2015年3月31日火曜日

長崎勝山町サント・ドミンゴ教会の花十字紋瓦

軒丸瓦の「花十字」意匠

 正四角形の十字架を花形にあしらう「花十字」の紋章は、日本独自のものであろうか。意匠の意図は、西洋ゴシック建築に見られるステンドグラスの「バラ窓」と似ているように思えるが、日本のそれは単純化された美しさがある。代表事例は、長崎県島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑のそれであろう。
 他にひとつ、キリシタン時代の教会およびその関連施設の屋根に使用された軒丸瓦の意匠がある。これは、一般に「花十字紋瓦」と称され、1990年代から実施された長崎市内の発掘調査で見つかった。これまで万才町(旧島原町)、興善町、勝山町など16世紀後半から17世紀初頭にかけてキリシタンの町が形成された内町(うちまち)および外町(そとまち)の範囲で確認されているが、圧巻は勝山町のサント・ドミンゴ教会跡で見つかった、おびただしい数の「花十字紋瓦」である。
 
 サント・ドミンゴ教会は、スペイン国を布教保護国として西廻り航路でフィリピン・マニラを経由して来日した托鉢修道会ドミニコ修道会の教会だ。1602年、甑島(鹿児島県)に上陸し、その後、川内市(京泊)を経て1609年、長崎の勝山町に教会を建てた。代官村山等安(元イエズス会信者)とその息子アンドレス村山徳安がこれを熱烈に支持し、豊かな免償(インズルゼンシア)を有する同修道会の信心会「貴きロザリオの組」がにわかに浸透した。商取引や政治活動に一切関与しない清貧の修道生活と、貴賤(きせん)、貧福(ひんぷく)、老若男女、身分の高下に関係なく手を差し伸べる慈愛が、当時の、とくに社会の底辺で生きる人々に好感をもって受け入れられたようだ。「転(ころ)び」キリシタンの「立ち上げ(=再改宗)」に熱心に取り組んだのも、彼ら托鉢修道会の宣教師たちであった。
 内町を拠点とするイエズス会が、その対処に苦慮したのは言うまでもない。
 同じ長崎町出土の「花十字紋瓦」ではあるが、イエズス会の慈善施設(ミゼルコルディア)があった内町万才(島原)町のそれと、勝山町サント・ドミンゴ教会跡のそれとは、遺物につながる歴史・物語の背景が違う。(写真=長崎市勝山町、サント・ドミンゴ教会跡資料館展示の花十字紋瓦)
         

 1614年「禁教令」以降、長崎キリシタン史はそれまでのイエズス会中心からフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会等の托鉢修道会信仰に移行するという事実がある。それがいかに「瞠目すべき」ことがらであるか、イエズス会の記録がこれを無視したことにより今もって日本のキリシタン研究はその認識に至っていない。ただ一人、東京大学史料編纂室の岡美穂子助教を除いて―。 
 




 

2015年3月30日月曜日

日本人キリシタンと桜の花

 
オラショに「桜花が散るやな~♪」


 キリシタン大名有馬晴信が晩年、黒船グラッサ号撃沈と、それに続く賄賂に絡む岡本大八事件、長崎奉行長谷川左兵衛暗殺計画などに係わり、甲州山梨県の初鹿野(はじかの)で死を遂げた謎は、長年、キリシタン研究家の課題であった。それまでの模範的とも言える前半生の信仰生活に比べ、キリシタンらしからぬ最後の行動との、あまりに激しい落差が理解し難いためである。
 筆者は2011年暮れから翌年1月にかけ、日本人のこころ―武士道精神を重ねることでこの史的問題を解釈し、あわせて島原半島のキリシタンが「花十字」を好んで墓碑に彫刻した心理を、逆説的に読み解いたことがあった。つまり、日本人キリシタンは死に対して「桜の花が散る」イメージを合わせ持っていた、ということである。

