郷、寺野郷で構成され、かくれキリシタンが250年余、信仰を維持して「復活」した奇蹟の村として知られている。
 庄屋高谷家の屋敷は、同村のほぼ中央、こんにち浦上天主堂が建っている場所にあった。「高谷」姓は移住後に改めたものであり、もとの姓は「菊池」。初代庄屋の名は「菊池蒲三郎正重」と言い、肥後の菊池氏が大友宗麟に討たれたあと(1554年)、「大友氏の家臣となったその末孫」とされている(『高谷家由緒書』)。
 ちなみに、隣村淵村にも菊池氏とゆかりのある大友氏の家臣・薬師寺氏がいる。大友氏の菊池家乗っ取りの過程で同家24代武包の養子となった大友重治(大友宗麟の父・義鑑の弟)―菊池義武と改名―に仕え、浪人となって志賀宗頓とともに淵村に移住した薬師寺種広の子孫である。

 筆者は最近(2015年春)、大分県竹田市を訪ね、菊池氏の末裔で大友氏に仕え、藩政時代を通じて千石庄屋をつとめた菊池武宗―のち改名して大津鎭宗と名乗る―の家系が同市植木に現存することを確認した。初祖は、同家に伝わる『菊池家譜』によると、菊池武包の「男子・上野亮」となっている。幕府のキリスト教禁制下、「豊後国志賀」(現竹田市)の布教を担当していた「フランシスコ・ボルドリーノ師」に「宿を与え」、世話したキリシタン「ジョアン・ディエゴ」と称する「村の庄屋」であり、今に隠れの洞窟や代々のキリシタン墓碑等々、イエズス会文書「1618年度日本年報」、「1620年度日本年報」等の記述を証明する遺物・遺跡が伝えられている。
大津家裏山の崖にある宣教師隠れの洞窟礼拝堂内部、ほかにトイレ付きの洞窟もある

 
 竹田市は、「西の右近」と称されたドン・パウロ志賀親次の所領であった。同地に濃厚にキリシタン信仰の足跡をのこした大友氏の旧家臣・志賀氏、菊池氏の一族が長崎に移住し、浦上川を挟んだ淵村と山里村の両村で庄屋職を世襲した史実は、偶然とは考えにくい。

 ◇ドン・パウロ志賀親次の子・親勝が淵村庄屋に
 書き忘れたが、前述した淵村の庄屋役初代「親勝」は、宗頓(親成)の「嫡子」ではなく、実は志賀本家を継いだ実弟ドン・パウロ志賀親次の子であった(「志賀家系図」)。つまり、ドン・パウロ志賀親次は自らの嫡子・親勝を、長崎淵村に移住した実兄・宗頓のもとに送り、養子としたのであった。


 ※1…『長崎名勝図絵』(1820年頃、饒田喩義編纂)には「阿西御前」とある。読みは「おにしごぜん」。「於西御前」の表記は『志賀家事歴』による。
 2018/01/18付記…「於西御前(阿西御前)」は清田鎮忠夫人「ジュスタ」(大友宗麟の長女)を指す。本ブログ「桑姫=大友宗麟の娘ジュスタ」参照。
 

2015年6月10日水曜日

キリシタン志賀一族ほか、長崎に至り…①

 志賀親孝(親度・道易)と宗頓、親次は同家系図によると実の兄弟であるが、親次が長兄親孝(本家北志賀家)に養子となったため、イエズス会史料には宗頓(林ゴンサロ殿)は「(親次の)伯叔父」として登場する。親次、宗頓ともに熱心なキリシタンであった。
 