 それ以前、「花と散る」死を美化する日本人の生き方は、ごく近い時代の、戦前・戦中に形成されたものであろうとの、漠然とした認識があったので意外であったが、戦国・織豊時代から近世初期にかけて生きた日本人キリシタンの多くが理想的生き方として「桜の花」をイメージしていた事例も、また意外に多くあった。
 細川ガラシャの歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ 人は人なれ」しかり。生月島のかくれキリシタンが殉教者サン・ジュワンを讃えて、「この春は この春はなあ 桜花かや 散るじるやなあ また来る春はな つぼむ(蕾)開くる花であるぞやなあ」と歌オラショに唱えたこと、しかり。原城に結集した島原・天草の「立上り」キリシタンもまた、死ぬ時を「地主の桜の盛りの頃」(矢文)と決めていた。彼らが「花」と散った落城の日は寛永15年2月27~28日、西暦で1638年4月11~12日、桜の花が咲き、散る季節であった。

 きょう(2015年3月30日)、島原は桜の花が満開だ。

 

 

2015年3月29日日曜日

花クルスと桜の花と

東西のこころが融合したキリシタン墓碑の花十字

 島原半島に集中的に分布するポルトガル様式伏碑)型キリシタン墓碑に、「花十字」の装飾をよく見掛ける。その形は、整った正方形または正円形をして美しい。キリシタン研究家はそれらを写真もしくは拓本にとり、ときには集計して系統的分析などして紹介しているが、意味について説明することは少ないようだ。キリスト教と言えば十字架、敢えて言うまでもない、といった暗黙の了解があってのことと思われる。たとえ説明があったにしても、それはキリスト教図像学からの引用―すなわち西欧で解釈されるそれに留まっている。

 日本人のキリシタンが戦国時代・武家社会の中に発芽し育成されたのであれば、日本人の心を土台として、その上に接ぎ木されたキリシタン信仰であったにちがいない。武士が戦場で死ぬことを「散る」と言う。花に掛けた言葉である。クリスチャンたちは、悪が支配するこの世にあって「戦士」(または騎士)に喩えられる。日本のキリシタンも同様である。彼らの死もまた「花が散る」ことであった。日本人の生き方として価値づけられるものであった。
 筆者はそのような目でキリシタン墓碑に刻まれている「花クルス」を眺めることがある。
 
 …そうであれば、キリシタン墓碑に刻まれた「花十字」にも、二つの意味が重ねられていることになる。一つは、西欧キリスト教由来の「死に対する勝利者キリストの象徴、贖罪の象徴」(『新カトリック事典第三巻』)としての「十字架」。他のひとつは「散る花を愛でる」日本人のこころ、武士道のこころを象徴する「花十字」である。… 
 ―拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』(2013・海鳥社)に記した一節である。

 
 

2015年3月28日土曜日

花久留守(はなクルス)―25年目の符合

殉教乙女林田マダレイナと島原の乱

 …寛永15年2月28日(西暦1638年4月12日)「(原城)本丸でキリシタンが自害したことは、私の配下の者共(細川藩の兵士たち)が多数見たことでございます。小袖を手に掛けて、焼け申しておりました。燠(おき)を手で上に押し上げて、その内に入った者も多くありました。また、子どもたちを燠の中に押し込み、その上に上がって死んだ婦人も多くございました。」…

 島原の乱における「立上り」キリシタンの最期の姿を目撃した肥後細川藩士の記録『綿考輯録(めんこうしゅうろく)巻48』に出てくる叙述である。その筆者は、続けて「下々の卑しい者たちではありますが、なかなか奇特(きどく=類い稀な、殊勝)な死に方であり、言語に言いあらわすことができないほどでございました。」(口語訳・宮本)と記している(註)。

 彼等はそれより25年以前(1613年10月7日)、有馬川の川原で林田リアン助右衛門ら3家族13人が、生きながらに焼き殺され殉教した事件の光景―中でも「灼熱の燠(おき)を両手で持ち上げ、それを自分の頭の上に掲げ、そして、右手の上に頭をもたせかけ」ながら死んだ林田助右衛門の娘(20歳)マダレイナの姿を目撃した人々であった。
  長崎の著名なクリスチャン某氏は、「島原の乱はキリスト教信仰とは無関係だ」と言い張って憚らないが、両者が一本の線で結ばれていることは明らかだ。25年という歳月は、島原半島のキリシタンにとって、「在りし日」の自身のことであった。
 
 封建社会の武士たちが島原の乱における女・子どもらの行動を「奇特」であると評した、そのような人々を、自由主義社会のこんにち云々するキリシタン研究もまた、彼等に向き合う心の姿勢が問われてくるように思えた。
 筆者が加津佐の浜辺、松林の中にあるキリシタン墓碑に1987年から21年間、通い詣でた記憶は、つい昨日のこととして覚えている。
 写真は2014年11月、同墓碑を訪ねた際、持参したノートから紙一枚を破り取り、墓碑に押し当て、付近の草葉で写した花久留守(クルス)である。
                        
                    
※【註】(原文)…本丸ニ而きりしたん自害之体、此方之者多勢見申候、小袖を手ニかけやけ申候、おき(燠)を上へおしあけ内へはいり候者多く御座候、又子とも以下を中へおしこミ上へあかり死候ものも多く見え申候、中々きとく成下々の死、絶言語申候事。
 …猶々、城中の家やけ候時、扨々つよき男女之死様にて御座候、やけ候火を手にておしあけ中へはいり申候もの多御座候、…
(『綿考輯録・巻四十七』、「三月朔日、今度有馬城乗の始末を(細川)三斎君ニ被仰上、松平出羽殿へも被仰越候御書」)
 

2015年3月27日金曜日

長崎大波止の「鉄玉」―陳九官の記憶

中国商人陳九官の記憶―長崎大波止の「鉄玉」


 アマゾンに注文していた飯嶋和一著『出星前夜』が届いた。先般、東京から来たクリスチャンが話題にしていたので取り寄せたものだが、小説にしては資料の引用が詳細で、読み応えがある。
 転びキリシタンの立ち上がり(再改宗)事件「島原の乱」(1637~38年)を鎮めるため、唐人・頴川(えがわ)官兵衛(中国名・陳九官)が長崎奉行に進言して中国兵法の武器「木鉄炮」(別名「木石火矢」)を長崎で拵え、中国船で原城に運んで来たのは、同書で「(寛永15年=1638年)陰暦2月15日」となっている。
 
 同兵器「木鉄炮(きでっぽう)」、「木石火矢(きいしびや)」については細川藩、鍋島藩などの諸史料に部分的に記述されている。全体像が掴みにくいものの、それらを総合していくと、たしかに「巨大な丸太をくり抜いた木製大筒」(同書)のような兵器像が浮かび上がる。「その見たこともない木製の大筒は、砲口の直径は3尺もあり、砲尻までの長さが5間(約9㍍)に及ぶものだった。木製の破裂を防ぐため竹の箍(たが)で3尺おきにくくられていた。25人がかりで運ばれてきたその大きさに誰もが仰天した。中に込める砲弾は径3尺もの鉄製で、それを一度に2発使用する。それに人の頭部ほどの鉄製弾丸を25発込める。火薬はなんと一度に3千斤(約1・8トン)用いるのだという。」(同書)

 著者飯嶋氏がこの兵器の名称を「―大筒」としたのは、一般の大砲と同じように弾丸を発射させるしくみの兵器と理解したためであろう。「夜間…鍋島家の仕寄せまで運び、砲口を本丸石垣に向けて、筒尻はななめに掘り下げた地面に埋める。火縄を長く延ばし、それに点火して爆発させ、本丸跡の石垣ごと根こそぎ海の方へ吹っ飛ばすという。」(同書)と記している。
 筆者が確認したのは、それとはやや異なる。「城(原城)のかたの土居(崖)に穴を(30間ほど)堀り込み」、「その中に」これを「仕掛け」、「筒尻を地底にあて、火縄を長く仕り、火の渡り候加減に仕り候」もの、すなわち本丸の崖に横穴を30間ほど堀り、その地下に仕掛けて爆破させると「城の本丸、二の丸にかけて海へはね申し…石垣以下ちり申すべき」兵器、つまりは木製の筒ごと爆破させる「巨大ダイナマイト」的な兵器であった。
 『出星前夜』の著者飯嶋氏が、砲弾の大きさを「径3尺」(約1㍍)としたのは、何かの間違いであろう。それは木製大筒の口径であって、これに直径3尺の砲弾を込めるのは不可能である。鍋島家の史料に「この(兵器の)鉄玉、いま長崎江戸町(の)波止場に残りて有り」とあるので、現在も長崎市に存在する「大波戸の鉄玉」(径約52㌢)がその現物である。
 先般、この件に関し長崎新聞2015年3月25日付に寄稿した。