 ◇親次の消息
 1593年、国主大友義統の改易にともなって親次も所領を失った。それでも、島津征討(1587年)での際立った功績等により、秀吉の親次に対する信頼は大なるものがあったらしい。「文禄5年(1596)3月11日」付で「日田郡大井庄内」に千石の扶助を秀吉から給された(「志賀文書」)。
 日田はこの頃、秀吉のかつての仲間であった森勘八(のちの毛利高政、若い頃、大坂で受洗)が領有していたので、森氏の日田藩に預けられたとも考えられる。ルイス・フロイスの「1596年度日本年報」には、領主森勘八がしばしばドン・パウロ志賀親次を呼び寄せ、「家臣たちに(デウスの)教理を聴かせ、教会建設のことなど話した」ことが記されている。
 1600年、関ヶ原戦の後、徳川家康の天下となり、日本の領主・領国地図は大きく塗り変えられた。福島正則が安芸・備後の二カ国の国主となると、彼は「豊後の古くからのキリシタンの貴人である入江左近と、(志賀)ドン・パウロ(親次)を己が家臣」として迎え入れた(「1600年度日本年報」)。福島が親次に与えた知行地は、「ぬか郡しほはら村、とよた郡上北かた村、ぬか郡こくし村」などあわせて千石余(「志賀文書」)。しかし、ここでの生活はわずかに一年余り。「慶長7年(1602)9月3日」には小早川秀秋(秀詮)に抱えられ、「美作国の北条郡福田村内および山手村内、豊前国の赤坂郡東中村内と和気郡三石村内」に同じく千石を賜った(前掲史料)。小早川秀秋はその直後、慶長7年10月に逝去しているので、定住したとは考えられない。
 このあと親次はいかなる人生を送ったのだろうか。一説に、細川藩に移ったとの情報もあるが、記録史料が手許にないので断定しえない。

 ◇志賀宗頓の消息
 一方、「林ゴンサロ殿」志賀宗頓については、『志賀家事歴』に詳しく述べられている。
 大友家改易後、家臣のうちキリシタン浪人の多くは一族戸次(べっき)氏が養子となった筑後柳川の立花氏を頼ったようだ。宣教師ルイス・フロイスは、1595年頃「その城(柳川城)には約100人のキリシタンがおり、いずれも身分の高い人たちで、豊後の国の出身である」、と『日本史』(12)に記している。
 志賀宗頓もその中にいた。「柳川立花家を相頼り候て、罷り越し候」、と『志賀家事歴』にある。
 「それより肥後八代へ罷り越し」た。「細川三斎、八代の城へ御座成られ候」とあるので、寛永9年(1632年)前後のことであろう。居候であり、留まる理由も別になかったと思われる。「寛永の頃」長崎に向かい、「浦上村の内、竹之久保尾崎屋敷に閑居」した(前掲史料)。

2015年6月9日火曜日

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次③

 ドン・パウロ志賀親次がキリスト教信仰にふれた最初は、国主大友家から追放されて志賀家に仕えていたイサベルという教名をもつ娘であった。彼女はもと、大友宗麟の娘に仕えていたが、何らかの不都合があったものと思われる。「国主の娘によって追い出された」、とイエズス会「1583年度日本年報」は伝えている。当時、志賀親次は「12,3歳」。娘が唱えるキリシタンのオラショと敬虔な信仰態度に惹かれ、祈りの言葉を書き取り、暗記するようになっていた。
 この頃、父は親次を「国主(宗麟)の姪」(田北鎭周の娘)と結婚させた。その(姪の)乳母がキリシタンであったため、乳母もまた親次に「デウスのことを知る限り教えた。」(ルイス・フロイスによる「1583年度日本年報」)。
 加えて、父方の「伯叔父」に、当時豊後国で「善良なキリシタン」として知られた「林ゴンサロ殿」がいたことも幸いした。「林ゴンサロ殿」は『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、親次の父―実は長兄・親孝―の舎弟・宗頓(むねはや)であり、「宗麟の義理の娘」すなわち宗麟新夫人ジュスタの連れ子(教名・コインタ)を妻としていた。志賀家から「ほぼ1里のところ」―久住・下地村に居宅があったらしい。この林ゴンサロ(宗頓)・コインタ夫妻が親次の受洗はもとより、親次がその後、「右近」的存在として活躍する影の立役者であったと思われる。

 一方、「熱心な偶像崇拝者」であった祖父・親守と、親次の父母―すなわち親次の長兄・親孝とその妻(大友宗麟の正室イザベルの娘=イサベルと前夫の間の娘)は、つねにキリシタンの敵として親次の行動を妨害した。しかし、島津氏の豊後侵攻と国主宗麟の死去に伴う国内の混乱、危機的状況における武将親次の対島津戦での活躍と秀吉の信任等により、次第に彼らの反キリシタンの姿勢も崩壊し霧散していったようだ。

 なお、イエズス会史料と邦文史料(『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』など)とで、幾分か食い違う志賀親次を取り巻く系譜的相関関係は、次のように整理することができる。