 島原の乱にかんする書籍は数え切れないほどあるが、中国兵法の兵器「木鉄炮」について触れたものは飯嶋氏の作品以外、見たことがない。誰かご存知の方があれば、御教示いただきたい.
長崎市大波止の鉄玉
「木鉄炮」想定図




天草四郎の首ではない

島原の乱異聞―美輪明宏さんの証言

 天草四郎時貞が美輪明宏さんに霊媒者を通して現れたとき、彼があの世から語った島原の乱に関する実話が美輪さんの某著書(註)に載っている。「あの世」の存在を頭から信用しない「この世」の歴史家たちをよそに、東京から島原半島のキリシタン史を訪ねて来たクリスチャンC氏、S氏に原城本丸でそのさわりを語ってみた。

四郎の首は人違い
 天草四郎時貞の首は、諸記録史料によると、細川藩藩士・陣野佐左衛門が焼け落ちる「四郎が家」に飛び込み、討ち取ったことになっている。ところが、あの世の四郎は「ちがう。あれは儂(わし)の首ではない。儂を育ててくれた養育係で、南有馬の磯野三左衛門という者がいた。その倅(せがれ)の磯野運之丞と申す者の首じゃ」、と証言する。
 いきさつは以下のようである。すなわち、四郎の父が多忙で方々に出かけることが多く、そのため、磯野三左衛門が四郎を養育していた。島原の乱事件当時、磯野氏は「陣野佐左衛門」と変名し、キリシタン諜者(スパイ)となって熊本藩主細川氏に仕えていた。
 一方、彼の倅・磯野運之丞は、天草四郎とともに原城に入り、キリシタンとして運命をともにした。最期は自害したらしい。
 美輪明宏氏によると、「落城の際、父磯野三左衛門(=陣野佐左衛門)は原城に戻り、もういよいよ最期だというときに、自害した自分の息子の首を切り落とし、これを〈天草四郎の首〉だと嘘をついて細川方へ持参した」、というのだ。


四郎の最期
 美輪明宏さんの証言によると、天草四郎が霊媒者を通して現れたとき「苦しそうな」状態であったたため、美輪さんが「どうなさったのですか?」と訊くと、「儂(わし)は火の中で死んだ。死後の醜い姿を見せとうなかった」という。
 キリシタンが「火の中で死んだ」という記録は、細川藩の史料「綿考輯録・巻四八」にもある。「(原城)本丸にてきりしたん自害の躰、此の方の者(=細川藩の兵士たち)多勢見申し候。小袖を手に掛け、焼け申し候。おき(燠)を上へ押し上げ(その)内へ入り候者、多く御座候。また子ども以下を(火の)中へ押し込み、(その)上へ上がり死に候ものも多く見え申し候。なかなか奇特なる下々の死、言語に絶へ申し候事」、と―。寛永15年2月28日、本丸「四郎が家」での出来事だ。

 四郎は、秘密の地下室を通じて逃亡したなどの説もあるが、彼等の行動―「立上り(再改宗)」の目的は、聖地原城でキリストとともに「悲しみ節」を過ごし、罪の償いをしたあと、ハライソを目指して「死ぬ」ことにあったので、逃亡説は意味をなさない。美輪氏の証言通り、「火の中で(焼け)死んだ」というのが真実であったにちがいない。ただし、史学では細川藩の記録史料は用いても、美輪氏の啓示的証言は史料として取り扱わない。

※註…美輪明宏著『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004、(株)パルコ出版)194~195頁
天草四郎肖像画