 ◇志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。
 ◇親守(道輝)の子に、親孝(民部大輔親度)、宗頓(掃部介親成、林ゴンザロ殿)、親次(小左衛門親善)らがいる。このうち親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
 ◇したがって、イエズス会史料に親次の「伯叔父」として登場する「林ゴンサロ殿」すなわち志賀宗頓は、同家系図で言うと親次の「実兄」になる。



 

2015年6月8日月曜日

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次②

 フランシスコ大友宗麟の嫡子・コンスタンチイノ義統(よしむね)がキリシタンになったのは、「自らの意志によると言うよりは、黒田シメオン官兵衛殿の執拗な勧めによるものであった。」(「イエズス会1588年度年報」)。
 父宗麟が1587年6月に亡くなり、翌7月に秀吉が伴天連追放令を発布してキリシタン攻撃に着手すると、案の定、彼は信仰を棄て、田原親賢(宗麟の正室奈多鑑元女の兄弟)らとともにキリシタン迫害に転じた。これに対し、ドン・パウロ志賀殿は、妻マダレイナ、伯叔父にあたる林ゴンサロ殿とその妻コインタらとともに「巌のように」揺るぎない信仰を堅持し、殉教覚悟で宣教師たちを領内に匿った。

 秀吉が伴天連追放令を出したあと、ジュスト高山右近に棄教を迫り、これに対し右近が潔く領国と財産を放棄してキリシタン信仰を貫いた話はあまりにも有名である。ドン・パウロ志賀親次もその決意において右近に引けを取らないものを持っていた。それは、彼とその妻マダレイナが「自分たちは高山右近殿の行為に負けぬ」とモレイラ師、フランシスコ・パシオ師らに語っていた(前掲史料)ことからも理解されるであろう。西の右近と称された所以である。
 
 ところで、彼が日本キリシタン史の一柱石的存在としてイエズス会史料に綴られるのは、受洗した1585年から1593年までの、わずか8年間であった。国主大友義統とともに文禄の役で失態を演じたことから、秀吉の怒りを買って国主は改易処分、ドン・パウロ志賀殿も「所領を失った」。「日田に近い地」で2000俵の禄を受け、その後、安芸の福島正則に抱えられたとイエズス会史料は記録している(「ルイス・フロイスの1596年度年報」)が、最期、何処でどのように生涯を閉じたのか、わからない。
 

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次①

 豊後のキリシタン史を『16-7世紀イエズス会日本報告集』によって辿っていくと、そこには国主大友宗麟を支えた信仰的英雄が複数、登場する。野津のリアン、高田のルカス、ドン・パンタレアン大友親盛、清田鎭忠、柴田礼能リイノ、パンタレアン奴留湯殿、ドン・パウロ志賀親次とその伯叔父林ゴンサロ殿等々である。このうちドン・パウロ志賀親次(しがちかよし)は、若年者ながら武勇において、またキリシタン信仰において傑出している。
 洗礼を志願しながら周囲の反対によって7年間延期され、ようやく1585年、極秘裡に臼杵のコレジオで受洗した彼は、なおも反対する祖父志賀道輝(親守)の前に、「私が名を賜ったサン・パウロは、その信仰の告白のために死んだが、私もそのために死にたいと明言する。必用な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。」と述べた(「1585年8月20日付、ルイス・フロイスの書簡」)。

 彼の武勇は翌1586年、島津氏の日向・豊後国進攻戦で証明され、周知されることになる。大方の大友軍家臣団が大敗を喫して島津方に降伏するなか、ドン・パウロ志賀親次はひとり最後まで抵抗し、関白秀吉の島津討伐軍につないで領国竹田(岡城)を失わなかったのだ。
 この戦で敵兵が一万田城を包囲したとき、ドン・パウロ志賀親次はキリシタン武将として、ある特異な行動を執った。敵兵の中にドン・ジョアンと称する天草のキリシタン領主がいることがわかり、信仰の友として彼の助命を試みたことである。双方のやり取りがあり最後、降伏を条件に天草殿ドン・ジョアンら天草五人衆全員の命を許し、無事に肥後の安全な場所まで連れて行ったが、五人衆のひとり大矢野殿はドン・パウロ志賀親次に恩を感じ、家臣らとともにキリシタンになった。日本戦国史における武士道キリシタンの美談として、異彩を放つものであろう。

 こうして武勇とキリシタン信仰の両面で名声を高めるに至った彼は、次第に宣教師の間でも注目され、ルイス・フロイスは彼について、「我らの主が国主フランシスコ(大友宗麟)を御許に召し給うとき、豊後の国においてはドン・パウロが一つの強力な円柱となろう。」と述べている。
 その預言はすぐに的中した。国主フランシスコ大友宗麟が同戦の最中(同年6月11日)に亡くなり、次いで秀吉が7月24日、突如「伴天連追放令」を発布して国外退去を命じたため、国中の宣教師たちが避難を余儀なくされたとき、彼は危険を犯して領内に宣教師を匿ったのだ。
 有馬の国主ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が死を覚悟して宣教師と神学生、避難してきた多くのキリシタンを領内(島原半島)に受け入れたことは知られている。ドン・パウロ志賀親次も同様の行動をとった。
 「イエズス会1588年度年報」に、志賀親次が「大きな危険を招来するものであろうが、拙者は伴天連がたをわが領内に匿う」と主張したことが記されている。主張するだけでなく実際、彼は宣教師たちを匿ったことは、巡察使ヴァリニャーノ師が1592年に執筆した『日本諸事要録補遺』に、「司祭たちは関白殿(秀吉)が(文禄の役で)来ていたこととも関連して、たびたびこの下(しも=肥前地方)に戻って来ていたが、ほとんど常にドン・パウロの領国(豊後国竹田)にいたのである。」とあるのを見ても、明らかであろう。
 
 

2015年6月1日月曜日

カブラル師も認めた大友宗麟のキリシタン信仰

 日本人嫌いで知られたキリシタン時代のイエズス会宣教師フランシスコ・カブラル師は、こと大友宗麟にかんしては例外であったらしい。「1581年9月15日付、フランシスコ・カブラルのイエズス会総長宛書簡」には、政治家であり超一流の文化人であった宗麟が度重なる試練―島津氏による攻撃、国内混乱等―のなかデウスに一言の不平をも漏らさず、むしろ「すべての騒乱を自らの罪に帰す」彼のキリシタンとしての「善良」性、「実直」性を認め、まるで旧約聖書に出て来る「ヨブ」を見るようだ、と評している。
 宗麟は受洗(1587年8月28日)の直前、「生きた信仰とは何か、死んだ信仰とは何か」、「悪魔がデウスの教えに背かせようとして人間を誘惑する際には、如何なる計略によるか―」とルイス・フロイスに質問したことがあった。
 戦う武士として「敵を知る」ことは兵法であったことからすると、彼にとってキリスト教は目に見えぬ「敵(悪魔)」の戦略を教えてくれる兵法であり、この世とあの世を繋ぐ「道」であったと思われる。
 受洗後二ヶ月にして遭遇した国を失うほどの大試練―耳川の戦で大敗を喫し、多くの家臣が謀叛して国内が混乱したときも、彼はその責任をデウスに転嫁するすることなく、かえって「すべての騒乱を自らの罪に帰」してその罪を「告白」し、「修行」を求め、キリシタン信仰を強固にした。
 松田毅一氏とともに『フロイス日本史』を完訳された川崎桃太氏は、著書『フロイスの見た戦国日本』(2003・中央公論社)で、宗麟の信仰を次のように紹介している。

 「合戦での敗北、敵の侵入と領土の破壊、家臣の謀叛と離反、それらはみな宗麟がキリシタンに改宗してから起きている。南蛮人との交流が単なる貿易目当てのものであったならば、彼らとの関係はとっくの昔に終わっていなければならない。領土の不幸は領主が神仏を捨てた罰だ、といわれながら宗麟の宗門への帰依はますます深まっているからだ。宗麟が求めたものは貿易を越えた何かであった。……現世を人生の最終目的としないデウスの教えのなかに、選ぶべき価値の基準が示されている。それによると、人生に生じる失敗、敗北、苦しみはデウスを存在の目標に置く魂にとって、試練であっても、不幸ではない。灼熱の火に磨かれる黄金のように、試練を通して信仰は鍛えられ、完成される。…宗麟はすでにその心境に達していた、との証言がある。彼と4年間宇津見(津久見?)で過ごした伴天連ラグーナである。…」(同書111頁)。

 ラグーナ師のみならず、日本人を差別して憚らなかったカブラル師をして低頭せしめた宗麟のキリシタン信仰は、ホンモノであったと言えるだろう。